名古屋城(なごやじょう)

名古屋城の基本情報

通称・別名

金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城、(那古野城)

所在地

愛知県名古屋市中区本丸1-1

旧国名

尾張国

分類・構造

梯郭式平城

天守構造

連結式層塔型[5重5階地下1階/1612年築/焼失(空襲)]、連結式層塔型[5重5階地下1階/1959年再/鉄骨SRC造外観復元]

築城主

徳川家康

築城年

慶長14年(1609)

主な改修者

主な城主

徳川氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、櫓3棟、門3棟、庭園、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

国特別史跡(名古屋城跡)、国重要文化財(櫓3棟、門3棟)

再建造物

復元天守、石碑、説明板

周辺の城

田幡城(愛知県名古屋市)[1.4km]
小田井城(愛知県清須市)[3.3km]
古渡城(愛知県名古屋市)[3.7km]
日比津城(愛知県名古屋市)[3.8km]
守山城(愛知県名古屋市)[4.8km]

名古屋城の解説文

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

概要
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野(なごや)城の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

姫路城熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。

大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

歴史・沿革
戦国時代
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。

信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。

江戸時代
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。

普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年までに大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。
1634年には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。...

名古屋城の口コミ情報

織田修理大夫糀【関ヶ原鑑賞】様[2017年08月03日]
天守へ最短距離で行ける駐車場は正門前駐車場になります。

空堀越しの天守に目が行きがちですが、西南隅櫓・東南隅櫓と表二之門の重要文化財も見所です。

本丸御殿は2018年完成予定で、そうなるも本丸は大天守・小天守・本丸御殿と壮麗な姿を見ることができます。

城内の食堂で名古屋名物きしめんを食べましたが、名古屋駅新幹線ホームのきしめんが美味しいらしく、きしめんを食べるためだけに名古屋駅に行く方もいるそうです。

我流尾張守クール様[2017年06月04日]
【清正の枕石】
篠島(知多郡南知多町)に所在しています。
5.2×2.0×1.8の大きさで数年前まで運び出す為の枕が挟まっていたそうです。
篠島は良質な花崗岩があり、島には石切場が点在しており、矢穴石も散見されるそうです。運び出せずに残念がった清正公が当石の上で寝そべったとか、いないとか…
名古屋城の石垣採石場は他に小牧市岩崎、瀬戸市赤津等々。篠島から運び出される石は熱田や桑名で引き揚げられ、石曳きされたそうです。篠島は三河、志摩、伊勢と属国が変遷していて、名古屋城築城の際(1610年)は尾張国でした。当時は20,000人もの人夫が島にいたそうです。
伊勢神宮と深い関わりがある島で、お伊勢詣りは篠島来島で完結とも云われ、叶わない人は夫婦岩(志摩)の間(篠島の方角)を拝んだそうです。
現地へは港から徒歩で30分程度、篠島小学校の敷地内を抜けて行きます。
篠島余談~①トイレは前浜ビーチに有ります。
②1979年には吉田拓郎さんのコンサートが開催されました。
《2017年6月3日 非公認第2回名城会の18名でリア攻め》

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年06月04日]
先日、1~4日まで西南隅櫓の特別公開がされると口コミの投稿をしましたが、西北隅櫓の間違いでした。申し訳ありません。
口コミではありますが、お詫び申し上げます。


我流尾張守クール様[2017年05月28日]
名古屋城へのアクセス

メーグルバスが便利です。
名古屋駅JPタワーバスターミナル11番乗場から出発です。
車内アナウンスも良いです♪
ドニチエコキップでも大丈夫、乗り替え無しで地下鉄より早いですよ( v^-゜)♪

我流尾張守クール様[2017年05月28日]
名古屋城からの移築建造物その弐

■移築門 妙興寺~一宮市大和町妙興寺2438
三間薬医門→総門として移築、成瀬家の門とも言われています。この中では一番大きいです。妙興寺は尾張の正倉院とも言われていて、新陰流上泉信綱の無刀取り発祥の地。一見の価値あります。

