勝幡城(しょばたじょう)
勝幡城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 愛知県稲沢市平和町六輪字城之内(地図は石碑の場所を示す)
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 織田信定
築城年
- 永正年間(1504〜1521)
主な改修者
- -
主な城主
- 織田氏、武藤氏
廃城年
- 天文7年(1538)?
遺構
- 消滅
指定文化財
- 市史跡(勝幡城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
蜂須賀城(愛知県あま市)[2.4km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[5.5km]
北島城(愛知県稲沢市)[6.0km]
松葉城(愛知県海部郡)[7.0km]
小木江城(愛知県愛西市)[7.6km]
[大きい地図で開く]
勝幡城の解説文
[引用元:Wikipedia「勝幡城」の項目]勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)に跨る勝幡にあった城。市指定史跡。「勝幡城址」と「織田弾正忠信定古城跡」の石碑と「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。
【歴史】
永正年間(1504年〜1520年)頃、織田信長の祖父にあたる清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(その父織田良信ともいう)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城したといわれる。
この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で織田信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。
天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。
天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。
『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、この勝幡城で産まれたと記されている(那古野城という説もある)。弘治元年(1555年)、信長は主家の「織田大和守家」を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。
昭和54年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。
【構造】
二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西29間、南北43間、幅3間の方形土塁と記されている。三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現日光川に位置するため当時の縄張りは窺い辛い。
【交通】
・名古屋鉄道津島線「勝幡駅」下車 徒歩約10分[続きを見る]
勝幡城の口コミ情報
尾張守ひろっちぃ様[2014年03月02日]
人家の空き地かもしくは私有地とおもわれる場所に石碑と説明書きがあります。
周囲はすっかり人家、舗装道路で看板がないと見落としかねません
うさチ様[2013年03月28日]
名鉄勝幡駅前に織田信長の誕生像が出来ました!土田御前と信秀に抱かれた赤ちゃんの信長は、市によると最年少の信長の銅像だそうです!駅前のロータリーの所にありますよ(*´∇`*)同じ場所に勝幡城の復元模型も出来ました!
うさチ様[2010年12月01日]
近くにあるヨメフリ橋の欄干の所に勝幡城の当時の様子のプレートがありますよ