野府城(のぶじょう)

野府城の基本情報

通称・別名

野武城、野夫城

所在地

愛知県一宮市開明字城堀(開明小学校)

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

織田信治

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

黒田城(愛知県一宮市)[2.8km]
一宮城(愛知県一宮市)[3.5km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[3.7km]
田代城(岐阜県羽島郡)[4.7km]
中島城(愛知県一宮市)[5.6km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[6.0km]
大野城(愛知県一宮市)[6.0km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[6.4km]
下奈良城(愛知県一宮市)[6.9km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[7.4km]

野府城の解説文



野府城(のぶじょう)は、野武城とも書き、室町時代から江戸時代初期にかけて、尾張国中島郡野府村(現・愛知県一宮市開明)にあった日本の城。

概要 

一宮市立開明小学校付近にあり、同校の正門付近に城址碑がある。城主は織田信長の実弟織田信治が最も知られている。

築城時期は不明であるが、明応年間(1492年 - 1500年)にはすでに存在し、往時には二重の堀が廻らされ、「尾西市史」によると内堀で囲まれた範囲だけでも東西約300m、南北約200mの規模があったとされる。

近くの雲閑寺の山門は、城の門の一部を使用して建てられたといわれている。

歴代城主

織田信治→津田元嘉

野府城の口コミ情報

2022年05月12日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
大平遺跡[野府城  寺社・史跡]



大平遺跡は縄文から鎌倉時代の遺跡です。人々の生活跡、土器、中国陶磁が発見されここからは13世紀の井戸が見つかりました。

昭和63年度調査  尾西市教育委員会
石碑裏面碑文より

自分が、中学生時代の下校時に発掘調査していたのを、見ていた記憶があります、発掘調査されていた場所は石碑より道路挟んた西側一帯。現在は、埋め戻されて石碑が建てられていますが、近年田圃が埋められコンビニやアパート等が、建てられつつあるのが残念です。

2022年04月29日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
石刀神社[野府城  寺社・史跡]



祟神天皇の代、石刀社として創建されたという。
創建された地は、尾張国中島郡四条と伝えられている。
現在も一宮市には、三条という地名が残り、その北部の一宮市から岐阜県羽島市付近と考えられる。その後、檀林皇后(嵯峨天皇皇后)によって、現在の地近くに移転したという。現在地への移転は、14世紀頃と言われている。
江戸時代に、三明神社に改称している。これは伊勢神宮の分社を合祀した事からである。この地は、古くから伊勢神宮の神戸であった。
慶長五年(1600)、西へ向けて進軍中の徳川家康が訪れ参拝し、その際に、三明神社に陣を設置したので、社殿の破損、建造物の一部が取り壊されたという。
関ヶ原の戦いの後の慶長十三年(1608)に、徳川家康の名で再建された。
この再建を祝って始まったのが、石刀祭とされる。
昭和十三年(1938)石刀神社と改称。
昭和十五年(1940)県社になる。

社殿が珍しく西向きに建てらているのは、移転前の神社の方角に向けて社殿が建てられたと言われている。
徳川家ゆかり神社という事もあり、神馬の銅像には、葵の御紋があしらわれている。

神社の社務所には、石刀祭の山車の模型が、5輌飾られていたが、実際の石刀祭の山車は、太平洋戦争で、2輌が焼失し現在は、3輌の山車が残るのみなのが残念です。

神社の参拝者用の駐車場がありますが、場所が分かりにくいうえ、道幅が狭いので注意が必要です。

社務所にて、御朱印あり、通常版や、石刀祭の限定版、季節による期間限定もあるらしい。
収集癖があるので、頑なに御朱印集めしていなかったが、第一号として石刀神社の御朱印(石刀祭限定版)Get!

神社の参道は、桜並木になっていて、参道途中には、一宮市唯一の酒蔵があります。

2022年04月29日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
石刀神社古墳[野府城  寺社・史跡]



石刀神社本殿の下に存在する古墳。石刀神社本殿造営の際に、墳丘の上部が削平されている為、詳細は不明だが、直径20㍍以上の円墳と言われている。本殿の裏側には、僅かに微高地が確認することが出来るので、これが古墳の墳丘の一部と思われる。神社内には、古墳関係の説明板や石碑は無い。

2022年04月27日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
西上免遺跡(西上免古墳)[野府城  寺社・史跡]