■車寄 個人宅~名古屋市西区児玉3丁目
志水甲斐守屋敷車寄→門に改造。中には入れません。近くに丹羽長秀の生誕地あります。

もっと多くあるかもしれませんが実見した限りです。
情報提供してくれた武蔵国オナショーの先輩城友さんに謝意を表します。

我流尾張守クール様[2017年05月28日]
名古屋城からの移築建造物その壱

■移築門 泰岳寺~春日井市上条町10-198
清水御門→赤い門です。

■移築門 八事山興正寺~名古屋市昭和区八事本町78
本丸大手馬出門→地下鉄八事駅1番出口から直ぐ。東門として移築、傷みが激しい。

■藩校 永照寺~羽島市福寿平方1372
尾張藩校明倫堂→お寺の本堂です。

■茶屋 個人宅~弥富市前ヶ須町
竹長押茶屋→中には入れません。

■移築門 正福寺~一宮市大和町苅安賀字西北出3017
山門→彫り物が誂えてあります。

■移築門 園乗寺~北名古屋市石橋大日99
山門→何処かの裏門。文化財として指定されない為に手入れはされるものの、原型を留めていないようです。

中務少輔おね様[2017年05月28日]
宵まつりのお得な情報です。

名古屋城では毎年8月上旬から中旬の10日間、名古屋城宵まつりが開催され、西の丸での大盆踊りやアイドルから伝統芸能まで日替わりのイベントが行われます。

この宵祭りの入場の際、浴衣を着ていくと入城料が100円オフになります。
更に甚兵衛でも100円オフです。

天守閣からの名古屋の夜景も楽しめますが、この冬には天守閣へ登城ができなくなるようなので、この夜景も暫く見れなくなりそうです。

小粋な浴衣姿、或いは涼しい甚兵衛で、夏の夜の名古屋城を楽しむのも良いのではないでしょうか。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月28日]
本日で口コミキャンペーンも終わりますが、毎日名古屋城のことを投稿してきました。最後に来場者数について口コミします。


近年は、お城ブームになり名古屋城も全国のお城の中ではいつもトップ10には入っております。

特に今では当たり前のようになった武将隊も平成21年に結成された名古屋おもてなし武将隊が最初であり、来場者のリピーターに大きく貢献していると思います。

過去2年間の来場者数は、平成27年174万人、平成28年192万人となっていますが、中々トップになれません。

しかし、これまで一度だけトップになったことがあります。

平成17年に198万人が来場されました。その時は愛知万博も開催しており、何と金シャチが地上に降りた年でもありました。

河村名古屋市長は、名古屋城を木造化にすることで、最初の2年間は450万人と試算しております。

ダントツの第1位となりますが、名古屋城が入場制限となる前代未聞があるかも知れません。

これもまた楽しみです。



宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月27日]
先日の5月26日に西南隅櫓について口コミをしましたが、何と6月1日~4日までの間に3年ぶりに特別公開があるようです。

名古屋城のホームページには記載はありませんが、さつき展のちらしには書いてあったそうで間違いではないようです。

ご興味を持たれ見学をされる際は、事前に名古屋城総合事務所に確認されると良いと思います。

私も見に行こうと思います。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月27日]
今から41年前までは名古屋城の外堀(空堀)に何と電車が走っていたことはご存知でしょうか。


今でも瀬戸電の愛称で親しまわれ、瀬戸焼で有名な瀬戸市から名古屋の中心部の栄町までの間で運転していますが、昔は瀬戸市から外堀(空堀)を通って福島正則が工事した堀川までの間でした。

昭和51年にルート変更になり外堀は通らなくなりましたが、今でも外堀を覗いてみると駅のホームや土地の所有者である名古屋鉄道の看板が立っていますよ。

外堀は、名古屋鉄道のものですから、決して外堀には入れませんのでご注意をして下さい。



宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月26日]
重要文化財の一つである西南隅櫓は、これまで一度だけ1日限りの特別公開がありました。

これまで著しく老朽化が進んでいたことから4年弱を掛けて2014年に完成をしました。これを記念として内部公開された訳です。


では、次は何時ですか?となるとチャンスは来年の本丸御殿の完成した時であると思われます。

何故ならば西南隅櫓まで行くには本丸御殿の南側を歩いていくしかなく、工事が終わらないと歩いて行けないからです。1日限定の特別公開も工事はおやすみになっていました。


本丸御殿の完成記念の一環として、来年の特別公開に期待したいと思います。名古屋城のホームページは要チェックです。


宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月25日]
名古屋城の櫓の数は、当初11棟ありましたが、現在3棟しか残っていません。

