一宮城(いちのみやじょう)

一宮城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県一宮市本町3(地図は石碑の場所を示す)

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

関成重

築城年

不明

主な改修者

主な城主

関氏、不破氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

苅安賀城(愛知県一宮市)[2.6km]
野府城(愛知県一宮市)[3.4km]
中島城(愛知県一宮市)[4.3km]
下奈良城(愛知県一宮市)[4.9km]
下津城(愛知県稲沢市)[5.1km]
黒田城(愛知県一宮市)[5.2km]
大野城(愛知県一宮市)[6.2km]
小折城(愛知県江南市)[6.8km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[7.5km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[7.6km]

一宮城の解説文



一宮城(いちのみやじょう)は、愛知県一宮市本町3丁目・大江にあった戦国・安土桃山時代の日本の城(平城)。

歴史 

築城時期は不明(天文・弘治年間〈1532年-1558年〉?)である。

尾張国の一宮である真清田神社神主である関成重が、真清田神社、及びその領地を守るために築城した。関氏は清和源氏の子孫である。森可成の娘が関小十郎右衛門共成に嫁いだ事から、森氏との関わりが深く、後に関氏から森氏に養子へ出されたり、家督を継ぐ事があった。

関成重の子である関共成(関長安とも)は、織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにて戦死する[1]

その後、織田信雄の家臣である不破広綱が入城するが、1590年(天正18年)に彼が去ると一宮城は廃城となる。

城跡 

城跡は、県遺跡番号02Y008として埋蔵文化財包蔵地になっており、JR尾張一宮駅の東約650メートルに位置する。三菱UFJ銀行一宮支店の玄関先に石碑がある。周辺は本町商店街になっており、城の形跡は全くない。東西50メートル、南北90メートルの広さがあり土塁や堀で囲まれていたとされるが、埋蔵文化財包蔵地範囲は点的にしか示されていない。

参考文献 

  • 一宮市市民健康部健康つくり課 2016「15コース・尾張一宮駅前ビルから名所旧跡の散策(https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/840/walkingmap_P34-35.pdf)」『一宮市ウォーキングマップ・歩いてのばそう健康寿命(https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/hokenjo/kenkoushien/1044113/1009979/1013840.html)』pp.34-35 一宮市

一宮城の口コミ情報

2024年10月25日 いし右近衛少将
一宮城

街中にありますが、遺構はなく石碑のみしかありません。

2024年05月22日 前田利家猫耳メイド萌
神池(開運橋)・厳島社・八龍神社[一宮城  寺社・史跡]



厳島社 由緒
祭 神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
例 祭 七月十六日
提灯祭 七月七夕まつり前夜祭
由 緒 安芸の国一宮厳島神社より、神霊を分ち此の地に社殿を建て遷し奉る。
龍神石 弘仁年間、弘法大師奉納と伝う。当社には弘法大師にまつわる、雨乞いの祈願がなされたことは数多、社殿造営にあたり合わせ祀る。

厳島信仰
この祭神は、天照大神の御子神で海上交通安全の神。
又、中世には七福神の一つである、弁才天にたとえられ芸能の神、福の神の信仰が加わり、清明、正直の心を持つものの上に加護を垂れられ、更に「人を助けて、心から助けられよ」との神の教えこそ、私どもが日常知らねばならぬ互譲互助の信仰をよく現わしたもので、ここに厳島信仰の真義を見出す。
神池畔の石碑碑文より。

八龍神社 
祭神 高籠神
元は、厳島社内に奉祀されていた『御神体・龍神石』が、明治初年の神仏分離の際に、名古屋の日泰寺に流出。近年、当社に還ってきた際、厳島社の隣に新たな社を造営し改めて奉祀した。

神池 
当社の宝物「真清田神社参詣曼荼羅」(安土桃山時代〜江戸時代初期)にも描かれている。

2024年05月21日 前田利家猫耳メイド萌
服織神社[一宮城  寺社・史跡]