西上免遺跡は、愛知県尾西市開明から、一宮市今伊勢町馬寄にかけて広がる遺跡であり、平成2年(1990)から、平成7年(1995)まで、東海北陸自動車道建設に伴う発掘調査が、財団法人愛知県埋蔵文化財センターによって実施されました。

その結果、西上免遺跡は、弥生時代中期・古墳時代初頭・奈良時代・鎌倉時代・戦国時代の5つの時代にわたって、展開する複合遺跡であることが分かりました。中でも古墳時代初頭に所属する資料が最も充実しており、出土遺物からは、概ね3世紀初頭から、4世紀前葉まで集落が営まれていたと、考えることが出来ます。

発掘調査によって、5基の墳丘墓が存在しており、その中には墳丘長40.5㍍の前方後方墳(西上免古墳)を発見することが出来ました。
こうした成果から、西上免遺跡は、古墳時代の集落構成を知る上で貴重な遺跡であり、濃尾平野の古墳時代を考える上で、貴重な遺跡であります。

西上免古墳
西上免遺跡の発掘調査によって、新たに発見された前方後方墳です。
墳丘長は40.5㍍で、後方部は25㍍×24.5㍍、前方部幅17㍍を測り、その周りには、前方後方形に約10㍍の周溝が存在しています。墳丘はすでに破壊され存在してはいないものの、周溝内からは多量の土器などが発見されました。

出土土器は、パレスタイル壺やS字瓶・高杯など、約100点程があり、装飾性が高く、中には表面に朱が塗布された、土器も含まれていました。これらの遺物から、西上免古墳が3世紀前半に、造営されたことが分かります。従って、全国的にも最も古く遡ることが出来る、前方後方墳であり、愛知県内最古の前方後方墳と考えられます。

尚、西上免古墳に接して西側(SD19)と南側(SD25)更には、恐らく東側にも溝が掘削されていたと思われます。こうした溝(区画溝)は、古墳を造る場所を、前もって設定するものであり、古墳がどのように造られているのかを知る、興味深い資料です。

尾西市 尾西市教育委員会

発掘調査後、埋め戻され高架下に石碑と、説明板が設置され小公園として整備されている。地面のブロックで前方後方墳が、デザインされている。尾西市は、一宮市と合併して無くなっているが、説明板がまだ修正されていない。

2022年04月27日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
雲閑寺山門[野府城  遺構・復元物]



野府城址のすぐ東側にある、雲閑寺の山門は、野府城の城門の一部を使用して、建てられたと言われています。

地名に雲閑寺郭と冠されているので、この辺りは野府城にあったとされる、二重の堀の内堀と外堀の内側にあたるのだろうか?

山門の瓦が、かなり傷んでいるのが、ちょっと気になったです。

2022年02月24日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
坪内城[野府城  周辺城郭]



坪内城の来歴は、先人の方が書かれているので、省略してます。

城跡付近は、道が狭いので近くのショッピングセンター駐車場から、歩いて行きました。観音寺の北側の民家が城跡とされるが、遺構は残っていないですが、西屋敷、中屋敷、東屋敷などの地名が残っている。ここの区画だけ、道路が不自然なのは堀を埋めて道にしたのかと邪推してしまう。写真の生垣側が、城跡とされる民家。

2022年01月20日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
起宿本陣・問屋場跡 国学者 加藤磯足邸趾[野府城  碑・説明板]



本陣とは、大名・公家といった、高貴な人々の休泊施設である。
五街道や、その付属街道の宿場に置かれ、美濃路の起宿には、一軒置かれていた。起宿の本陣職は、加藤家が代々「右衛門七」を名乗り、幕末まで世襲した。天明五年(1785)の書上げによれば「間口二十四間半・奥行五十四間・家造建坪二百六坪・外二高塀五十八間・門三箇所」とある。本陣は起宿の運営の中心機能としての役割を持っていた。
江戸時代を通じて、宿泊した藩としては、紀州 徳川家、広島藩 浅野家、徳島藩 蜂須賀家、熊本藩 細川家といった大藩も多い。江戸時代中期からは、朝鮮通信使の昼食の場ともなった。問屋場は人馬や荷物の継立てなどを行う場所で、これも加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設されている。
また、江戸時代中期の十一代当主の加藤磯足は、本陣職を務める傍らで、木曽川堤の自普請や村政にも力を尽くし、国学者 本居宣長の高弟として学問にも熱心で、尾張を代表する文化人でもあった。

