清洲城(きよすじょう)
清洲城の基本情報
通称・別名
- 清須城
所在地
- 愛知県清須市清洲古城、清州3他
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 型式不明[階層不明/1586年築/解体]、複合式望楼型[3重4階/1989年築/RC造模擬]
築城主
- 斯波義重
築城年
- 応永12年(1405)
主な改修者
- 織田信長、織田信雄
主な城主
- 斯波氏、織田氏、福島氏、徳川氏
廃城年
- 慶長15年(1610)
遺構
- 移築櫓(名古屋城)、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、石碑、説明板
周辺の城
-
小田井城(愛知県清須市)[3.1km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[3.7km]
北島城(愛知県稲沢市)[4.1km]
日比津城(愛知県名古屋市)[4.4km]
下津城(愛知県稲沢市)[5.0km]
松葉城(愛知県海部郡)[5.6km]
田幡城(愛知県名古屋市)[6.3km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[6.3km]
蜂須賀城(愛知県あま市)[6.7km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[7.2km]
清洲城の解説文
[引用元:Wikipedia「清洲城」の項目]
清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現愛知県清須市一場)にあった日本の城。尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。
歴史
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城された。または永和元年(1375年)[1]ともされる。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。
織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる[2]。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。
現在の清洲城
現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。
現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。創建当時の絵図が残っていないため、その規模も不明である。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して設計された。建造された天守は、桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる、装飾に富んだ姿となっている。
また、清洲城の天守または小天守の部材を転用または、移築したものとされる名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し重要文化財に指定されている。尾張旭市の良福寺山門は裏門を移築したものと言われ、市の文化財に指定されている。また、名古屋市の含笑寺と長久寺の山門も移築された門として伝わっている。清洲城の障壁画は一部が總見寺に移されて現存し、愛知県指定有形文化財(絵画)に指定されている。崇福寺にも清須城の鯱と伝わっているものがある。
平成23年に行われた周辺の発掘調査で平安時代の集落跡、清州城下町時代の跡、清須宿時代の遺構や遺物が発見された[3]。
なお、2010年1月に清須市の「清須越四百年事業」のPR役としてフィギュアスケート選手織田信成が清洲城の名誉城主に就任している(任期は1年間)[4]。
清洲城と天正大地震
昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査で、清洲城下に新旧2回の地震による液状化の痕跡が発見され、新期のものは濃尾地震、旧期のものは、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震による可能性が高いことが判明した。これにより、前述の天正14年(1586年)に信雄によって行われた清洲城の大改修は、天正地震が契機だった可能性が高いと考察された[5]。
清須と清洲
地域や城郭の名称として「キヨス」を表記する際「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合がある。どちらも正しく、同じ地域や城を示している。伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」として記載されているのが最古の記載としているが諸説ある(「清須市」も参照)。『信長公記』では「清洲」、『三河物語』では「清須」と記載されている。
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清洲城の口コミ情報
2024年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
朝日遺跡[清洲城 周辺城郭]
朝日遺跡は、弥生時代前期から古墳時代前期(紀元前六世紀〜紀元後四世紀頃)まで営まれた、全国でも有数の大規模集落です。この地方の生活・文化の中心として栄え、東西日本の弥生文化をつなぐ重要な役割を担っていました。これまでの調査によって、遺跡の範囲は東西1.4㎞、南北0.8㎞に及び、遺跡の面積は80〜100万㎡と推定されています。北東から南西にかけて流れる谷の南北の微高地に住居が営まれていました。居住域を取り囲むように、墓域がつくられました。特に東側と西側に大規模な墓域が広がっていました。
発掘調査では、環濠・逆茂木・乱杭からなる強固な防御施設が発見されたことをはじめ、埋納された銅鐸、玉作りの工房跡、最古のヤナ遺構など重要な発見が相次ぎました。
北側の村と南側の村の対立により、逆茂木や乱杭が作られたと考えられているが、北側の村の南側の斜面にしか無く、焼損などの争いの痕跡が見られない事から、水害対策として逆茂木や乱杭が作られたのではないかとも考えられています。
諸説ありますが、尾張国には邪馬台国の敵対国家の狗奴国があったとも考えられているので、北側の村を主郭として強固な防御施設が築かれだろうか?謎の多い時代なので、妄想が捗ります?
