野府城(のぶじょう)

野府城の基本情報

通称・別名

野武城、野夫城

所在地

愛知県一宮市開明字城堀(開明小学校)

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

織田信治

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

黒田城(愛知県一宮市)[2.8km]
一宮城(愛知県一宮市)[3.5km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[3.7km]
田代城(岐阜県羽島郡)[4.7km]
中島城(愛知県一宮市)[5.6km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[6.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.0km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[6.4km]
下奈良城(愛知県一宮市)[6.9km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[7.4km]

野府城の解説文



野府城(のぶじょう)は、愛知県一宮市開明(尾張国中島郡野府村)にあった室町時代から江戸時代初期にかけての日本の城。野武城とも書く。1975年(昭和50年)2月11日付けで一宮市指定史跡。

概要 

一宮市立開明小学校付近にあり、同校の正門付近に城址碑がある。城主は織田信長の実弟織田信治が最も知られている。

築城時期は不明であるが、明応年間(1492年 - 1500年)にはすでに存在し、往時には二重の堀が廻らされ、『尾西市史』によると内堀で囲まれた範囲だけでも東西約300メートル、南北約200メートルの規模があったとされる。

近くの雲閑寺の山門は、城の門の一部を使用して建てられたといわれている。

歴代城主 

織田信治→津田元嘉

野府城の口コミ情報

2023年09月30日 主税頭RedKing
野府城



写真の説明板は、南門の中です。城跡が学校になっていることは多々ありますが、市教委のご説明は門外からです。名鉄開明駅からすぐなのに加えて東隣には、近代化の色々な顕彰碑や少し離れて古墳など、昔から地域で先進的な地区だったのでしょう。

2023年03月03日 織田猫耳信長萌え〜隊
車塚古墳[野府城  寺社・史跡]



主軸が真南を向く前方後円墳。墳丘の一部が残存し、周溝跡は確認されていない。
今伊勢古墳群十九基(現存七基)中の主墳で、尾張の古墳中十指に入る大規模なものである。年代的には、一群の出土品や付近の古墳から考え五世紀前半に位置づけられ、ここより東北方へ五㌔㍍にある浅井群集墳に先行するものである。当地方に早くから村が開け、村を支配する豪族の存在が知られる。『尾張塘叢』によれば、倭姫が、尾張中島宮を訪れた際、「大神宮御鎮座伊勢之見当を御覧の山故、見当山申由承候」の故事から「見当山古墳」、また前方後円墳を横から見た形状が車の輪のように見えるため「車塚」さらに地名にちなんで「目久井古墳」とも呼ばれている。
推定全長70㍍、後円部径34㍍、高さ4㍍。
一宮市
説明板より。

北側以外は、住宅が近接し柵で囲まれている。

2023年01月09日 織田猫耳信長萌え〜隊
西口社古墳[野府城  寺社・史跡]



明治41年頃に発掘調査され、須恵器が出土したという。七世紀頃の築造と推定されている。

現在は、南北約25㍍✕東西約9㍍の墳丘の一部が残るのみで、墳丘の形状は不明。墳丘上に西口(さぐち)社 御祭神 大国主命が祀られている。

2023年01月08日 織田猫耳信長萌え〜隊
上町屋古墳[野府城  寺社・史跡]



昭和14年(1939)に発掘調査された際に、川原石積みの横穴式石室が発見されている。出土した須恵器・土師器などから、七世紀に築造された、直径12㍍以上の円墳と推定されている。現在残る墳丘は1.5㍍ほどの高さで、石室と思われる石材が一部が露出しているという。墳丘上には、白山社 御祭神 菊理姫命が祀られている。

2023年01月08日 織田猫耳信長萌え〜隊
三條神社[野府城  寺社・史跡]



三條神社 御由緒
慶長年間、野府村から出た新田が成長し、独立して苅安賀新田村となり、慶長六年(1601)豊受大神を勧請して祀った。後、天保三年(1646)九月三日、白山信仰の人々が美濃国 洲原大神を勧請して須原社を建立した。
「尾張志」に、八幡ノ社・須原権現ノ社・神明ノ社、三社共に苅安賀新田にありとある。
この神明ノ社は、慶長六年(1601)勧請という。明治五年八月、村社に列格する。
昭和四十二年一月 神明社に、村社 須原社を合併合祀する。
同四十八年十月十六日、本殿をはじめ諸社殿を現在地に新築し、九等級社に昇級。
拝殿前の説明板より。

2023年01月07日 織田猫耳信長萌え〜隊
御裳神社[野府城  寺社・史跡]



