苅安賀城(かりやすかじょう)

苅安賀城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県一宮市大和町苅安賀字火口止外

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

浅井政貞

築城年

永禄4年(1561)

主な改修者

主な城主

浅井氏、森久三郎

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

中島城(愛知県一宮市)[2.0km]
一宮城(愛知県一宮市)[2.6km]
野府城(愛知県一宮市)[3.7km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[5.1km]
下津城(愛知県稲沢市)[5.5km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[5.6km]
黒田城(愛知県一宮市)[6.3km]
北島城(愛知県稲沢市)[6.8km]
下奈良城(愛知県一宮市)[7.4km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[8.0km]

苅安賀城の解説文

苅安賀城(かりやすかじょう)は、現在の愛知県一宮市苅安賀にかつて存在した、戦国・安土桃山時代の平城である。東西42間、南北32間の規模で内外二重堀の構えであった。

歴史
永禄4(1561)年に、近江の浅井氏庶族の浅井新八郎(政高)により築城されたといわれている。

新八郎の死後、その子田宮丸長時(浅井長時)が後を嗣ぎ、本能寺の変で織田信忠が討死すると、織田家次男の織田信雄に仕え、家老の一人となった。

羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。天正12(1584)年、信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬と共に長島城に呼び出され、ここにおいて三家老共に討たれた。信雄は、長時を討った、森久三郎を城主とした。
小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康軍の城として、尾張西部において重要な役割を負ったといわれる。

現在
現在苅安賀自動車学校の南西に石碑があるのみ。城の形跡は全く無い。

交通
名鉄苅安賀駅北へ徒歩3分。

苅安賀城の口コミ情報

2021年08月16日 主計助桜姫
苅安賀城



苅安賀駅の北東すぐ。自動車学校の端に石碑あり。城址が学校、公園はあれど、自動車学校とは(笑) 石碑の西に聾学校あり。もしや此処も城址?

2021年07月30日 【城郭道】尾張守たっきー
毛受城[苅安賀城  周辺城郭]



毛受(めんじょ)変電所あたりが毛受城跡と言われますが、毛受城がこの辺りという可能性も捨てきれません。

日光川が北にあるので天然の堀とした可能性がありますし、昭和10年代にはこの辺りから井戸の跡らしきものや大量の石が出てきたそうです。この辺りで発掘調査やってみるのが一番良いのかも知れません。現在は、住宅や畑に変貌し、見渡す限り、遺構はありません。余談ですが、毛受城と毛受勝照との関係はないそうです。

2021年07月30日 【城郭道】尾張守たっきー
毛受城(推定地)[苅安賀城  周辺城郭]



毛受(めんじょ)城之腰という住所のあるところにある毛受変電所あたりが城跡かと思われます。が、よくわかっていないそうです。
遺構はありません。城の面影は無理強いして水路ですかね。発掘調査などを通して発見する日が来ると良いですね。

2021年07月18日 猫耳『感謝感激雨霰』
天神の渡し跡[苅安賀城  寺社・史跡]



一宮市指定文化財 史跡 天神の渡し跡

天神の渡し跡は、かつての木曽川の主流であった現在の日光川の渡船場の跡で、「萩原渡し」とも呼ばれた。
日光川は、野府川と五城川(小信川)が合流し、古川、萩原川ともいわれた。
天正十九年(1591年)と推測される豊臣秀吉の四奉行連署「萩原船頭給継目証文」によると、この年六十石の船頭給が与えられていたことがしられる。その後、慶長の頃まで引き続き尾張藩によって六十石の給米が支給されていた。これは、天正十四年(1586年)の大洪水で、木曽川の主流が現在の位置を流れるようになった後も、萩原川の流れが広く沼地化して渡船を必要としたのであろう。その後洪水のたびに川幅が狭められて、渡しは廃止され、萩原宿の西に板橋の萩原橋が架けられた。
天神の渡しの位置は、日光川左岸の萩原山の天神社(一宮市萩原町萩原字松山)と、右岸のここ天神神社の辺りといわれており、両神社の社殿の間は、直線距離でおよそ480㍍あり、その頃の川幅の広さを物語る。

一宮市教育委員会  説明板より

2021年07月11日 猫耳『感謝感激雨霰』
天神の渡し跡[苅安賀城  寺社・史跡]



天神の渡し跡 (萩原宿方面)