2024年10月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
検見塚(検見塚古墳)[清洲城 寺社・史跡]
愛知県指定史跡「検見塚」
検見塚は弥生時代の小貝塚であり、昭和初期に加藤務氏が報告して以来、その重要性が認識され、昭和四十三年に県史跡に指定された。その後の愛知県教育委員会と愛知県埋蔵文化財センターが実施した発掘調査により、検見塚は独立する遺跡ではなく、国史跡 貝殻山貝塚などとともに、東海地方屈指の弥生時代の集落遺跡である朝日遺跡の一角に所在する貝塚であることが判明した。また、周辺では埴輪片や周溝と思われる溝が検出されており、検見塚は、その東50㍍の地点で発見された円墳と同様に、古墳であった可能性も考えられている。
管理者 清須市教育委員会
直径 約10㍍、高さ 約2㍍。
検見塚は、名二環清洲JCT、国道22号線、国道302号線が複雑に入り組んだ中に、ひっそりと県史跡として残されています。道路建設の際に広範囲に発掘調査され、遺構・遺物が発見されていますが、アンダーパス、調整池等が建設され、遺構などの多くが失われています。
清洲JCT、構造が複雑でそれはそれで萌えますが…。
2024年09月09日 miyachiku加賀守
清洲城
外はとても暑かったですが、展示はエアコンがきいて涼しかったです。駅からは多少距離があるので、この季節(9月頭)は歩くと大変です。清州市のコミュニティバスもタイミングが合えばご利用ください。
2024年07月29日 くま
清洲城
紙芝居は必見です! 信長についてご存知の方もそうでない方も是非ご覧あれ。
2024年07月19日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
右大臣織田信長公古城跡碑[清洲城 碑・説明板]
清洲城墟碑
當室町氏之末羣雄割據四海鼎沸人民不聊生織田右府従一小□起謀經營天下□志業不終而麾下有豊太閤因其成規遂混ー東西□代繼之定叛亂遂致太平至今殆三百年薄海無風塵之警可謂無前大勲矣而右府實為之唱其功亦不小也盖覇主之功雖須人力其□業開基亦不可不籍地勢故右府之舉兵首據清洲平定國内威聲始震東伐西征□向有功遂遷於美濃徒於安土其業始大雄視天下以立後来混ー之基然則清洲之地比之蜀漢之□陽卒唐之大原誰謂不可也且□地之為名勝也亦尚矣神鳳鈔記清洲御厨古今六帖咏清洲四鶴及斯波氏以足利親族為本國守護始城於□扼東道□□既為重鎮□右府□之地其後豊家以三好秀次福島正則鎮之非親戚則勲□迄至昭代亦封□親大藩□居於□皆以其為要地也担地臨大川□被水害慶長末議移其褸閣門廡於名古屋更増築之金城煥然□四□□仰而□墟荒蕪僅存二松樹無過而問者矣驛長林某意甚憾之以為覇業開創之地不當如此謀欲建碑墟上以□示於世介人来請文於余□以為林氏之意欲審故存舊亦□□幽之舉其□不可拒乃□□誌詳書其由□以私見以為記□以銘曰
石碑碑文より。 □は風化により読めず。
石碑の建つ小高い丘部分が、天守台跡と言われていますので、駐車場から少し遠回りですが、立ち寄ることをオススメします。
写真は、2022年4月頃に撮影したもの。
2024年07月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
清洲公園[清洲城 関連施設]
清洲公園の概要
この公園は、「清洲村古城図」(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間)を包含する、約五千坪(16,500平方米)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正十一年開園されたものである。
清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長十四年(1609)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋へ遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同十五年より十八年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。
尾張の中心都市であった清洲は、文明十年(1478)以来百三十年に亘る華やかな歴史の幕を引いて名古屋に生まれ変わったのである。
当時の臼引歌が残っている。
「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」
やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址、約二百三十三坪(770平方米)の地のみは、尾張藩が清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。
明治十九年四月には、当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。
大正七年(1918)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地五千六百三十四坪(18,592平方米)を買収、大正九年県費補助事業として着工、同十年工事完了、同十一年開園した。公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は四万八千六百十九円であった。
