日比津城(ひびつじょう)
日比津城の基本情報
通称・別名
- 乾屋敷城
所在地
- 愛知県名古屋市中村区日比津4
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 野尻氏
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 野尻氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(日比津城主御菩提所)
周辺の城
-
小田井城(愛知県清須市)[3.2km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[3.8km]
松葉城(愛知県海部郡)[4.2km]
清洲城(愛知県清須市)[4.4km]
田幡城(愛知県名古屋市)[4.7km]
荒子城(愛知県名古屋市)[5.0km]
古渡城(愛知県名古屋市)[5.1km]
前田城(愛知県名古屋市)[5.1km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[6.6km]
北島城(愛知県稲沢市)[7.7km]
日比津城の解説文
日比津城の口コミ情報
2024年09月01日 尾張守たまきち
紺屋屋敷[日比津城 周辺城郭]
吉岡次右衛門の屋敷跡。吉岡次右衛門は豊臣秀吉に召されて天満橋(大坂)に住み、染め物を家業とした。太閤朱印状の「五石こうや」とあるのが、この吉岡次右衛門という。
紺屋屋敷は常泉寺の北西にあったといわれ、現在はそれを示すようなものは何も無く、中村公園の敷地内に当たります。常泉寺は秀吉公の生誕地とされていると事から、「幼い頃に世話になった近所のオジサン」が、大出世した物語が妄想されます。
2024年09月01日 尾張守たまきち
長嘯子屋敷[日比津城 周辺城郭]
「長嘯子(ちょうしょうし)」は、豊臣秀吉の妻である北政所:ねねの甥にあたる木下勝俊が剃髪後に名乗った名前。ここは、その木下勝俊の屋敷跡。ねねの兄が勝俊の父∶木下家定。
木下勝俊は、秀吉に仕えて若狭国後瀬山城主となり、関ヶ原合戦では東軍に属して伏見城を守備していたが、西軍が来襲する直前に城を退去し、戦後所領を没収された。その後、勝俊は剃髪し長嘯子と名乗って京都東山に隠居。和歌の道を歩んだ。歌文に優れ、多くの著書を残し、歌集「挙白集」は名高い。
2024年08月31日 尾張守たまきち
豊臣太閤屋敷[日比津城 周辺城郭]
豊臣秀吉の出生の地とされている場所。秀吉は木下弥右衛門となか(大政所)との間に生まれ、弥右衛門没後、母は竹阿弥と再婚したというのが一般的な説。現在この場所にある常泉寺は、母が再婚した竹阿弥の屋敷地であったと考えられている。境内には秀吉像が建ち、太閤産湯の井戸がある。
2024年08月25日 尾張守たまきち
小出屋敷[日比津城 周辺城郭]
豊国神社のある中村公園の中に「小出秀政邸址」の石碑があります。1540年当地で生まれた小出秀政の屋敷とされ、秀政の妻は豊臣秀吉の母大政所の妹なので、秀吉の叔父にあたる。秀吉に仕えて和泉国岸和田3万石を領し、1598年秀吉没前、片桐且元と共に秀頼の補佐役を頼まれた経緯から、1600年「関ヶ原の戦い」では長男吉政と共に西軍に属した。次男秀家が東軍に属して活躍した為、所領は安堵されている。
2024年08月25日 尾張守たまきち
清正屋敷[日比津城 周辺城郭]
加藤清正公の屋敷跡で、現在は妙行寺があります。慶長15年(1610年)加藤清正は名古屋城築城のとき、余った木材を利用して、自分の誕生した地に妙行寺を再建した。境内には加藤清正誕生之碑とともに清正像が建っています。
2024年07月21日 尾張守たまきち
押切城[日比津城 周辺城郭]