御裳神社の御由緒
御裳神社は和名抄の神戸郷内、神鳳抄の御母板倉御厨の浄地に鎮座ます。
尾張国神名帳に従三位上御母天神とある。
社は御朱雀天皇、寛徳二年(1045)の御創建にて、古来公武の尊崇非常に篤く、永禄年中には中島郡下津城主 多田氏、愛知郡岩崎城主 丹羽氏を始め板倉、黒田、浅野等の諸将力を合せて社殿を修し、祭儀・祭礼を整える。
江戸時代においては、歴代 尾張藩主始め、石河・山村の諸侯崇敬の誠を尽くし、特に四代藩主 徳川吉通公は、正德年中(1711〜1715)に社殿を造進し奉り、更に社の御厨の由縁を温めて伊勢の神宮との関係を旧に復し、社名神明宮を称するを、特に古名御裳大明神を用いられる。
当社は、古来当地方の重要産業たる、織物業・染色業の守護神として、衆庶の崇敬は年と共に増進を見るに至り、明治維新後、社名を御裳神社と定められる。
御裳神社御由緒より一部抜粋。

近年では、紫陽花まつりが開催されている、神社として推されているらしい。

2023年01月05日 織田猫耳信長萌え〜隊
石碑・説明板[野府城  碑・説明板]



野府城跡は、現在の一宮市開明字城堀、杁西郭、杁東郭、雲閑寺郭地内にあり、そのほぼ中央部で東西約300㍍、南北約200㍍である。
野府城跡は、戦国時代の城跡で、織田信治などの居城であった。信治は、織田信秀の五男、信長の弟である。元亀元年(1570)姉川の戦のころ、信治は近江坂本周辺(滋賀県大津市)を守備していたが、浅井・朝倉連合軍の攻撃を受けて、九月十九日 宇佐山城で討死した。二十六歳だったという。
信治没後は、江戸時代後期の天保年間(1830~1844)に編集された尾張藩の地誌『尾張誌』に、武藤掃部助雄政(武藤掃部)が、野府の城跡に住み、尾張藩初代 徳川義直に仕えたが、断絶したという。武藤家の断絶は掃部の孫の代であった。天保十二年(1841)の野府村絵図にも「城屋敷」として城跡が記されている。
現在は、一部が一宮市立開明小学校の敷地となっている。
一宮市教育委員会
説明板より。

城址碑は、以前は運動場の北東側辺りにありましたが、いつの間にか校門近くに移設されていました。(40年程前の記憶で曖昧ですが…。)

2022年12月31日 織田猫耳信長萌え〜隊
神門[野府城  寺社・史跡]



古神門由緒
この古神門は、以前神橋の北側に建てられていた。
鎌倉時代に建てられていたといわれているが、作者不詳。特に木鼻が珍らしい形で、厳島神社に一例あるのみといわれている。
天明年間に尾張藩主 徳川宗睦が賀茂神社に参拝された折り、あまりの老朽化に心配され覆屋を作って保存するよう命令された。その後、文政年間と嘉永年間及び、明治二十四年に修理されている。立のひくいのは、修理のたびに柱の根を漸々にきり上げた故という。
明治二十七年には、柵を張りめぐらせて保護につとめた。昭和十六年に、現在地に移し建てた。平成二年十月吉日に土台下に石の台を作り、約六十糎かさあげし覆屋を建て変えた。その折り、旧覆屋の柱上部に「天保四年巳八月吉日 尾州葉栗郡黒田村 神辺秀蔵、祖父江孫八、神戸九太郎」と墨書されていた。

覆屋に取付けられた説明板より。

2022年12月31日 織田猫耳信長萌え〜隊
玉ノ井清水[野府城  寺社・史跡]



玉ノ井の霊泉とも言われ、地名「玉ノ井」の由来となっている。古くは奈良時代から、幾多の伝説や詩歌が伝えられている。この地が中世において京都と鎌倉を結ぶ、鎌倉街道に沿っていたことから、鎌倉時代初期の歌人で従三位参議飛鳥井雅経が立ち寄り、次の歌を詠んだとされる。
思ひいつや みたらし川に せしみそぎ
  忘れぬ袖の 玉の井の水
江戸時代の半ばの享保二年(1717)、神社境内の林の中から数片の井戸桁が掘り出され、その中のひとつに「天平三年辛未三月五日」(731)と書かれていたと、江戸時代に編纂された『尾張名所図会』には記されている。
明治十一年(1878)当時の愛知県令(県知事)安場保和と大書記官国貞廉平が、この清水のほとりに保勝碑を建立している。
一宮市
説明板より。

一宮市教育委員会の『教育委員会』部分が、削られているが、なにかあったのか???

