溝口城(みぞぐちじょう)
溝口城の基本情報
通称・別名
- 豊場城、溝口氏城、西溝口城
所在地
- 愛知県西春日井郡豊山町豊場字城屋敷、堀之内
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 溝口富之助
築城年
- 天正元年(1573)頃
主な改修者
- -
主な城主
- 溝口氏
廃城年
- 不明
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
九之坪城(愛知県北名古屋市)[3.9km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[4.5km]
小牧山城(愛知県小牧市)[4.8km]
田幡城(愛知県名古屋市)[5.9km]
小田井城(愛知県清須市)[6.0km]
上条城(愛知県春日井市)[6.4km]
守山城(愛知県名古屋市)[6.5km]
上末城(愛知県小牧市)[6.8km]
竜泉寺城(愛知県名古屋市)[7.0km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[7.2km]



































溝口城の解説文
[引用元:Wikipedia「溝口城」の項目]
溝口城(みぞぐちじょう)は、愛知県豊山町にあった日本の城(平城)。
概要
溝口氏は稲沢市の溝口村と豊山町の豊場村を所領した。
現在の状況
現在は宅地化されて遺構は何も残っていない。城跡にあった祠が常安寺に移設されている。
所在地
愛知県豊山町豊場字堀之内
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溝口城の口コミ情報
2025年03月30日 尾張守マクシミリアン
溝口城
遺構は残ってないみたい。小公園があったけど、農地改革というか区画整理の完了を記念した公園のようでした。隣に豊山町商工会の事務所がありました。写真は「今上天皇」の来所記念碑。年を確認しなかったけど、昭和天皇でしょうね。
2025年03月16日 尾張守たまきち
如意城[溝口城 周辺城郭]
明徳年間(1390年〜1394年)頃に石黒重行によって築城。 石黒氏は越中国木舟城主で、南北朝時代に南朝方に属して戦って敗れた一族が奥州へ逃れ、後に母方の姓である長谷川を名乗って如意に隠れ住み、その後斯波氏に仕えて如意を領した。
天正12年(1584年)、重行から8代目の石黒重成は小牧長久手の戦いで織田信雄,徳川家康連合軍に加わり、小牧より先陣を率いて旗を藤山に立て武功をあげている。
現地は、瑞應寺となっており、遺構はないが、山門脇に石黒重行を顕彰する碑が建っていました。
2025年03月15日 尾張守たまきち
比良城[溝口城 周辺城郭]
天文年間(1532〜1555年)に佐々成宗によって築城。佐々成宗は佐々成政の父であり、成政はこの地で生誕。北は庄内川に臨み、清洲城前衛の要衝であったが、天正3年(1575年)に佐々成政が越前府中に在城を命ぜられた際、廃城になった。
現在、城址は光通寺になっています。遺構はありませんでしたが、境内の奥に「佐々成政城址」の石碑と成政の供養塔がありました。
2025年02月01日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
南外山城[溝口城 周辺城郭]
南外山八幡社 御由緒
八幡社の創建は古く、執権 北条高時の文保二年(1318)と伝えられる。また、日蓮宗の僧 日澄が隣の妙楽寺を創建するとき、寺の鎮守として嘉暦元年(1326)日澄自らが、八幡大菩薩を刻み、法華八幡宮の扁額を書いて、古城(南外山城)跡に社を勧進したとも伝わっている。
拝殿の東側の土手は南外山城の土塁の名残りといわれ、その土手上に南外山城跡の碑が建っている。
明治二十四年(1891)濃尾地震により社殿が倒壊したが、翌年復興した。
昭和十八年(1943)社殿を改修した。
南外山城は、堀尾孫助の居城で、正中年間(1324〜1325)には、すでに廃城となっていたと伝わる。
愛知県で堀尾氏と言えば、堀尾吉晴(茂助)の生誕地とされる、御供所城(堀尾屋敷)は堀尾家累代の邸宅跡とされ、鎌倉時代の終わり頃に御供所村(愛知県大口町)に移り住んだとされる。
応永年間(1394〜1427)に、御供所城(堀尾屋敷)を築いて居城としている、堀尾氏と南外山城の堀尾氏は同一の一族だろうか?
