田代城(でんだいじょう)

田代城の基本情報

通称・別名

蓮台城

所在地

岐阜県羽島郡笠松町田代667(白鬚神社)

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

森可勝

築城年

16世紀前期

主な改修者

主な城主

森氏

廃城年

不明

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

なし

周辺の城

黒田城(愛知県一宮市)[3.2km]
川手城(岐阜県岐阜市)[4.1km]
加納城(岐阜県岐阜市)[4.5km]
野府城(愛知県一宮市)[4.7km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[4.8km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[5.8km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[6.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.7km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[6.7km]
一宮城(愛知県一宮市)[8.0km]

田代城の解説文

田代城(でんだいじょう)は、現在の岐阜県羽島郡笠松町田代にあった、戦国時代の日本の城である。この城がある地域は、当時尾張国葉栗郡である。

略歴
築城は1500年代初頭と言われているが、不明である。初代城主の森可勝は森成利(蘭丸)等を輩出した、戦国武将・森氏である。天文21年(1552)に、森可成の長男である傳兵衛可隆、永禄元年(1558)には次男勝蔵(長可)、永禄3年(1560)には森越後守可行の次男九一郎(対馬守可政)が誕生している。

永禄8年(1565)可成の三男蘭丸長定(乱丸成利)が金山城に於いて誕生しているため、1560年~1565年に廃城となったと思われる。

織田信長・斎藤道三との関わり
斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)は織田信長の元に嫁いでいる。天文22年(1553)、斎藤道三と織田信長は尾張国中島郡冨田村(現・愛知県一宮市)の正徳寺(聖徳寺)で親子対面し、帰りをともにする。田代城にて別れの儀式を行い、道三は稲葉山城に、信長は那古野城に戻っていったという。

現在
跡地には白鬚神社がある。この地には奈良時代の寺院跡(蓮台寺、東流廃寺)があり、礎石が発掘されている。

田代城の口コミ情報

2021年09月08日 猫耳『感謝感激雨霰』
柳津城[田代城  周辺城郭]



柳津城の主郭部は、光澤寺境内にあったとされる。山門前に、聖徳山光澤寺由緒碑と、柳津城跡の歴史看板があります。本堂手前に、ステンレス製の柳津城の縄張の現状との比較平面図があり、西側に柳津城主竹腰摂津守之の木碑がありますが、文字が消えて柱にしか見えませでした。本堂の裏に、城址碑がひっそりとあります。

平面図を見ると、土塁が残っていそうな感じでしたが、銀杏を踏んてしまい、速攻撤収して、見落としました。

道は狭いですが、駐車場はありました。

2021年08月17日 猫耳『感謝感激雨霰』
笠松陣屋[田代城  周辺城郭]



笠松陣屋・県庁の跡
笠松陣屋は美濃郡代 名取半左衛門長知が、江戸時代初めの寛文二年(1662年)に「笠町」を「笠松町」と改め、この地に置きました。
陣屋は笠町県庁になるまでの、約二百年間、美濃国内の幕府領の支配と治水を行う役所として、天下に重き位置をしめていました。
慶応四年(1868年)一月、笠松陣屋は朝廷の命を受けた 竹沢寛三郎が天朝御用所と改め、同年四月、笠松裁判所となりました。更に同月、笠松県の県庁となり県知事には、長谷部恕連が任命されました。明治四年(1871年)笠松は岐阜県庁誕生の地となり、岐阜町に移るまで県政の中心になっていました。
ここに、笠松町制百年を記念して、永く後世に保しようとするものです。

平成元年三月   笠松町 説明板より

建物は残っていたが、明治二十四年(1891年)の濃尾地震で焼失した。
陣屋は、八幡神社南側一帯に築かれたとされるが、住宅地の片隅に小規模な史跡公園となって残るのみです。

2021年08月13日 猫耳『感謝感激雨霰』
東流廃寺(蓮台寺)塔礎石[田代城  寺社・史跡]



明治時代の初め、この寺の経蔵を建てる時、礎石にと長池の信者達が、田んぼの中から出た、この大きな石を寄進した。
その頃は、この石が何に使われていたのか、わからなかったが半分に割れている片方の石が、昭和三十二年に、この石の出た近くから、布目瓦と共に出てきて、高さ三十㍍もある、塔の中心礎石である事がわかった。
奈良時代前期に長池付近に大きな寺があった事になる。
             説明板より
西宮町の笠松別院の経蔵の前に礎石と説明板があります。

笠松東別院「東本願寺笠松別院」
1839年(天保10年)に本山20代 達人上人により、東本願寺掛所として建立される。
1891年(明治9年)東本願寺笠松別院(東別院)に改名される。
1891(明治24年)濃尾地震で諸堂が倒壊する、大被害を蒙ったが、門信者の力により、順次再建される。
1974年(昭和49年)失火により、本堂が焼失し、現在は、基壇のみが残っている。

2021年08月13日 猫耳『感謝感激雨霰』
蓮台寺遺蹟[田代城  碑・説明板]



東流廃寺(蓮台寺)は、白鳳期(七世紀)に存在した30㍍を超える塔をもつ寺院です。
この寺院の礎石は二分して発見され、現在、田代の白髭神社と西宮町な笠松東別院にあります。
寺院跡から発見された、軒瓦は「湖東式軒瓦」と言われ、近江の渡来系氏族泰氏ゆかりの歴史遺産として現代に伝わるものです。
笠松町HPより

塔のほかに、門や複数の建物があったと思われる。
塔礎石の周辺の石が、その他の建物礎石なのかは、不明です。

2021年08月12日 猫耳『感謝感激雨霰』
大浦城(大浦寺砦)[田代城  周辺城郭]



