蜂須賀城(はちすかじょう)

蜂須賀城の基本情報

通称・別名

蜂須賀城館

所在地

愛知県あま市蜂須賀北本郷

旧国名

尾張国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

蜂須賀氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

蜂須賀氏

廃城年

不明

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

勝幡城(愛知県稲沢市)[2.4km]
北島城(愛知県稲沢市)[3.8km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[5.2km]
松葉城(愛知県海部郡)[5.3km]
清洲城(愛知県清須市)[6.7km]
中島城(愛知県一宮市)[7.4km]
蟹江城(愛知県海部郡)[7.8km]
下津城(愛知県稲沢市)[8.2km]
大野城(愛知県愛西市)[8.4km]
日比津城(愛知県名古屋市)[8.5km]

蜂須賀城の解説文



蜂須賀城(はちすかじょう)は、尾張国海東郡蜂須賀村、現在の愛知県あま市蜂須賀にあった日本の城。

歴史 

尾張国の土豪である蜂須賀氏が鎌倉時代よりこの地に住んでいたとされるが、築城年は不明である[1]

戦国時代 (日本)戦国時代には、蜂須賀正利の長男である蜂須賀正勝(母は安井御前)がこの城で生まれ、幼少期を暮らした。しかし、織田信秀との対立により、土地を奪われてしまい、その後は同国丹羽郡宮後村(現在の江南市宮後町)の宮後城に移り住む。また、正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波国阿波徳島藩祖)の生誕地とする説もあるが、正勝と母・安井御前は宮後城に移り住んでいたため、宮後城で生まれたと考える説が有力である[2]

蜂須賀城址のすぐそばには、蜂須賀家の菩提寺である蓮華寺がある。

交通 

電車(公共交通機関)
  • 名鉄津島線 青塚駅より徒歩で約15分。

自動車
  • 東名阪自動車道「蟹江インターチェンジ」より愛知県道65号一宮蟹江線(西尾張中央道)を利用。

駐車場
  • 連華寺参拝者用の無料駐車場が利用できる。

参考文献 

  • 【書籍】「日本城郭大系 第9巻」

蜂須賀城の口コミ情報

2023年08月25日 cinnamon
蜂須賀城



静かな田んぼに囲まれた所にありました。特に何か遺構があるわけではありませんが、顕彰碑の周りは綺麗に整備されていました。

2023年02月09日 れいぶ尾張守りっく
蜂須賀城



蜂須賀城のあと名鉄勝幡駅に行ったら 新しく土田御前 信秀 信長の石像が有りました

2022年12月31日 あだち主計助
蜂須賀城



蓮華寺の一角に蜂須賀城址があります。広くて綺麗に整備されています。

2022年06月06日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
札掛の松[蜂須賀城  寺社・史跡]



この松は地元では札掛の松として、昔より人々に親しまれている。その由緒について「蜂須賀村由来記」(寛政六年:1794)という書物によれば、昔ここに誰とも知れず植え置かれた松があり、その枝に札が掛かっていた。その札に「これは谷汲山 華厳寺の境内にあった松で、訳あってここに植え置くものである。華厳寺は観音三十三所(西国三十三所)の結願地であり、この地(蜂須賀)は弘法大師開闢の霊地なる。それ故この松を観音の身木と思い、信じ怠ること無かれ」と書いてあったという。以来、人々は札掛の松を大切し、華厳寺の観音菩薩に参詣する心地で信心するに至った。ただ長い年月により枯れることもあったが、その度に蜂須賀地区の有志が、華厳寺より松の苗木を譲り受け、手をかけて来た。現在は四代目の松である。
あま市教育委員会
説明板より

蜂須賀城リア攻めの帰りに、立札があり気になったので立ち寄りましたが、草など刈られ大切にされていると感じました。

2022年06月06日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
蜂須賀小六正勝公舊宅趾[蜂須賀城  碑・説明板]



蓮華寺の駐車場前に設置された、周辺案内板の片隅にも書かれている、蜂須賀小六正勝公舊宅趾の石碑で、屋敷は石碑の南側辺りにあったとされているが、遺構などは残っていない。

蜂須賀城のリア攻めの際は、石碑のみですが。(この辺りも蜂須賀城の一部なのかな?)

