九之坪城(くのつぼじょう)

九之坪城の基本情報

通称・別名

此壷城、九ノ坪城

所在地

愛知県北名古屋市九之坪西城屋敷70

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

簗田政綱

築城年

不明

主な改修者

主な城主

簗田氏

廃城年

不明

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

小田井城(愛知県清須市)[3.5km]
清洲城(愛知県清須市)[3.7km]
溝口城(愛知県西春日井郡)[3.9km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[4.1km]
下津城(愛知県稲沢市)[4.9km]
田幡城(愛知県名古屋市)[5.5km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[6.3km]
日比津城(愛知県名古屋市)[6.6km]
北島城(愛知県稲沢市)[6.9km]
小牧山城(愛知県小牧市)[7.0km]

九之坪城の解説文



九之坪城(くのつぼじょう)は、愛知県北名古屋市にあった日本の城(平城)。

概要 

この城は、簗田政綱が来る以前の有力者が「此壷城(このつぼじょう)」と称してこの地に建てた館を改築された建物である。

歴史 

簗田政綱は初めは斯波氏の家臣であったが、後に織田信長に仕え、戦功によりこの城を与えられた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの際には今川義元の動きを探り、大きく貢献した[1]。その後豊臣秀吉、柴田勝家等と共に各地に転戦し、数々の功績を残した。

現在の状況 

現在はシルバーセンター等になっており、石碑が建てられている。近くに北名古屋市健康ドームがある。

九之坪城の口コミ情報

2024年10月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
熊之庄城[九之坪城  周辺城郭]



築城時期は不明。
室町時代、溝口左京進の居城とされる。
祖先は逸見又太郎義重で、代々美濃国 大桑の地頭であったが、応永年間 彦三衛門勝政の代で、尾張国中島郡溝口へ移り、溝口姓を名乗ったと云う。西溝口城は勝政の長男 秀勝が継ぎ、弟 常吉は熊之庄城へ移住し、熊野神社 神官山田甲斐守秀仲の妹を妻としたと云う。

城跡の詳細な位置は不明。
北名古屋市立師勝北小学校南側、日光寺北側に城ノ屋敷の字名が残る。

2024年10月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
九之坪城



室町時代から戦国の時代に移りつつあった頃、尾張の国の守護、斯波氏の家臣であった簗田政綱は、主家衰退後、織田信長に仕え、戦功により九之坪城を与えられ、この地を領有することになった。
有名な桶狭間の戦いには、敵の今川義元の動静を探り、この戦いの勝利に大きな貢献をした。
その後、柴田勝家、木下藤吉郎等とともに各地に転戦して数々の功績を残した。その拠点となった九之坪城は、これ以前、当地の地侍の有力者が『此壷城(このつぼじょう)』と称し、この地に構えたとされる館を、増改築したものと伝えられている。廃城の時期、経緯については明らかではない。
北名古屋市
説明板より。

九之坪城の主要部は、石碑より、北西側のアパート・宅地辺りにあったとされます。
現在、北名古屋市高齢者活動センターふれあいの家北側にあった、九之坪東運動広場が撤去されていて、発掘調査されたのか気になりましたが、詳細不明です。

過去に発行された、九之坪城の発掘調査報告書があるようだったので、ネット検索で調べて見ましたが、本文は出て来なかったので、「青塚古墳 まほら館」「朝日遺跡 史跡貝殻山貝塚交流館」を訪問して、九之坪城の発掘調査報告書が置いてないか確認したが、置いて無さそうでした。

一応北名古屋市には、北名古屋市歴史民俗資料館があるのだが、別称が『昭和日常博物館』で昭和レトロ推しで、発掘調査報告書が置いてあるか微妙で…、行ってない。
行くと別の意味で時間が掛かりそうで……。

2024年09月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
十所社[九之坪城  寺社・史跡]



十所社 由緒
一、祭神
日本武尊・神功皇后・応神天皇
他十柱の神々が祀られている。
一、由緒
創建の儀は詳らかでない。
神社保存の棟札によれば、「永禄二年(1559年)九之坪の領主 梁田出羽守 社殿を造営し、天正十年(1582年)梁田弥治右衛門 社殿を寄贈す」とある。
当社はもと東向きに建てられていたが、昭和五年 本殿改築に際し、現在の南向きに改められた。
明治五年 村社に列し、同四十年 指定村社となる。
現在は、神社本庁に属する。
一、境内社
市寸島社

説明板より。(簗が梁になっているが…)

道路を敷設するために、神社の向きを変えたのだろうか?