服織神社(はとりじんじゃ)のご祭神
ご祭神は『萬幡豊秋津師比売命』(よろずはたとよあきつひめのみこと)と申し、真清田神社のご祭神『天火明命』(あめのほあかりのみこと)の母神で、別名を七夕祭の織姫『棚機姫神』(たなばたのひめのかみ)と言われております。
このことから、この地方の地場産業の「織物の神様」として古くより信仰を集めておりますが、昨今、七夕伝説より「縁結びの神様」として、若い女性の信仰を集めるようになりました。

御由緒
一、神社名 服織神社
一、祭神名 萬幡豊秋津師比賣命
一、例 祭 十一月二日
  織物祭・七夕祭 七月第四日曜前后
  月次祭 毎月十五日
一、御由緒 御祭神は本社御祭神 天火明命の御母親神で伊勢の皇大神宮の相殿神として、天照大神と御同殿に御座します 御神格の高い神様で、古くより織物の守護神として、総ての織物の生地の上からも、柄の上からも、これを立派に且つ精巧に作り上げることを、御守護奨励される神として、広い信仰を受けられた尾張地方の織物業が発展したのも御祭神の御加護によるものであります。
又、裁縫・書道・技術工芸・芸能・縁結び・安産等にも、深い信仰がある貴い神様であります。

真清田神社の境内摂社ですが、大きな神社です。

2024年05月19日 前田利家猫耳メイド萌
神水舎[一宮城  寺社・史跡]



ご由緒
真清田神社の神水舎は、江戸時代に編纂された「尾張名所図会」にも記載され、その歴史の古さが偲ばれます。
平安時代末期、白河天皇の御病気回復を願い朝廷から派遣された勅使が、このご神水を拝受し天皇が召されて御病を癒されたという記録が伝わっています。

明治十一年十月二十五日、明治天皇が当地に行幸された折に、この井戸水を以ってお茶が献じられました。
近年は健やかな日々を願い、態々遠方からこわ神水を拝受される方も多く、服薬・健康・幼児育成にご霊験ある、お水として朝野の篤い信仰を受けております。
由緒書きより。
2022.12.14撮影。古い…。

2024年05月14日 前田利家猫耳メイド萌
酒見神社[一宮城  寺社・史跡]



酒見神社 (倭姫命十五番目御聖跡)由緒
祭神「天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男命、酒弥豆女命」
第十一代 垂仁天皇の王女 倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、垂仁天皇の十四年(紀元646年)六月一日、当村に渡来された際、村民の奉仕により社が建設せられたのが、酒見神社の始めであり出来上った社は、総丸柱で草屋根にて高く後世に、吹抜けの宮と呼ばれたと言います。現在に伝えるのが、本殿裏に祀る倭姫神社であります。
第五十五代 文徳天皇 斎衛三年九月(紀元1514年)当村は上質な米が取れる事から、遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より、大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります。当時どぶ酒等は、各地で醸造されていましたが、清酒の醸造は酒見が最初とあり、酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります。
第七十一代 後三条天皇 延久元年(紀元1729年)伊勢内宮より、式典等に明るき神宮神主の伊勢守吉明に神宮神主と兼任の体にて二百石を与え、従来の本神戸、新神戸、新加神戸に馬寄を合わせて今伊勢の庄の名を賜り、以来九百年間、平安時代より明治時代を通じて代々世襲をもって、尾張今伊勢の庄本神戸神主たりと定められたのです。
参道入口の酒見神社由緒書より。

伊勢神宮に向かって社殿が建てられており、珍しく拝殿が北向きになっています。

2024年02月20日 友乃足軽隊
一宮城

UFJ銀行一宮支店入口横に石碑があります。それ以外はなにもありません。但し、一宮真清田神社が近いので、合わせて巡るのもいいと思います。

2023年08月19日 ホレイショ大宰少弐
一宮城

三菱UFJ銀行前になります面影はありません

2022年10月23日 前田利家猫耳メイド萌
寧々の歌碑[一宮城  碑・説明板]



