黒田城(くろだじょう)

黒田城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県一宮市大字黒田字古城59(黒田小学校)

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

五島光正

築城年

明応年間(1492〜1501)

主な改修者

一柳直盛

主な城主

山内氏、和田氏、沢井氏、一柳氏、富永氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

市史跡(黒田城址)

再建造物

模擬天冠木門、石碑、説明板

周辺の城

野府城(愛知県一宮市)[2.8km]
田代城(岐阜県羽島郡)[3.2km]
大野城(愛知県一宮市)[4.1km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[4.6km]
一宮城(愛知県一宮市)[5.2km]
川手城(岐阜県岐阜市)[5.9km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[6.3km]
加納城(岐阜県岐阜市)[6.4km]
下奈良城(愛知県一宮市)[6.6km]
松倉城(岐阜県各務原市)[7.0km]

黒田城の解説文



黒田城(くろだじょう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)にあった日本の城。1973年(昭和48年)10月1日に一宮市指定史跡に指定された。

概要 

初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城とされる平城である[1]

歴史 

黒田の地は、鎌倉から京都に続く鎌倉街道沿いにあり、かつ尾張国と美濃国を隔てる木曽川のすぐ近くにあり、戦略上重要といえる地域であった。この地への築城は、明応年間(1492年 - 1500年)に相模国から尾張に入った五藤源太左衛門光正が居館程度のものを築いたのが初めてであるといわれている(『五藤家文書』)。この五藤家はのちに山内家に仕え、江戸時代には土佐藩の重臣となっている。

その後の経過は不明であるが、天文初年(1532年以降)には岩倉城を本拠とした織田伊勢守家の家老であった山内盛豊が城代として入ったと考えられている。天文14年(1545年)にはこの城で盛豊の三男として山内一豊が誕生している(『一豊公御武功附御伝記』)。

このころ織田伊勢守家と織田氏の傍流ながら勢力を強大化させた織田信長とが対立、家老である山内家も巻き込まれ、弘治3年(1557年)7月12日、盗賊(実際は信長の手勢と考えられる)が黒田城を襲撃し、この際に一豊の兄十郎は討死(このときに盛豊も殺されたという史料もあるが、確かな史料にはその後も盛豊の活動が見られるので間違いであると考えられる)、生き残った山内一族は主家の岩倉城に逃れたものの、翌々年にはその岩倉城も信長によって落城、山内家は一豊が豊臣秀吉の下で立身するまで離散することとなった。

その後犬山城主織田信清の弟・広良が城主となるが、永禄5年(1562年)に広良が美濃斎藤氏との軽海の戦いで戦死、信清の家臣である和田新助が城主となった。その後新助は織田信清と信長の不和に際して信長に降ってそのまま彼の直臣となり、多くの合戦に加わったことが記録に見えるが、天正2年(1574年)の長島の戦いで討死し、弟の定教が継いだ。ところが、和田氏系図によると、この定教が何らかの理由で追放されている。

しばらくその後の黒田城主は不明であるが、天正10年(1582年)には織田信雄の家老であった沢井雄重が1万4千500貫で入城した。沢井は検地を行うとともに、領内の伊富利部神社及び籠守勝手神社の再建を行っている。また、天正12年(1584年)の小牧の役の際には黒田城を死守して羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の調略にも応じず、これを賞して後に徳川家康から感状と太刀が与えられている。

天正18年(1590年)、織田信雄が転封を拒否して改易されたのに巻き込まれて沢井雄重も禄を失い、黒田城には3万5千石で一柳直盛が入った(尾張黒田藩も参照)。このときに黒田城は大きく改修がなされ、比較的大きな構えになったと考えられている。慶長5年(1600年)、一柳直盛は伊勢国・神戸に5万石で転封、黒田城は尾張を所領とした松平忠吉の支城となり、家臣の富田忠繁が入ったが、しばらく後に廃城となった(時期は特定できていない)。

遺構 

平野部であることもあり開発などにさらされて特に遺構は残っておらず、敷地の多くは一宮市立黒田小学校となっているが、学校の脇に大正6年(1917年)建立の石碑が城跡であったことを示している。

アクセス 

  • JR東海道本線 木曽川駅下車、南へ徒歩で約3分。
  • 名鉄名古屋本線 新木曽川駅下車、北東へ徒歩で約5分。

黒田城の口コミ情報

2024年08月18日 VTR美濃守シゲ
黒田城



現在は黒田小学校の一部に石碑、説明版が有り遺構としては有りません

関ケ原の戦いでの功績により土佐一国を賜った山内一豊の出生地専用の駐車場は無有りません名鉄新木曽川駅にコインパーキング有

グルメ新名鉄新木曽川駅直ぐ横に有る七五三家さんうどん和食系の店 オススメはあんかけきしめん女将さん自家製の一夜漬けも美味い

2023年11月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
光明寺[黒田城  寺社・史跡]