現在、跡地には本陣の遺構は無く、石碑と説明板があるのみです。

2021年12月28日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
中嶋一族発祥地[野府城  碑・説明板]



中嶋一族発祥地

源融ノ□中嶋監物宣長 承久ノ乱ニ官軍ニ属シ 北條勢□戦ヒ緒戦ヲ飾リタルモ後敗レ 現一宮市萩原町中嶋ノ領地ヨリ逃レ□リテコノ地ニ忍住シ 冨田 中嶋家ヲ創立ス時ニ 承久三年六月五日(1221年)ナリ 十八年後所領ヲ回復セルモ南北朝ニ至リ 四世 中嶋城主蔵人源宗 晩年野ニ下リテココニ定住シ□孫繁□シテ今日ニ及フ依テ一族ノ有志相集□祖先ヲ偲ビ由緒ノ地ニ碑ヲ建テ之ヲ顕彰ス

石碑の碑文一部は不鮮明(□部分)でしたが、中嶋城との関わりが深いようだが、忍住なので城館等は築かれなかったのだろうか?

写真を撮り忘れてしまったが、羽柴秀吉駒つなぎ杉跡という石碑も片隅にあり、中嶋一族の屋敷か何かしらがあったかもしれない…。

2021年07月18日 【城郭道】尾張守たっきー
割田城[野府城  周辺城郭]



野府川が湾曲するところにある城です。城を建てるのになかなか適した地ですね。川を渡って城跡へ行こうとするとその様子がよく伺えます。おそらく、一宮市内の城の中でも城跡であったという様子をよく伺える城の一つだと思います。
現在、城跡は第三外割田児童公園となっていて、城跡を示す石碑は建っていません。
なお、野府川を上ったり、下ったりすると様々な城と出会うため、割田城攻城の際には別の城にも行くのをおすすめします(自転車だと便利)。

2021年06月27日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
玉ノ井城[野府城  周辺城郭]



築城年代  鎌倉時代頃
築城者   岩田采女正居
歴代城主  岩田氏 玉の井氏

岩田采女正居の居城であり、子孫は神官であり武士であったという。
当地は、賀茂神社の社領内で、領主は社人となって、神職を司る事が必要であった。
源頼朝の平家討伐に参戦し、鎌倉幕府の中流役人 玉の井四郎が、岩田一族の支配していた玉の井荘を取り立て、館を拡大して居城としたと云われる。

城跡は、念敬寺の東側辺りとされるが、住宅地となり遺構等は残っていない。

2021年06月13日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
馬寄城[野府城  周辺城郭]



築城時期は不明。
城主は武藤弥平兵衛で天正3年(1575年)信長によって、越前国敦賀郡を賜り、天正7年(1579年)に病死。
子の武藤助十郎が跡を継いだという。

この武藤弥平兵衛は武藤舜秀の事で、天正2年(1574年)越前守護代となっていた、前波吉継が一揆によって討たれ、混乱状態となっていた越前に羽柴秀吉と共に、派遣された人物である。
出自は、よく分かっておらず、この馬寄城に居たとも云われるが、若狭国の武藤氏一族とも云われ詳らかではない。

天正3年(1575年)越前国北之庄城に柴田勝家が封ぜられると、越前国敦賀郡を与えられた。
天正5年(1577年)には雑賀攻め、更に加賀攻め、天正6年(1578年)播磨国神吉城攻め、天正7年(1579年)摂津国有岡城攻めに従軍するなど重用されていたが、有岡城攻めの在陣中に病死した。
舜秀の跡は、武藤助十郎康秀が継いだ。康秀の動向は定かではないが、天正10年(1582年)甲斐の武田氏が滅亡した後に甲信へ出陣、小牧・長久手合戦にともなって、佐々成政が加賀の前田利家と戦った際に、前田氏に従って佐々成政軍と戦ったことが知られている。

馬寄城跡の不明で、史跡散歩 愛知の城によれば字「東更屋敷」にある敬應寺付近とし、「愛知県中世城館跡調査報告i(尾張地区)」では字「中屋敷」一帯を推定地としている。
この辺りには、他に「西更屋敷」「桑屋敷」等の字名が残っている。

2021年05月23日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
野見古墳[野府城  寺社・史跡]