寧々の歌碑
碑には、天正16年(1588年)4月に、第107代 後陽成天皇が秀吉の京都 聚楽第へ行幸されたことを後になって、寧々が偲んで詠んだ和歌が刻まれている。
「たちばなを 庭のまがきに 眺むれば 雲井の花を 恋しく思ふ」
これは、歴史家 桑田忠親氏筆で昭和56年(1981年)設置された。
説明板より。

歌碑の横にも、小さな謎の石碑が2つあり、手前に「神石」と説明板がある、謎の石がある。

神石
この陰陽石は、外堀復旧工事中に出土した。
子なき人、または下(しも)の病に悩む人は、これを祈ると良いとされている。
説明板より。

2022年09月13日 最上中務大輔一輝
一宮城



アーケードを抜けたところの大通り沿いにあります。いまはUFJ銀行に。近くの地蔵寺の切株も地元では大切にされているよう。

2022年08月27日 前田利家猫耳メイド萌
宝物殿[一宮城  関連施設]



真清田神社西側駐車場の南側に宝物館がありますが、宝物館は『完全予約制』となっています。
拝観ご希望の方は、お守り授与所又は、お電話にて来館日のご予約をお願い致します。
尚、ご希望の日程に添えない場合も、ございますので予めご了承ください。
真清田神社と、貼り紙がありましたので、ご注意ください。

2022年08月26日 前田利家猫耳メイド萌
浅野下村屋敷[一宮城  周辺城郭]



築城時期は不明。
浅野長勝・浅野長政父子が、上村の「浅野城」から、下村に移り住んだ際に築かれた屋敷とされる。
屋敷地は、梅松寺(廃寺)に隣接していたとされているが、寺の跡地の位置も不明となり、詳細は不明。
下村公民館付近が、屋敷跡と推定されている。

2022年08月23日 前田利家猫耳メイド萌
真清田神社[一宮城  寺社・史跡]



国登録有形文化財(建造物)
真清田神社 本殿及び渡殿
真清田神社 祭文殿
真清田神社 北門及び透塀
本殿は、三間社流造で、四周に縁を廻す。中央格天井、両側面を化粧屋根裏とした渡殿がつながる。祭文殿は、四周に一間幅の下屋を廻し、北面を渡殿と接続する。北門は切妻造の薬医門で、本殿の真北に位置する。透塀は北門の東西方向につながり、優れた境内景観を構成する。
一宮市
説明板より。

一宮市博物館には、在りし日の真清田神社の推定復元模型があります。
推定復元模型では、楼門の東西には築地塀が続き、東・北・西は土塁が囲み、周囲には堀が巡っていました。
復元模型を見てから、真清田神社へ行くと、ちょっと見かたが変わるかも?

2022年08月23日 前田利家猫耳メイド萌
手水舎(吐水龍)[一宮城  寺社・史跡]



寛永八年(1631)に尾張徳川初代藩主 徳川義直(源敬公)に、当社の社殿を悉く修造せされ、祈雨祈晴の龍神の象徴として、古代の名作青銅の吐水龍を奉納いたされ、永く五穀豊穣、天下泰平を祈願せられた。以来歴代の藩主は、当社を尊信さること厚く屢々晴雨の祈願を籠められた。
然しこの吐水龍は、三百伍拾有余年の永きに渡り風雨に晒されながら厳然としてまいりましたが、裂傷が進み、修復が困難と成りやむなく現今の吐水龍の複製を図り、平成八年丙子正月(1996)従前と変らぬお姿を手水舎盥磐の上に示現し厳めし頭を擡げ日夜滾々と清冽の麗水を吐いて賽者の身魂を清め續けることと成りました。

説明板より一部抜粋。 

真清田神社一帯は、空襲により焼失したが、吐水龍は焼失することなく、実物は宝物館に保管されているという。

2022年05月14日 【城郭道】たっきー
八剣社[一宮城  寺社・史跡]