2022年08月03日 織田猫耳信長萌え〜隊
頓聴寺[野府城  寺社・史跡]



一宮市指定文化財
書跡・典籍 扁額「萬松寺」 伝 斯波義重筆

頓聴寺山門に掲げてある、木彫の額の原本である。
室町時代の尾張国守護職にあった、斯波義重(1371〜1418)の自筆とされる。
義重は、治部大輔、左衛門佐、右兵衛督、越前と遠江の守護、室町幕府の管領を勤めた。
『尾張名所図会』後編巻之ニの「萬松寺 頓聴寺」の項目に「名書の印あり。実に能書にして古雅なり」とある。   一宮市教育委員会 

説明板より

この鐘楼門の建築年代は不明だが、この重そうな瓦葺きの屋根を、柱(8本)で支えていると思うと、ちょっと心配?
子供の頃、除夜の鐘を突きに鐘楼門の上に、上がった事がありますが、この扁額については、知らなかったので、久々に行って良かったです。

2022年06月22日 織田猫耳信長萌え〜隊
船橋跡[野府城  碑・説明板]



愛知県指定文化財
史跡 起渡船場跡〜船橋跡〜

船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。
美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。
木曽川の起宿の船橋河戸に架けられた船橋は、全長八百五十メートル前後、船数は二百七十艘を超える、日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。
宝暦十四年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなったものの『尾張名所図会』は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も船橋の壮大さを記録している。
一宮市教育委員会

石碑西側の木曽川堤防には、起第二陸閘(母情の画廊)があり、そこから木曽川堤防の向こう側を望む事ができ、この辺りに船橋が架けられたのかと、想像することができます。

一宮市尾西歴史民俗資料館には、起宿や船橋のミニチュア模型が、展示されています。

2022年06月21日 織田猫耳信長萌え〜隊
宮河戸跡・福島正則駒繋ぎ址(大明神社)[野府城  寺社・史跡]



愛知県指定文化財
史跡 起渡船場跡〜宮河戸跡〜
起渡船場には、上・中・下の三ヶ所の渡し場があった。大明神社の西にある木曽川を「宮河戸」、俗に「八百清河戸」と称した。もとは、御手洗場でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。
対岸の渡船場は、美濃国中島郡新井村(現岐阜県羽島市正木町新井)の燈明河戸と呼ばれていた。
宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金刀比羅社のある定渡船場(「上の渡し」)だけでは、渡船が困難な時に使用された。たとえば、文久元年(1861)の皇女 和宮の下向は当初、美濃路の通行が計画されており、その時この宮河戸の使用も計画された。
一宮市教育委員会 説明板より

福島正則駒繋ぎ址 石碑碑文
慶長五年(1600)八月、関ヶ原の役に、東軍の先鋒 福島正則の兵一萬六千七百人が、同月□日、美濃の竹ヶ鼻 岐阜を攻めんとして、当□に集結した時に、正則 この地の杉の大樹に駒を繋いで形勢を按じたと傳えられる。
石碑碑文より □部分は判別不能。

石碑は、大福稲荷社の連鳥居の途中にあります。

大明神社由緒
この神社は、旧中山道 垂井宿から、東海道 熱田宿に至る「美濃路」の尾張の最初の宿場であった「起宿」にある。
社伝によると、創建は明らかではないが、室町時代初期の尾張国守護・斯波義重が社殿を造営され、四代尾張藩主・徳川吉通が社殿を寄進したとされる。
大明神社の境内の説明板より一部抜粋。

尾張藩主 徳川吉通が神社の参拝された時、金子が下賜され、それを記念して石灯籠が建てられた。(石碑の写真は撮ったが、石灯籠は忘れた。)
参拝者用駐車場あり
愛知県指定 天然記念物の大いちょう、やまがきなどがあります。

2022年06月16日 織田猫耳信長萌え〜隊
鵜飼吉左衛門父子発祥地[野府城  碑・説明板]



鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)寛政10年2月12日(1798年3月28日)尾張国中島郡小信中島村(現一宮市)頓聴寺住職 鵜飼真教の次男として生まれ、後に水戸藩士で叔父の鵜飼知盛の養子となり、息子の幸吉と共に激動の幕末の時代に、重要な政治・外交問題に深く関わり、日本の将来を憂い奔走した尊王攘夷派の志士で、安政5年(1858年)から、翌年にかけて『安政の大獄』に関わった志士として処刑された。