園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井郡随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の雪見など風流の余情つきぬものがあった。
昭和十一年には、故竹田□太郎氏の寄贈により、二十六才 桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が建てられ、清洲のシンボルとなった。
その後、清洲公園の姿は、昭和三十八年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和四十七年に始まった清洲西部土地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和六十二年には、五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343平方㍍となっている。
平成九・十年の二ヵ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。
説明板より。 □は、金長。
織田信長公 桶狭間出陣乃歌
人間五十年 下天の内を くらぶれば
夢幻乃如しな里 ひとたび生を得て
滅せぬ者の 阿るべきか
愛知県知事 桑原幹根書
石碑碑文より。
織田信長公・濃姫之像・石碑・説明板等々色々あります。
2024年06月06日 芦屋能登守虎吉
清洲城
清須駅から徒歩で15分くらいかかりますが、五条川周辺に遺構や模擬天守があり、天守内に色々な展示もありました。
2024年04月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
貝殻山貝塚[清洲城 寺社・史跡]
貝殻山貝塚は、この地域で古くから知られた貝塚の一つです。昭和初期から30年代までに行われた発掘調査により、貝殻山貝塚は尾張地方最古の弥生遺跡として、また、西日本を中心とする前期弥生文化の東端の遺跡として、学会で注目されるようになりました。
昭和46(1971)年、貝殻山貝塚周辺で土地改良事業が行われることになり、愛知県と清洲町(現清須市)による発掘調査が行われました。この調査では、弥生時代前期から中期初め(紀元前6世紀〜紀元前4世紀)の良好な貝層、土器、石器、骨角器など豊富な遺物が出土しました。この成果を受け、昭和46(1971)年12月に、貝殻山貝塚周辺の10,169.4㎡が国の史跡に指定されました。
史跡指定地は公有地化され、昭和50(1975)年には、史跡地内に愛知県清洲貝殻山貝塚資料館(現史跡貝殻山貝塚交流館)が開館し、史跡公園として整備されました。
令和2(2020)年、発掘調査による新しい知見を加え、史跡の再整備が行われ「あいち朝日遺跡ミュージアム」が開館しました。
第1貝塚(貝殻山)
「貝殻山」と呼ばれてきた塚状の高まりで、カキ、ハマグリ、シジミからなる弥生時代前期の貝塚です。東海地方の弥生時代の成り立ちを知るうえで、重要な貝塚として注目されてきました。また、尾張地方の弥生時代初期の土器は、この貝塚を標識として、「貝殻山式土器」と呼ばれています。
第3貝塚
昭和46(1971)年度の発掘調査で、弥生時代前期(紀元前6世紀〜紀元前1世紀)、(紀元後1世紀〜紀元後3世紀)の貝層が確認されました。最初はシジミを主とする層が堆積し、その上にカキ、ハマグリを主とする貝層が堆積していました。また、この貝塚の北西部分では、弥生時代の人骨2体が発見されました。
3箇所の説明板より。
史跡貝殻山貝塚交流館は、入場無料です。
2024年04月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
福島屋敷(浅間神社)[清洲城 周辺城郭]
築城時期は不明。
文禄四年(1595)、福島正則が清洲城主となった頃に使用された屋敷とされるが、詳細は不明。
浅間神社の東側一帯に築かれていたとされるが、農地や住宅地となり遺構は残っていない。
地名に、一場福島と『福島』が残っている。
少し北側に、屋敷の地名があるのが気になるが…
浅間社
祭神 木花開耶姫命
由緒不詳。天文年間、北市場三町の氏子が造営の記録有。
富士浅間大社を祀る。五穀豊穣と村内安全を願って勧請されたと考えられる。
神徳 登山安全・五穀豊穣・家内繁栄
神社の由緒が書かれた案内板には、屋敷跡に関する記述は無かった。
2024年04月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
左門屋敷[清洲城 周辺城郭]
築城時期は不明。
慶長五~十二年(1600〜1607)に、清洲城主だった松平忠吉の重臣 伊奈左門の屋敷とされる。
本成寺の北西辺りが屋敷跡とされるが、宅地開発が進み、遺構は残っていない。
2024年04月14日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
清洲城堀跡(御園神明社)[清洲城 遺構・復元物]
御園神明社御由緒
社伝によれば垂仁天皇の十六年、倭姫命が天照大神の御霊を鎮め奉る適地を求めて、美濃の国 伊久良河宮より、この所に遷し奉り、三ヶ月斎き奉ったという。
それを中島宮と称し、その後、御園神明社となったと伝える。
近年の研究によれば中島宮は、元来、一宮市萩原町中島に所在したが、その後清洲の地に遷座し、御園神明社となったと考えられる。
