竜泉寺城(りゅうせんじじょう)
竜泉寺城の基本情報
通称・別名
- 龍泉寺城
所在地
- 愛知県名古屋市守山区大字吉根字松洞(竜泉寺)
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- 独立式望楼型[3重3階/1964年築/RC造模擬]
築城主
- 織田信勝
築城年
- 弘治2年(1556)
主な改修者
- 豊臣秀吉
主な城主
- 織田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、石碑、説明板(龍泉寺)
周辺の城
-
上条城(愛知県春日井市)[1.8km]
新居城(愛知県尾張旭市)[4.0km]
守山城(愛知県名古屋市)[4.3km]
末森城(愛知県名古屋市)[6.6km]
下社城(愛知県名古屋市)[7.0km]
溝口城(愛知県西春日井郡)[7.0km]
大草城(愛知県小牧市)[7.6km]
田幡城(愛知県名古屋市)[7.8km]
入尾城(愛知県瀬戸市)[7.9km]
上末城(愛知県小牧市)[8.5km]
竜泉寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「竜泉寺城」の項目]
龍泉寺(りゅうせんじ)は、愛知県名古屋市守山区竜泉寺にある天台宗の寺院。
概要
「松洞山大行院」と号する。また「竜泉寺」とも表記される。名古屋城を鎮護する尾張四観音のひとつ。尾張三十三観音霊場の第二十五番札所である。本尊は馬頭観音。
歴史
「沙石集」によれば、尾張龍泉寺は龍王が一夜のうちに造立した寺で、馬頭観音が出た池の跡が見えるとされている。これを原型としたと思われる「龍泉寺記」(宝暦5年(1755年)記)には、延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。
一方、弘法大師空海も、熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したといわれ、これより龍泉寺は熱田の奥の院とされてきた。
龍泉寺は庄内川を望む高台にあり、庄内川、崖、湿地に囲まれた要害の地であって濃尾平野を一望できるため、古くから戦闘の際には軍事的価値を認められて陣を置かれることが多かった。弘治2年(1556年)織田信行が城を築いたと言われ、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前には、清須城北東方面の防衛線を築くために織田信長が一隊を龍泉寺に派遣している。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際には、小幡城に進出した徳川家康を討つべく羽柴秀吉が陣を張ったが(このことが後に「一夜堀」の伝説を生んだ)、秀吉が退却するときに放火されて建物が焼失した。慶長3年(1598年)に近辺の寺院密蔵院の僧侶秀純によって再興されたが、明治39年(1906年)2月に再び放火され、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが焼失した。その焼跡から、慶長大判切2枚、慶長小判98枚の入った小判容器が発掘され、これが基金となって本堂が再建されたというエピソードがある。
多宝塔は明治28年(1895年)に建造されたものである[1]。
龍泉寺城
上述のように尾張の歴史上、龍泉寺は何度か軍事施設として使われたこともあり、「龍泉寺城」とされることもある。現在でも境内の周囲の一部には空堀状の跡が残されているほか、境内裏側の日本庭園の横には三層の模擬天守が建てられている。これは、重要文化財の木造地蔵菩薩像や円空仏などを所有する宝物館を兼ねている。毎週日曜開館。
文化財
- 重要文化財
- 仁王門 - 慶長12年(1607年)建立。入母屋造杮(こけら)葺きの楼門。
- 木造地蔵菩薩立像
- その他文化財
- 円空作馬頭観音立像(114cm)
- 円空作千体仏
主な年中行事
- 修正会(12月31日~1月6日)
- 開宗記念法要(1月26日)
- 節分会・星供(2月3日)
- 彼岸会(春分の日及び秋分の日の前後7日間)
- 灌仏会(4月8日)
- 盂蘭盆会(7月13日~17日)
- 盆施餓鬼会(8月17日)
所在地
- 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目902番地
交通アクセス
- 名古屋ガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)
- 「竜泉寺口」または「竜泉寺」停留所下車。ともに徒歩で約3分。
- 自動車
- 名古屋第二環状自動車道(名二環)の小幡インターチェンジ、または松河戸インターチェンジより北東へ約5分。
周辺
- 庄内川
- 竜泉寺の湯(日帰り温泉施設)
- 愛知県道15号名古屋多治見線(通称:竜泉寺街道)
- 小幡緑地
- 吉根城跡
参考文献
- 『尾張名所図会』第四巻 龍泉寺、1844年
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竜泉寺城の口コミ情報