また、名古屋城には最高の防備を誇る多聞櫓がありましたが、明治時代の濃尾地震によって崩壊して解体されてしまいました。


今回は、名古屋城に多聞櫓があった痕跡をご紹介します。

多聞櫓は、本丸の外周や西の丸の南側、ニの丸の西側にありました。

本丸の多聞櫓は、隅櫓と繋がっていたため、現存する東南隅櫓内の1階の壁には大きな引き戸が今でも残っています。東南隅櫓は、毎年お城の日に特別公開がありますのでご確認下さい。


また、西の丸の西側の石垣の上には多聞櫓の礎石が綺麗に並んでいることが確認できます。ここは何時でも散策できます。


既に多聞櫓はありませんが、古地図を片手に城内を散策してみて下さい。
きっと楽しさは倍増しますよ。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月24日]
名古屋城の天守閣にある金シャチに雄と雌があることはご存知ですか。


雄と雌があると言うことは、大きな違いがあります。大きさや鱗の枚数はもちろん違いますが、一目で分かる違いを口コミします。


目の大きさ…… 雌の方が大きい。黒い瞳が前にあり見つめている 

歯の数…… 雌の方が歯の本数が多い。

背びれの数…… 雌は背びれが3つ。雄は4つ。


ここまでは近くまで行かないと確認できませんが、地上から見てもはっきりと違いが分かるものがあります。

それは形です。

雌は、身体が柔らかいイナバウアーのように尻尾が反っています。雄は、男らしく尻尾は上に伸びています。

是非、違いを確認して下さい。


ちなみに金シャチが地上に降りた直近は、2005年の愛知万博のときです。

きっと天守閣の木造化工事の時に降りるのでしょうね。楽しみです。





中務少輔おね様[2017年05月23日]
名古屋城西南隅櫓の見所です。

この櫓は入城すると真っ先に目に入ってきます。
そして、名古屋城大天守とのフォトスポットでもあります。
大天守を目にしてこの櫓をスルーしがちですが、この櫓は入母屋破風と唐破風を重ねた珍しい重ね破風構造です。

そして、離宮時代に修理したため葵の御紋ではなく菊の御紋が鬼瓦に施されていますから、要チェックです。

更に、春姫様の嫁入り道中をこの櫓から家康公が見物したと言われている櫓です。
現存の西南隅櫓は、あの家康公も上った櫓だと思うと感慨深いものがあります。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月23日]
名古屋城本丸御殿の虎ノ間は、お殿様に謁見する者が控える部屋ですが、車寄せから通された者は誰でも驚く虎と豹が描かれています。


何故ならば、当時は生きたままの虎や豹は国内にはおらず、障壁画の作者は雄と雌の区別が分からないので虎が雄、豹が雌と思っていたそうです。

部屋の広さは、一の間は18畳、ニの間は28畳ほどあります。天井は、竿縁天井ですが、本丸御殿の奥に行けば行くほど天井のグレードがどんどん高くなっていきます。

特に一の間の違い棚の小襖は左から朝顔、菊、牡丹、百合が描かれており、小襖の下には赤と白のバラと黄色のびょうやなぎがあります。


表書院も虎の間も定期的に部屋の中に入れますので間近で確認出来ます。

名古屋城のホームページでチェックしてからお越しください。



宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月22日]
昭和20年5月14日に戦災で焼失する前の名古屋城と本丸御殿に入った方からお聞きした話です。

その方は、いまも健在であり今年で85歳なられます。幼少の頃には、度々学校の行事で名古屋城に行かれたそうです。


名古屋城内は、日中でも薄暗く、怖いイメージがありましたが、一番高い部屋から南側を見るとはっきりと海が見えて、とても眺めは良く爽快な気持ちに変わったそうです。


当時は高い建物がありませんが、今でも展望室から景色を眺めると
東は御嶽山、西は関ヶ原や清須城、北は岐阜城が見えます。南は、もちろん名港トリトンの橋脚が見えます。


本丸御殿では、廊下を歩くと、きゅつきゅつと音がしたウグイス張りの廊下であったそうです。

現在、再建中の本丸御殿は、まったく音がしませんが、京都の二条城ではウグイス張りです。

この部分も当時のように再建して欲しかったと残念な気持ちになりましたが、いよいよ来年には本丸御殿が完成します。

是非とも豪華絢爛の本丸御殿を見に来て下さい。





宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月21日]
名物と言えば、ひつまぶしや味噌煮込みうどんなどがありますが、もう一つ忘れてはいけないきしめん が名古屋城内にあります。