光明寺は白鳳年間に建立されたと伝わる古刹で、寺の標柱には開創白鳳六年と刻まれています。
ここには、家康が徳川になる前、松平元康と名乗っていた時の言い伝えが残っています。

永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が討たれ独立を果たした松平元康と、今川義元を討ち取った織田信長との間に、永禄五年(1562年)清洲城で、『清洲同盟』が結ばれました。

光明寺に伝わる伝承によると、清洲同盟が締結された夜、織田家と松平家の間で酒宴が行われ、織田信長が酔い醒ましと称して松平元康を連れ出し、共に馬を走らせて光明寺近くにあった「光明寺城」に向かったという。この城から北にある稲葉山城を見ながら「美濃を制する者が天下を制するか」と話したと言う。
そして、織田信長は光明寺に滞在していた「青井意足」を紹介した。この青井意足は豊前宇佐郡の生まれと称しているようですが、別の伝承では光明寺城主神戸氏の一族であるともされています。
青井意足は「源八幡太郎義家の軍法」を伝える人物であるとし、織田信長もこの義家の軍法を手に入れたかったというが、織田氏は平家の流れを組む一族であることから断られていたとし、信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康を紹介したという。
元康は数日にわたり光明寺に滞在し、青井意足より源八幡太郎義家の軍法を授かったという。この軍法を継ぐ者は名前に"義"か"家"継ぐ事になっており、元康は今川義元から授かった「元」を「家」に変え、松平家康と称するようになったという。

2023年11月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
光明寺城石碑[黒田城  碑・説明板]



光明寺城は織田信長の臣 神戸伯耆守の居城である。伯耆守は城下の民を慈しみ、智勇兼備の名将として知られていた。信長が尾張最北端のこの要地に彼を封じ、美濃攻畧の拠点としたのは、そのためである。  永禄十三年九月伯耆守は伊勢大河内に出陣、単騎敵陣に突入、壮烈な死をとげた。いらい本城は廃城となった。

石碑碑文より。

石碑周辺は、住宅街となり古屋敷・本郷屋敷などの地名が残るのみです。

2023年09月28日 内匠頭RedKing
黒田城



駐車場もトイレも近くの資料館にお世話になります。山内一豊公の故事の説明もそちらです。城跡が小学校という立地はよくあることです。愛知県内では、同様のデジタルスタンプラリーが開催されて城、館、公園で一緒に回れます。

2023年04月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高橋源左衛門屋敷[黒田城  周辺城郭]



高橋源左衛門旧居跡
北方の人 高橋源左衛門は、広瀬嘉右衛門と共に、慶長五年(1600年)八月 関ヶ原の合戦の前、池田輝政率いる一万八千の軍勢の木曽川越えを助け、さらに加納への近道も案内し、岐阜城攻めに比類無い軍功をあげた。
その功績により、黄金十両、刀一振、船頭給二十八石五斗が与えられた。
以後、苗字帯刀を許され、宝江の御渡船守として明治初期まで続いた。宝江ゲートボール場付近に屋敷があった。
一宮北ライオンズクラブ
説明板より。

宝江ゲートボール場は、河川敷にあったと思われるが、今は草に覆われてゲートボール場も跡地となっている。川原屋敷と地名が残るのみです。

2022年10月01日 大納言Z周防守369
割田城[黒田城  周辺城郭]



詳細はわからないが、旧若宮社古殿地という石碑が跡地の外割田第3児童遊園に立っている。また、城跡という地名も残っている。名鉄新木曽川駅から徒歩7,8分程

2022年06月24日 【城郭道】たっきー
光明寺城石碑[黒田城  碑・説明板]



光明寺城の石碑は市街地の真ん中にあります。綺麗な石碑で写真も撮れます。この辺りに住んでいる人が羨ましいですね。

2022年06月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
伊冨利部古墳[黒田城  寺社・史跡]



一宮市指定文化財  史跡 伊富利部古墳

伊富利部古墳は、高さ四㍍、直径約二十㍍の円墳である。昭和三十九年(1964)より、始まった区画整理により明らかになった「門間遺跡」の中心的存在である。この付近では、円墳の痕跡や横穴式石室の基底部と思われる、石組みも発掘調査で検出されており、相当数の後期古墳があったとされている。
伊富利部氏(伊福部ともいう)は、正倉院文書に「伊福部大磨」という名が記されており、伊富利部神社を氏神とする有力な豪族で、門間一帯に住んでいたことが伺える。尚、神社に保管されている古剣は、この古墳からの出土品とも考えられる。
一宮市教育委員会
古墳説明板より