御祭神は天照大神、天手力雄命、萬幡千々姫命を祀る。
摂社として倭姫命、国常立命、瓊瓊杵命を嘗て境内に祀られていたという御船を祀る。今この二社は本殿左右二座として祀られている。この他、境内には天宮、巴波天神、芭蕉天満宮、八幡宮、豊受社、白龍社、秋葉社を祀る。
織田信長は、小牧に拠点を移さんとして、まず御園神明社の分霊を小牧山下に祀った。
また、豊臣秀吉の妻 禰々の母、朝日殿は当社への崇敬厚く、天正十八年 社殿の造営寄進を行い、古面等を奉納した。
往古例祭は二月九日、御烏上神事を行ったと伝える。
現在は、十月第二日曜に例祭祭典を行う。
巴波天神ご由緒
往古、五條川の波の巴紋をなしし内より、管丞相(菅原道真公)の神影が浮かび出て、これを畏んで斎ったのが、当神社の始めという。
清洲城の在りし頃、五條川は、当神社東で東西二手に別れ城を囲んでおり、一方は神社の南に接し流れていた。
清洲城主 松平忠吉は、当神社に参詣し、連歌の会を催したという。
現在は、学問の神として広く崇敬されている。
説明板より。
境内の神橋が架かる場所が、清洲城の堀跡と言われています。
御園神明社辺りが、清洲城の北端で、清洲城の南側の松蔭神社跡に清洲城外堀土塁跡が少し残っているので、清洲城の大きさが想像出来るかも。
2024年04月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
監物屋敷[清洲城 周辺城郭]
慶長五年(1600年)松平忠吉が清洲城主になった際、清洲城北東に居を構えた重臣 小笠原監物の屋敷とされる。慶長十二年(1607年)松平忠吉が亡くなり、監物も殉死した。
今回、発掘調査された場所の西側隣接地辺りが、屋敷跡とされる。
2024年03月11日 シゲ越後守豊右衛門
清洲城
復原ですが、天守閣は立派!9時から5時までが営業となってますが、入場は午後4時までとなってます。駐車場は、広くて、無料です。
2023年11月14日 小太郎左衛門督南海道22國守
清洲城
駐車場は、清洲総合福祉センター南側の清洲公園駐車場が便利です。休憩所で、土産物も豊富においてある清洲ふるさとのやかたも充実しています。令和5年11月12日訪問。
2023年10月14日 とろすけ尾張守
清洲城
車も止めやすく、資料館としても楽しめ、川向の城趾も楽しめ、お土産も充実していました。
※天守より鯱鉾越しに、名古屋の摩天楼と新幹線を望む。
信長には何が見えたであろうか?
2023年06月01日 カツ式部卿
清洲城
小さいお城ではありましたが、見応えがありすぎて、本当にいいお城でした。
2023年05月03日 治部少輔おしろさん
清洲城
駅から徒歩でお城に向かいました。それほど遠くなく坂道もないので比較的楽に辿り着きました。ただ近辺に飲食店やコンビニ等がほとんどないので食事を取る予定の方は注意したほうがいいです。お城の前にカフェ併設のお土産屋さんがあるのでそこを利用しても良いと思います。
2023年03月12日 ミヤちゃん
清洲城
今日は当城時間が遅かった為に、天守閣と甲冑工房に行くのは断念しました。その代わりに、古城跡とかお散歩コース等の城だけに目が行きがちだが、そういうところも見られて良かった。一応御城印は頂きましたが、次回時間ある時に天守閣、甲冑工房、お散歩を一日がかりでやろう。
2023年02月12日 高猫蔵人頭黒政
土居(土塁)跡[清洲城 遺構・復元物]
清洲古城跡から少し離れたところにこの土塁はあります。この土塁は清洲城の外堀の土塁だったそうで、当時の清洲城の規模の大きさが分かります。しかし、残念なことに土塁はほとんど残っておらず、土塁だと証明するものは石碑だけです。
2022年11月26日 兵部卿さんちゃん
清洲城
無料駐車場は広くとめやすかった。旧清洲城址→清洲城→信長像の順でまわった
清洲城内は1F→3Fまで展示スペースになっていてかなり充実していて入場料300円はお得に感じる
2022年11月21日 竹中播磨守じゅん兵衛
清洲城
清洲城駐車場(無料)から派手なゲートくぐり抜けて直ぐ左手の古城跡に信長公を祀る社があります。ど派手な橋を渡り天守閣に向かいます。館内展示物の充実ぶりに感服、入館料300円はリーズナブルです。特に火縄銃解説コーナーはモデル銃を手にしながら映像を見聞すれば非常に分かりやすくて勉強になります。天守閣の近くを新幹線が走り去る写真撮れて満足です。
2022年10月18日 りくピグ
清洲城
天主閣はそれ程大きくはありませんが展示物はかなり充実しています。裏には無料駐車場があります。
2022年08月02日 はらだりょう
清洲城
日没後はトイレの殺虫ライトが「パシン!パシン!」ものすごい勢いで虫をやっつけてます。
2022年06月19日 【城郭道】たっきー
朝日遺跡[清洲城 周辺城郭]
朝日遺跡、愛知県清須市。
弥生時代前期から古墳時代前期(紀元前6世紀〜紀元後4世紀頃)までに営まれた全国有数の規模を誇る集落であり、東海地方最大の弥生集落です。
1970年代に道路建設に伴う大規模な発掘調査が始まりました。それまでそれぞれの遺跡が点在して存在したものと考えられてきましたが、まとまりのある一つの遺跡であるということが明らかになり、この辺りを『朝日遺跡』と呼称するように統一されました。範囲は南北0.8キロ、東西1.4キロで面積は80〜100万平方メートルと推定されています。
居住地を取り囲むように墓域がつくられ、特に東側と西側に大規模な墓域が広がっていました。
