岩倉城(いわくらじょう)

岩倉城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県岩倉市下本町城址121

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

織田敏広

築城年

文明11年(1479)頃

主な改修者

主な城主

岩倉織田氏(織田伊勢守家)

廃城年

永禄2年(1559)

遺構

指定文化財

市史跡(岩倉城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

小牧山城(愛知県小牧市)[3.8km]
小折城(愛知県江南市)[3.8km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[4.2km]
溝口城(愛知県西春日井郡)[4.5km]
下津城(愛知県稲沢市)[4.8km]
下奈良城(愛知県一宮市)[5.9km]
清洲城(愛知県清須市)[7.2km]
一宮城(愛知県一宮市)[7.5km]
宮後城(愛知県江南市)[7.6km]
小田井城(愛知県清須市)[7.7km]

岩倉城の解説文



岩倉城(いわくらじょう)は、尾張国丹羽郡岩倉(現愛知県岩倉市下本町)にあった日本の城。岩倉市指定史跡[1]

概要 

文明11年(1479年)頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広(または織田信安の代とも)によって築城されたといわれる。

この城を拠点として「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)は尾張上四郡を支配し、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)に対し、武威を示して当時の尾張では清洲城と並び、重要な城であった。

弘治2年(1556年)、稲生の戦いで城主織田信安が、「織田弾正忠家」当主の織田信長の弟で末森城主織田信行(信勝)に味方したため、信長と対立した。その後、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信安の跡を継いだ嫡男信賢は敗れ、翌永禄2年(1559年)3月、岩倉城に篭城するも、信長に攻撃されて岩倉城は落城した。

また一説に、岩倉落城は永禄元年(1558年)とする説もある[2]

標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、南方の小田井城と相対していた[3]。現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑がある。後者の碑は安政7年(1860年)に建てられたもの。なお二重の堀で囲まれた城だったらしい。

構造 

発掘調査により、五条川の右岸において幅約10メートルと幅約23メートルの堀が各2条ずつ発見され、それぞれ外堀と内堀であると推定される[4]。さらに内堀に囲まれた区画からは3条の区画溝が存在し、東西約43メートルの区画があることが分かった。この場所には井戸や人工的な穴が多数発見され、土師器皿や質の高い中国製の陶磁器が多数出土したため、岩倉城の中心部であったことが推定される。また、焼土面も見つかり、織田信長に焼き討ちにされた痕跡と推定される。

五条川左岸からも3条の堀と出土品が発見されたので、左岸にも岩倉城の関連施設があったことが推定される。

地籍図の分析からは、南北約900メートル東西約400メートルの規模で武家屋敷や市町が存在した分かる。

アクセス 

  • 名古屋鉄道犬山線「岩倉駅」下車 徒歩15分

岩倉城の口コミ情報

2026年04月25日 猫耳尾張守メイド萌
石碑『岩倉城』[岩倉城  碑・説明板]



岩倉城跡
岩倉城は文明十一年(1479)頃、織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する、清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西 約91㍍、南北 約171㍍、標高 10㍍台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治三年(1557)織田伊勢守信安が末森城主 織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)浮野合戦で、敗れ翌二年三月に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は、安政七年(1860)に建られたものである。
岩倉市教育委員会
説明板より。

岩倉城(城跡)へのご案内
標高8〜10㍍の自然堤防上に立地する岩倉城は、文明の頃、織田敏広により築かれ、尾張上半国支配の拠点として約80年間栄えました。永禄二年(1559)に織田信長により攻められ、落城した岩倉城跡からは、城の規模などが推定ではあるが、一部解明されました。
昭和六十二年度から3年間にわたり、愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査がされ、6条の堀跡などが、古文書の記述とだいたい一致しました。しかし、調査面積は、城跡推定地からすれば、ほんの一部であり、今後に期待されるところであります。ただ、従来の通説を覆して、五条川東岸まで城跡が広がる遺構も検出され、強固な城であったことがわかりました。堀幅は20㍍を超え、深さも3㍍以上もある大規模な堀跡も確認されております。外堀や内堀からは、前述の発掘調査で椀や皿、中国製の青磁や白磁、貯蔵具の常滑焼の瓶や桶などが見つかっております。珍しいものでは、つげの櫛や下駄、茶道具、呪術関係資料として、獅子頭、人形、呪符木簡など、注目されるものも発掘されております。
古文書では、岩倉城攻めの記録で、「信長は二の丸まで押し詰めて‥」と記述されております。城郭の細部については、「北角より古川より水を引き入れ、堀割とし、西口大門には土塁のみ、本丸は宏大なり。平屋造りで、間口二十一間(約38㍍)、奥行十三間(約23㍍)の望楼二重にそびえた大屋根、三里先より望む」と注目すべき記述があります。信長は岩倉城を攻略し、その翌年に桶狭間で戦勝、小牧山城、安土へと天下統一へと進むことになります。
《いわくら塾 観光ボランティア事業》
掲示板に貼られた資料より。