2022年05月05日 スーさん
蜂須賀城



名鉄の青塚駅から歩いて10分くらいで、ほぼ一本道です。蓮華寺というお寺の山門の手前に大きな碑が立っています。近くに蜂須賀小六旧宅という碑もありました。

2022年03月06日 くっしー中務少輔尚人
蜂須賀城



蓮華寺の境内に隣接して蜂須賀正勝の顕彰碑が建っていました。
城跡としては何も残っていませんが、蜂須賀氏の菩提寺である蓮華寺の境内はなかなか趣があって良いですよ!!
駐車場も10台ぐらいは止められるます。

2022年01月19日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
晴明塚[蜂須賀城  碑・説明板]



昔 安倍晴明がここを通ったとき、田の中に雑草が多くて農民が苦しんでいるのを聞いて、その害を除くため祈祷した跡て言い伝えられる。

新居屋土地改良区  昭和五十九年四月
石碑裏面の碑文より

この時、地名も晴明に改めたとされる。

2022年01月19日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
小町塚[蜂須賀城  寺社・史跡]



小町東へ下るとき此処で死せしを埋葬せし跡なり、伝え今 法性寺に安置する小町の持念仏と称する観音像は此の塚より出しものと言う。
新居屋土地改良区 昭和五十九年四月
石碑裏面の碑文より

小町塚の案内看板西側に、用水路に降りる階段があり、その先に小町塚の石碑があります。

近くの、薬局の駐車場に車を止めて、晴明塚と共に、行くと良いと思います。
説明板等は、ありませんでしたが、真新しい花が飾られたており、大切にされていると思いました。

2022年01月19日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
麻積冨士社古墳[蜂須賀城  寺社・史跡]



冨士社の祭文殿裏の小山が墳丘と思われる。
墳丘の上に小さな社があり、墳丘の周囲には、周濠と思われる窪地があるが詳細は不明。円墳。
読みは、おうふふじしゃこふん。

2022年01月19日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
築山古墳[蜂須賀城  寺社・史跡]



冨士社の社殿が建っている所が、墳丘と思われる。
埴輪、土師器、須恵器、中国磁器、中世陶器が発見されたと言う。

稲沢市込野町元屋敷…。誰かしらの屋敷があったのかな?検索したが何も出ず…残念。

2022年01月19日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
二ツ寺神明社古墳[蜂須賀城  寺社・史跡]



あま市唯一の前方後円墳で、墳長 約80㍍、後円部径 約45㍍、前方部幅 約33㍍、前方部墳高 約3㍍、後円部墳高 約6㍍。
古墳時代前期の古墳とされる。

古墳の後円部上に鎮座する「高之宮神明社」は、福島正則が修復造営したと伝えられている。

2022年01月07日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
神守北部地域の遺跡群[蜂須賀城  碑・説明板]



あま市・愛西市・津島市という、名鉄電車沿線には、遠く弥生時代から古墳時代の遺跡(大昔の人が住んでいた跡)が多くみられ、市内でもこの地域には、寺野・牧野・宇治・大木・蛭間などの、遺跡が発見されている。
これは、大むかし木曽川をはじめとする、多くの川が運んだ土砂や自然の働きが、つくった「自然堤防」によって、農業に適した田畑ができ、そこに人々が住み着いた跡と考えられる。
 標柱の説明文より

この地域には、神守城があったとされているが、城跡の位置は特定されていない。
この辺りの、住所の西屋敷が、気になるが…。

城主は、桑山氏とされ、豊臣秀長の代官として紀州へ移り、廃城になったと思われる。

城跡の位置が、特定されてると良いのだが…。

2022年01月07日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
寺野遺跡[蜂須賀城  寺社・史跡]



昭和39・40の両年、およそ20ヘクタールにわたる、寺野町土地改良事業の際に、弥生中期以降、各時代にわたる夥しい土器の破片が出土した。中でも、弥生式土器で俗に、パレススタイルと呼ばれ、赤色塗料で華麗に飾られた土器の破片や、七世紀 白鳳時代の法隆寺式鋸歯文帯複辨蓮花鐙瓦が出土したことは、既にこの時代、ここに壮大な寺が建っていたことが知られる。
標柱の説明文より

2021年07月18日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
三位法印屋敷[蜂須賀城  周辺城郭]



貴船社と関白豊臣秀次

当社の創建については不詳。天正二十年(1592年)の棟札によれば、豊臣秀次の実父である三位法印(三好吉房)が息子の関白就任を祝し、さらに武運長久を祈願する為に、社殿を造立したとある。遷宮当日はおびただしい人が境内に押し寄せる前代未聞の事になったと、当時の様子が記される。
豊臣秀次は秀吉の甥であり、その出生地は、ここ乙之子とも伝わる。天正十九年、子の無い秀吉の養子となり、関白職を譲られた。もともと文化的素養が高く、文学者を庇護し、戦国の世で廃れた文化の復興に尽力した。
しかし秀吉に秀頼が生まれると次第に両者の関係は悪化、文禄四年(1595年)謀反の疑いありとして豊臣家を追放のうえ高野山で切腹を命じられ、二十七歳の若さでこの世を去った。
当時、秀次に関わる人物は文化人も含め多くが咎めを受け、さらに聚楽第はじめかつて居城した城までも破却された。ただ当社については、そのまま残され今に至る。