興味がある方は、ウィキペディアを確認して下さい。

昔から、石碑の存在は知っていたが、安政の大獄と関わりのある方とは知らなかったので、石碑を見に来て良かったと思います。

近くには、三岸節子記念美術館などがあります。

2022年05月12日 織田猫耳信長萌え〜隊
大平遺跡[野府城  寺社・史跡]



大平遺跡は縄文から鎌倉時代の遺跡です。人々の生活跡、土器、中国陶磁が発見されここからは13世紀の井戸が見つかりました。

昭和63年度調査  尾西市教育委員会
石碑裏面碑文より

自分が、中学生時代の下校時に発掘調査していたのを、見ていた記憶があります、発掘調査されていた場所は石碑より道路挟んた西側一帯。現在は、埋め戻されて石碑が建てられていますが、近年田圃が埋められコンビニやアパート等が、建てられつつあるのが残念です。

2022年04月29日 織田猫耳信長萌え〜隊
石刀神社[野府城  寺社・史跡]



祟神天皇の代、石刀社として創建されたという。
創建された地は、尾張国中島郡四条と伝えられている。
現在も一宮市には、三条という地名が残り、その北部の一宮市から岐阜県羽島市付近と考えられる。その後、檀林皇后(嵯峨天皇皇后)によって、現在の地近くに移転したという。現在地への移転は、14世紀頃と言われている。
江戸時代に、三明神社に改称している。これは伊勢神宮の分社を合祀した事からである。この地は、古くから伊勢神宮の神戸であった。
慶長五年(1600)、西へ向けて進軍中の徳川家康が訪れ参拝し、その際に、三明神社に陣を設置したので、社殿の破損、建造物の一部が取り壊されたという。
関ヶ原の戦いの後の慶長十三年(1608)に、徳川家康の名で再建された。
この再建を祝って始まったのが、石刀祭とされる。
昭和十三年(1938)石刀神社と改称。
昭和十五年(1940)県社になる。

社殿が珍しく西向きに建てらているのは、移転前の神社の方角に向けて社殿が建てられたと言われている。
徳川家ゆかり神社という事もあり、神馬の銅像には、葵の御紋があしらわれている。

神社の社務所には、石刀祭の山車の模型が、5輌飾られていたが、実際の石刀祭の山車は、太平洋戦争で、2輌が焼失し現在は、3輌の山車が残るのみなのが残念です。

神社の参拝者用の駐車場がありますが、場所が分かりにくいうえ、道幅が狭いので注意が必要です。

社務所にて、御朱印あり、通常版や、石刀祭の限定版、季節による期間限定もあるらしい。
収集癖があるので、頑なに御朱印集めしていなかったが、第一号として石刀神社の御朱印(石刀祭限定版)Get!

神社の参道は、桜並木になっていて、参道途中には、一宮市唯一の酒蔵があります。

2022年04月29日 織田猫耳信長萌え〜隊
石刀神社古墳[野府城  寺社・史跡]



石刀神社本殿の下に存在する古墳。石刀神社本殿造営の際に、墳丘の上部が削平されている為、詳細は不明だが、直径20㍍以上の円墳と言われている。本殿の裏側には、僅かに微高地が確認することが出来るので、これが古墳の墳丘の一部と思われる。神社内には、古墳関係の説明板や石碑は無い。

2022年04月27日 織田猫耳信長萌え〜隊
西上免遺跡(西上免古墳)[野府城  寺社・史跡]



西上免遺跡は、愛知県尾西市開明から、一宮市今伊勢町馬寄にかけて広がる遺跡であり、平成2年(1990)から、平成7年(1995)まで、東海北陸自動車道建設に伴う発掘調査が、財団法人愛知県埋蔵文化財センターによって実施されました。

その結果、西上免遺跡は、弥生時代中期・古墳時代初頭・奈良時代・鎌倉時代・戦国時代の5つの時代にわたって、展開する複合遺跡であることが分かりました。中でも古墳時代初頭に所属する資料が最も充実しており、出土遺物からは、概ね3世紀初頭から、4世紀前葉まで集落が営まれていたと、考えることが出来ます。

発掘調査によって、5基の墳丘墓が存在しており、その中には墳丘長40.5㍍の前方後方墳(西上免古墳)を発見することが出来ました。
こうした成果から、西上免遺跡は、古墳時代の集落構成を知る上で貴重な遺跡であり、濃尾平野の古墳時代を考える上で、貴重な遺跡であります。