2024年04月27日 尾張守たまきち
牛牧遺跡[竜泉寺城 寺社・史跡]
縄文時代の遺跡。土器や竪穴住居が出土している。現在は小幡緑地公園となっています。
2024年04月27日 尾張守たまきち
川村南城[竜泉寺城 周辺城郭]
織田信長に仕えたといわれるこの地の豪族・水野右京進清忠の居城と伝わる城跡。このスポットの位置には、長命寺があり、川村南城の城主だった水野右京之進の墓標がある。実際には、ここから東側に向かって登り坂が続き、小幡緑地西園北側の白沢公園一帯の旧地名が[城山]であったことなどから、そこが城跡なのかと思いました。江戸時代の文献には、庄内川堤防工事用の土砂採取のため、城跡は削り取られたとの記載があり、遺構は消滅。
2024年04月27日 尾張守たまきち
川村北城[竜泉寺城 周辺城郭]
川村北城は庄内川に近い小山にあったとされ、築城時期は明応元(1492)年頃。小牧長久手の戦いに登場する❲小幡城❳と❲龍泉寺城❳の中間くらいに位置する。築城者は織田広近の子、津田遠江守武永。その後城主は岡田時常、牧長義と続いた。1548年頃に最後の城主の牧長義が小林城へ移り、廃城になった。丘陵地の北側には庄内川が流れる、天然の要害地。現在は、住宅地となっており遺構は無く、案内板や碑も無い。見晴らしはとても良く、小牧山が見えました。龍泉寺城から連なる丘陵地の西端にあたり、小牧・犬山方面の北側からの寄せ手には、絶好の物見の場所にもなったかもしれません。
2023年12月23日 nirl雅楽允
竜泉寺城
龍泉寺境内にある復元天守閣で、お寺の宝物館。日祭日のみ。
2023年11月14日 RED副将軍
竜泉寺城
小牧長久手の戦いにも利用された織田信行(織田信勝)の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1556年に織田信行により築城。
織田信行は織田信長の弟であり、1552年に父である織田信秀が没すると、家督を継いだ兄信長と対立する様になります。
叔父である岩倉城の織田信安と呼応し、兄信長と対抗するために築いたとされますが、稲生の戦いで敗れて敗走。織田信行は末森城に籠城し城下は焼討にされるも、信長と信行の実母である土田御前の取りなしにより助命されました。
しかし翌1557年に織田信長の謀殺されると竜泉寺城も廃城となりました。
1584年、羽柴秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いにおいては、羽柴秀吉が竜泉寺城に一時的に本陣を布いたとされます。短期で陣城に仕上げた様で、一晩で堀を築いたという一夜堀の伝承があります。しかし徳川家康が小幡城に引き上げたため羽柴秀吉も火を放って退いたとされます
その後は使用されることはなく廃された様です。
見所
庄内川南岸の河岸段丘に築かれていたとされ、現在の龍泉寺境内が城域とされますが、はっきりとした場所は特定できていません。
三層の模擬天守が建っており中は宝物館となっています。重文の地蔵菩薩、馬頭観音、円空佛などが収容。
模擬天守背後の竹藪の中に入ると空堀が残っているらしいのですが、閉館時間が迫り受付も終了しており宝物館内や空堀は見ることが出来ず。模擬天守のみ外から見ることが出来ました。
開館時間は日祝の9時から15時までと短時間なのでご注意下さい。
城郭遺構としての残存度は低めかもしれませんが、龍泉寺は弘法大師の開基とも云われる名古屋の名刹です。
2021年09月05日 ひでき左京亮
竜泉寺城
堀の遺構は草に埋もれているのか、ほとんど分かりませんでした。ただ、展望台から見る景色は、何故、ここに城を築いたのか、納得です。
2021年02月24日 くっしー治部大輔尚人
竜泉寺城
現存の竜泉寺というお寺の中に模擬天守があります。ただし開館しているのは日曜、祝日(9時~15時半)のみです。
遺構は曲輪や横堀が残っているらしいですが、確認できていません。
お寺の駐車場はそこそこ広いです。また、そこに観光マップが看板になっていたので、時間があれば周辺史跡を観光してみるのもいいなと思います
2017年05月11日 守山兵部丞たんたん
竜泉寺城
竜泉寺の参道坂は車で行けます。駐車場スペース(5~6台)有。
竜泉寺城は境内奥にあり、日曜祝日のみ見学でき、入場料は100円。9:00~15:30自分はGWに行きました。
手前に模擬天守(宝物館)があり見学できます。
奥に展望台があり、眼下に春日井市などが一望できます。
庭園横の茶室でお茶が飲めるようですが、常時ではないようです。(500円)
秀吉の空堀(太閤堀/一夜堀)は、どうやら竹林辺りらしいですがよく分かりませんでした。
2016年05月08日 黒田 尾張守なお兵衛
竜泉寺城
本日攻略。城は模造のため、たいしたことはありませんが、高台に立地しており軍事戦略的に重要拠点であることは納得。
2013年11月22日 ghosthunt
竜泉寺城
本日 立ち寄ったところ日曜と祭日のみの見学ですとのことでした。空振り(笑)
2012年04月15日 える
竜泉寺城
今日行ってきたけど3時半で閉館のため入ることができませんでした(>_<)