岩倉図書館より歩いて見ると、石碑のある場所の高低差が感じるられました。

2026年04月24日 猫耳尾張守メイド萌
龍潭寺[岩倉城  寺社・史跡]



永正二年(1505)に、織田二郎三郎敏定が先祖 津田家の供養のために建立し、心光寺と号した。
開山は赤津(瀬戸市)の雲興寺五世永山本光和尚の弟子である、密傳文雪大和尚。
天文四年(1535)に、本堂などを焼失。
天正十四年(1586)に、岩倉城主 織田伊勢守平信安は、父の織田右馬介敏信の供養のために移転再興し、寺名も建雲山 龍潭寺に改名。
小牧合戦の際には、徳川家康が滞留し寄進も受けられた。

明治二十四年(1891)の濃尾地震により、伽藍が全て倒壊したが、久昌寺(江南市)より山門・古堂を譲り受け、移築されたという。

2022年10月頃に訪問。

2026年04月24日 猫耳尾張守メイド萌
岩倉城西内堀址[岩倉城  遺構・復元物]



岩倉城主郭(居館)の堀は東辺と西辺で確認され、東側外堀は幅 約12㍍で深さ 約3.5㍍、東側内堀は幅 約20㍍で深さ 約7㍍、西側外堀は幅 約10㍍で深さ 約2㍍、西側内堀は幅 約23㍍で深さ 約3㍍以上の規模を持つ箱堀であることが確認された。

愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第16号
五条川流域の河道変遷と岩倉の歴史景観
2015-05 69-88pより 一部抜粋。

住宅地に、僅かに細い水路が残るのみ。

2026年04月23日 猫耳尾張守メイド萌
織田伊勢守信安夫婦の墓[岩倉城  寺社・史跡]



織田伊勢守信安夫婦の墓
この墓碑は、かつて織田信安の子孫 津田新十郎氏の菩提寺、名古屋市東区松山町 含笑寺に建立されていた。
墓碑銘文は
(正面)松岳院殿大渓玉甫大居士
   秋悦院殿大雲妙慶大姉
(側面)天正十九年辛卯年十月廿四日
   寛永□□七月十六日
とある。
織田信安の法号や没年には異説があるが、含笑寺過去帳「尾張名勝地」「尾張徇行記」にも同文を掲げるので、この墓碑は信安夫婦のものにまちがいないものと思われる。
墓碑を建立したのは何代目かの津田新十郎であり、「士林泝洄」の記事から推定すれば、江戸初期のものであろうと思われる。
戦後墓所が平和公園に移されたのち消息が不明になっていたが、たまたまその存在が発見され、織田信安夫人・秋悦院ゆかりの誓願寺の理解を得て、墓碑を含笑寺から譲り受け昭和三十九年にここに移建された。
岩倉市教育委員会
説明板より。

誓願寺と白山大権現
誓願寺は元より鎮守の神様として白山大権現が祀られていた。しかし、江戸時代に焼失した縁あって、岐阜県白鳥町より社を譲り受けることとなり、白山大権現が再建される。
 平成二十五年十二月吉日  当山山主書之

武蔵坊弁慶
弁慶は平安時代の末期の僧兵で、元は比叡山に住し武術を好み、五条の橋の上で源義経と出会って以来、義経な家来となった。平泉に行く道中、義経を守り岐阜県白鳥町を通ったと伝えられる。白鳥町には弁慶像と白山神社があったが、この度白山大権現と共に誓願寺を御守り戴く、ご縁が出来譲り受ける。
 平成二十五年十二月吉日  当山山主書之