伊富利部神社御由緒
式内伊富利部神社は、伊福部氏の祖神若都保命を祀る命は天孫瓊々杵命の御兄神 天火明命の裔弟彦命の御弟神に座します。延喜式神祗巻九に葉栗郡十座の内伊富利部神社 本国帳に従三位 伊富利部天神と載録せられ、相殿に上門間荘の一の宮として誉田別命を祀り、正八幡宮と申し従古より社殿棲闇高く聳え棲門宝蔵あり数十の末社、神官邸宅等周囲一里に達する神域なりと言伝えらる。後花園天皇の康正元年(1455年)社殿焼失し社地をも減ず、後奈良天皇 弘治二年(1556年)和田河内守願主となり社殿を再建す。又、正親町天皇 天正十年(1582年)黒田城主 澤井左衛門尉雄重、深く尊栄して之を再建神慮を慰め奉る。
石碑碑文より

古墳のある神社の認識で訪れたが、黒田城主 澤井家ゆかりの地(澤井家領徳之碑あり)と知らずに訪れたので、ある意味城絡みの史跡で良かったです。
伊福部氏の屋敷があったからか、住所に北屋敷と地名が残されている。
駐車場は、二の鳥居(朱色)の北側に数台分あります。

2022年02月09日 ファン掃部助トム治郎
黒田城

長森駅ー伏屋城ー黒田城ー木曽川駅と歩きました。1時30分くらいです。黒田城は東海道線の線路脇にあり学校の敷地になっています。

2022年01月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
木曽川資料館[黒田城  関連施設]



木曽川資料館自体が国登録有形文化財になっています。

木曽川資料館と、木曽川商工会は隣合っています。黒田城の御城印はこちらで貰う事が出来ます。
駐車場はありますが、一方通行なので注意!!

2022年01月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
黒田城



現在、愛知県史跡整備市町村協議会 30周年記念イベント あいちの史跡をめぐって 御城印、御史跡印を集めよう!をやっています。

令和4年3月31日まで延長されました。

黒田城跡に行き、黒田城跡に貼ってある、チラシ・黒田城跡と分かる写真を撮り、木曽川資料館又は、木曽川商工会に行き「黒田城の御城印を下さい」と言い、写真を見せると御城印が頂けます。(1人1枚 無料)

興味のある方は、愛史協で調べて下さい。

2022年01月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
澤井公屋敷[黒田城  周辺城郭]



一宮市指定文化財
澤井公屋敷跡
この辺り一帯は、「澤井様お屋敷」と言われており、以前は一面の松林、10㍍ほどの丘であったという。
戦国時代において澤井左衛門尉雄重は黒田城主で、尾張・伊勢を領有する織田信雄(織田信長の次男)の家臣として仕え、小牧・長久手の戦いで手柄を立てた。その後、豊臣秀吉より尾張国内で一千石を賜っている。
関ヶ原合戦では家康方に味方し、清洲城主 福島正則に従い、関ヶ原合戦後は新たに尾張国主となった松平忠吉(家康四男)の家臣として三千石を賜った。
徳川義直(家康十四男)が入封し、尾張藩が立藩した後も代々、尾張藩に属した。黒田村には三十一石の飛び地があった。
明治維新時の澤井家当主 澤井元長は、名古屋から黒田に移り、黒田村 初代村長を務めた。

説明板より

黒田城跡にも、黒田城主 澤井雄重公 没後四百年記念碑があります。

2022年01月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
法蓮寺[黒田城  寺社・史跡]



一宮市指定文化財
山内但馬守盛豊、十郎父子の墓
土佐藩の藩祖 山内一豊の父で、戦国時代の黒田城主であった山内但馬守盛豊と盛豊の長男、十郎の墓である。
右側に盛豊の墓があり、「法性院殿逸溪光秀大居士」、側面には「弘治三丁巳年七月十二日 山内但馬守盛豊」と記されている。左が十郎の墓で「勝曼院一方乗広居士」、側面に「弘治三丁巳年七月十二日但馬守十郎」と記されている。盛豊は、岩倉城主 織田信安の家老であった。
弘治三年(1557)黒田城が夜討ちに合った際に戦死、永禄元年(1558)浮野の合戦で戦死、もしくは翌年の岩倉城落城の折に自害したとも伝えられており、没年には諸説ある。
現在の墓石は、江戸中期に建てられたものである。
説明板より

駐車場あり、ここから歩いて黒田城跡に行った方が良いかも?
駐車場前の道路は、一方通行なので注意!!