鎌倉時代に大屋佐渡守により築城。室町時代後期の城主大屋秋重は今川氏に属しており、天文元年(1532年)織田信秀が那古屋城を攻略した際に落城して廃城。現在は白山神社と少将神社になっており、遺構は残っておらず、解説板や城跡碑などもありませんでした。神社前の道路は美濃路で、桶狭間合戦で勝利を収めた織田信長が凱旋したのもこの街道。
2024年07月14日 尾張守たまきち
栗山城[日比津城 周辺城郭]
日比津城主・野尻氏の家老である野尻藤松の居城。定徳寺の東側一帯が城域とされており、往時は二重堀で囲われていたとのことですが、現在遺構は残っていません。城跡碑や解説板などもありませんでした。
2024年07月07日 尾張守たまきち
大秋城[日比津城 周辺城郭]
大秋城は、那古野城主:今川氏豊の家臣である大秋十郎左衛門の居城として、天文・弘治年間(1532年〜1558年)に築かれたと考えられている。今川氏豊が没落すると大秋氏は林秀貞の与力となり、1556年(弘治2年)に織田信長が弟の織田信勝(信行)と戦った「稲生の戦い」において、米野城主・中川弥兵衛とともに織田信勝方に属して敗れている。その時に廃城になった。
信長公記に登場する「大脇城」を大秋城に比定する説もあるが、確証はない。現在は住宅地となり遺構はありませんが、大秋八幡社に城址碑が建てられています。
2024年06月08日 尾張守たまきち
稲葉地城[日比津城 周辺城郭]
現在の神明社の辺りに織田信光(津田豊後守)によって築かれた城。鳥居脇に石碑が建つのみで遺構はありません。解説板がありましたので、添付します。
2024年05月24日 尾張守たまきち
米野城[日比津城 周辺城郭]
米野城跡には、現在長松寺があります。織田信長の家臣:林佐渡守の与力であった中川弥兵衛の居城。中川弥兵衛は、1556年の織田家の家督争いである稲生合戦で、織田信行に味方して、信長軍の清洲-那古野間の連絡路を断ち、清洲へ送られる物資を奪う役目をしていた。この戦いで信行勢が敗れ、米野城は取り壊された。現在は住宅地となり、遺構は無く、碑や解説板もありませんでした。
2024年05月24日 尾張守たまきち
祖父江屋敷[日比津城 周辺城郭]
祖父江隼人の屋敷。1501年 祖父江隼人の願いで、米野村に在った善光寺をこの地に移築し、普広寺と称した。寛永年間(1624~1644年)に善行寺に改称。場所は善行寺の南辺りとされ、住宅に変わり、遺構は無い。碑や解説板もありませんでした。
2024年05月18日 尾張守たまきち
隠斉屋敷[日比津城 周辺城郭]
秀吉の妹である旭姫を正室に迎えていた副田与左衛門吉成の隠居屋敷。小牧長久手の合戦の後、秀吉は徳川家康を懐柔させる為、言わば人質として旭姫を徳川家康に嫁がせる。このために吉成は強制的に離縁させられ、その代償として五万石の加増を示されたが、吉成は加増を断固として拒否して出家し、隠斉と号して住んだのがこの屋敷。隠斉屋敷の位置は定かではないが、副田家由来の寺院である禅養寺の北西側のあったと推測されています。現在も、子孫であると思われる副田姓の大きな屋敷が数軒ありました。
2024年05月18日 尾張守たまきち
鳥森城[日比津城 周辺城郭]
杉原伯耆守長房の居城。 杉原長房は秀吉の正室寧々(高台院)の叔父にあたる杉原家次の嫡男。1584年長房は家督を継ぎ、秀吉に仕えた。朝鮮出兵の際、名護屋城に在陣し、1598年但馬国豊岡へ移住。関ヶ原の戦いでは西軍に与したが、妻が浅野長政の娘で縁戚関係にあったことから、許されて但馬国豊岡藩を立藩した。現在は住宅地に変わり、遺構はありませんでした。碑や解説板などもありません。
2022年07月06日 尼崎城駿河守一口城主
日比津城
6月5日、季節の御朱印巡りをしている豊国神社参拝後に徒歩にて進軍。日比津城リア攻めの為、いつもと違う方角に向かいましたが進軍後すぐに秀吉公誕生の地と伝えられる常泉寺があったのでこちらのお寺にもお参りしてきました。
