田代城(でんだいじょう)
田代城の基本情報
通称・別名
- 蓮台城
所在地
- 岐阜県羽島郡笠松町田代
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 森可勝
築城年
- 16世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 森氏
廃城年
- 不明
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
黒田城(愛知県一宮市)[3.2km]
川手城(岐阜県岐阜市)[4.1km]
加納城(岐阜県岐阜市)[4.5km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[4.8km]
野府城(愛知県一宮市)[4.8km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[5.8km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[6.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.7km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[6.7km]
一宮城(愛知県一宮市)[8.0km]
田代城の解説文
[引用元:Wikipedia「田代城」の項目]
田代城(でんだいじょう)は、岐阜県羽島郡笠松町田代(尾張国葉栗郡)にあった戦国時代の日本の城。
略歴
築城は1500年代初頭と言われているが、不明である。初代城主の森可勝は森成利(蘭丸)等を輩出した、戦国武将・森氏である。天文21年(1552年)に、森可成の長男である傳兵衛可隆、永禄元年(1558年)には次男勝蔵(長可)、永禄3年(1560年)には森越後守可行の次男九一郎(対馬守可政)が誕生している。 永禄8年(1565年)可成の三男蘭丸長定(乱丸成利)が金山城に於いて誕生しているため、1560年〜1565年に廃城となったと思われる。
織田信長・斎藤道三との関わり
斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)は織田信長の元に嫁いでいる。天文22年(1553年)、斎藤道三と織田信長は尾張国中島郡冨田村(現・愛知県一宮市)の正徳寺(聖徳寺)で親子対面し、帰りをともにする。田代城にて別れの儀式を行い、道三は稲葉山城に、信長は那古野城に戻っていったという。
現在
跡地には白鬚神社がある。この地には奈良時代の寺院跡(蓮台寺、東流廃寺)があり、礎石が発掘されている。
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田代城の口コミ情報
2024年07月29日 たくや
田代城
私有駐車場の間にあります。「関係者以外は駐車しないように!」ということが書かれた看板が2箇所ありましたので、車で訪問する際は気をつけて下さい!過去にリア攻めで訪れた方が私有駐車場に停めていたのでしょうね。
2024年06月15日 図書頭RedKing
田代城
岐阜県一般県道183号正木岐阜線から微妙な参道の白鬚神社に入ります。近くにお地蔵さんや整地碑もあって地域の中心と思われます。
この県道は、番号こそ一般県道ですが、この北約1kmで旧R22(名岐国道)に直交しますから、往復2車線でもバス路線で交通量が非常に多く、お気をつけ下さい。
周辺は住宅地ですが、石碑は耕地整理の完了を顕彰するもので、かつては笠松の郡代と言う幕府代官の中の代官所があったそうです。
城跡の雰囲気は遺っていませんが、地域の鎮守として大事に護られています。
道三信長の会見の伝承と言うのも来て見てびっくり、どこから木曽川を渡ったのでしょう。
尚、リア攻めはグーグルマップでも城跡と明瞭で、名鉄西笠松駅から徒歩攻略をお勧めします。私は駅からまず、東に木曽川右岸堤を渡り、すぐの笠松郡代(代官所)跡を目指しましたが、川原の公園から笠松町歴史未来館(過去や古文書ばかりではありません。)で楽しんでから回れました。また、競馬場だけでなく、真宗の別院が東西、そう、郡代跡地は明治時代の県庁でしたので、政治宗教の中心地でした。また、商店街はリアル昭和の街並み人情商店街で、真っ黒に日焼けした学生さんがワイワイ、いいマチだと感じられます。幕府郡代はともかく、郷士や名主さんの治政は良かったのでしょう。