発掘調査では環濠、逆茂木、乱杭など後世のお城に通ずるような防御施設も発見されています。
2012年9月6日に朝日遺跡の主要な出土品2028点が国の重要文化財に指定されました。詳細をいうと、『土器・土製品』が727点。『木器・木製品』が253点。『石器・石製品』が650点。『ガラス小玉』が121点。『金属製品』が37点。『骨角牙貝製品』が240点です。東海地方を代表する弥生時代の大規模集落の出土品一括として、全国的にも貴重な資料となっています。
現在、遺跡には二つの資料館があります。また、復元された竪穴住居、高床倉庫、堀などもあります。
非常に見応えがある遺跡です。清洲城からも近く、駐車場もあるのでぜひ行ってみてください。
2022年05月04日 双六治部少輔葵
清洲城
復元天守だけど信長の基本が詰まった城。小牧・長久手の戦いのきっかけになり、天下人秀吉のきっかけを作った清洲会議の舞台となった戦国時代のハイライトが詰まった城に行けることが嬉しくてしょうがない清洲城。松本城と同じように黒色の城に赤い橋写真を撮る楽しみもある。行って良かった。
2022年03月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
清洲代官所移築玄関[清洲城 遺構・復元物]
清須代官所跡の説明板に書いてあるように、代官所の玄関部分が移築されて、現存しています。
現地に行った時に、ちょうどタイミング良く家人の方が、帰って来られたので、代官所玄関部分の写真を撮らせてもらいました。
長屋門の有る立派なお宅でしたが、後世に永く伝えてほしいと思いました。
※一般住宅なので注意して下さい。
2022年03月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
清洲代官所[清洲城 周辺城郭]
清須市名所案内板 清須代官所跡
清須代官の陣屋は、天明三年(1783)分地地内の四番割六六番地に設けられた。尾張徇行記によると、その面積七反余りとなっている。
古川(寛文以後は五条川)を隔てて、六角堂と接しており、村境に「役所橋」が架けられている。
この陣屋は、明治元年に廃せられたが建物の一部は、その後、酉三十五番地に移築され、現在 佐藤家が管理、使用している。
この辺りは、今でも「オジンヤ」とか、「ジンヤアト」と呼ばれている。
説明板より。
跡地は、田畑や宅地となり、当時の面影は無く、説明板が畑の片隅に立つのみです。
2022年03月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
萱津古戦場跡[清洲城 碑・説明板]
萱津古戦場跡 石碑表面碑文
いにしへの 萱津ヶ原に 名をとどむ
もののふども乃 夢のまた夢
石碑裏面碑文
天文二十年(1551年)八月十六日、当時主人筋の斯波氏を滅ぼして、清洲を占拠していた織田彦五郎信友と那古野城主 織田上総介信長との両軍が決戦を挑んだのが、此のあたりで双方五十余の死者を出した、その後二十余ヵ処の塚として、村民から手あつく祀られていたが、今度區劃整理を行なうにあたり事業完成を記念し、ここに一処に統合することとした。
昭和三十五年十月吉日建之 上萱津土地改良區
上萱津区 自主防災倉庫の西側に、ひっそりと石碑があるのみです。
2022年03月02日 RED副将軍
清洲城
偶には模擬天守を口コミ。
織田信長の居城であり、清洲会議の舞台として有名です。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1405年、尾張・遠江・越前守護の管領 斯波義重により、尾張守護所である下津城の別郭として築城。
1476年に守護代の織田氏の内紛により下津城が焼失。1478年に守護所が清洲城へ移転。織田氏の居城となり、尾張国の中心となっていきました。
織田信秀が本拠を古渡城に移転させると、織田信友が入城するも、1555年に織田信長とその叔父である織田信光によって信友が殺害。以降は信長が那古野城から移り、改修の上、小牧山城に移るまで約10年間拠点としました。桶狭間の戦いにもここから出陣しています。
1582年にの本能寺の変で信長が没すると、清洲城にて清洲会議が行われ、次男の織田信雄が相続することとなりました。
1586年に信雄によって2重の堀、大天守・小天守・書院などが建設されましたが、豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らったため、1595年には福島正則の居城となります。
1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍の後方拠点となり、戦後は徳川氏の支配となり清洲藩の本拠となりましたが、1610年に名古屋城築城のための資材として解体され廃城となりました。
見所
開発により遺構は消失し、本丸土塁の一部が残るのみ。
現在は清洲公園、清洲古城跡公園として整備され、信長公と濃姫の銅像が立っています。
1989年に町制100周年を記念して模擬天守が建設されています。
2022年02月07日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
正覚寺[清洲城 寺社・史跡]
大雄山 正覚寺(浄土宗)