2022年01月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
内割田城[黒田城  周辺城郭]



築城時期、城主、歴史等は不明。
護国神社南側辺りにあったとされているが、所在は不明。地名は八荷丸。

護国神社北側の剣光禅寺には、寺伝として、建久元年(1190)源頼朝が京から帰途、寺の前で乗っていた馬が動かなくなり、この寺の地蔵が、かって願掛けしていた地蔵であったと知り、感涙し宝剣と田畑を奉納した。
この宝剣は、頼朝が死んだ夜に、霊光を放ち天を衝いて輝いたと云う。
それ以来村人達は、この寺を剣光寺と呼ぶようになったと言う。
寺に伝わる地蔵菩薩は、黒田地蔵と呼ばれ、尾張の六地蔵の第一番に挙げられ、道中安全を願う旅人の守護地蔵として崇められた。

2021年12月05日 ばらく~だ
黒田城



鉄道利用なら、JR東海道線木曽川駅下車、線路沿いに歩いて5分もあれば着けます。列車の窓から冠木門が見えますよ。

2021年10月04日 三河守天天丸
黒田城



城跡です。狭い道の角で車止められません。近くに一宮市木曽川資料館があるのでそこに止めると無料。一豊の鎧など展示されていました。

2021年09月19日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
北方代官所[黒田城  寺社・史跡]



道路沿いに、案内板があり前から気になっていたので、行ってみました。石碑と説明板が二枚、陣屋の見取り図ありました。

木曽川にかかる東海道線の鉄橋、東西の堤防付近にわたって、江戸時代には北方代官所と川並奉行所がありました。

尾張藩主により天明元年(1781)に北方代官所が設置され、その管轄は尾張・美濃の両国に跨がっていました。北方代官所は、付属学問所や道場・矢場(鉄砲部屋)などをもち、現在でも鉄砲部屋・西木戸などの地名が残っています。

2021年07月18日 【城郭道】たっきー
模擬冠木門[黒田城  遺構・復元物]



2021年7月17日土曜日の昼頃に行ったら、冠木門隣の塀が工事されていました。石垣の部分が外されていましたね。これまた期間限定の雰囲気ですね。

2021年03月07日 【城郭道】たっきー
北方代官所[黒田城  寺社・史跡]



一宮市北方町にあった北方代官所。堤防の先には木曽川、金華山がよく見えるところにあります。少々わかりにくいところですが、ひっそりと存在感を出しています。
江戸時代、郡奉行を廃止し、全て代官としました。この代官所は約170の村。87000石超えに相当する尾張、美濃の地を治めました。担当したのは100〜150石の武士。1871年廃止。
現在、石碑、説明板等がたちます。
ちなみに付近の代官所だと小牧代官所(蟹清水砦跡)があります。

2021年02月21日 【城郭道】たっきー
長谷川秀一居館跡石碑[黒田城  碑・説明板]



北方中学校前にある長谷川秀一居館跡石碑。もともと北方町下渡記念館にありましたが、都合によって当地に移られたと隣の石碑に刻まれています。
長谷川秀一居館は北方町下渡記念館にありましたので周辺城郭としては記念館がスポットとなっています。

2020年12月30日 【城郭道】たっきー
黒田城

山内一豊ファンの方は木曽川資料館や岩倉城に行くことをおすすめします。また、あまり知られていないのですが、浅野公園(一宮城のスポット)にも山内一豊ゆかりのものがあるので是非、行ってみてください。

2020年12月30日 【城郭道】たっきー
石碑・説明板[黒田城  碑・説明板]



心地よい場所として整備されている黒田城跡。石碑や説明板が多くあります。ひとつひとつ見て雰囲気を感じてください。また、リア攻めの記念として撮影するのともいいと思います。

2020年10月26日 武蔵守マクシミリアン
黒田城



一宮市立黒田小学校の北東隅、JRの踏切の脇に黒田城址の碑が立っています。車は線路脇に短時間なら止められます。

2020年10月14日 とんかつおやじND
北方代官所[黒田城  寺社・史跡]