何と言ってもこの名鉄竹鼻線は、名古屋本線が先程の名岐国道と同様に鉄橋で忙しなく走っているのと雲泥の差で、路線こそ名鉄新岐阜駅とJR新幹線岐阜羽島駅とを結びますが、昭和の電車旅を日ながのんびり愉しませてくれます。喧騒な都会から市街地を俯瞰し路地裏から田園地帯の風景、学生のたわいない会話と、...。
しかし当地も木曽川右岸側は例外なく、洪水の対策なく生活はできませんでした。田代地区自体が微高地の上に現況神社ですから、当地はともかく、電車は、この辺りから南下、そう地盤も低下していきます。
2024年03月31日 たいʕ•ٹ•ʔやき
田代城
静かな場所です。比較的、行きやすい場所ですが、通勤時間は避けた方が良いです。線路付近の道路はとても混みます。
2022年10月09日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
北宿城[田代城 周辺城郭]
『羽島市史』によると、元禄九年(1566)、備前国 岡山より移住してきた、福井五郎兵衛が築城し、この近郷を領していたとされる。
城跡は、「白山神社」付近とされ、神社の西側に建つ地蔵堂は、初代城主 福井五郎兵衛を祀ったものとされる。
城跡とされる白山神社には、城址碑や説明板などはない。
2022年09月28日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
茜部神社[田代城 寺社・史跡]
茜部神社由緒記
東大寺荘園茜部荘(初めは厚見荘)は、710年頃できる。その守護神として830年頃勅令により、宇佐八幡宮を勧請する。832年頃、空海が神宮寺として、成就院(本尊 阿弥陀如来)を置く。
全国、神社約十万社中、二万五千社は八幡神社であり、茜部神社は分社として十番目に古く、有名な手向山、岩清水、鶴岡より古い。祭神は宗社宇佐八幡宮を初め、応神天皇、神功皇后(母)、比売大神が大部分で、武内宿弥(臣)は稀である。
八幡神社の由来は複雑で、五世紀頃に比売大神(海洋神、農耕神、鍛冶神)が祀られ、六世紀に応神天皇(武勇、安全神、請願成就神)、九世紀に神功皇后が合祀された。邪馬台国の卑弥呼は天照大神、壹与は比売大神との説がある。
道三が信長と会見した帰りにここで休み、道三が亡くなった時の戦で兵火に罹っている。本社の御神体(木像)は大災にて損傷しているが、一体はやや小さく、明らかに比売大神である。
明治維新の神仏分離で成就院の宝物は四散し、祭神 比売大神は武内宿弥に変えられた。
歴代加納城主の守護神であったし、国守土岐政房の墓がこの裏にある。尾張藩士、稲葉城主、歴代加納城主らの奉納品が多く、昔は十月十五日の祭礼には、加納城から三十余人の騎馬行列で参拝に来て流鏑馬、走馬式があった。その後、戦前は花火、神楽芝居に多数の露天が出て賑わった。昭和二十五年、岐阜市に合併し、祭礼も四月五日となる。式内社、郷社であった。
宝物殿前の由緒記碑文より抜粋。
かなり古い時代から、この地にあったと思われる神社で、今でも長い参道が残っている。
2022年09月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
土岐政房墓・成就院跡[田代城 寺社・史跡]
土岐氏は、清和源氏の流れをくむ、中世に美濃一帯を地盤に栄えた武家で、南北朝時代から戦国時代にかけては、この地方の守護職を勤めた一族です。土岐政房は、美濃国 第八代守護 成頼の長男で、第九代守護となりました。
明応四年・五年(1495・1496)の船田合戦では、弟 元頼を後継にしようとする、父 成頼、石丸利光らと戦い、これを打倒して権力を確立します。永正六年(1509)には守護所を革手から、長良川北岸の福光に移しました。
永正九年(1512)以降、守護代(守護の政務を代行する役職)の斎藤氏一族との間で対立が深まり、度々争いが起こります。永正十四年(1517)十二月には、ついに守護代 斎藤利良が政房の長子 頼武を擁立して兵を挙げ、政房との間で跡目をめぐり合戦になりました。一度は政房が敗北し、その後、頼武と利良を越前に追放するなど争いが続くさなか、永正十六年(1519)六月に没しました。
この地は寺屋敷と呼ばれ、成就院の跡と伝えられてきました。政房の墓には「承隆寺殿海雲宗寿大禅定門」と銘があります。『稲葉郡志』では、茜部神社裏手の、この寺屋敷一帯が、政房開基の承隆寺跡であると推定しています。成就院は、その塔頭と考えられ、この地には開基 天叟和尚の墓もあります。
説明板より。
住宅地や田畑となり、寺院跡の痕跡はなく、地名に寺屋敷と残るのみたが、境川近くに位置するので、砦としての利用も出来る様に、この地に建立されたのだろうか?