謎のまま終わる……。
南外山八幡社参拝者用の駐車場有り。
2025年01月26日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
南外山遺跡[溝口城 寺社・史跡]
南外山遺跡は平成元年度に行った遺跡詳細分布調査で発見された遺跡で、地表面の観察から、鎌倉・室町時代の土器の破片などが確認され、中世の集落跡と考えられていました。
小牧南土地区画整理事業等に伴い、遺跡を記録保存するために実施した調査により、縄文時代から、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代(古代)、鎌倉・室町時代(中世)にわたる遺構・遺物が出土し、このあたりが、大昔から人々の生活が営まれてきた歴史ある土地であることが明らかになりました。
公園の周辺は、弥生時代から古墳時代では、複数の方形周溝墓が確認され、集落と異なる墓域や祭祀域であったこと、古代では、比較的大規模な建造物(掘立柱建物)が立ち並び、寺院や役所のような性格を持つ土地であったこと、中世は堀や井戸・敷地の区画溝などが見つかり、公園北に位置する八幡社にあったとされる南外山城に隣接する集落として利用されたと考えられます。
南外山の弥生・古墳時代
〜方形周溝墓の時代〜 300BC頃〜600末頃
弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて、当時の有力者の墓と考えられる方形の墳墓(方形周溝墓)から高杯、壺、器台など多数の土器が出土しました。
南外山の奈良・平安時代
〜地方官庁の時代〜 710年〜1185年
複数の大型の建物跡が確認され、須恵器や、灰釉陶器・緑釉陶器などが出土しました。墨書のある土器片や律令時代の祭祀に用いられる土師質の土馬の頭部が出土したことから、寺院や官衙など都の文化の影響を強く受けた人々が使用した建物群と考えられます。
南外山の鎌倉・室町時代
〜南外山城の時代〜 1185年〜1573年
南外山城の堀の可能性がある、幅約5㍍、深さ約2㍍の大溝が見つかりました。
溝や井戸などから中世陶器や、輸入陶器である青磁・白磁のほか、桶や椀、下駄などの木製品が良好な状態で出土しました。
公園内には調査の成果を元にした、南外山城の堀跡の復元イメージを一部表現しています。(原位置ではありません。)
案内看板より。
公園内の何処らへんに南外山城の堀跡がイメージされているのだろうか?謎です?
2023年10月28日 民部大輔与助
溝口城
公共交通機関ですと名古屋鉄道小牧線味美駅から北西へ徒歩で約45分ですが、今回は車でした。城の情報では遺構として石碑とありましたが、忠魂碑、神国の碑、飛行第五十五戦隊の碑、豊山土地改良碑しか見つけられませんでした。城の碑はいづこ?
2021年09月25日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
南外山城[溝口城 周辺城郭]
南外山城跡
南外山城は、堀尾孫助の居城で、この八幡社を含む範囲にあったが、正中年間(1324〜1325)にはすでに廃城となっていた城と伝わる。その規模、構造などについては伝わっておらず不明であったが、近年、この周辺で行われた区画整理事業に伴う発掘調査により、除々に明らかになってきている。
調査では、城の北辺、南辺、西辺にあたる堀が部分的ではあるが確認されている、堀は幅4㍍程で、その内側では、敷地を区画する溝、掘立柱建物を構成していたとみられる多くの柱穴、井戸などが見つかっている。また、山茶碗、すり鉢、壷などの陶器、素焼きの皿や鍋、漆椀、木製の下駄など城があった当時に使われていた生活品が出土している。
説明板より
八幡社の参道途中に説明板と城址碑があります。
発掘調査後は、遺構は埋め戻され、地中保存されていると思われるが…、消滅してしまったかは不明です。堀跡や、井戸跡が検出された箇所には、説明板等を設置して欲しかったです。
2017年05月28日 てつ&あゆ兵部卿
溝口城
全く遺構はありません。それっぽい石碑はありますが戦没者慰霊碑と土地改良記念碑で城跡とは無関係です。桜やモミジが何本かあるので四季を感じる写真は撮れますが…。
車なら豊山町役場を利用。徒歩15分もあれば溝口城〜常安寺を見て回れます。
溝口城から常安寺に向かう道は狭いので徒歩がベストです。
豊山町と言えば、世界に誇る侍・イチローであり、イチロー展示ルームや少年時代に毎日通った空港バッティングを訪れてみてはいかがでしょう。鈴木家のカレーや3000本安打記念の焼酎をお土産にされては。
個人的には近くにある県営名古屋空港の周りの公園から離着陸する飛行機を眺めるのが好きです。神明公園やエアフロントオアシスなど滑走路の南北西の三方向に眺望スポットがあるので、その日の気分で楽しめます。民間機と自衛隊機の共存も珍しいのでは。伊勢志摩サミットの際には、各国首脳を移送するため、現代の黒船・オスプレイも滞在し、ど迫力の編隊飛行でした。
2012年08月05日 三河守コーキしゃん
溝口城
常安寺はキレイに整備されてて城跡から移設されたという祠すらない状態でした…。