今回は、きしめんの由来を口コミします。諸説色々ありますが、二つの由来が有名です。

一つ目は、その昔、お殿様が食べるきしめんの具には、雉の肉が入っていました。
やがて庶民が口にするようになり、これは美味しい!と評判が広がり雉を乱獲するようになりました。雉が徐々に取れなくなり、食べれなくなった時に代わりに入れたものが油揚げとなります。

新幹線のホームにあるお店を覗いてみて下さい。必ず油揚げが入っていますよ。

従って、雉めん→きじめん→きしめん。ばんざーい

二つ目は、至ってシンプルに尾張徳川家は、紀州浅野家と親戚関係であり紀州から料理人もやって来ました。

紀州の料理人が作る麺がとても美味しく、あっという間に庶民まで広がりました。

従って、紀州麺→きしゅうめん→きしめん。ばんざーい!

城内にあるきしめん亭は、だし汁を鰹節から取っており一切に添加物は入っていません。

是非ともご賞味ください。
味は一級品です。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月20日]
第14段 尾張藩の飛び抜けた技術力の高さについてご紹介します。


名古屋城天守台の北面の左右の扇勾配は、何となく右側の石垣造りが左側より時代が新しく見えることはご存知でしょうか。


名古屋城は1614年にほぼ完成しましたが、徐々に北西角(右側)の石垣が約60㎝ぐらい沈み込み、天守の柱も垂直より1~3度傾いてきました。

これは大変なことだと作事奉行が行ったことは、長さ100mの太縄を用意し、天守の北西側の床下材に太縄を縛り付け、縄の先端には地面に固定した巨大なろくろの軸棒に太縄を巻き付けて、職人が力を合わせて引っ張り、何と!高さ約36mの天守閣を持ち上げました。

その後、急いで西面の石垣を積み直したアクロバティックな難工事をしました。

これは嘘のような話ですが本当です。これを宝暦の大修理と言います。


クレーンもないトラックもない時代に、人の知恵と力だけで問題を解決していく驚くべき出来事だと思いませんか!

ちなみに天守台は、加藤清正がたったの3ヶ月で造りあげたものです。是非、確かめて下さい。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月19日]
5月19日6時54分に投稿した熊の木彫りについて、補足します。


名古屋城天守閣の5階には、写真撮影が出来る大きな金シャチの横にひっそりとガラスケースに入った熊の木彫りの陶器製の置物があります。

何故、熊の木彫りなのか?と疑問を持つ方もいると考えて、熊の木彫りと名古屋城との関係を解説しました。


ちなみに旧尾張藩士は、八雲の地に約380人が移住し、その内の1人は名古屋城の留守を預かった時に、許可なく松を城の外周に植えたため、お殿様に怒られてしまったが、その後にお許しが出てご褒美まで頂いた高木志摩のご子孫は、現在旅館を経営されておられます。




中務少輔おね様[2017年05月19日]
本丸から名古屋城天守を見上げた左側にある本丸御殿上台所はミュージアムショップになっていて、御殿同様、キラキラなグッズが販売されています。

が、
レジ横の一画に、書籍コーナーがあります。
名古屋城の本は勿論ですが、お城関連書籍の種類が豊富なんです。
小さなスペースなのに沢山揃っていて、あれこれ手に取ってパラパラ見て、あっという間に時間が過ぎます。

そしてどの本も買いたくなりますが、重たくなるので、ミュージアムショップは名古屋城を堪能した最後に立ち寄ることをお勧めします。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月19日]
以外と知らない驚きの情報です。


北海道に行かれると熊の木彫りをお土産に買われる方も多いと思いますが、初めて作ったのは地元アイヌの方ではなく、尾張藩士であることをご存知でしょうか。


明治維新後、禄を失った旧藩士の困窮を見て尾張徳川家17代の徳川義勝公は、北海道の渡島半島に位置する八雲に開墾のために移住を勧めました。

その後、19代徳川義親公は、スイスに旅行中に木彫りの民芸品を見つけ、八雲町に暮らしている旧藩士の冬場の仕事として熊の木彫りの制作を勧め、義親公は『すべて私が買い上げるから作りなさい』と後押したそうです。

開拓民として旧藩士が未開の地の八雲に移住し、苦難と試練を繰り返しながら生活することは大変なことだと思います。

その地でお亡くなりになった旧藩士のお墓は、すべて名古屋に向いていることはご存知でしょうか。






宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月18日]
名古屋城に鹿がいることをご存知でしょうか?