2022年09月25日 はちもく
田代城
行きは正徳寺、帰りは田代。神社境内は契約駐車場になってます。気をつけてください。
2022年03月17日 いち近江守喪中
田代城
城跡は白鬚神社となっています
城跡としての遺構はないような
信長が道三との会見後、道三をこの地まで見送るなど所縁の地。奈良時代の塔の中心礎石が境内に。神社裏手に駐車場がありますが月極駐車場なのでお気をつけて
2022年03月17日 いち近江守喪中
塔の中心礎石出土地[田代城 寺社・史跡]
田代城跡・白鬚神社境内に残る東流廃寺(蓮台寺)塔の中心礎石の出土地(奈良時代)
昭和32年の土地改良工事の際、多数の布目瓦と共に土中から見つかり、塔中心礎石は2つに割られ、田代城跡の白鬚神社境内と西宮町の東別院に残されている
尚、塔の高さは30mあったと推定される
2022年03月05日 雲如露絶兎
田代城
田代城があった場所は現在、白鬚神社という神社が建っています。城の遺構らしきものは何もありません。
2022年01月08日
田代城
田代地区の白鬚神社が城跡です。
神社境内に駐車場はありますが、すべて月極駐車場で無断駐車禁止と立て看板があるため、県道向かいのクスリのアオキ笠松長池店に買い物がてら駐車しました。
また城跡の石碑や説明板はありませんが、織田信長と斎藤道三の聖徳寺での会見の際に信長が道三を見送りここで別れたという説明板はありました。
2021年09月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
柳津城[田代城 周辺城郭]
柳津城の主郭部は、光澤寺境内にあったとされる。山門前に、聖徳山光澤寺由緒碑と、柳津城跡の歴史看板があります。本堂手前に、ステンレス製の柳津城の縄張の現状との比較平面図があり、西側に柳津城主竹腰摂津守之の木碑がありますが、文字が消えて柱にしか見えませでした。本堂の裏に、城址碑がひっそりとあります。
平面図を見ると、土塁が残っていそうな感じでしたが、銀杏を踏んてしまい、速攻撤収して、見落としました。
道は狭いですが、駐車場はありました。
2021年08月17日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
笠松陣屋[田代城 周辺城郭]
笠松陣屋・県庁の跡
笠松陣屋は美濃郡代 名取半左衛門長知が、江戸時代初めの寛文二年(1662年)に「笠町」を「笠松町」と改め、この地に置きました。
陣屋は笠町県庁になるまでの、約二百年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行う役所として、天下に重き位置をしめていました。
慶応四年(1868年)一月、笠松陣屋は朝廷の命を受けた 竹沢寛三郎が天朝御用所と改め、同年四月、笠松裁判所となりました。更に同月、笠松県の県庁となり県知事には、長谷部恕連が任命されました。明治四年(1871年)笠松は岐阜県庁誕生の地となり、岐阜町に移るまで県政の中心になっていました。
ここに、笠松町制百年を記念して、永く後世に保しようとするものです。
平成元年三月 笠松町 説明板より
建物は残っていたが、明治二十四年(1891年)の濃尾地震で焼失した。
陣屋は、八幡神社南側一帯に築かれたとされるが、住宅地の片隅に小規模な史跡公園となって残るのみです。
2021年08月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
東流廃寺(蓮台寺)塔礎石[田代城 寺社・史跡]
明治時代の初め、この寺の経蔵を建てる時、礎石にと長池の信者達が、田んぼの中から出た、この大きな石を寄進した。
その頃は、この石が何に使われていたのか、わからなかったが半分に割れている片方の石が、昭和三十二年に、この石の出た近くから、布目瓦と共に出てきて、高さ三十㍍もある、塔の中心礎石である事がわかった。
奈良時代前期に長池付近に大きな寺があった事になる。
説明板より
西宮町の笠松別院の経蔵の前に礎石と説明板があります。
笠松東別院「東本願寺笠松別院」
1839年(天保10年)に本山20代 達人上人により、東本願寺掛所として建立される。
1891年(明治9年)東本願寺笠松別院(東別院)に改名される。
1891(明治24年)濃尾地震で諸堂が倒壊する、大被害を蒙ったが、門信者の力により、順次再建される。
1974年(昭和49年)失火により、本堂が焼失し、現在は、基壇のみが残っている。
2021年08月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
蓮台寺遺蹟[田代城 碑・説明板]
東流廃寺(蓮台寺)は、白鳳期(七世紀)に存在した30㍍を超える塔をもつ寺院です。
この寺院の礎石は二分して発見され、現在、田代の白髭神社と西宮町な笠松東別院にあります。
寺院跡から発見された、軒瓦は「湖東式軒瓦」と言われ、近江の渡来系氏族泰氏ゆかりの歴史遺産として現代に伝わるものです。
笠松町HPより
塔のほかに、門や複数の建物があったと思われる。
塔礎石の周辺の石が、その他の建物礎石なのかは、不明です。
2021年08月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大浦城(大浦寺砦)[田代城 周辺城郭]