ここ八剣社には趣があるものがあります。お地蔵さまのあたりをよく見るとカタカナで文字が刻まれています。江戸時代、尾張藩はキリスト教弾圧に厳しく、一宮のあたりでもそれは例外ではありませんでした。石像には隠れキリシタンたちが密かに信仰するために刻んだと思われるカタカナがあります。説明板などはないですが、カタカナは二箇所で見られます。奥の石段を登って左のお地蔵さまの裏側の下の方をよく見るとあります。一宮城から徒歩2分しないくらいなので見てみてください。

2022年04月22日 前田利家猫耳メイド萌
佐分利屋敷[一宮城  周辺城郭]



一宮城から、真清田神社にかけて屋敷が、立ち並んでいたらしいが、遺構など残っていない。葵公園の由来に、佐分利屋敷の説明板があるのみです。アーケード街から、市役所に行く通路の脇の公園の片隅に説明板があります。

2022年04月22日 前田利家猫耳メイド萌
丸の屋敷[一宮城  周辺城郭]



この屋敷についても検索したが、何も出て来なかった。一宮四家の関氏(一宮城)、佐分利氏(佐分利屋敷)、兼松氏(兼松屋敷)ならば、この丸の屋敷は、伴氏の屋敷跡だったのだろうか?謎です。商店街や住宅地となり、詳細は不明。

2022年04月22日 前田利家猫耳メイド萌
兼松屋敷[一宮城  周辺城郭]



この屋敷について検索してみたが、何も出て来なかった…。一宮市島村字上深田にも、兼松屋敷があったとされているので、何かしら関係のある屋敷跡だと思われるが、住宅地となり遺構など残っていない。

2022年04月22日 前田利家猫耳メイド萌
一宮城



この城に住んでいた関氏は、平重盛の子孫で、伊勢関氏の一族である。
関長安は、はじめ織田信長に、のちに秀吉に仕え、天正12年(1584)小牧山の戦で長久手に戦い、討死した。
この城には、豊臣秀吉も立寄ったことがあったが、のちには織田信雄の家来の不破源六広綱の城となり、天正18年 広綱が去ってから廃城になった。
一宮市観光協会

説明板より。

以前は、石碑のみだったが、説明板が設置されている。

銀行利用者ならば、銀行の地下駐車場がありますが狭いので、JR尾張一宮駅東側の有料地下駐車場等の利用が無難です。

2022年04月21日 前田利家猫耳メイド萌
三八市の市神堂旧地[一宮城  寺社・史跡]



真清田神社の門前から、地蔵寺辺りまでが、三八市が開かれた場所とされる。享保十二年(1727)に市を立てることを許可され、天保十三年(1842)の記録には、490程の店が軒を連ねたとさている。現在は、アーケード街の片隅に石碑がある。

2022年04月21日 前田利家猫耳メイド萌
真清田神社二の鳥居跡[一宮城  寺社・史跡]



アーケードの中程に、真清田神社二の鳥居跡の石碑があるのみです。真清田神社一の鳥居跡は、一宮一里塚跡の付近にあります。

2022年03月15日 マタザ但馬守
一宮城

銀行の前。一宮駅から徒歩5分。物陰に隠れてんのちゃうか?みたいなインパクト。

2022年03月03日 ゆき丸兵部大輔
一宮城

一宮駅からまっすぐ徒歩で5分。銀行の前に碑があります。

2021年11月28日 【城郭道】たっきー
油田遺跡[一宮城  寺社・史跡]



この地にむかし真清田大神が降臨し、後年現在地に遷座したと言い伝えられている。油田の地名の起りは明らかでないが、その土地を灯明料所として真清田神社に寄進し、年貢の一部が納入されたことに由来するものと思われる。
区画整理によって地名が変更され、現在は多加木2丁目となっている。