全国に動物園があるお城はありますが、名古屋城は柵の中にいるのではなく、なんと内堀の中にいます。


1673~1680年頃に、城内に放されたことが『蓬左旧記』の中に書いてあります。
本丸などで放し飼いにされていましたが、木の若葉を食い尽くしたり、暴れたりしたので、堀の中で飼うようになったとの話のようです。

その後、戦争で絶滅してしまいましたが、昭和27年に県内の動物園から3頭のヤクシカや平成3年に和歌山県の動物園からホンシュウシカを貰い受けました。

一時期は50頭以上になりましたが、現在は2頭になりました。しかし、雌の鹿なので可愛い赤ちゃんは望めそうもありません。


お城の内堀を見て頂くと仲良くいますので、『お~い!』呼び掛けるとこちらを振り向きますよ。

ちなみに名古屋城のお堀は空堀です




宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月16日]
名古屋城の口コミを専門に投稿していますが、多くの方に『いいね』と評価して頂き、誠にありがとうございます。

今回もニッチな情報です。

名古屋城には多くの松の木が植えてありますが、幹の根元近くの表面に刃物でV字型の傷がある木が数本あります。

それは太平洋戦争の末期に飛行機の燃料確保が困難となり、松の木の油で燃料の実用化の検討をした跡となります。

この油を松根油と言いますが、結果として手間が掛かり過ぎて実用化にはならなかったそうです。

名古屋城も直接的に戦争に関わっていた証人となりますが、代表的な松として埋御門跡の北側の木、天守礎石の東側の木、西の丸の土手にあります。

是非とも散策して探してみて下さい。





宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月15日]
とてもニッチな情報です。

名古屋城の天守閣の北側の石垣は、中央辺りにはらみがあります。築城400年余り経過しているため、はらみが出来ることは仕方がないことです。

そのはらみに何と!ビール瓶が3本刺さっていることをご存知ですか?特に目立った所でもなく、解説する看板もないので何も感じずに通り過ぎてします方が多いと思います。

実は、石垣の歪みや崩れを事前に知らせるための物なのです。万一、石垣に異変が起こればビール瓶は割れます。

アナログの発見方法ですが、非常に分かりやすい方法ですね。分かりにくい場所にありますが、一度探してみて下さい。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月14日]
これからの旬な話題からです。

地元の人でもあまり知られていませんが、名古屋城にはホタルが生息しています。

その場所は、名古屋城の三の丸。現在の護国神社や本町通りと外堀通りが交わる橋の周辺に生息しています。

ホタルと言っても源氏ボタルや平家ボタルではなく、とても小さいですがヒメボタルと言うものです。

ホタルの見頃は、5月中旬から6月下旬頃です。夕方の17時頃に訪れると初夏の夜空を舞う美しいホタルが見れると思いますよ。

是非、ライトアップの名古屋城と小さく明るいホタルのコラボレーションを味わって下さい。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月13日]
本丸御殿の虎ノ間は、一ノ間と二ノ間に分かれおり、藩主に謁見する者の控える部屋です。
部屋の広さは、18畳と28畳であり、襖絵には虎と豹が描かれています。

当時の日本には生きた虎はおらず、作者は毛皮を見て描いたものと思われます。雄と雌の区別もつかないので虎を雄、豹を雌と考えたようです。ちなみに虎ノ間には18頭が描かれており、初めて部屋に入った者は、さぞや驚いたことでしょう。

一ノ間の違い棚の小襖には、夏と秋の草花である朝顔、菊、牡丹、百合が描かれており、二ノ間には、土筆も描かれています。

徳川の威厳を見せつける虎ノ間に通された武将は、誰でも今後は徳川様に刃向かうことを躊躇うことになったと思います。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月13日]
現在、建築中の本丸御殿は、昭和5年に国宝に指定され、二条城と並んで双璧と言われました。