大浦城(大浦の寺砦)は、一名聖徳寺砦とも言われています。
弘治二年(1556年)四月、織田信長は斎藤道三と嫡子 義龍が争った「長良川の戦い」に、道三の援軍として木曽川を越えて「大良(現・羽島市正木町大浦周辺)」へ進軍。
父、道三を破り勝利した斎藤義龍は長良川の戦いの直後、大良に陣を張る信長軍へ兵を差し向け「大良の戦い」になりました。
道三の死を知り、撤退を決めた信長は、先ず雑人や牛馬を退かせ、「殿軍は俺がやる」と言い、舟一艘のみを残し全軍を先に渡河させた逸話が信長公記に残っています。
尚、義龍軍の攻撃で大浦城の落城が迫った時、大浦城の姫様が家宝の金矮鶏を抱いて、城内の井戸に身を投げ、その後、毎年元旦の早朝に金矮鶏の鳴き声が3声聞かれると伝えられており、金矮鶏神社の由来の一つになった。
*異説として 長者伝説
長者には一人娘がおり、大層可愛がり其の娘に黄金製の金矮鶏を与えた。娘はこれを大切にし常に座右に置いていた。ある日、手負いの若い武士が長者の門を叩き助けを乞うたので、長者は手当を加え家に匿った。そのうちに武士は娘と良い仲になり、それが長者の知る所となった。その頃、武士に追手が迫り、長者に若い武士の取り押さえを命じられたが、誤ってこれを殺害してしまった。娘はこれを知ると悲しみの余り、日頃大切にしていた金矮鶏を抱き庭の井戸に身を投じ亡くなった。その後、間もなく長者屋敷に怪火が出て壮大を誇った家倉尽く灰となったと云う。屋敷跡は、薮となり井戸だけが残り、元旦の早朝には井戸の中より金矮鶏の鳴き声が聞かれ、この声を聞く者は長者に成る事が出来ると伝う。
天正十二年(1584年)四月、羽柴秀吉は長久手の戦いで思わぬ敗戦を喫し、矛先を織田信雄の居城 長島城の攻撃に向けようとして、犬山の戦線を離脱して大浦城に入り、二日間にわたって作戦を練り、犬山で織田徳川軍に対峙していた十万の全軍に羽島方面への反転を命じたと言う。
現在の城跡は、金矮鶏神社の辺りとされるが、遺構は残っていない。
2021年08月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
津田領代官屋敷[田代城 周辺城郭]
織田氏庶流の津田家の生まれの津田秀政は、信長・秀吉・家康に仕え関ヶ原の戦いの後に、4010万石を領する旗本になった。
明治時代になって代官所としての役割を終え、大正6年に代官屋敷の母屋は、上善明寺の庫裏として移築され、現在、旗本津田領代官屋敷跡には長屋門と土塀の一部が残されている。
以前には、土塀の前に標柱が立てられていたが現在は無くなってしまった…。
2021年08月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
田代城
蓮台(今の田代)には、蓮台城があったと言われています。
城主であった森家は、美濃守護土岐家に仕え、暦応年中(1338年〜1341年)からおよそ200年間、館を構えていたと言われています。
森氏の系図によると、城主森康可は文亀〜永正(1501年〜1520年)の頃、この城に住んでいたと伝えられています。
泰可の子、可成(本能寺の変で信長と共に討死した森蘭丸の父)は信長の尾張平定に力を尽くし、桶狭間の戦いで手柄を立てたのを認められ、永禄8年(1565年)烏ヶ峰城(現在の兼山町、後に金山城と改名)を賜り、そこに移りました。
笠松ナビ散策コース
輪中と森蘭丸の里より抜粋
以前はこの辺りの民家の敷地内に、蓮台城跡の城址碑(木製)があったらしいが…現在は無くなってしまっています。
因みに、田代城と蓮台城は同一の城です。
2021年08月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
御社古神跡[田代城 碑・説明板]
天正十七年(1589年)頃、豊臣秀吉は日本中の土地を測りなおさせました(太閤検地)。その時、田代村は498石という村高に決められました。
この時の田畑を測る基準にしたところが、この場所でその時に使った縄などの道具を埋めてしまったところだと言われています。
ちなみに、この土地の地名は社古地といいます。
笠松ナビ散策コース 輪中と森蘭丸の里より
2020年10月03日 【城郭道】たっきー
田代城
城址にはなかなか立派な神社がありました。駐車場はあるにはあるのですが、契約車以外はとめてはいけないので注意してください。
2020年08月26日 とんかつおやじND
柳津城[田代城 周辺城郭]
築城時期は文亀年間(1501年頃)といわれている。城主の竹腰摂津守は斎藤氏に仕えていたが、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで戦死し、城主は叔父の成吉摂津守尚光にかわる。成吉摂津守尚光(のちに竹腰尚光に改名)も斉藤氏に仕える。
戦国時代、この地は尾張国であったが、斎藤氏の勢力下であり、斎藤氏と織田氏の戦いの最前線であった。
旧柳津村の地名には、一ヶ城、七ヶ城という地名が残っていたが、これは柳津城の出城や砦があった場所といわれている。
城址は光沢寺の境内にあるが、石碑のみ残る。
ウィキペディアより
2019年05月04日 しげぽん
田代城
道三、信長の別れの地の説明。神社裏手には契約駐車場しかないので、近隣でスペースを探す必要があります