Gマップを見ながら進軍を再開すると住宅街の中にある鏡知山大圓寺というお寺に辿り着きました。境内に入ると日比津城主野尻氏のものと伝えられる墓塔がありました。説明板によれば名古屋市で最も古い石塔紀年銘であるとありました。
2022年06月17日 刑部卿スーさん
日比津城
地下鉄本陣駅から14分くらいあるきました。住宅街の中にあり、城の遺構はなく、碑も説明板とありません。大円寺という寺が城主野尻氏の菩提寺です。本堂の前に立っている石塔が野尻氏の墓塔と伝わっているようです。
2022年06月13日 在来線男右京進
日比津城
細い道が多く、車で行くのは難しいです。ゆっくり歩いた方がいいです。
2022年02月09日 まーだーⅡ美濃守信短
日比津城
もしかしたら狭すぎかも?自分は中村高校を道なりに北に行き彷徨いました 笑
道なりに北に進み3本目ぐらいを南に行く道が神社から来た突き当たりの所に出ると思います♪そちらからの方が道は広いです(°▽°)
2022年02月09日 まーだーⅡ美濃守信短
日比津城
地元民でも分かりません( ̄∇ ̄)同じ町内の人しか分からないのでは?車なら県立中村高校正門を北へ諏訪神社との狭い辻を東へクランクを抜けて行くと突き当たりになります。そこを右に行きまたすぐ左に行くと無料駐車場に出ます。車を降りて東へ 突き当たりを右に行って直ぐ左に進むと大円寺です( ̄▽ ̄)うーむ 分かりましたか?(°▽°)
2021年05月23日 メイシャン図書助
紺屋屋敷[日比津城 周辺城郭]
リア攻めマップを見て行ったが、跡らしきものや石碑も無かった。
2021年05月11日 曲輪衆三河守名古屋のリラン
日比津城
中村公園北口から歩くこと10分大円寺になってます。道が迷路みたいでした
2021年05月09日 メイシャン図書助
祖父江屋敷[日比津城 周辺城郭]
祖父江屋敷は、祖父江隼人という人の屋敷跡です。
現在の善行寺の南側にあったそうです。
2021年05月09日 メイシャン図書助
大秋城[日比津城 周辺城郭]
城跡は住宅地となり遺構はありません。
大秋八幡社に碑があります。
2021年03月07日 しげしげ主税頭信繁
日比津城
大円寺が城址の様です。
周辺は道が狭く、一方通行が多いので注意が必要です。
2020年12月04日 尾張伊東家@和祐
米野城[日比津城 周辺城郭]
米野城跡付近
城主は中川弥兵衛もしくは中川弥左衛門。
城の規模は東西86m南北104m。信長公記の中で織田信行と信長の弘治ニ年(1556年)の稲生の戦い前に米野の城と大脇の城が信長に敵対することが書かれているが信長700に対して信行1700の戦いに柴田勝家を含む信行側は敗れ米野城は廃城となる。現在の長松寺付近が城跡ではないかと言われています。
2020年04月29日 島津左馬允義弘
日比津城
遺構:なし
駐車場:大円寺駐車場(無料)
その他:大円寺内に日比津城主・野尻氏の墓塔あり
写真:①日比津城主・野尻氏の墓塔
2012年05月07日 くろちゃん右大臣
日比津城
大円寺が城址か? 南へ競輪場 その横は秀吉清正 記念館
豊国神社 妙行寺 常泉寺 五月二十日には近隣を巡るガイドツアーがあります。
湯吉郎の湯もおすすめ
(とうきちろう)
2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
日比津城
[武将像]秀吉・清正像
尾張中村は、豊臣秀吉の生誕地。
近隣の中村公園付近に、秀吉像や加藤清正像、日吉丸と仲間達像が点在。
現在、大円寺一帯となっている場所が城跡とされる。だが大円寺の入口に「日比津城主御菩提所」の碑が立っているのみで、遺構などは特に残っていない。