現在、平成21年から開始された復元工事によって、玄関と表書院、対面所が順次公開され、来年には上洛殿などが完成し、すべてが出来上がります。

何よりも拘りは、当時の材料と工法による再現をすることです。匠と言われる宮大工は、数が少なく、近い将来に宮大工を志す若い方に先輩から色々と指導して頂きながら、技術の継承も目的としています。

特に注目するところは、豪華絢爛の襖絵です。当時の絵師が使っていた素材や技法を使って1枚一枚、丁寧に正確に作成しています。これも日本画家を志す方が関わっています。戦争で本丸御殿は消失してしまいましたが、消失前に襖絵や天井画の1049枚を運びだした結果、作成できる訳です。

平成21年から工事が始まり、来年の完成まで長い年月を要しますが、時間とお金が多く費やしていることが理解できます。

ちなみに総工事費150億円、そのうち寄付金が52億円です。3分の1を寄付金で賄っていることは名古屋市民や近隣市民の気持ちの表れであると思います。




中務少輔おね様[2017年05月11日]
名古屋城本丸御殿対面所が公開されて、間もなく一年になります。
この対面所は、初代藩主義直と春姫の婚儀が行われたお部屋とされていて、対面所次之間の障壁画には、春姫様の故郷和歌山の風俗・風景が描かれています。
また、対面所上段之間は、京都吉田神社や加茂競馬の様子が描かれています。
その中に時代錯誤の見物人、甲冑武士や南蛮人がこっそり?描かれています。
本丸御殿へは双眼鏡を持って見学にいくと楽しい発見があります。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月11日]
天守台の北東の石垣には、加藤肥後守小代下総と刻んでいますが、南西の一番下の石垣には、加藤肥後守中川太郎平とあります。しかし、石垣の半分は埋まっているので、すべては確認出来ません。

また、その石垣には漢数字の二と刻んであり、その上には三と刻んでいます。一番下の石垣は、完全に埋まっています。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月10日]
名古屋城は天下普請のお城であり豊臣の西国大名が工事をしましたが、本丸西側一面のお堀の石垣は、細川家と寺澤家、鍋島家が担当しました。

細川家は綺麗な布積み、寺澤家と鍋島家は乱積みと石垣の積み方が明らかに違い境目が確認できます。色々な刻紋を見ながら石垣を見ると当時の家康の力が分かるような気がします。

五瓜ニ唐花紋大納言や〜きみ様[2017年05月09日]
名古屋に住んで居たときは年間パスで入場してました。
年に四回以上行けば元はとれたはず。

四月は城内も場外も桜の見所ですね。
桜や夏は夜もお城に入れる期間があって出店とか出てましたね。

鹿はいつの頃からか空堀に住んでいました。
大昔にも居たから、また、空堀で飼い始めたみたいですがもう 10年位たつのでは。

駐車場はあります。

食事は能楽堂横などに色々ありますが、ひつまぶしなら遠くの有名店に行きましょう。蓬莱軒や白河とか。

味噌煮込みうどんも遠くの山本家総本店に行った方がいいです。

観光はお城、食事は別にして食事は本物の有名店で食べるのがベター。

味噌カツなら矢場とんとか。

また、名古屋城の中に那古城も含まれてます。
信長が父親の葬式で焼香を投げた寺は、大須の商店街に移設されてます。

市内も見てから名古屋城行くと更に面白いですね。
歴史が分ります。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月09日]
重要文化財である西北隅櫓(清須櫓とも言う)の一般公開は7日で終了しましたが、西北隅櫓は家康が清須城下にある神社寺社やお城の廃材を利用しているとのことです。その証拠として幾つもの柱には明らかに色や目が異なる木と接ぎ手がしてありました。1年先ですが、一見の価値あり。

山手乃不二様[2017年05月09日]
三の丸辺りの休日路駐オッケーなことについて、補足というか注意です。

桜並木がとても綺麗です。ということは、毛虫もかなりおります。車に帰って来て乗ろうと思ったら、窓が毛虫のカーテン状態になっていることがありました。

庄内尾張守矢田様[2017年05月08日]
・ゴールデンウィーク真っ最中の5/4に行ってきました。屋台の「唐揚げ生ビールセット千円」が旨かったです。二の丸庭園は造園整備中でしたが人出が少なくそこでゆっくり食べました。
・天守閣木造復元プロジェクトののぼりがほうぼうに立ってます。⇒平30年本丸御殿全面公開/平34年木造天守閣竣工予定
・6/1~26日「名古屋平成中村座」が二の丸広場で開催されます。