あま市教育委員会      説明板より

実際の屋敷跡は、貴船社の北側にあったとされるが、住宅地となり遺構等は確認出来ないが、乙之子屋敷と字名に痕跡が僅かに残る。

2021年05月16日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
福島正則公生誕地碑[蜂須賀城  碑・説明板]



美和町は戦国武将らの故郷である。賤ヶ岳七本槍の一番手で知られる福島正則も、永禄四年この地に生まれた。

屋敷跡は、碑の西方と言われている。

説明板より抜粋。

2021年05月15日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
福島正則公供養塔[蜂須賀城  碑・説明板]



瑞祥山 菊泉院

鎌倉時代の創建で、文禄元年より禅宗(曹洞宗)として開山された寺院。
郷土出身の戦国武将 福島正則公の菩提寺。
正則公が清須城主となった際、五十石の所領が寄進されるなど菩提寺として保護された。

説明板より抜粋

2021年05月05日 ▼☽▼猫耳萌え▼☾▼
西溝口城[蜂須賀城  周辺城郭]



溝口氏は、承久の乱(1221年)の際の戦功を認められ、美濃国山県郡大桑に領地賜り、以後そこに居住したが、逸見勝政が応永年間(1394〜1428年)溝口村に築城して移り、名を溝口氏に改めた。
後に織田氏に仕え、溝口村を支配するようになった。
勝政の長男 定勝は幼少の頃から丹羽長秀に仕え、天正九年(1581年)織田信長に、直臣として取り立てられ若狭国 高浜城5000石を与えられた。
西溝口城には奥田蔵人が入った。
天正十年(1582年)「本能寺の変」
天正十一年(1583年)「賤ヶ岳の戦い」後、加賀国 大聖寺城を与えられた。
天正十三年(1585年)長秀没後、秀吉の家臣となり、秀吉の秀を賜り定勝→秀勝に改名した。
慶長三年(1598年)越後国 新発田城6万石を与えられた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、上杉景勝の一揆鎮圧に努め戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となった。

溝口城の廃城時期は不明で、城跡は成願寺辺りとされ、規模は、東西約73㍍南北約47㍍の広さがあったとされるが、遺構等は無く、城址碑があるのみ。

2021年04月04日 左兵衛督かじくん
蜂須賀城



蜂須賀城跡石碑や蜂須賀小六顕彰碑、蜂須賀家菩提寺の蓮華寺等の見所があります。

2019年05月11日 しげぽん
蜂須賀城



城址近くにある、蜂須賀邸後。城址には駐車場があるので車でも安心して来れます

2015年10月10日 【鶴丸】兵部大輔葉侍
蜂須賀城

戦国武将ゆかりの御朱印を集めてる人は蓮華寺、菊泉院の御朱印おすすめです。
・蜂須賀正勝
顕彰碑、供養塔のある蜂須賀弘法と親しまれる蓮華寺、正勝に鉄錫杖が持ち去られた地蔵が本尊の法蔵寺。
・福島正則
生誕地跡、正顕彰碑、供養塔、正則の持念仏である毘沙門天像(解説もして頂けます、写真撮影も可)のある菊泉院、正則が修復造営した二ツ寺神明社

その他にも利家正室まつの生誕地と伝わる芳春院の里、秀次所縁の貴船社、歴史民俗資料館では正則、小六、秀次、溝口秀勝の資料が展示されています。

2012年05月06日 drary兵庫助
蜂須賀城

城跡碑は蓮華寺を入ってすぐ左にあります。

2011年08月04日 うさチ左衛門尉
蜂須賀城

蜂須賀城跡は、蓮華寺の敷地内にありますよ☆

蜂須賀城の周辺スポット情報

 福島正則公供養塔(碑・説明板)

 福島正則公生誕地碑(碑・説明板)

 神守北部地域の遺跡群(碑・説明板)

 晴明塚(碑・説明板)

 蜂須賀小六正勝公碑(碑・説明板)

 蓮華寺説明板(碑・説明板)

 蜂須賀小六正勝公舊宅趾(碑・説明板)

 蜂須賀正勝公・家政公 合同墓碑(碑・説明板)

 西溝口城(周辺城郭)

 三位法印屋敷(周辺城郭)

 蓮華寺(寺社・史跡)

 寺野遺跡(寺社・史跡)

 築山古墳(寺社・史跡)

 麻積冨士社古墳(寺社・史跡)

 二ツ寺神明社古墳(寺社・史跡)

 小町塚(寺社・史跡)

 札掛の松(寺社・史跡)

 神守一里塚(寺社・史跡)

 蓮華寺駐車場(駐車場)

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