関ヶ原の戦いの功で、清洲城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、亡母西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、前任地の忍(埼玉県行田市)にあった、大雄山 正覚寺を慶長八年(1603)に、ここ清須外町に移したのが当寺の始まり。
美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、忠吉母子の供養塔である宝篋印塔、仏足石、桶狭間の戦いで倒れた、今川義元に関わる今川塚供養碑、須ヶ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことが出来る。
説明板より抜粋。
今川塚供養碑
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取りました。『信長公記』によると、清洲城外の須ヶ口に義元塚(今川塚)を築いて、丁寧に弔ったとさています。
その後、寛文元年(1661)に正覚寺六代三誉上人と念仏講同行十四名の名前が刻まれた生前供養のための石碑を建立しました。
これが、今川塚供養碑と言い伝えられています。
美濃路沿いの須ヶ口の山内伊之彦氏所有地に建てられていたものを、平成十九年(2007)現在地に移設しました。
説明板より抜粋。
駐車場有り。
2021年11月13日 西倉木工助汝愚
清洲城
模擬天守前の駐車場は狭く一杯になりやすいので車で清州古城址公園の駐車場を目指すのが良いです まだ紅葉には早かったですが綺麗なお城でした
2021年10月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
浅野屋敷[清洲城 周辺城郭]
築城時期は不明。
浅野長政の養父、浅野長勝の屋敷とされる。
天正年間(1573〜1592年)、長勝は安井城を居城としたが、1561年 養女『ねね』は藤吉郎へ嫁ぎ、養女『やや』が安井長吉(浅野長政)を婿養子として、浅野家を継いで後、中島郡大里村(稲沢市)に屋敷を築いて移ったとされる。
長勝は秀吉と近い姻戚関係にあった事もあり、強い信頼を受け、1585年 五奉行の首座に列した。
その息子、幸長は関ヶ原の戦い後に、紀伊 和歌山城主となり、弟、長晟は大阪の陣後、安芸 広島 四十二万石の大名となったと言う。
屋敷跡は、長光寺の南側にあったとされ、民家の片隅に『浅野長勝邸址』の石碑が建っている。
屋敷地は、東海道本線の開通に伴い分断されたと言う。
2021年10月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
織田屋敷[清洲城 周辺城郭]
築城時期は不明。織田右馬允の屋敷とされる。織田家の一族で、郷土の日下部村200石を領して居住したと言う。屋敷跡は、白山社付近とされるが、住宅地や田畑となり遺構等は無い。
2021年10月17日 やしち右衛門督
清洲城
駐車場は無料ですが、17時で閉まるので注意です。城内は、歴代大河の信長や、家康時代の清洲返しの資料などが面白いですね。
2021年08月12日 カッツ左馬頭
清洲城
若き信長公の歴史を語る清洲城。大河ドラマで信長公を支えた衣装が多く陳列されているのは驚き?懐かしい。
2021年07月11日 こーき中務大輔
清洲城
清洲駅から約10分歩きましたが、暑かった〜。
城内は映像も多く理解が進みました。
駐車場近くのお土産屋は、他では手に入らないグッズ多し!
一見の価値ありです。
2021年07月05日 【城郭道】たっきー
右大臣織田信長公古城跡碑[清洲城 碑・説明板]
清洲古城跡公園には、弘化年間(1844〜48年)建立の『右大臣織田信長公古城址』碑と1862年(文久2年)に建てられた『清洲城墟(きよすじょうきょ)』碑の二つが現存している。また、信長を祀る社も建っている。
模擬天守から川を挟んだ方が本丸であるため、模擬天守だけではなく、こっちも寄った方が良い。
2021年05月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
増田長盛邸[清洲城 周辺城郭]
豊臣秀吉の五奉行の一人、増田長盛の邸宅があったと伝える、長盛は内政に堪能で検地奉行を務めた。
関ヶ原の戦いでは、西軍側の大坂城留守居役を務めた為、高野山に追放された。
その後、大坂夏の陣では、長男 盛次が大坂方についた為、徳川家康に切腹を命じられた。
説明板より
2021年02月27日 【城郭道】たっきー
模擬天守[清洲城 関連施設]
1989年、清須町制100周年を記念して、城跡の対岸に信雄時代を想定した三重の模擬天守が建てられた。 ディアゴスティーニ日本の城61巻より
2020年11月28日 曲輪衆三河守名古屋のリラン
清洲城
信長様が街をつくられました。今城はほとんど東海道線と東海道新幹線の線路になってますが、少しだけ残っています、模造天守清洲城から城を眺めるのも良いですよね
2020年11月23日 くっしー治部大輔尚人
清洲城
天守は模擬天守ですが、なかなか趣があります。石垣が復元され、断面がわかるようになっているので、説明看板とあわせると石垣の作り方がわかります。かつて城があった場所は公園になっており、信長・帰蝶像があります。また本丸跡には清洲ふるさとのやかたがあります。
駐車城がわかりにくいですが、清洲社会福祉協議会の隣にあります。史跡としてだけではなく、市民の憩いの場として整備されているのが素晴らしいと思います!