一宮市公式観光サイトより

ひっそりとしたところに石碑があります。木の下に隠れているので情景がこれまた風情がありますね。かなり奥深く入る真清田神社ゆかりの地なので興味のある方はぜひ。

2021年11月06日 武蔵守マクシミリアン
一宮城

三菱UFJ銀行一宮支店前に碑が立ってます。何も遺構はなし。城主だったのは、500mぐらい離れた真清田神社(尾張国一宮)の神官だったそうです

2021年10月31日 【城郭道】たっきー
葵公園[一宮城  関連施設]



いつの間にか新しい看板が!知る人ぞ知る太平洋戦争末期に起きた対馬丸の悲劇に関することですね。気になる方は葵公園へ!

2021年09月05日 【城郭道】たっきー
佐分利屋敷[一宮城  周辺城郭]



関四家の一つ、佐分利氏の屋敷があった場所。現在の葵公園にあたる。佐分利氏は徳川家康ともゆかりがある一族である(詳しくは葵公園の口コミを見てください)。現在、遺構はないが気持ちの良い公園となっている。

2021年09月05日 【城郭道】たっきー
葵公園[一宮城  関連施設]



【葵公園の由来】本町二丁目四-五七
関ヶ原の戦いの二日前の慶長五年(一六〇〇)九月十三日、清須を出立した徳川家康は一宮の佐分利五郎兵衛清政宅で小憩し、真清田神社で戦勝を祈願したと伝える。小憩の際、清政弟の新左衛門は屋敷地の藪から竹を伐り旗竿として家康に献上したという。その後の大坂冬の陣(慶長十九年)に際しても、家康は清政宅に立ち寄り、旗竹の献上を受けたという。
昭和十四年発行の『一宮市史』には、佐分利氏邸跡に家康が鑑賞した(一説には家康が手植えした)という藪椿の巨木があったが、昭和十一年に枯れて伐採されたとある。尾張国の名所を網羅した『尾張名所図会』(後編明治十三年刊行)の挿し絵には、『佐分利氏宅御旗竿藪』と『御殿跡大椿』が描かれており、この地が人々の間でよく知られていたことが窺える。
明治時代に入ると、多くの通称町名が生じ、前掲『一宮市史』には、家康小憩の由緒から『御藪町』・『椿町』・『御朱印地町』が称されたとある。同書によると、旗竹献上の功での御朱印の下賜が『御朱印地町』のいわれだという。また大正九年には『御藪町』と『椿町』が合併し、『葵町』になったという。『葵』は徳川将軍家が用いた三つ葉葵紋に由来するものであろう。その後の町名改正で『葵町』と『御朱印地町』は正式な町名になったが昭和四十八年の第二次住居表示事業で両町名は消え、現在の『本町ニ丁目』となった。
この『葵公園』の名称は、新庁舎整備事業に併せて『新柳公園』から新しく生まれ変わったこの地に由来して名付けられた。

説明板より。書くのが大変だった。

2021年08月09日 能登守さとみっくす
真清田神社二の鳥居跡[一宮城  寺社・史跡]

大和証券の前に石碑があります。ここからまっすぐ行くと一宮城主、関氏ゆかりの真清田神社があります。

2021年07月28日 【城郭道】たっきー
堀跡(浅野城)[一宮城  遺構・復元物]



浅野公園の周囲を取り巻く水堀。太陽に当たると輝いています。
明治か大正か。その頃に、浅野公園が整備され、堀跡を利用した水堀が造られました。
現在、魚が泳いでいて、行った時は子供達が釣りをしていました。

日常は失ってから気付くもの
あっ、一句できちゃった。

2021年04月01日 若@内匠助太一之助
一宮城

記念碑が、銀行前に建っています。
また、木が目印です

2021年03月27日 【城郭道】たっきー
若葉神社[一宮城  寺社・史跡]



