館城(たてじょう)
館城の基本情報
通称・別名
- 新城、館村御立退所
所在地
- 北海道檜山郡厚沢部町城丘
旧国名
- 蝦夷国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 松前徳広
築城年
- 明治元年(1868)
主な改修者
- -
主な城主
- 松前氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸跡、建物跡
指定文化財
- 国史跡(松前氏城跡)
再建造物
- 模擬門、石碑
周辺の城
-
二股口台場山(北海道北斗市)[18.2km]
上之国館(北海道檜山郡)[22.0km]
戸切地陣屋(北海道北斗市)[23.1km]
茂別館(北海道北斗市)[24.9km]
弁天台場(北海道函館市)[32.1km]
五稜郭(北海道函館市)[35.5km]
四稜郭(北海道函館市)[35.9km]
脇本館(北海道上磯郡)[36.3km]
砂原陣屋(北海道茅部郡)[38.8km]
志苔館(北海道函館市)[41.7km]
館城の解説文
[引用元:Wikipedia「館城」の項目]
館城(たてじょう)は、明治元年(1868年)、箱館戦争の直前に松前藩により渡島国檜山郡の館(現在の厚沢部町)に建造された日本の城。従来の本拠である松前城に対し、新城とも言う。完成直後に旧幕府軍の攻撃を受け、落城した。国の史跡に指定されている[1]。
築城
蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、慶応4年7月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した[2]。
松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすること、が館城築城の目的であった。
工事を突貫で進めた結果、10月末には一応の完成を見た。
構造
地積1万坪(約3万3千平方メートル)、四方を幅2間(約3.64メートル)の空堀で囲み、土塁を巡らし、内側に丸太で柵を作り、西側に表門、北側に裏門を設け、郭内に本丸・役所・武士部屋2棟、賄部屋・米倉などを設けたが、本丸以外は簡素な造りであった[3]。 城の周囲は、東・西・北が川、南が山に囲まれ、地形では恵まれていた[4]。
館城の戦い
箱館戦争が始まると、旧幕府軍の松前城攻撃に先立ち、松前藩主一族は11月3日館城に移動。11月5日の松前城陥落後も松前藩は降伏せず、館城・江差を拠点に態勢を立て直す姿勢を見せたため、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊200名が館城攻略のため、五稜郭を出発。11月13日に途中の稲倉石(現・厚沢部町)を抜き、11月15日、館城攻略戦が行われた。 藩主一族は11月12日に江差に避難しており館城守備隊は60名程度だけであった。午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた松前の法華寺の元僧侶である軍事方・三上超順の奮戦もあったが、昼頃には落城・焼失し、松前兵は敗走した。
なお、館城には松前城から運んだ什器・宝物類があったが、旧幕府軍は後日、人に託して松前藩へ返却している。
館藩
箱館戦争終結後、松前藩は館城にちなんで、館藩を名乗った。
参考文献
- 須藤隆仙「北海道の戦い」 太田俊穂編『幕末維新戊辰戦争事典』新人物往来社、1980年所収
- 永田富智「松前藩の動向」 須藤隆仙編『箱館戦争のすべて』新人物往来社、1984年所収
- 南北海道史研究会編「箱館戦争関係史跡事典」 同上所収
- 【書籍】「新版 北海道の歴史 下」
- 石井淳平 編著「史跡松前氏城跡 福山城跡 館城跡 館城跡」『厚沢部町教育委員会発掘調査報告書』5(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1794)、厚沢部町教育委員会、2007年。
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館城の口コミ情報
2019年05月11日 摂政やつた
館城
パンフレットが置いてあるミニ資料館
2015年05月16日 【隠者】史学会帰新参
館城
館の集落から1キロ以上離れるので周辺に人家なし。城跡少し手前の道路に城址を示す門がある。舗装されていないが駐車場あり。
この城は未完成で旧幕府軍と戦闘があり落城し廃城となる。
現在残る遺構は完成した主郭周辺である。高土塁、大堀切、石垣もなく城というより陣屋で地形も天然の要害の地でないこの場所でよく松前藩は戦ったと思う。