2020年11月01日 【城郭道】たっきー
石垣発掘復元[清洲城 遺構・復元物]
模擬天守から大手橋を渡ってすぐそこに復元石垣があります。この石垣は1610年ごろまで本丸南側に存在した石垣だったといわれ、1996年の発掘調査で発見し、場所を移して展示しました。
見落としがちなところですが清洲城の唯一の遺構として見ておいた方がいいと思います。
2020年11月01日 ばらく~だ
清洲城
門の両サイドの塀は、熱田神宮の信長塀を模したものだそうです。ちなみに、本物の信長塀は、今も熱田神宮に残っていますよ
2020年10月31日 【城郭道】たっきー
清洲ふるさとのやかた[清洲城 関連施設]
清洲城跡の石碑のすぐそこ。模擬天守の対岸にあります。中は無料で入ることができ、休憩したり、御城印などのお土産を購入することができます。清洲城攻城の際はここにくるといいかもしれません。
2020年09月21日 おっちぃ武蔵守
清洲城
外部に足場とシートがかかっているので、天守閣から外にでれませんでしたが、中の展示品は素晴らしかったです。清洲駅から歩くと、炎天下の中は結構大変でしたが、それでも行く価値あります。
2020年08月28日 きいろいとり
清洲城
昨日の時点で足場が組まれています、ご注意を❗️
2020年05月04日 【城郭道】たっきー
模擬天守[清洲城 関連施設]
清洲城模擬天守。1989年に町制100周年を記念してつくったとか。建造された天守は桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の白い姿の城とは異なる装飾に富んだ城となっている。
2020年03月20日 【城郭道】たっきー
清洲城
清洲城再建当初、実は正式には[ふれあい郷土館]だったそうです。どうやら町は県の補助金を受け、周辺地域の文化や産業の発信拠点のため計画を立てたそうで、郷土館もその一環で構想段階で戦国時代の一般的な城とするようになったそうです。しかし、信長のイメージが先行し、マスコミや住民から清洲城と呼ばれるようになり、その後、行政側もそう流れに便乗し、今では清洲城を正式名称にしているそうです。
2019年12月01日 ぱんだ左近衛少将ぱんぞう
清洲城
改装工事の為2019年11月25月曜日から2019年12月13日金曜日まで休みです。御城印頂きに行ったけどお休みでした。😣💦⤵️
2019年08月10日 左京大夫さとー
総見院[清洲城 寺社・史跡]
信長の本能寺で焼けた兜が見れます
2019年08月10日 左京大夫さとー
正覚寺[清洲城 寺社・史跡]
清洲城主 松平忠吉の母の菩提寺
2017年08月03日 織田上総介晃司
清洲城
駐車場は天主前と清洲古城北側にあります。
織田信長の居城、清洲会議と歴史の表舞台に現れていたが、名古屋城の築城により廃城。姿を消した。
復興天主は本来の場所に無く、五条川を挟んだ向かいにある。清洲古城跡が本来の場所になる。東海道本線と東海道新幹線により分断された。
清須市にはDr.スランプやドラゴンボールの作者、鳥山明さんの鳥山御殿があります。
2016年08月22日 あわなみ蔵人頭
清洲城
ボランティア(?)の人がよろいを着ていました。その人が1日何回か紙しばいをしてくれますよ。あと、パネルで記念撮影できますよー
2016年05月03日 まっち
清洲城
無料駐車場あり。
2015年09月18日 とめ
清洲城
ドラマの展示がやや多めの印象ですが、清洲城をとりまく歴史がムービーとしてまとめられている、新聞調でまとめられているなど面白いものも多くありました。特に新聞、じっくり読むと広告などの小ネタが良いです。
1部「展示物に触るとブザーがなります」といった注意書きがありましたが、曲がり角でカバンが展示枠内に入ってしまった場合や、パネルの文字を読もうとすこし近づいた場合にもブザーが鳴っていました。
パネルの文字は小さめかなと思いますので、読みたいと思った時にも近づきすぎないように注意が必要です。