宮内大輔大うつけしゅうさい様[2017年05月08日]
ゴールデンウィークも終わりましたが、名古屋城周辺の無料駐車についてお知らせします。名古屋城の三の丸周辺の道路は、休日、祝日に限り路駐オッケーとなります。但し、路駐オッケーの区間は、道路標識を見て注意して下さい。

よシー!様[2017年05月08日]
本丸御殿の建設現場が見れるのは今の名古屋城しかない❗今でしょ

ひさの尾張守様[2017年05月03日]
4月23日、名古屋市長選は河村たかしさんが再選‼︎。ということは、名古屋城の木造再建がより現実化したということ!
500年後、国の宝となるのを目指すなら今まさに木造再建目指すべし。

まるき〜遠江守様[2015年11月28日]
夜の名古屋城をサクッと
名城公園南の交差点から西に入った道路側から天守がライトアップされた姿が良ーく見えます。
写真を撮るのには少し公園内に入るのがGOODです。

道路突き当たり手前辺りで堀の水に映る西北隅櫓も撮影できますが
ここは路駐になるので自己責任で…。

león伊豆守大途様[2015年03月22日]
二ノ丸茶亭近くに那古野城跡の石碑と説明書きがあります。
那古野城は今川氏親築城と伝わり、城主であった今川一門の氏豊から織田信秀が謀略をもって奪いとりました。
桶狭間の戦いにおける今川義元の尾張侵攻は上洛目的ではなく、旧来今川氏の城であった那古野城の奪取を目的としていたという説もあります。
現在は近世名古屋城の二ノ丸に完全にとりこまれてしまい、中世那古野城を偲ばせるものは上記の石碑と説明書きのみです。

中務卿万葉高重様[2014年08月17日]
1年に1日だけ無料で入館できます。毎年10月の第3日曜日。名古屋まつりのある日です。

ひさの尾張守様[2013年11月10日]
西北隅櫓は清須城の小天守を移築したものと伝承されているせいか、映画「清須会議」に合わせての特別公開なのでしょうか?普段では中は見られないので、ラッキーでした。

ひさの尾張守様[2013年11月10日]
11月24日まで重要文化財の西北隅櫓が特別公開中です。

桃華様[2013年06月01日]
本丸御殿公開から、初の週末でした。朝、10時くらいについて本丸に入るのが30分待ちでした。
でも結構すすみが早く、そんなに待った感じはありませんでした。
中の撮影は出来ますがフラッシュは禁止とのこと。
補足ですがスタンプは
正門近くの総合案内所にありました。

ぽえぞお弾正少弼黄金旅程様[2013年02月05日]
復元中の本丸御殿の作業風景を見学出来ます!
材料の木材の木切れも漏れなく1個お持ち帰り可能(^_^)v
何も書いたりしてないから、ただの木切れにしか見えませんが…(‾∀‾;)

勘解由次官ぷんちゃん様[2012年08月24日]
石垣に彫られた大名サインを指先でなぞってほくそ笑み…。写真は名古屋城宵祭りにて、ピンぼけ~

うさチ様[2011年01月09日]
名古屋城には年間パスポートがあります。通常、チケット売り場に表記してないので売り場の販売員さんに聞いてみて下さい二千円で一年間入城がフリーです。

左近衛大将M三郎様[2011年01月02日]
名古屋城には、某有名清涼飲料水メーカー発売による『でら!珈琲 』という『金鯱ラベル]の缶コーヒーがある。ちなみにノンシュガーである。

tomm加賀守様[2010年10月20日]
本丸御殿玄関の復元過程とゆるキャラ(左から)「やっとカメのだなも」「400年の旅人のはち丸」「なごやジョウのエビザベス」の写真をアップしてみました
期間限定ですが「お堀めぐり」や「武家と玄関 虎の美術」もお薦めです

傾奇揚げ仙兵衛様[2010年08月21日]
戦国武将隊のお陰で女性客が多い。記念撮影で足軽の衣装は着たくない。

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