下津城(おりづじょう)
下津城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 愛知県稲沢市下津ふじ塚町他
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 室町時代中期
主な改修者
- -
主な城主
- 斯波氏、織田氏
廃城年
- 文明8年(1476)
遺構
- 土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
北島城(愛知県稲沢市)[4.3km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[4.8km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[4.9km]
清洲城(愛知県清須市)[5.0km]
中島城(愛知県一宮市)[5.1km]
一宮城(愛知県一宮市)[5.1km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[5.5km]
小折城(愛知県江南市)[7.0km]
下奈良城(愛知県一宮市)[7.1km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[7.2km]
下津城の解説文
[引用元:Wikipedia「下津城」の項目]下津城(おりづじょう)は尾張国中島郡下津(現在の愛知県稲沢市下津高戸町)にあった日本の城。種類は平城。「下津城址」の碑がある。一部土塁も残る。
【解説】
築城者の評細は不明であるが、応永7年(1400年)頃、尾張守護に補任された斯波義重が、下津城に尾張国の守護所を置いたといわれる。また永享4年(1432年)に第6代将軍・足利義教が富士遊覧の際に宿泊したといわれる。
応仁の乱が起こると、尾張国でも守護代織田氏が斯波氏の家督争いに介入して、二家に分裂して抗争を始めた。この時期に守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた「織田伊勢守家」当主の織田敏広が入城し、居城としたという。
文明8年(1476年)、敏広は守護代織田家の分家筋の「織田大和守家」当主の織田敏定と戦って敗れた。『和漢合符』によると、この際に下津城は焼失したという。その後、尾張守護所はその別郭であった清洲城へ移ることになった。また、下津城を追われた敏広は岩倉城を築いて居城としている。
【交通】
・JR東海東海道本線「稲沢駅」下車 徒歩15分[続きを見る]
下津城の口コミ情報
2021年01月04日 【城郭道】美濃守タッキー
陸田城[下津城 周辺城郭]
稲島城(中島城スポット)から東へ1キロから2キロいったところにある陸田城(くがたじょう)。現在、遺構はなく石碑があります。実際の城跡は200メートル東の白い建物があるところです。是非、リア攻めしてみてください。
2020年11月02日 【城郭道】美濃守タッキー
下津城
城跡と思われるところには石碑がありました。遺構に土塁と書いてありますが、土塁とは石碑が乗っている土手のことを言うのでしょうか。ちょっと我にはわからず…。
2020年08月19日 【城郭道】美濃守タッキー
重吉城[下津城 周辺城郭]
色々調べたところ小高いところは出丸の土塁であるとのことです。重吉城の古地図からすると石碑や土塁があるところは出丸だったところにあるようです。
丹陽中学校があるところは以前は土塁のように小高いところだったようです。
2020年04月30日 【城郭道】美濃守タッキー
重吉城[下津城 周辺城郭]
尾張守護の斯波氏の家臣三井高久の居城で後に、岩倉城主の織田信安の家臣尾藤源内重吉の居城となった。
現在は県道に看板があり、看板の矢印の先に小高い所があり、そこに石碑があります。小高い所が本丸と思われ、土塁らしきものもあります。重吉は地元の地名らしいです。
2018年04月29日 我流尾張守クール
下津城
旧鎌倉街道(県道155線)沿い、下津小学校の西側の一段高い畑の中に石碑が建てられています。街道沿い、一段高いということから城(守護所)があった場所かと思いを巡らすことが出来ます。残念ながら、土塁はわかりませんでした。
尾張国守護所があったことから、室町時代は稲沢が尾張の中心地だったようです。
地元では通称「国府宮神社」正式には「尾張大国霊神社」が在ることからもわかります。同神社の拝殿と楼門は重要文化財でもありますので、是非一緒にご覧下さい。
少なからず織田家にも通じる城跡です。