神社東側に、社号標が残されているが、この辺までが、九之坪城のだったのだろうか?

2024年09月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
庚申寺跡[九之坪城  寺社・史跡]



当寺の創建は、室町後期・元亀元年(1570年)と、はっきりしないが松元院の内にあったとされる。平成六年、廃寺となり平田寺の管理地(駐車場)となっている。

説明板が設置されているが、劣化が激しく判別不能です。

2024年09月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
魚住城[九之坪城  周辺城郭]



築城時期は不明。
鹿田城主 大口右京進と共に、斯波氏に仕えた、魚住隼人正の居城とされる。

初めは、斯波氏に仕え、後に織田信長に仕えた。『信長公記』によると、隼人は信長の馬廻を務め、武勇の者と記されている。
永禄三年(1560年)桶狭間で信長方に属し、首級を挙げた。

その後、魚住氏は鹿田から、1㎞程西の弥勒寺に移住したとされ、北青野屋敷・南青野屋敷の字名が残っているが、この周辺に城館を築いたかは不明。

2024年09月26日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
鹿田城[九之坪城  周辺城郭]



築城時期は不明。
室町時代、斯波氏の家臣 大口右京進の居城とされる。

同時期、近接地には魚住城が存在していたと思われ、周辺には東蒲屋敷・南蒲屋敷・北蒲屋敷・西蒲屋敷・院田屋敷・丹波屋敷など、屋敷を冠した地名が残り、道路の辻が喰違いになっている箇所が残っていたりと、昔ながらの地形が残っている。

2024年09月26日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
松元院[九之坪城  寺社・史跡]



月峰山の縁起
1567年、お堂の修築のため勧進能が催されました。
連歌師の里村紹巴も立ち寄り、九之坪城城主の簗田政綱と酒を酌み交わしたと、富士見道記に記載があります。
紹巴は織田信長、明智光秀など多くの武将と交流があった、戦国時代の著名な連歌詩人です。

お庭の石碑にある『蜀魂 聲うへわたす 門田かな』は、勧進能で紹巴が詠んだものです。

月峰山 松元院 沿革
1520年代(永正年代)此坪城初代城主 高田左京により、南城屋敷、松本に堂建立。
1567年(永禄十年)卯月二十二日、勧進能が催され、連歌師 里村紹巴が歌を詠む。
1570年(元亀元年)義山仁公首座により、中興開山。
1643年(寛永二十年)奉堂 秀悦和尚により再建。
1790年(寛政二年)五代続いた後、万仭道担大和尚(一世)により、再興開山。

松元院HPより、一部抜粋。

お寺さんのHPには、九之坪城のより、前に存在した此坪城初代城主が建立したとされる、城跡の遺構は残っていないが、周辺には九之坪城関連の寺社が残っている。

2024年06月27日 ゴメ飛騨守
九之坪城



存在感は石碑が残っているくらいですが、ちゃんと残してくれている感があります。

2024年05月12日 尾張守たまきち
平田城[九之坪城  周辺城郭]



平田城は斯波氏の一族である平田氏の居城と伝わっていますが詳細は不明。現地の私有地と思われる場所に解説板がありますが、遺構はありません。未確認ですが、城の古井戸とされる井戸だけが残っているとのことです。なおここの地名は「城町」です。

2024年05月12日 尾張守たまきち
野崎城[九之坪城  周辺城郭]



詳しい文献・伝承ともになく、『城屋敷』の地名だけが残る場所です。現地に遺構は無く、碑や解説板もありません。

2024年05月11日 尾張守たまきち
沖村城(林通勝邸)[九之坪城  周辺城郭]



林道勝〔林秀貞〕の城屋敷跡。林秀貞は沖村に生まれ、織田信秀に仕えて重臣となり、那古野城主:織田信長の一番家老になった。1556年「稲生の戦い」の際、織田信行方に加わり信長に対抗したが、戦後、柴田勝家と共に許された。その後、筆頭家老として行政面で活躍したが、1580年信長に不信を抱かれ追放となった。現在は住宅、畑地に変わり、遺構は無い。石碑には「林道勝邸趾」とあり、屋敷の周辺を堀と土塁で防御を固めた館城であったと思われます。

2024年05月11日 尾張守たまきち
弾正屋敷[九之坪城  周辺城郭]



この地には、現在「霊松禅寺」があります。豊臣五奉行の浅野弾正長政の生誕地であり、寺の入り口に石碑があります。

2023年11月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
弾正屋敷[九之坪城  周辺城郭]