西上免古墳
西上免遺跡の発掘調査によって、新たに発見された前方後方墳です。
墳丘長は40.5㍍で、後方部は25㍍×24.5㍍、前方部幅17㍍を測り、その周りには、前方後方形に約10㍍の周溝が存在しています。墳丘はすでに破壊され存在してはいないものの、周溝内からは多量の土器などが発見されました。

出土土器は、パレスタイル壺やS字瓶・高杯など、約100点程があり、装飾性が高く、中には表面に朱が塗布された、土器も含まれていました。これらの遺物から、西上免古墳が3世紀前半に、造営されたことが分かります。従って、全国的にも最も古く遡ることが出来る、前方後方墳であり、愛知県内最古の前方後方墳と考えられます。

尚、西上免古墳に接して西側(SD19)と南側(SD25)更には、恐らく東側にも溝が掘削されていたと思われます。こうした溝(区画溝)は、古墳を造る場所を、前もって設定するものであり、古墳がどのように造られているのかを知る、興味深い資料です。

尾西市 尾西市教育委員会

発掘調査後、埋め戻され高架下に石碑と、説明板が設置され小公園として整備されている。地面のブロックで前方後方墳が、デザインされている。尾西市は、一宮市と合併して無くなっているが、説明板がまだ修正されていない。

2022年04月27日 織田猫耳信長萌え〜隊
雲閑寺山門[野府城  遺構・復元物]



野府城址のすぐ東側にある、雲閑寺の山門は、野府城の城門の一部を使用して、建てられたと言われています。

地名に雲閑寺郭と冠されているので、この辺りは野府城にあったとされる、二重の堀の内堀と外堀の内側にあたるのだろうか?

山門の瓦が、かなり傷んでいるのが、ちょっと気になったです。

2022年02月24日 織田猫耳信長萌え〜隊
坪内城[野府城  周辺城郭]



坪内城の来歴は、先人の方が書かれているので、省略してます。

城跡付近は、道が狭いので近くのショッピングセンター駐車場から、歩いて行きました。観音寺の北側の民家が城跡とされるが、遺構は残っていないですが、西屋敷、中屋敷、東屋敷などの地名が残っている。ここの区画だけ、道路が不自然なのは堀を埋めて道にしたのかと邪推してしまう。写真の生垣側が、城跡とされる民家。

2022年01月20日 織田猫耳信長萌え〜隊
起宿本陣・問屋場跡 国学者 加藤磯足邸趾[野府城  碑・説明板]



本陣とは、大名・公家といった、高貴な人々の休泊施設である。
五街道や、その付属街道の宿場に置かれ、美濃路の起宿には、一軒置かれていた。起宿の本陣職は、加藤家が代々「右衛門七」を名乗り、幕末まで世襲した。天明五年(1785)の書上げによれば「間口二十四間半・奥行五十四間・家造建坪二百六坪・外二高塀五十八間・門三箇所」とある。本陣は起宿の運営の中心機能としての役割を持っていた。
江戸時代を通じて、宿泊した藩としては、紀州 徳川家、広島藩 浅野家、徳島藩 蜂須賀家、熊本藩 細川家といった大藩も多い。江戸時代中期からは、朝鮮通信使の昼食の場ともなった。問屋場は人馬や荷物の継立てなどを行う場所で、これも加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設されている。
また、江戸時代中期の十一代当主の加藤磯足は、本陣職を務める傍らで、木曽川堤の自普請や村政にも力を尽くし、国学者 本居宣長の高弟として学問にも熱心で、尾張を代表する文化人でもあった。

現在、跡地には本陣の遺構は無く、石碑と説明板があるのみです。

2021年12月28日 織田猫耳信長萌え〜隊
中嶋一族発祥地[野府城  碑・説明板]



中嶋一族発祥地

源融ノ□中嶋監物宣長 承久ノ乱ニ官軍ニ属シ 北條勢□戦ヒ緒戦ヲ飾リタルモ後敗レ 現一宮市萩原町中嶋ノ領地ヨリ逃レ□リテコノ地ニ忍住シ 冨田 中嶋家ヲ創立ス時ニ 承久三年六月五日(1221年)ナリ 十八年後所領ヲ回復セルモ南北朝ニ至リ 四世 中嶋城主蔵人源宗 晩年野ニ下リテココニ定住シ□孫繁□シテ今日ニ及フ依テ一族ノ有志相集□祖先ヲ偲ビ由緒ノ地ニ碑ヲ建テ之ヲ顕彰ス

石碑の碑文一部は不鮮明(□部分)でしたが、中嶋城との関わりが深いようだが、忍住なので城館等は築かれなかったのだろうか?