天明元年(1781)この地に置かれた北方代官所(陣屋)は、木曽川沿いの葉栗、丹羽、中島の三郡、美濃の大納、池田、本巣ほか九郡に及ぶ広い地域を管轄していた。
明治四年(1871)代官所は廃止される。
北方の池は木曽川の運材を管理するに好適で、万治二年(1659)以来、川並奉行所が設けられていた。
百〜百五十石の武士が任命された。代官所は御陣屋とよばれ、北方代官所は、尾張・美濃の百七十か村、総高八万七千百九十三石余りの広大な地域を支配した。名を残した代官に畑繁神社の祭神となった酒井七左衛門や牛刀舎を設立した深沢新平がいる。
この番所に「木曽川徒渡りの者、切り捨てにす事」の額を掲げていた。

最後の画像は付近にある石碑
明治天皇が御休息された場所

2020年10月04日 【城郭道】たっきー
黒田城



一宮市立黒田小学校の片隅に石碑や模擬門があります。綺麗に整備されていて、見学しやすい状態となっています。ベンチもあるのでここで休憩することもできます。
リア攻めにはおすすめの城ですよ。

2020年09月13日 村国三成 無期限休止
光明寺城[黒田城  周辺城郭]

織田信長に光明寺の住職を紹介され軍法をさずかった松平元康は「家康」に改名。

徳川家康誕生の地であるらしいです。
詳細はWikipediaなどを・・・。

2020年08月03日 【城郭道】たっきー
法蓮寺[黒田城  寺社・史跡]

黒田城からJRの踏切を渡ってすぐです。
立派な門が立ち構えられており、駐車場もあります。駐車場の近くに『山内一豊公出生地』の石碑があります。その奥に行けば一豊公の父、盛豊公と一豊公のお墓があるのでぜひ行ってみてください。


2019年05月04日 しげぽん
黒田城



山内一豊公誕生の地、記念碑の周りは小さい公園になってます。

2016年04月24日 ドラガン尾張守店長
黒田城

巧妙が辻の山内一豊生誕の黒田城趾を巡る。
名古屋鉄道の黒田駅近く徒歩5分くらい。
今や黒田小学校でしたが、周りに水堀が巡らされており、往事の平城ぶりが容易に想像できる。
小学校の校庭には「今日からみんな黒田っ子」の横断幕。
山内先輩を追い越せ~(^^)/

2015年09月23日 我流尾張守クール
黒田城

前述に習い、城跡近くに在る一宮市木曽川町資料館を訪れました。建物自体が国登録有形文化財です。
一豊公のみならず、その他地元武将別に紹介されており、一見の価値があります。

お城とは関係ありませんが、大正時代の蓄音機を13台所有しており、そのうちの1台で実際にSP盤を聴かせて頂きました。日本に2台しかないと思われる蓄音機です。
黒田城跡をリアル攻めの際は是非、お立ち寄りください。
城跡、資料館共にJR、名鉄の駅から徒歩圏内です。入館料は無料です。
月曜休み、9:30~17:30。

2011年01月07日 うさチ左衛門尉
黒田城

近くの木曽川資料館には小さいけど山内一豊に関する資料や黒田城の模型や絵が展示してありますよ黒田城跡からさほど離れていないので、立ち寄りをオススメします

2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
黒田城

[武将像]山内一豊像
城跡公園内に鎮座。土台に比べて、ちと小さめ。

黒田城の周辺スポット情報

 模擬冠木門(遺構・復元物)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 光明寺城石碑(碑・説明板)

 長谷川秀一居館跡石碑(碑・説明板)

 山内一豊公出生の地碑(碑・説明板)

 尾西鉄道 木曽川橋駅跡(碑・説明板)

 光明寺城(周辺城郭)

 長谷川秀一居館(周辺城郭)

 澤井公屋敷(周辺城郭)

 内割田城(周辺城郭)

 割田城(周辺城郭)

 高橋源左衛門屋敷(周辺城郭)

 法蓮寺(寺社・史跡)

 北方代官所(寺社・史跡)

 伊冨利部古墳(寺社・史跡)

 田所遺跡(寺社・史跡)

 大毛池田遺跡(寺社・史跡)

 門間沼遺跡(寺社・史跡)

 籠守勝手神社(寺社・史跡)

 日蓮宗 日相上人学問所跡(寺社・史跡)

 鉾塚神社(寺社・史跡)

 青木宮跡(宇夫須奈神社旧跡)(寺社・史跡)

 宝江の渡し跡・岐阜街道道標(寺社・史跡)

 宇夫須奈神社(寺社・史跡)

 里小牧渡船場跡(寺社・史跡)

 青衾神社・長昌院(寺社・史跡)

 光明寺(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 木曽川資料館(関連施設)

 山内一豊公銅像(その他)

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