苅安賀城(かりやすかじょう)
苅安賀城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 愛知県一宮市大和町苅安賀字火口止外
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 浅井政貞
築城年
- 永禄4年(1561)
主な改修者
- -
主な城主
- 浅井氏、森久三郎
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
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-
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苅安賀城の解説文
[引用元:Wikipedia「苅安賀城」の項目]苅安賀城(かりやすかじょう)は、現在の愛知県一宮市苅安賀にかつて存在した、戦国・安土桃山時代の平城である。東西42間、南北32間の規模で内外二重堀の構えであった。
【歴史】
永禄4(1561)年に、近江の浅井氏庶族の浅井新八郎(政高)により築城されたといわれている。
新八郎の死後、その子田宮丸長時(浅井長時)が後を嗣ぎ、本能寺の変で織田信忠が討死すると、織田家次男の織田信雄に仕え、家老の一人となった。
羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。天正12(1584)年、信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬と共に長島城に呼び出され、ここにおいて三家老共に討たれた。信雄は、長時を討った、森久三郎を城主とした。
小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康軍の城として、尾張西部において重要な役割を負ったといわれる。
【現在】
現在苅安賀自動車学校の南西に石碑があるのみ。城の形跡は全く無い。
【交通】
名鉄苅安賀駅北へ徒歩3分。[続きを見る]
苅安賀城の口コミ情報
2020年10月24日 【城郭道】美濃守タッキー
石碑[苅安賀城 碑・説明板]
苅安賀自動車学校の前に石碑が建っています。大きくて立派の一言。リア攻めした際に写真を撮った方が良いですね。
2011年08月03日 橘友通
苅安賀城
名鉄苅安賀駅から徒歩数分にある、苅安賀自動車学校前にて撮影