織田信安は、晩年は安土 摠見寺の住職となっている。(ウィキペディアより)

2026年04月23日 猫耳尾張守メイド萌
岩倉市図書館(岩倉市郷土資料室)[岩倉城  関連施設]



岩倉市郷土資料室
岩倉市郷土資料室は岩倉市図書館3階にあり、常設展示として岩倉の歴史に関する資料や、市内で使用されていた民俗資料等を展示しています。
開室時間は午前9時30分から午後5時までです。
岩倉市役所ホームページより。

無料の駐車場もあり、岩倉城まで歩いて行けます。

2026年01月30日 三原主殿頭重家
岩倉城



県道166号線の途中にあることから車で行くと気づきにくいうえに駐めるところが見つからないので徒歩で行くのがオススメ🏃

2025年03月28日 【城郭道】たっきー
織田伊勢守信安夫婦の墓[岩倉城  寺社・史跡]



愛知県岩倉市の織田信安とその妻の墓。岩倉城から歩いて行ける距離に位置する誓願寺に、織田信安とその妻の墓があります。

信安は、岩倉城の主。岩倉織田家の当主です。永禄元年(一五五八)の浮野の戦いで信長に敗れた翌年に岩倉城を攻め落とされ、行き方知らず。

墓は戦後に名古屋市からこの地へ移されました。誓願寺本堂の近くに建ちます。説明板も。

2025年02月02日 中務少輔RedKing
岩倉城



城址石碑や織田伊勢守石柱にお向かいの公衆便所も写真多数ですから周辺です。
リア攻め本丸跡は愛知県一般県道166号小牧岩倉一宮線の「下本町城址」の交差点約50m西にあります。
城の縄張り西辺が岩倉街道で名鉄犬山線とは岩倉駅前から並行して南下していて御城下の趣を残しています。現行の愛知県主要地方道25号春日井一宮線が「下本町下市場」交差点から西に折れて、線路を跨線橋で超えた駅裏に大きなスーパーがありますから目標になります。この交差点付近に城跡のステンレス製道標があり、ここから見ると本丸跡が高いのが良く分かります。
本丸跡から西も東も下っていますから周辺よりも小高くなっています。史跡地図にある「東堀址」「西堀址」「大手虎口址」は、一見未耕作畑のようで碑や説明板はありません。
縄張り東辺の五条川は有名な桜並木の名勝で、清洲城迄続きます。県道の橋は「城跡橋」と名を残しています。
尚、御城(ごじょう)印は近くの市役所か生涯学習センターです。

2024年11月02日 おさむ
岩倉城



御堂の雰囲気が素晴らしいです。近くに織田伊勢守信安のお墓があったり、巡りがいがあります。

2024年05月11日 尾張守たまきち
北島砦[岩倉城  周辺城郭]



遺構は確認出来ません。碑や解説板も無し。岩倉城址から「浮野の戦い」に思いを馳せながら散策しましたが、道程は平坦で、周りの工場が無ければ、眺望の良い砦。

2023年09月11日 zato尾張守だよ
岩倉城

現地は城跡と呼べるものは一切無かったです

2022年07月06日 尼崎城能登守一口城主
岩倉城



6月5日、名鉄岩倉駅近くのホテルを早朝に出立し岩倉城跡に向けて進軍。道中、山内一豊公生誕記念碑がある神明生田神社⛩に立ち寄りました。進軍を再開していくと岩倉城跡の石碑に辿り着きました。他にも<織田伊勢守城址>などの石碑がありました。神社や城址の説明板を読んでみると岩倉城は約80年間栄えたお城だったようで、信長により攻められ落城し、この際に岩倉城の家老だった一豊公の父の盛豊は戦死したとありました。一豊公は苦境から奮闘努力と千代さんのサポートの積み重ねで運命を切り開き、最後には土佐20万石のお殿様になったので改めて凄い武将だったのだなと感じました。

2022年04月29日 近江守スーさん
岩倉城



清洲城と並びたつ城だっただけあって、二重の堀に囲まれたかなり大きな城だったようです。「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の二つの碑が建っています。織田伊勢守」の碑は安政7年に建てられたとか。岩倉駅に帰る途中、山内一豊出生の地という碑がある神社に寄ってきました。