明治42年、伝馬通りが開通して、大正8年、一宮城跡に隣接する由緒深きこの地に一宮初の木造洋館建築の尾西毛工組合の建物が竣工した頃に若葉神社が祀られたと考えられます。
以来、この地には数々の建物が建てられましたが、神社を祀って街を守人々の気持ちは変わりませんでした。
御神助かはわかりませんが、周辺の街に火災が結構あったのにも関わらず、この地域にはありませんでした。
今後もこの地を見守ってくれると思います。

2021年03月07日 【城郭道】たっきー
真清田神社二の鳥居跡[一宮城  寺社・史跡]



かつてこの地には真清田神社二の鳥居があった。現在は本町アーケード街の中に石碑がある。ここから真清田神社は徒歩5分。

2021年01月06日 【城郭道】たっきー
浅野城(浅野長政公邸)[一宮城  周辺城郭]



一宮城から東へ2キロ行ったところにある浅野城は浅野長政誕生の地であります。浅野公園として綺麗に整備されていて、地元の人々で賑わっています。水堀に囲まれていて、上から見ると本丸に出丸がくっついたかのような感じの縄張です。

とても浅野家等に関する歴史が感じられる城となっているので是非、行ってみてください。

2021年01月03日 【城郭道】たっきー
石碁盤[一宮城  寺社・史跡]



浅野長政の嫡男、幸長の娘、春姫が家康の九男、尾張藩藩主、徳川義直と結婚。長政の次男の長晟が家康の三女、振姫と結婚した。これにより、関係ができるとさらに、家康と長政は囲碁で一層関係が深まった。長政没後、家康は一時期囲碁を絶ったという。現在、浅野公園のあるところには写真のような囲碁がある。

2020年12月25日 【城郭道】たっきー
馬蹄石[一宮城  寺社・史跡]



浅野公園にある馬蹄石(ばていせき)。山内一豊が岩倉城下に住む家族のもとへ急いで帰る途中、浅野邸へ駆け寄った時の蹄跡と伝えられています。今も残っているもんなんですね。

2020年12月23日 【城郭道】たっきー
大赤見城[一宮城  周辺城郭]



一宮城から2キロくらい離れた城。跡地は住宅街で石碑が建っています。リア攻めする方は名鉄バス『両郷町』で降りて歩くのがいいと思います。是非、行ってみてください。

御城印は202012月23日時点ではないです。

写真は陽が落ちた跡の石碑です。あたりは結構、暗かったです。


2020年12月18日 【城郭道】たっきー
浅野公園のトイレ[一宮城  トイレ]



浅野城跡である浅野公園にあるトイレ。中は綺麗でした。浅野城リア攻めの際などで使用してください。

2020年11月28日 【城郭道】たっきー
真清田神社[一宮城  寺社・史跡]



JR尾張一宮駅から徒歩10分のところにあります。大きくて立派な神社となっています。御朱印もあり、人もたくさんいました。一宮城からも近いのでリア攻めの際によってみてはいかがでしょうか。


2020年10月21日 【城郭道】たっきー
大赤見城[一宮城  周辺城郭]



指定区域  なし
遺構    なし
住所    一宮市赤見二丁目5
築城年   不明
城主    織田平七郎
現状    石碑

一帯には地下中屋敷・地下西屋敷・地下東屋敷・市場東屋敷・市場地下屋敷・下市場等の小字名が残り、市場を備えたかなり完成された城下があったことが伺える。

諸書に織田平七郎が居住したと伝わり、『尾張名所図会』は「服部系図」によって、織田弾正左衛門尉勝久とその子平七郎久長がここに居住し、久長が楽田村に移った後に弟敏任の子孫が移住して服部と改姓し、その後裔が桶狭間の戦いで活躍した服部小平太であるとする。しかし、「服部系図」の前半部が江戸時代に作られた信憑性の低い「織田系図」とほぼ一致することから、自身の古い系図を持たない服部氏が家系を結びつけたものと解され、「服部系図」により大赤見城主を織田久長とするのは誤りであって、特定の人物には比定できないという見方もある。

赤見の地は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの末期、羽柴秀吉の第二次尾張出馬の際に戦場となったことから、同年10月には徳川家康が当城に西郷家員を入れて守備させた。