墳丘の規模は直径約20㍍、墳高約1㍍の円墳で、周囲には周濠跡らしき低地がある。
昭和36年発掘調査時、主体部は撹乱されていた。

出土品
勾玉、滑石模造品刀子、直刀、鎧片、剣、鉾、鉄斧
墳丘から円筒埴輪の破片出土

5世紀前半の築造と推定、今伊勢古墳群に含まれ、市の史跡に指定されている。

宮後城については、一切ふれていないので、野見神社内には、城の痕跡は無いと思われる…。

2021年05月23日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
宮後城[野府城  周辺城郭]



築城時期は不明。
野府城主 坪内又五郎一族の居城と思われる。
文亀三年(1503年)一宮四家(関、佐分利、伴、兼松)の一つ佐分利清家が伯父忠清の仇で、清則、忠直らと共に、宮後城主 坪内八郎九郎を討ち取ったという、記録が残っている。

その後、寛文七年(1667年)尾張藩 成瀬豊前守の屋敷となる。

城跡は、野見神社北側辺りとされるが、住宅地となり遺構等は確認出来ない。

2021年05月22日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
聖徳寺[野府城  寺社・史跡]



史跡 聖徳寺跡

聖徳寺は、はじめ尾張国葉栗郡(のち美濃国羽栗郡)大浦郷(岐阜県羽島市)にあり、洪水や戦火で移転を繰り返したといいます。
寺伝等によると、のち尾張国中島郡苅安賀(一宮市)へ、再び大浦へ戻り、その後ここ中島郡冨田へ移りました。
聖徳寺は、戦国時代の永正年間(1504〜1521)に、この地に移ったといい、天文年間(1523〜1555、天文18年と21年と22年の3説)に尾張の織田信長と美濃の斎藤道三が会見した寺として知られています。
道三は、信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせており、信長が「大うつけ」かを確かめる為に会見を申し入れました。
信長は噂通りのうつけ者の姿で聖徳寺に現れましたが、正装に改めて会見に臨みました。道三はこの会見で信長の力量を知り、二人の同盟は確かなものになりました。信長にとって、歴史の表舞台へ出るきっかけとなった、大きな出来事だったといえます。
また、後年には豊臣秀吉の加賀野井城や竹鼻城攻めの本陣にもなりました。その後、美濃国羽栗郡三屋(岐阜県笠松町)、尾張国春日井郡清須(清須市)を転々とし、さらに名古屋の東寺町(のち東門前町)から松本町(のち富沢町中区錦)へと移転し、現在は守山区白山の七宝山聖徳寺と天白区八事山の八事山聖徳寺の2か所に分かれています。

石碑以前は、反対車線のもう少し南側にあったきがしますが…。

2021年05月15日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
割田城[野府城  周辺城郭]



築城時期は、鎌倉時代頃とされる。
清和源氏の血をひく開田氏が築いたとされる。
城主は、開田二郎国用・開田判官代国重

城跡は、外割田第三児童遊園辺りとされる、遺構等は残っていないが、野府川が湾曲して流れているので、堀として利用されていたかもしれない…。

2021年05月15日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
田中城[野府城  周辺城郭]



築城時期、城主等は不明。

現在の住所は、玉ノ井字吉原西だが、かっての字名が、城之内でこの辺りが田中城跡とされる。

ショッピングセンターの駐車場や、住宅地となり遺構等は残っていない。


2021年05月10日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
梶川高盛邸[野府城  周辺城郭]



梶川高盛公宅之碑

奥城主 梶川弥三郎高盛の屋敷跡とされる。

梶川高盛は、高秀の子で、父と共に、奥村(現在の奥町)へ移ったと思われる。
天正元年(1573年)高盛は、織田信長に従い足利義昭が籠もる、槇島城(京都府宇治市)攻めに加わりました。
その際、宇治川で先陣を果たし、信長から馬を下賜(かし)したと言われています。

一宮市公式観光サイトより

石碑は、貴船神社拝殿東側から、奥に進み稲荷社から西に進み、ダミー?の石碑の更に西側にひっそりとあります。

2021年05月10日 ▼☽▼猫耳萌え▼☽▼
奥村永福公出生地之碑[野府城  碑・説明板]



戦国武将 前田利家に仕え、数々の武勲立てた、奥村永福公の碑、前田家の命運をかけた戦いとなった、天正十四年(1586年)末森城の戦いで奥村公の功績は抜群であった。

一宮市公式観光サイトより

石碑は貴船神社拝殿手前東側の木々に隠れてます。

2021年02月15日 【城郭道】尾張守たっきー
馬寄城[野府城  周辺城郭]