写真を撮り忘れてしまったが、羽柴秀吉駒つなぎ杉跡という石碑も片隅にあり、中嶋一族の屋敷か何かしらがあったかもしれない…。

2021年07月18日 【城郭道】たっきー
割田城[野府城  周辺城郭]



野府川が湾曲するところにある城です。城を建てるのになかなか適した地ですね。川を渡って城跡へ行こうとするとその様子がよく伺えます。おそらく、一宮市内の城の中でも城跡であったという様子をよく伺える城の一つだと思います。
現在、城跡は第三外割田児童公園となっていて、城跡を示す石碑は建っていません。
なお、野府川を上ったり、下ったりすると様々な城と出会うため、割田城攻城の際には別の城にも行くのをおすすめします(自転車だと便利)。

2021年06月27日 織田猫耳信長萌え〜隊
玉ノ井城[野府城  周辺城郭]



築城年代  鎌倉時代頃
築城者   岩田采女正居
歴代城主  岩田氏 玉の井氏

岩田采女正居の居城であり、子孫は神官であり武士であったという。
当地は、賀茂神社の社領内で、領主は社人となって、神職を司る事が必要であった。
源頼朝の平家討伐に参戦し、鎌倉幕府の中流役人 玉の井四郎が、岩田一族の支配していた玉の井荘を取り立て、館を拡大して居城としたと云われる。

城跡は、念敬寺の東側辺りとされるが、住宅地となり遺構等は残っていない。

2021年06月13日 織田猫耳信長萌え〜隊
馬寄城[野府城  周辺城郭]



築城時期は不明。
城主は武藤弥平兵衛で天正3年(1575年)信長によって、越前国敦賀郡を賜り、天正7年(1579年)に病死。
子の武藤助十郎が跡を継いだという。

この武藤弥平兵衛は武藤舜秀の事で、天正2年(1574年)越前守護代となっていた、前波吉継が一揆によって討たれ、混乱状態となっていた越前に羽柴秀吉と共に、派遣された人物である。
出自は、よく分かっておらず、この馬寄城に居たとも云われるが、若狭国の武藤氏一族とも云われ詳らかではない。

天正3年(1575年)越前国北之庄城に柴田勝家が封ぜられると、越前国敦賀郡を与えられた。
天正5年(1577年)には雑賀攻め、更に加賀攻め、天正6年(1578年)播磨国神吉城攻め、天正7年(1579年)摂津国有岡城攻めに従軍するなど重用されていたが、有岡城攻めの在陣中に病死した。
舜秀の跡は、武藤助十郎康秀が継いだ。康秀の動向は定かではないが、天正10年(1582年)甲斐の武田氏が滅亡した後に甲信へ出陣、小牧・長久手合戦にともなって、佐々成政が加賀の前田利家と戦った際に、前田氏に従って佐々成政軍と戦ったことが知られている。

馬寄城跡の不明で、史跡散歩 愛知の城によれば字「東更屋敷」にある敬應寺付近とし、「愛知県中世城館跡調査報告i(尾張地区)」では字「中屋敷」一帯を推定地としている。
この辺りには、他に「西更屋敷」「桑屋敷」等の字名が残っている。

2021年05月23日 織田猫耳信長萌え〜隊
野見古墳[野府城  寺社・史跡]



墳丘の規模は直径約20㍍、墳高約1㍍の円墳で、周囲には周濠跡らしき低地がある。
昭和36年発掘調査時、主体部は撹乱されていた。

出土品
勾玉、滑石模造品刀子、直刀、鎧片、剣、鉾、鉄斧
墳丘から円筒埴輪の破片出土

5世紀前半の築造と推定、今伊勢古墳群に含まれ、市の史跡に指定されている。

宮後城については、一切ふれていないので、野見神社内には、城の痕跡は無いと思われる…。

2021年05月23日 織田猫耳信長萌え〜隊
宮後城[野府城  周辺城郭]



築城時期は不明。
野府城主 坪内又五郎一族の居城と思われる。
文亀三年(1503年)一宮四家(関、佐分利、伴、兼松)の一つ佐分利清家が伯父忠清の仇で、清則、忠直らと共に、宮後城主 坪内八郎九郎を討ち取ったという、記録が残っている。

その後、寛文七年(1667年)尾張藩 成瀬豊前守の屋敷となる。

城跡は、野見神社北側辺りとされるが、住宅地となり遺構等は確認出来ない。

2021年05月22日 織田猫耳信長萌え〜隊
聖徳寺[野府城  寺社・史跡]