大浦城(大浦の寺砦)は、一名聖徳寺砦とも言われています。
弘治二年(1556年)四月、織田信長は斎藤道三と嫡子 義龍が争った「長良川の戦い」に、道三の援軍として木曽川を越えて「大良(現・羽島市正木町大浦周辺)」へ進軍。
父、道三を破り勝利した斎藤義龍は長良川の戦いの直後、大良に陣を張る信長軍へ兵を差し向け「大良の戦い」になりました。
道三の死を知り、撤退を決めた信長は、先ず雑人や牛馬を退かせ、「殿軍は俺がやる」と言い、舟一艘のみを残し全軍を先に渡河させた逸話が信長公記に残っています。
尚、義龍軍の攻撃で大浦城の落城が迫った時、大浦城の姫様が家宝の金矮鶏を抱いて、城内の井戸に身を投げ、その後、毎年元旦の早朝に金矮鶏の鳴き声が3声聞かれると伝えられており、金矮鶏神社の由来の一つになった。

*異説として 長者伝説
長者には一人娘がおり、大層可愛がり其の娘に黄金製の金矮鶏を与えた。娘はこれを大切にし常に座右に置いていた。ある日、手負いの若い武士が長者の門を叩き助けを乞うたので、長者は手当を加え家に匿った。そのうちに武士は娘と良い仲になり、それが長者の知る所となった。その頃、武士に追手が迫り、長者に若い武士の取り押さえを命じられたが、誤ってこれを殺害してしまった。娘はこれを知ると悲しみの余り、日頃大切にしていた金矮鶏を抱き庭の井戸に身を投じ亡くなった。その後、間もなく長者屋敷に怪火が出て壮大を誇った家倉尽く灰となったと云う。屋敷跡は、薮となり井戸だけが残り、元旦の早朝には井戸の中より金矮鶏の鳴き声が聞かれ、この声を聞く者は長者に成る事が出来ると伝う。

天正十二年(1584年)四月、羽柴秀吉は長久手の戦いで思わぬ敗戦を喫し、矛先を織田信雄の居城 長島城の攻撃に向けようとして、犬山の戦線を離脱して大浦城に入り、二日間にわたって作戦を練り、犬山で織田徳川軍に対峙していた十万の全軍に羽島方面への反転を命じたと言う。

現在の城跡は、金矮鶏神社の辺りとされるが、遺構は残っていない。

2021年08月10日 猫耳『感謝感激雨霰』
津田領代官屋敷[田代城  周辺城郭]



織田氏庶流の津田家の生まれの津田秀政は、信長・秀吉・家康に仕え関ヶ原の戦いの後に、4010万石を領する旗本になった。

明治時代になって代官所としての役割を終え、大正6年に代官屋敷の母屋は、上善明寺の庫裏として移築され、現在、旗本津田領代官屋敷跡には長屋門と土塀の一部が残されている。

以前には、土塀の前に標柱が立てられていたが現在は無くなってしまった…。

2021年08月10日 猫耳『感謝感激雨霰』
蓮台城[田代城  周辺城郭]



蓮台(今の田代)には、蓮台城があったと言われています。
城主であった森家は、美濃守護土岐家に仕え、暦応年中(1338年〜1341年)からおよそ200年間、館を構えていたと言われています。
森氏の系図によると、城主森康可は文亀〜永正(1501年〜1520年)の頃、この城に住んでいたと伝えられています。
泰可の子、可成(本能寺の変で信長と共に討死した森蘭丸の父)は信長の尾張平定に力を尽くし、桶狭間の戦いで手柄を立てたのを認められ、永禄8年(1565年)烏ヶ峰城(現在の兼山町、後に金山城と改名)を賜り、そこに移りました。

笠松ナビ散策コース
輪中と森蘭丸の里より抜粋

以前はこの辺りの民家の敷地内に、蓮台城跡の城址碑(木製)があったらしいが…現在は無くなってしまっています。
因みに、田代城と蓮台城は同一の城です。

2021年08月10日 猫耳『感謝感激雨霰』
御社古神跡[田代城  碑・説明板]



天正十七年(1589年)頃、豊臣秀吉は日本中の土地を測りなおさせました(太閤検地)。その時、田代村は498石という村高に決められました。
この時の田畑を測る基準にしたところが、この場所でその時に使った縄などの道具を埋めてしまったところだと言われています。
ちなみに、この土地の地名は社古地といいます。

笠松ナビ散策コース 輪中と森蘭丸の里より

2020年10月03日 【城郭道】尾張守たっきー
田代城

城址にはなかなか立派な神社がありました。駐車場はあるにはあるのですが、契約車以外はとめてはいけないので注意してください。

2020年08月26日 とんかつおやじND
柳津城[田代城  周辺城郭]



築城時期は文亀年間(1501年頃)といわれている。城主の竹腰摂津守は斎藤氏に仕えていたが、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで戦死し、城主は叔父の成吉摂津守尚光にかわる。成吉摂津守尚光(のちに竹腰尚光に改名)も斉藤氏に仕える。

戦国時代、この地は尾張国であったが、斎藤氏の勢力下であり、斎藤氏と織田氏の戦いの最前線であった。

旧柳津村の地名には、一ヶ城、七ヶ城という地名が残っていたが、これは柳津城の出城や砦があった場所といわれている。

城址は光沢寺の境内にあるが、石碑のみ残る。
ウィキペディアより

2019年05月04日 しげぽん
田代城



道三、信長の別れの地の説明。神社裏手には契約駐車場しかないので、近隣でスペースを探す必要があります

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