今は石碑が建つのみで遺構は残っていない。

石碑は民家の脇にあり、なかなか雰囲気があります。

2020年10月19日 【城郭道】たっきー
トイレ[一宮城  トイレ]



葵公園の隣にトイレがあります。
中は綺麗で夜も電灯がついてて使いやすくなっています。
一宮城石碑からトイレまでは歩いて5分足らずです。

2020年08月22日 【城郭道】たっきー
葵公園[一宮城  関連施設]



一宮城のすぐそこにある葵公園。ここにはかつて豪族である佐分利氏の屋敷がありました。関ヶ原の戦いの際、徳川家康は真清田神社で必勝祈願しまし、佐分利氏の屋敷で一泊しました。
その後、大坂冬の陣の際も家康は真清田神社で必勝祈願をしました。

2020年08月04日 能登守さとみっくす
一宮城

JR尾張一宮駅から徒歩6分で近くにコインパーキングがたくさんあるので是非、リア攻めしてみてください。

2020年08月04日 【城郭道】たっきー
石碑・説明板[一宮城  碑・説明板]



一宮市観光協会により建てられました。いつつくられたかはわかりませんが一宮城の存在を人々に知らせる良いものとなっています。
是非、リア攻めして写真撮ってってください。

2020年03月10日 【城郭道】たっきー
一宮城

尾張一宮駅または名鉄一宮駅から徒歩で5分ほどで石碑に到着。遺構はありませんが、近くにある大江川は平安時代からあるそうなので、もしかしたら堀で利用されていたかもしれません。御城印は3月10日時点ではないのでつくってほしいです。



ついでですが一宮市にはこのアプリに載っていない城がまだたくさんあります。よかったら調べてみてはいかがでしょうか?近くの真清田神社は徳川家康ゆかりの神社です。

2015年01月19日 宮内卿ピロシキ
一宮城

UFJ銀行の店先に石碑がありました。

一宮城の周辺スポット情報

 堀跡(浅野城)(遺構・復元物)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 記念碑山(碑・説明板)

 寧々の歌碑(碑・説明板)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 説明板(真清田神社)(碑・説明板)

 浅野城(浅野長政公邸)(周辺城郭)

 大赤見城(周辺城郭)

 佐分利屋敷(周辺城郭)

 兼松屋敷(周辺城郭)

 丸の屋敷(周辺城郭)

 浅野下村屋敷(周辺城郭)

 真清田神社(寺社・史跡)

 常念寺(寺社・史跡)

 馬蹄石(寺社・史跡)

 若葉神社(寺社・史跡)

 八剣社(寺社・史跡)

 石碁盤(寺社・史跡)

 即得寺(寺社・史跡)

 福寿院(寺社・史跡)

 服織神社(寺社・史跡)

 大江川千年碑(寺社・史跡)

 三八市の市神堂旧地(寺社・史跡)

 真清田神社二の鳥居跡(寺社・史跡)

 一宮一里塚跡(寺社・史跡)

 真清田神社御旅所(寺社・史跡)

 社務所(真清田神社)(寺社・史跡)

 一宮市道路元標(寺社・史跡)

 キリスト殉難の碑(寺社・史跡)

 油田遺跡(寺社・史跡)

 馬見塚遺跡(寺社・史跡)

 稲荷山古墳(寺社・史跡)

 照手姫袖掛け松(寺社・史跡)

 手水舎(吐水龍)(寺社・史跡)

 神馬像(寺社・史跡)

 東門(寺社・史跡)

 神水舎(寺社・史跡)

 酒見神社(寺社・史跡)

 神池(開運橋)・厳島社・八龍神社(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 浅野公園のトイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 真清田神社駐車場(駐車場)

 浅野公園(駐車場)

 駐車場(有料)(駐車場)

 葵公園(関連施設)

 宝物殿(関連施設)

 一宮市観光案内所(関連施設)

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