築城時期は不明。
浅野弾正忠源長政・浅野弾正大弼綱晟の屋敷とされる。浅野長政は、安井重継の子として尾張国春日井郡北野に生まれたが、母の弟 浅井長勝の娘婿となり、浅井家を継いだ。同じく、長勝の養女ねね(寧々、後の北政所 高台院)が、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだ事から、長政秀吉に最も近い姻戚として、秀吉に重用される。

贈從三位浅野長政公生誕地
天文十六丁未長政公當所安井氏ニ生マレ後浅野氏ノ養トナル

石碑側面の碑文より。

尚「贈従三位浅野長政公生誕地」の石碑は戦後に、宅地開発の為、現在の場所に移設され、本来の石碑(屋敷跡)は霊松寺東側の住宅地にあったとされる。

2022年07月17日 JC遠江守VD
鹿田城[九之坪城  周辺城郭]



鹿田城の場所は不詳なのだと思いますが、ひとまずGoogle Mapが示している場所にはスポットを置かせていただきました。

2022年06月08日 【城郭道】たっきー
熊之庄城[九之坪城  周辺城郭]



熊之庄城、愛知県北名古屋市。室町時代の溝口氏の居城です。溝口氏は尾張国溝口(稲沢市)で起こり、それから美濃に移り、美濃大桑で地頭になった後、尾張に戻って来ました。現在、日光寺と化し、遺構はありません。

2022年06月08日 【城郭道】たっきー
井関城[九之坪城  周辺城郭]



愛知県北名古屋市にある井関城。応仁の乱が収まりつつあった頃、この辺りに佐々木権左衛門尉成宗という若者が訪れました。余談ですが、この人物が佐々成政の父です。農民は驚き、成宗を城まで案内しました。この城が井関城らしいです。規模は東西三八間、南北四九間で二重の堀に囲まれていたとか。

到着した成宗は早速尾張国守護・斯波氏に書状を送り、佐々という姓をもらいました。また、朝廷から従五位下伊豆守に任ぜられました。その後、佐々氏は岩倉城を拠点としていた岩倉織田氏の家臣となり、比良城を築きました。1554年に死去。享年73。

長男・隼斗正成吉が城主となりましたが、桶狭間の戦いで討死。井関城の佐々氏は断絶しました。現在は寺と化し、遺構はありません。

2022年06月08日 【城郭道】たっきー
沖村城(林通勝邸)[九之坪城  周辺城郭]



愛知県北名古屋市(旧西春町)にある沖村城。織田家とも深い縁があった林通勝の城です。かつては城館だったようで土塁や堀で囲われていたのかも知れません。現在、遺構はなくお寺と化し、付近に石碑があります。

2022年03月21日 RED副将軍
九之坪城



桶狭間の戦いの一番手柄とされた簗田政綱の居城

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1560年の桶狭間の戦いにて簗田政綱とその父は、今川義元が桶狭間山で休息中という情報を織田信長に届けました。
戦後の論功行賞では、今川義元の首を取った毛利新助ではなく、位置を信長に知らせた簗田政綱を勲功第一とし、その戦功として沓掛城を与えました。
九之坪城は元々の居城であったか、戦功で与えられたのかは分かりません。
簗田政綱は九之坪城を拠点として、その後も木下藤吉郎、柴田勝家らと共に転戦し活躍。
廃城時期等は不明。

見所
現在はシルバー人材センターや集合住宅となり遺構は消失しています。
標石と案内板が立っています。

2021年09月02日 千鶴三河守
九之坪城



シルバー人材センターでときどき野菜売ってます。斜交い向かいの障害者の働く喫茶店はランチやパンがお値打ちです。

2017年11月20日 ライ
九之坪城

北名古屋市健康ドームに駐車場あり。

九之坪城の周辺スポット情報

 城址碑と説明板(碑・説明板)

 沖村城(林通勝邸)(周辺城郭)

 井関城(周辺城郭)

 魚住城(周辺城郭)

 道見屋敷(周辺城郭)

 熊之庄城(周辺城郭)

 野崎城(周辺城郭)

 平田城(周辺城郭)

 鹿田城(周辺城郭)

 弾正屋敷(周辺城郭)

 高塚古墳(寺社・史跡)

 能田旭古墳跡(寺社・史跡)

 十所社(寺社・史跡)

 松元院(寺社・史跡)

 平田寺(寺社・史跡)

 庚申寺跡(寺社・史跡)

 北名古屋市歴史民俗資料館(昭和日常博物館(関連施設)

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