2015年08月27日 伊豆守かんしゅけ
清洲城
清洲駅から20分ほど名古屋方面に行くと有ります。名古屋城みたいな観光バスがガンガン乗り付ける事もなく、ゆっくり静かに見学出来ます。
2014年10月12日 上総丹幹之介@大宰少弐
清洲城
月夜にライトアップされた天守は素敵でした。のぞみ420号の車窓より。
2013年11月23日 富士丸式部大輔孫兵衛
清洲城
清洲城武将隊 桜花組 ポスター向かって左から2番目の女のコ可愛い天守閣の入口でお出迎えしてくれてました(*^^*)
2011年09月09日 うさチ左衛門尉
清洲城
10月9日(日)朝9時から4時まで清洲城ふるさと祭りが開催されます火縄銃実演のある時代行列や、あいち戦国姫隊の演舞、商工会の楽市楽座や茶会などたくさんの催し物がありますよ皆さん見に来てね〜※荒天の場合は翌日に順延です詳しくは清須市観光協会まで
2011年03月08日 うさチ左衛門尉
清洲城
さらに追加情報清洲城は月曜日が休館日なのですが、大河ドラマ館開催期間中は無休になりますよぉ
2011年02月17日 うさチ左衛門尉
清洲城
清洲城で3月20日から11月30日まで、大河ドラマにタイアップした企画『江と三英傑・絆のやかた』がオープンします
大河ドラマ江のオリジナル映像や、ドラマの衣装、小道具の展示などドラマの魅力が一層わかる楽しい催しです
お城を見るついでに楽しめそうですよ
入場料は500円でお城共通入場券700円もあります
2010年11月26日 うさチ左衛門尉
清洲城
なんと清洲城は年間パスポートがあります(一年間千円です)清洲城は入城料が300円なんで、何度も行かれる方はお得ですよん購入する方はお城の窓口で聞いて下さいね←普通には表示してないので(笑)裏情報でした
2010年10月17日 摂津守天酒閣
清洲城
天守から名古屋城が見えました(^-^)/
2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
清洲城
[武将像]織田信長像・濃姫像
信長像は、清須城跡公園のJR線挟んだ南側に甲冑立像、復興天守内に騎馬像(岐阜城にある像のミニチュア)と、平服像が鎮座。
濃姫像は、復興天守背後の広場に鎮座。
清洲城の周辺スポット情報
石垣発掘復元(遺構・復元物)
信長塀(遺構・復元物)
土居(土塁)跡(遺構・復元物)
大手門(遺構・復元物)
搦手門(遺構・復元物)
日本庭園(遺構・復元物)
清洲代官所移築玄関(遺構・復元物)
清洲城堀跡(御園神明社)(遺構・復元物)
右大臣織田信長公古城跡碑(碑・説明板)
織田信長・濃姫像(碑・説明板)
石碑(碑・説明板)
萱津古戦場跡(碑・説明板)
清洲古城跡の碑(碑・説明板)
増田長盛邸(周辺城郭)
織田屋敷(周辺城郭)
浅野屋敷(周辺城郭)
朝日遺跡(周辺城郭)
清洲代官所(周辺城郭)
左門屋敷(周辺城郭)
福島屋敷(浅間神社)(周辺城郭)
助田屋敷(八剱社)(周辺城郭)
清須川護陣屋(周辺城郭)
監物屋敷(周辺城郭)
正覚寺(寺社・史跡)
総見院(寺社・史跡)
日吉神社(寺社・史跡)
廻間遺跡(寺社・史跡)
御園寺(寺社・史跡)
貝殻山貝塚(寺社・史跡)
織田信長公社(寺社・史跡)
新川開削本陣(寺社・史跡)
検見塚(検見塚古墳)(寺社・史跡)
公衆トイレ(トイレ)
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公衆トイレ(トイレ)
公衆トイレ(トイレ)
清洲城公園駐車場(駐車場)
清洲公園駐車場(駐車場)
清洲城駐車場(駐車場)
清洲城第二駐車場(駐車場)
清洲ふるさとのやかた(関連施設)
模擬天守(関連施設)
清洲公園(関連施設)
清洲古城跡公園(関連施設)
清洲文化広場(関連施設)
清洲城芸能文化館(関連施設)
清洲文化広場入口門(その他)
大手橋(その他)
かわ(その他)