史跡 聖徳寺跡

聖徳寺は、はじめ尾張国葉栗郡(のち美濃国羽栗郡)大浦郷(岐阜県羽島市)にあり、洪水や戦火で移転を繰り返したといいます。
寺伝等によると、のち尾張国中島郡苅安賀(一宮市)へ、再び大浦へ戻り、その後ここ中島郡冨田へ移りました。
聖徳寺は、戦国時代の永正年間(1504〜1521)に、この地に移ったといい、天文年間(1523〜1555、天文18年と21年と22年の3説)に尾張の織田信長と美濃の斎藤道三が会見した寺として知られています。
道三は、信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせており、信長が「大うつけ」かを確かめる為に会見を申し入れました。
信長は噂通りのうつけ者の姿で聖徳寺に現れましたが、正装に改めて会見に臨みました。道三はこの会見で信長の力量を知り、二人の同盟は確かなものになりました。信長にとって、歴史の表舞台へ出るきっかけとなった、大きな出来事だったといえます。
また、後年には豊臣秀吉の加賀野井城や竹鼻城攻めの本陣にもなりました。その後、美濃国羽栗郡三屋(岐阜県笠松町)、尾張国春日井郡清須(清須市)を転々とし、さらに名古屋の東寺町(のち東門前町)から松本町(のち富沢町中区錦)へと移転し、現在は守山区白山の七宝山聖徳寺と天白区八事山の八事山聖徳寺の2か所に分かれています。

石碑以前は、反対車線のもう少し南側にあったきがしますが…。

2021年05月15日 織田猫耳信長萌え〜隊
割田城[野府城  周辺城郭]



築城時期は、鎌倉時代頃とされる。
清和源氏の血をひく開田氏が築いたとされる。
城主は、開田二郎国用・開田判官代国重

城跡は、外割田第三児童遊園辺りとされる、遺構等は残っていないが、野府川が湾曲して流れているので、堀として利用されていたかもしれない…。

2021年05月15日 織田猫耳信長萌え〜隊
田中城[野府城  周辺城郭]



築城時期、城主等は不明。

現在の住所は、玉ノ井字吉原西だが、かっての字名が、城之内でこの辺りが田中城跡とされる。

ショッピングセンターの駐車場や、住宅地となり遺構等は残っていない。


2021年05月10日 織田猫耳信長萌え〜隊
梶川高盛邸[野府城  周辺城郭]



梶川高盛公宅之碑

奥城主 梶川弥三郎高盛の屋敷跡とされる。

梶川高盛は、高秀の子で、父と共に、奥村(現在の奥町)へ移ったと思われる。
天正元年(1573年)高盛は、織田信長に従い足利義昭が籠もる、槇島城(京都府宇治市)攻めに加わりました。
その際、宇治川で先陣を果たし、信長から馬を下賜(かし)したと言われています。

一宮市公式観光サイトより

石碑は、貴船神社拝殿東側から、奥に進み稲荷社から西に進み、ダミー?の石碑の更に西側にひっそりとあります。

2021年05月10日 織田猫耳信長萌え〜隊
奥村永福公出生地之碑[野府城  碑・説明板]



戦国武将 前田利家に仕え、数々の武勲立てた、奥村永福公の碑、前田家の命運をかけた戦いとなった、天正十四年(1586年)末森城の戦いで奥村公の功績は抜群であった。

一宮市公式観光サイトより

石碑は貴船神社拝殿手前東側の木々に隠れてます。

2021年02月15日 【城郭道】たっきー
馬寄城[野府城  周辺城郭]



馬寄城は武藤弥平兵衛の居城で1575年に越前敦賀へ移った時に廃城となった。その後、1579年に弥平兵衛が死去。継いだ助十郎は1600年の関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、岐阜城水の手口を守ったと言われている。

2020年12月30日 【城郭道】たっきー
割田城[野府城  周辺城郭]

外割田第三児童遊園が割田城跡と思われます。

2020年12月07日 しげしげ主税頭信繁
野府城

一宮市立開明小学校の道路沿いに城碑がありました。

2020年11月28日 【城郭道】たっきー
野見神社(宮後城跡)駐車場[野府城  駐車場]



野見神社から線路を挟んだところに駐車場があります。ここは野見神社(宮後城跡)の駐車場となっているので車をとめて歩いてリア攻めすることができます。10台くらいとめれると思います。
宮後城リア攻めの際にどうぞ。

