日比津城(ひびつじょう)
日比津城の基本情報
通称・別名
- 乾屋敷城
所在地
- 愛知県名古屋市中村区日比津4
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 野尻氏
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 野尻氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(日比津城主御菩提所)
周辺の城
-
小田井城(愛知県清須市)[3.2km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[3.8km]
松葉城(愛知県海部郡)[4.2km]
清洲城(愛知県清須市)[4.4km]
田幡城(愛知県名古屋市)[4.7km]
荒子城(愛知県名古屋市)[5.0km]
古渡城(愛知県名古屋市)[5.1km]
前田城(愛知県名古屋市)[5.1km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[6.6km]
北島城(愛知県稲沢市)[7.7km]
日比津城の解説文
日比津城の口コミ情報
2022年07月06日 尼崎城大膳大夫一口城主
日比津城
6月5日、季節の御朱印巡りをしている豊国神社参拝後に徒歩にて進軍。日比津城リア攻めの為、いつもと違う方角に向かいましたが進軍後すぐに秀吉公誕生の地と伝えられる常泉寺があったのでこちらのお寺にもお参りしてきました。
Gマップを見ながら進軍を再開すると住宅街の中にある鏡知山大圓寺というお寺に辿り着きました。境内に入ると日比津城主野尻氏のものと伝えられる墓塔がありました。説明板によれば名古屋市で最も古い石塔紀年銘であるとありました。
2022年06月17日 スーさん
日比津城
地下鉄本陣駅から14分くらいあるきました。住宅街の中にあり、城の遺構はなく、碑も説明板とありません。大円寺という寺が城主野尻氏の菩提寺です。本堂の前に立っている石塔が野尻氏の墓塔と伝わっているようです。
2022年06月13日 在来線男右京進
日比津城
細い道が多く、車で行くのは難しいです。ゆっくり歩いた方がいいです。
2022年02月09日 まーだーⅡ美濃守信短
日比津城
もしかしたら狭すぎかも?自分は中村高校を道なりに北に行き彷徨いました 笑
道なりに北に進み3本目ぐらいを南に行く道が神社から来た突き当たりの所に出ると思います♪そちらからの方が道は広いです(°▽°)
2022年02月09日 まーだーⅡ美濃守信短
日比津城
地元民でも分かりません( ̄∇ ̄)同じ町内の人しか分からないのでは?車なら県立中村高校正門を北へ諏訪神社との狭い辻を東へクランクを抜けて行くと突き当たりになります。そこを右に行きまたすぐ左に行くと無料駐車場に出ます。車を降りて東へ 突き当たりを右に行って直ぐ左に進むと大円寺です( ̄▽ ̄)うーむ 分かりましたか?(°▽°)
2021年05月23日 メイシャン木工助
紺屋屋敷[日比津城 周辺城郭]
リア攻めマップを見て行ったが、跡らしきものや石碑も無かった。
2021年05月11日 曲輪衆尾張守名古屋のリラン
日比津城
中村公園北口から歩くこと10分大円寺になってます。道が迷路みたいでした
2021年05月09日 メイシャン木工助
祖父江屋敷[日比津城 周辺城郭]
祖父江屋敷は、祖父江隼人という人の屋敷跡です。
現在の善行寺の南側にあったそうです。
2021年05月09日 メイシャン木工助
大秋城[日比津城 周辺城郭]
城跡は住宅地となり遺構はありません。
大秋八幡社に碑があります。
2021年03月07日 しげしげ主税頭信繁
日比津城
大円寺が城址の様です。
周辺は道が狭く、一方通行が多いので注意が必要です。
2020年12月04日 尾張伊東家@和祐
米野城[日比津城 周辺城郭]
米野城跡付近
城主は中川弥兵衛もしくは中川弥左衛門。
城の規模は東西86m南北104m。信長公記の中で織田信行と信長の弘治ニ年(1556年)の稲生の戦い前に米野の城と大脇の城が信長に敵対することが書かれているが信長700に対して信行1700の戦いに柴田勝家を含む信行側は敗れ米野城は廃城となる。現在の長松寺付近が城跡ではないかと言われています。
2020年04月29日 ㊉島津左馬允義弘㊉
日比津城
遺構:なし
駐車場:大円寺駐車場(無料)
その他:大円寺内に日比津城主・野尻氏の墓塔あり
写真:①日比津城主・野尻氏の墓塔
2012年05月07日 くろちゃん内大臣
日比津城
大円寺が城址か? 南へ競輪場 その横は秀吉清正 記念館
豊国神社 妙行寺 常泉寺 五月二十日には近隣を巡るガイドツアーがあります。
湯吉郎の湯もおすすめ
(とうきちろう)
2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
日比津城
[武将像]秀吉・清正像
尾張中村は、豊臣秀吉の生誕地。
近隣の中村公園付近に、秀吉像や加藤清正像、日吉丸と仲間達像が点在。
現在、大円寺一帯となっている場所が城跡とされる。だが大円寺の入口に「日比津城主御菩提所」の碑が立っているのみで、遺構などは特に残っていない。