馬寄城は武藤弥平兵衛の居城で1575年に越前敦賀へ移った時に廃城となった。その後、1579年に弥平兵衛が死去。継いだ助十郎は1600年の関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、岐阜城水の手口を守ったと言われている。

2020年12月30日 【城郭道】尾張守たっきー
割田城[野府城  周辺城郭]

外割田第三児童遊園が割田城跡と思われます。

2020年12月07日 しげしげ右馬頭信繁
野府城

一宮市立開明小学校の道路沿いに城碑がありました。

2020年11月28日 【城郭道】尾張守たっきー
野見神社(宮後城跡)駐車場[野府城  駐車場]



野見神社から線路を挟んだところに駐車場があります。ここは野見神社(宮後城跡)の駐車場となっているので車をとめて歩いてリア攻めすることができます。10台くらいとめれると思います。
宮後城リア攻めの際にどうぞ。

2020年11月28日 【城郭道】尾張守たっきー
野府城



午後5時頃にリア攻めしました。冬なので暗く、とても寒かったです。遺構は残っておらず、雲閑寺の山門が移築門であるとかないとか。開明小学校に石碑と説明板が建っています。学校の外からも見えるところにあります。

2020年08月21日 【城郭道】尾張守たっきー
坪内城[野府城  周辺城郭]



指定区域  なし
遺構    なし
住所    開明字中屋敷 
築城年   不明
築城者   富樫氏
城主    富樫氏 坪内氏
現状    特に整備等はなし
アクセス  名鉄尾西線開明駅から徒歩10分

野府城より西南の観音寺付近にあったとされています。

坪内城の始まりは古く、勧進帳で名高い安宅の関守で有名な富樫左衛門尉の子孫・富樫左衛門頼定が尾張にやってきたのが始まりといわれています。
 その後富樫氏はこの地で勢力を広げ犬山城主・織田信康に仕えます。この時に野府城の城代を務めていた坪内又五郎の家を継いで坪内氏を名乗る様になりました。
 坪内利定の時に秀吉と衝突し家康に仕える様になり、江戸時代は旗本になりました。
ところで同じ一宮市内にある宮後城は、ここと同じ坪内一族のお城といわれています。

城跡は道が折れ曲がったりしているのでもしかしたら城の名残かもしれません。

野府城リア攻めをした際は是非、一緒にリア攻めしてみてください。

2017年02月05日 我流尾張守クール
野府城

野府城…雲閑寺の山門を観に来ました。

現在は一宮市立開明小学校一体辺りです。信長の実弟、九郎信治も城主を勤めたことから、美濃との国境で要衝だったのでしょう。(信治は近江坂本で森可成と浅井、浅倉連合軍との戦いで討死)

遺構はありませんでしたが、地名が当時の普請を知る手掛かりです。
開明小学校の地名は「城堀」その他に「杁西曲輪」「杁東曲輪」「雲閑寺郭」「桝井戸」「会所郭」「神明郭」。(Googlemapの航空地図が良いかも)

尾張地区、アプリに無い城も沢山ありますのでこれからも楽しみです。

最寄駅は名鉄尾西線の開明駅です。


野府城の周辺スポット情報

 雲閑寺山門(遺構・復元物)

 石碑、説明板(碑・説明板)

 奥村永福公出生地之碑(碑・説明板)

 中嶋一族発祥地(碑・説明板)

 起宿披本陣跡(碑・説明板)

 起宿本陣・問屋場跡 国学者 加藤磯足邸趾(碑・説明板)

 鵜飼吉左衛門父子発祥地(碑・説明板)

 奥城(周辺城郭)

 坪内城(周辺城郭)

 宮後城(周辺城郭)

 田中城(周辺城郭)

 割田城(周辺城郭)

 玉ノ井城(周辺城郭)

 馬寄城(周辺城郭)

 梶川高盛邸(周辺城郭)

 聖徳寺(寺社・史跡)

 野見古墳(寺社・史跡)

 猿田彦神社(寺社・史跡)

 貴船神明社(寺社・史跡)

 西上免遺跡(西上免古墳)(寺社・史跡)

 冨田一里塚(寺社・史跡)

 車塚古墳(寺社・史跡)

 石刀神社(寺社・史跡)

 上町屋古墳(寺社・史跡)

 西口社古墳(寺社・史跡)

 石刀神社古墳(寺社・史跡)

 大平遺跡(寺社・史跡)

 野見神社(宮後城跡)駐車場(駐車場)

 一宮市尾西歴史民俗資料館(関連施設)

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