2020年11月28日 【城郭道】たっきー
野府城



午後5時頃にリア攻めしました。冬なので暗く、とても寒かったです。遺構は残っておらず、雲閑寺の山門が移築門であるとかないとか。開明小学校に石碑と説明板が建っています。学校の外からも見えるところにあります。

2020年08月21日 【城郭道】たっきー
坪内城[野府城  周辺城郭]



指定区域  なし
遺構    なし
住所    開明字中屋敷 
築城年   不明
築城者   富樫氏
城主    富樫氏 坪内氏
現状    特に整備等はなし
アクセス  名鉄尾西線開明駅から徒歩10分

野府城より西南の観音寺付近にあったとされています。

坪内城の始まりは古く、勧進帳で名高い安宅の関守で有名な富樫左衛門尉の子孫・富樫左衛門頼定が尾張にやってきたのが始まりといわれています。
 その後富樫氏はこの地で勢力を広げ犬山城主・織田信康に仕えます。この時に野府城の城代を務めていた坪内又五郎の家を継いで坪内氏を名乗る様になりました。
 坪内利定の時に秀吉と衝突し家康に仕える様になり、江戸時代は旗本になりました。
ところで同じ一宮市内にある宮後城は、ここと同じ坪内一族のお城といわれています。

城跡は道が折れ曲がったりしているのでもしかしたら城の名残かもしれません。

野府城リア攻めをした際は是非、一緒にリア攻めしてみてください。

2017年02月05日 我流尾張守クール
野府城

野府城…雲閑寺の山門を観に来ました。

現在は一宮市立開明小学校一体辺りです。信長の実弟、九郎信治も城主を勤めたことから、美濃との国境で要衝だったのでしょう。(信治は近江坂本で森可成と浅井、浅倉連合軍との戦いで討死)

遺構はありませんでしたが、地名が当時の普請を知る手掛かりです。
開明小学校の地名は「城堀」その他に「杁西曲輪」「杁東曲輪」「雲閑寺郭」「桝井戸」「会所郭」「神明郭」。(Googlemapの航空地図が良いかも)

尾張地区、アプリに無い城も沢山ありますのでこれからも楽しみです。

最寄駅は名鉄尾西線の開明駅です。


野府城の周辺スポット情報

 雲閑寺山門(遺構・復元物)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 奥村永福公出生地之碑(碑・説明板)

 中嶋一族発祥地(碑・説明板)

 起宿披本陣跡(碑・説明板)

 起宿本陣・問屋場跡 国学者 加藤磯足邸趾(碑・説明板)

 鵜飼吉左衛門父子発祥地(碑・説明板)

 船橋跡(碑・説明板)

 奥城(周辺城郭)

 坪内城(周辺城郭)

 宮後城(周辺城郭)

 田中城(周辺城郭)

 割田城(周辺城郭)

 玉ノ井城(周辺城郭)

 馬寄城(周辺城郭)

 梶川高盛邸(周辺城郭)

 聖徳寺(寺社・史跡)

 野見古墳(寺社・史跡)

 猿田彦神社(寺社・史跡)

 貴船神明社(寺社・史跡)

 西上免遺跡(西上免古墳)(寺社・史跡)

 冨田一里塚(寺社・史跡)

 車塚古墳(寺社・史跡)

 石刀神社(寺社・史跡)

 上町屋古墳(寺社・史跡)

 西口社古墳(寺社・史跡)

 石刀神社古墳(寺社・史跡)

 大平遺跡(寺社・史跡)

 宮河戸跡・福島正則駒繋ぎ址(大明神社)(寺社・史跡)

 頓聴寺(寺社・史跡)

 庚申寺(寺社・史跡)

 若宮神明社(寺社・史跡)

 賀茂神社(寺社・史跡)

 三條神社(寺社・史跡)

 御裳神社(寺社・史跡)

 西五城神明社(寺社・史跡)

 秋葉神社(寺社・史跡)

 水速女命社(寺社・史跡)

 玉乃井稲荷社(寺社・史跡)

 神門(寺社・史跡)

 玉ノ井清水(寺社・史跡)

 馬寄忠魂社(寺社・史跡)

 聴信寺(寺社・史跡)

 法信寺(寺社・史跡)

 起渡船場跡(寺社・史跡)

 御裳神社トイレ(トイレ)

 野見神社(宮後城跡)駐車場(駐車場)

 参拝者用駐車場(駐車場)

 神明社駐車場(駐車場)

 一宮市尾西歴史民俗資料館(関連施設)

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