末森城(すえもりじょう)
末森城の基本情報
通称・別名
- 末盛城
所在地
- 愛知県名古屋市千種区城山町2(城山八幡宮)
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 織田信秀
築城年
- 天文17年(1548)
主な改修者
- -
主な城主
- 織田氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
守山城(愛知県名古屋市)[3.5km]
下社城(愛知県名古屋市)[4.4km]
古渡城(愛知県名古屋市)[5.5km]
名古屋城(愛知県名古屋市)[5.9km]
田幡城(愛知県名古屋市)[5.9km]
鳥栖城(愛知県名古屋市)[6.6km]
竜泉寺城(愛知県名古屋市)[6.6km]
岩崎城(愛知県日進市)[7.9km]
上条城(愛知県春日井市)[8.4km]
新居城(愛知県尾張旭市)[8.5km]
末森城の解説文
[引用元:Wikipedia「末森城」の項目]
末森城(すえもりじょう)は、愛知県名古屋市千種区城山町(尾張国愛知郡鳴海荘末森村)にあった室町時代末期の日本の城。縁起の良い名ということで末盛城とも書かれた。
歴史
天文17年(1548年)、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した[1]。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである[2]。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。
天文21年(1552年)に信秀は死去した。信秀の居城である末森城を譲られたのは、織田信勝(達成、信成、あるいは信行とも。織田信長の実弟)であった。
弘治2年(1556年)、信勝は林秀貞、柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った。このとき、末森城内にいた母・土田御前の介入で、信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。
しかし永禄元年(1558年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。これにより末森城は廃城となったとされるが、後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという(後述)。
なお天文22年(1553年)、城主の信勝が加賀の白山比咩神社から分霊を迎え城中に白山社を祭ったものが廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治になって近隣の神社と合祀されて城山八幡宮となった[3][4]。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。
構造
末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10-16メートルの空堀を備えていた[5][6]。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。
現在でも深さ7メートルほどの空堀跡など、遺構がよく残っている。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張を支配していた織田信雄が小牧・長久手の戦いに備えて整備したものと考えられている[7]。
現状
本丸跡地は城山八幡宮の神域、二の丸跡地には愛知県が建設した旧・昭和塾堂が建っているが、後に城山八幡宮に払い下げられ、建物は愛知学院大学に貸与されていたが、2017年4月30日に賃貸借契約は終了している。また城山八幡宮内に末森城址の石碑が建っており、城の名は末盛通として残った。
交通
- 名古屋市営地下鉄東山線・覚王山駅下車、徒歩で約5分。
参考文献
- 【書籍】「尾張織田氏」
- 【書籍】「尾張織田氏」下村信博 2011a。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
- 【書籍】「尾張織田氏」下村信博 2011b。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
- 【書籍】「織田信長家臣人名辞典 第2版」
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末森城の口コミ情報
2024年11月21日 尾張守たまきち
小関城[末森城 周辺城郭]
尾張誌に記載されている城館で、小関源吾の城と伝わっており、築城年が定かではない平城。織田信長・福島正則に仕えた人物とも云われるが、詳細は不明。
現在は住宅に変わり、遺構はありませんでした。碑や解説板もありません。
2024年11月18日 なかとも蔵人頭
末森城
末森城跡行ってみました。東山線覚王駅と本山駅の間の大通り沿いにある城山八幡宮の中にありました。
2024年06月28日 まっすー
末森城
城山八幡宮の境内が城跡です。少し高い場所にあると実感できます。ナビだと坂の途中で曲がってしまうので無視して坂を登って行くと駐車場に着きます。御城印は、社務所で申込用紙を書いて支払をすれば入手出来ます。