2022年04月03日 大膳大夫与助
岩倉城



名古屋鉄道犬山線岩倉駅で東口へ出て、右(南)方向へ約300m進み、高架をくぐったら直ぐ左折し、更に約300m行くと右手に岩倉城跡の石碑が見えます。説明板によれば本丸跡の織田伊勢守城址の碑は安政7年建立とのことです。

2022年03月28日 マタザ但馬守
岩倉城

春は桜がキレイな五条川の少し線路寄りにある。近くには山内一豊公の生誕の地の神社があるので、併せて行ってほしいところ。

2022年02月27日 猫耳尾張守メイド萌
岩倉市史跡公園(大地遺跡)[岩倉城  寺社・史跡]



愛知県指定史跡  大地遺跡
この公園は、木曽川が形成した、犬山扇状地の先端つにできた自然堤防上に位置する、愛知県指定史跡「大地遺跡」から発見された、弥生時代の竪穴住居を復元展示すると共に、岩倉市指定文化財の鳥居建民家を移築保存し、市民の歴史学習及び憩いの場として、完成しました。
説明板より抜粋。

竪穴住居、鳥居建民家共に、内部の見学が出来ます。
駐車場・トイレあり

2022年02月27日 猫耳尾張守メイド萌
北島砦[岩倉城  周辺城郭]



築城時期、築城主は不明。
永禄元年(1558)清洲 織田家と岩倉 織田家の争い「浮野の戦い」の際、岩倉方 織田家の砦として利用される。

岩倉市北島町、野寄町付近に御城山と呼ばれる場所があり、その周辺に築かれていたとされますが、現在は、工場敷地や農地となり遺構は残っていない。
写真の土山は、近年に盛られたと思われますが、一応気になったので。

2022年02月26日 猫耳尾張守メイド萌
八剱砦[岩倉城  周辺城郭]



天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、徳川家康、織田信雄方の砦として築かれ、織田信雄が居城としたと伝えられてが、詳細は不明。
城跡は、七面山古墳の北側辺りとされるが、住宅地や高速道路となり、遺構は残っていない。

七面山古墳
市域には、この七面山古墳の他に、本町新溝古墳・古本町古市場古墳・下本町城址古墳・天神塚古墳・曽根町居屋敷古墳・大山寺町前畑古墳・稲荷町神宮寺古墳・川井町ノンベ古墳・大山寺町西出古墳等がある。
このうち発掘調査がなされたのは、西出古墳一基のみで他の古墳や、この七面山古墳は未調査である。
しかし、出土品としてこの附近で、須恵器壺・杯などが確認されており、この出土品からみて六世紀頃に築造されたと推定されている。
本市の古墳は、いつの時代かに墳丘が取り壊されたものが多いなかで、ほぼ完全の墳丘を残している、この古墳は貴重なものである。
岩倉市教育委員会

古墳の墳丘が、見張り台などに利用された、可能性はあると思います。
すぐ近くに、井上城跡があるが小牧・長久手の戦いで砦として利用された記録がないので、この頃には城跡は跡形もなかったのかな。

2022年02月17日 猫耳尾張守メイド萌
甲屋敷古墳[岩倉城  寺社・史跡]



小牧市指定史跡
小木古墳群(古墳時代前期)に現存する、古墳のうち最も北に位置する古墳である。昭和初期の土取り工事により、墳丘の半分以上が削り取られたが、本来は高さ五㍍、直径三十㍍程の円墳であったと推定される。土取り工事中には多量の朱が、昭和四十九年の市史編さん事業の調査では、粘土槨(木棺を粘土で覆った埋葬施設)の一部が確認された。
なお、ここから出土した三角縁神獣鏡は、市の有形文化財に指定されており、現在、小牧市歴史館に展示されている。
     小牧市教育委員会

宇都宮神社の北側に位置して、甲屋敷古墳なので、この辺りに小木城があったかもしれないが、古墳周辺は宅地化されている為、城跡の痕跡は消滅していると思われる。

2022年02月17日 猫耳尾張守メイド萌
浄音寺古墳[岩倉城  寺社・史跡]