今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。
当天神社と対岸にある(旧尾西市)天神神社との間にあったとされる。
この渡しの辺りは、萩原川とも云った。天正十四年(1586年)の大洪水以降、主要流路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣 加藤家文書中の天正十九年と推定される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」等によって知られよう。江戸時代終わり頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。

織田信長が初めて、斎藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として、美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
          一宮市教育委員会

石碑碑文より

2021年07月04日 猫耳『感謝感激雨霰』
名古屋城移築門(伝)[苅安賀城  遺構・復元物]



一宮市指定文化財 正福寺山門

この門は、名古屋城の門を移したものと伝聞される。
構造の華麗な一間一戸四脚門である、本柱は円くて禅宗式の門のような木製礎盤の上に建っている。脚柱は角の面取である。本柱を延ばして、四脚柱の上から渡される、繋虹梁のとりついた上は、径を細めている。脚柱には、頭貫を通して木鼻を出す。斗栱は三斗枠肘木。中備として板蟇股をおく。本柱間の頭貫には眉を入れ、その木鼻は丸彫の獏である。蹴放、方立を構え、藁座を用いて、連子入桟唐戸をつる。その上方では虹梁を通し、内部に牡丹の彫刻がある蟇股を入れ、空間を牡丹の丸彫の彫刻で満たす。柱頂に頭貫、台輪を通し、下の虹梁との間に大瓶束をおく。大斗実肘木で棟をうける。妻の腰貫と飛貫の間には吹寄菱格子を入れる。
破風の中央に猪目懸魚をつる。軒は二軒で吹寄(木垂)。屋根はいま桟瓦葺。

入念に意匠した建築で、十七世紀後半の遺構として貴重である。

一宮市教育委員会 説明板より

2021年05月29日 猫耳『感謝感激雨霰』
七つ石[苅安賀城  寺社・史跡]



市史跡 七つ石 (石碑文)

日本武尊が伊吹山征伐の途次、七つ石で剣を研がれたとの伝説から剣研石とも呼ばれる「尾張名所図会」(一八四一年)に「劍研石」の標題で大小十八個の岩石が描かれている、この岩石群は六〜七世紀代の古墳の横穴式石室の遺構であろう

昭和六十三年三月建立   一宮市観光協会

「戸塚」は、古くは「砥塚」とも表記されていたことから、「剣研石」が語源とも考えられいる。
又、この辺りは、中世には熱田神宮領とされ、字名の「東郷」と、西側の「西郷」の名は荘園の名残と思われる。

七つ石の岩石群が以前は、北東側の春日社という神社にあったという話もある。

2021年05月24日 猫耳『感謝感激雨霰』
毛受城(推定地)[苅安賀城  周辺城郭]



築城時期は不明。

苅安賀城主 浅井新八郎の弟、(もしくは家臣)浅井玄蕃の居城とされる。

城跡の場所はよく分かっていない。
「愛知県中世城館跡調査報告I(尾張地区)」では、毛受変電所のある字名「城之腰」一帯に築かれていたとされる。

2021年05月16日 猫耳『感謝感激雨霰』
移築門(名古屋城清水門)[苅安賀城  遺構・復元物]



一宮市の妙興寺山門は名古屋城三の丸清水門からの移築と伝わる。

尾張徳川家の筆頭家老であり、犬山城主であった成瀬家五代 隼人正正太が、八代藩主 徳川宗勝から、隣接する屋敷を拝領し両屋敷を一つにした為、使わなくなった門を寄進したという。

2021年05月15日 猫耳『感謝感激雨霰』
上泉伊勢守信綱居士修道跡[苅安賀城  碑・説明板]



室町時代末期の剣聖。新陰流開祖。足利十三代将軍 義輝より「天下一」の称号を賜る。
信綱は剣禅一致の精神を会得する為、妙興寺に滞在して修行に励んだ。
高弟に柳生宗巌、丸目蔵人等が有名である。

説明板より

2020年10月24日 【城郭道】尾張守たっきー
石碑[苅安賀城  碑・説明板]



苅安賀自動車学校の前に石碑が建っています。大きくて立派の一言。リア攻めした際に写真を撮った方が良いですね。

2011年08月03日 橘友通
苅安賀城

名鉄苅安賀駅から徒歩数分にある、苅安賀自動車学校前にて撮影

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