2023年09月20日 RED副将軍
末森城
兄である織田信長に謀殺された織田信行の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1548年に織田信秀により築城。
三河の松平氏や駿河の今川氏からの侵攻に対する東方の備えとして新たに末森城を築城し古渡城から居城を移したとされます。
1552年に織田信秀が病没すると、織田信長の弟である織田信行(織田信勝)が城主となりました。
1556年に織田家当主となることを画策し織田信長に反旗を翻すも稲生の戦いで敗北し、末森城に籠城。この時は母である土田御前の介入で赦免されます。
しかし、1558年に再び謀反を企てていることを柴田勝家が織田信長に内報し、織田信行は清須城で謀殺され、末森城は廃城となりました。
その後、1584年頃に織田信雄により小牧・長久手の戦いに備えて改修されたと考えられています。
見所
東山丘陵の端部に築かれた平山城。標高43mの丘上であり、現在は城山八幡宮と昭和塾堂の敷地となっています。
斜面中腹に深さ7mの空堀が残っていますが、ヤブ化しており写真は全く映えません。ヤブ枯れの冬期の訪城をオススメします。
現在に残る遺構は、小牧・長久手の戦いの際に織田信雄により改修されたものと云われます。
2023年09月18日 玄蕃頭又右衛門
末森城
城山八幡宮内に遺構が残っています。境内に末森城趾の標しがあります。
2023年08月08日 bombaye 左兵衛督
末森城
空堀がよく残っている。この立地で、往時を偲ぶことができるのはすごいことだ。遺構には、現在、城山八幡宮があり、御朱印のほか、御城印、信秀、信長、信行、秀孝、信包、土田御前、お市の方、おいぬの方の武将印、姫印が売られている。
2023年04月12日 民部大輔与助
末森城
名古屋市営地下鉄東山線の本山駅1番出口から西へ200mの「城山八幡宮前」交差点を右折すれば、城跡を含む八幡神社があります。丘陵地の上部にあり、南面に丘を囲むように空堀を配して、守りを固めたようです。
2022年11月29日 しま伊豆守
末森城
空堀などが見られます。現在は神社として賑わっています。
2022年09月23日 高萩左兵衛督ヨーキー党
末森城
今は城山八幡宮となっています。神社となったお陰で、空堀などがよく残っています
2022年06月14日 在来線男右京進
末森城
案内板のとおりに行くと、一方通行を逆走しなければいけないです。道は狭いですが、駐車場は広く近くにトイレもあります。
2022年06月09日 左京大夫まおたろー
末森城
ここは、合計10種類もの古城絵図、縄張図、武将印、姫印の御城印があるのですが、写真の5種類のみ6月30日まで御城印帳に直接揮毫してもらえます。
2022年02月19日 paya
末森城
整備されて以前より空堀が見やすくなっていました。
2021年12月13日 あずなぶる
末森城
現在は城山八幡宮となっていて、名古屋の都会で珍しく空堀などが残って、貴重なとこだと思います。
2021年10月11日 尾張小牧信長
末森城
織田信長の父、信秀が築城した織田家本城。お市の方のゆかりの城でもあるため、特別な思いがあります。空堀跡が想像以上に素晴らしく、一部は駐車場や道路になっているとはいえ、空堀の形状もよく残っており、往時を偲ぶに充分です。都会の中に残っている緑としても貴重な、城山八幡宮である、末森城跡です。
2021年03月27日 兵部卿名古屋⚔️金森明菜♡
末森城
覚王山駅と本山駅の中間末盛り通りに有ります。城山八幡宮が末森城跡になります。空堀が遺構として現存。社務所では、御朱印、御城印が受けられます♪
2020年11月22日 ゆーみん
末森城
名古屋市内の街中の小高い丘の上に位置する城山八幡宮が末森城址です。
木々が生い茂ってはいますが、今でも空堀が残っています。
2020年10月23日 デージー
末森城
御城印があると知り名古屋城へ行く前に。跡地ですが城山八幡宮境内なので場所も分かりやすかった。
2020年05月05日 【城郭道】たっきー
末森城
地下鉄東山線覚王山駅から約15分ほどです。城山八幡宮の社務所で城山八幡宮の御朱印と末森城の御城印がもらえます。城山八幡宮に末森城の石碑があります。
2017年08月29日 後の北政所征夷大将軍いしじぃ
末森城
信長公記にも記されている織田信長の弟、織田信行(信勝)居城。
車で行く場合、駐車場への曲がり角は分かりにくいので末森の交差点を北から南を目指して進み、交差点の一つ手前で左折。
案内に沿って隘路を進み鳥居が見える所が駐車場。(参拝以外の1時間以上は有料)
駐車場東側の案内板に従って散策する空堀は、都会の真ん中にあるとは思えないリアルな山城。
平針街道から濃尾平野へ今川義元の侵略に備えて末森に信行を置いた信頼性が分かる要衝。
2012年05月03日 赤いRVR甲斐守@松本
末森城
地下鉄東山線の覚王山と本山のほぼ中間にあります。城山八幡宮への参道を登ると橋があり、それが深い空堀に架かっています。そこからが城域で、現在は八幡宮境内になっています。奥に見える社殿に向かって行くと、両側に幅広い空堀があり、一部は境内になって、埋められたようです。それでも、規模の大きい城であったことはよくわかります。
参道横に、有料駐車場があります。