現在は寺の裏側の墓地の一部となっているが、高さ約七㍍、直径三十九㍍の規模をもつ古墳である。全体に変形が著しく現状では、円墳のように見えるが、本来は前方後円墳であった可能性が強い。出土遺物などの伝承はないが、隣接する県指定史跡 宇都宮神社古墳などと共に、小木古墳群を形成する中心的存在である。
     小牧教育委員会
説明板より

現在は、古代人の墓(古墳)の上に、現代人の墓がある。
浄音寺北側に参詣者用の駐車場あり。

2022年02月17日 猫耳尾張守メイド萌
小木城(織田宰相館)[岩倉城  周辺城郭]



築城時期は、永正年間(1504〜1521)織田宰相が居住したと伝えられている。
城跡は、宇都宮神社の北側辺りとされるが、詳細は不明。

宇都宮神社 由緒
創建は第十五代 応神天皇の御代と伝わる。元々は現在地より、西方一粁足らずの榊の地に菅生天神の名で鎮座していた。応永五年(1398)越前国二宮劔神社神官で、織田氏の祖とされる織田常昌が仕えていた、室町幕府管領 斯波義重の尾張国守護の兼務により、尾張に派遣され小木に来住、永享元年(1429)元日の夢想により下野国宇都宮の神を本社に勧請した。その後、平手義英が小木にいと移城の際に、神社を城の南東の現在地に遷した。天正年中灯明の火により、拝殿、廻廊、神饌所、神楽殿、神輿舎など、全て焼失したとされる。
宇都宮神社 由緒一部抜粋。

この辺りは、小木古墳群や織田井戸遺跡などあるが、城跡についての説明板は無い。

2021年09月02日 千鶴三河守
岩倉城



幹線道路沿いなので簡単に見つけることができます。この近くの『五条川さくら祭り』は多くの屋台が並んでたくさんの花見客で盛り上がります。

2021年02月11日 マイロ
岩倉城

県道沿い、気をつけなければ見落とします。周囲に車停めれるとこはありません。駐車場を探して県道より中に入りましたが、一通の狭い道が続いてお勧め出来ません。信長さん縁の、稲生の戦いを頭に入れてから来ると楽しいかもしれないです。今は桜で有名な五条川、当時は外堀に使われたのが地図から分かりました。

2021年01月13日 sigesige主税頭信繁
岩倉城

県道沿いに城碑、案内板が建てられていました。

2020年12月26日 【城郭道】たっきー
石碑『織田伊勢守城址』[岩倉城  碑・説明板]



岩倉城には2つ石碑があります。そのうち、階段を上がったところにあるのが『織田伊勢守城址』と刻まれた石碑です。この石碑はどうやら1860年(安政7年)に建てられたもののようです。
記念に撮影してみてください。

2012年04月12日 三河守コーキしゃん
岩倉城

石碑と説明板だけですが近くを流れる五条川はお花見スポットで1400本の桜がとても綺麗です

岩倉城の周辺スポット情報

 岩倉城西内堀址(遺構・復元物)

 石碑『岩倉城』(碑・説明板)

 石碑『織田伊勢守城址』(碑・説明板)

 小木城(織田宰相館)(周辺城郭)

 八剱砦(周辺城郭)

 北島砦(周辺城郭)

 神明生田神社(寺社・史跡)

 山内一豊誕生地碑(寺社・史跡)

 甲屋敷古墳(寺社・史跡)

 浄音寺古墳(寺社・史跡)

 宇都宮神社古墳(寺社・史跡)

 岩倉市史跡公園(大地遺跡)(寺社・史跡)

 織田伊勢守信安夫婦の墓(寺社・史跡)

 新溝神社(新溝古墳)(寺社・史跡)

 曽野遺跡(寺社・史跡)

 川井下田南遺跡(寺社・史跡)

 御山寺遺跡(寺社・史跡)

 権現山遺跡(寺社・史跡)

 薬師堂廃寺跡(寺社・史跡)

 三狐社(寺社・史跡)

 龍潭寺(寺社・史跡)

 岩倉市生涯学習センター(御城印)

 トイレ(トイレ)

 岩倉市図書館 岩倉市民プラザ駐車場(駐車場)

 岩倉市図書館(岩倉市郷土資料室)(関連施設)

 大河ドラマ『功名が辻』放映記念碑(その他)

 岩倉城大手虎口址(その他)

 岩倉城東内堀址(その他)

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