四稜郭(しりょうかく)

四稜郭の基本情報

通称・別名

所在地

北海道函館市陣川町59

旧国名

蝦夷国

分類・構造

稜堡式

天守構造

なし

築城主

旧幕府軍(蝦夷共和国)

築城年

明治2年(1869)

主な改修者

箱館政府

主な城主

旧幕府軍(蝦夷共和国)

廃城年

明治2年(1869)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(四稜郭)

再建造物

説明板

周辺の城

五稜郭(北海道函館市)[3.4km]
志苔館(北海道函館市)[7.9km]
弁天台場(北海道函館市)[8.0km]
戸切地陣屋(北海道北斗市)[12.9km]
茂別館(北海道北斗市)[15.1km]
二股口台場山(北海道北斗市)[22.9km]
戸井館(北海道函館市)[23.0km]
砂原陣屋(北海道茅部郡)[34.1km]
館城(北海道檜山郡)[35.9km]
脇本館(北海道上磯郡)[40.8km]

四稜郭の解説文



四稜郭(しりょうかく)は、箱館戦争において蝦夷共和国(箱館政権)が、1869年(明治2年)に五稜郭の北北東の段丘上(現在の北海道函館市陣川町)に築造した台場。新台場[1]、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。国の史跡。

なお、北海道北斗市の松前藩戸切地陣屋跡(国指定史跡)も同様の稜堡式四稜堡を基盤とするため「四稜郭」と混同・俗称されることがある[2][3]が、規模・構造・目的ともに全く異なる[4]城堡であることに注意が必要である[5][6]

立地と概要 

同台場は、函館市北東に連なる亀田山地の麓に形成された更新世期海成段丘面[7]の最下段のうち、亀田川と陣川に両岸を開析された舌状台地上に立地する。五稜郭の位置する陸繋島平坦面との比高は約80mに及び、南南西約4.5km先に五稜郭、さらに遠方には函館湾までを見通す位置に所在する。一方、同台場の立地する段丘面は南側に約800m延びる一方で、北側後背にも1km以上続く一連の緩斜面を呈しており、箱館戦争時にはこの北側方面から迂回した官軍の接敵を許し陥落に繋がったことが当時記録から伺える。

築造の目的は、榎本武揚率いる箱館政権の拠点たる五稜郭の支城として、また北海道東照宮を守護する為であったと考えられている。なお、四稜郭以外にも、川汲台場(現・函館市)や峠下台場(現・七飯町)などをはじめ、桔梗野・亀田新道・赤川(いずれも現・函館市)、さらには松前藩が箱館戦争戦前に遺棄した立石野台場・白神岬台場(現・松前町)など、道南各所の要地で陸海の台場が官軍迎撃のため築造・復旧され、戦闘の舞台となった[8]。これらの築造に先立ち、大鳥圭介は箱館戦争己巳戦線開戦の是非定かならぬ[9]明治2年(1869年)2月、ブリュネ、アンドレ・カズヌーヴ、フランソワ・ブッフィエを伴い箱館を発ち、松前半島を中心に北は乙部・厚沢部に至るまで渡島半島西半の各地をおよそ1か月半かけて踏査し、陸海砲台の要地の巡検と地形の探索を行っている[10]

堡塁は四稜堡をなすが、北東・南西に幕壁(稜堡間を繋ぐ壁)を持つ一方で、四稜堡において一般的な正方形を基準に設計されるタイプ(例:フランスの:fr:Citadelle_de_Bayonne|バイヨンヌ城塞、スウェーデンの:en:Landskrona_Citadel|ランズクルーナ城塞・ベトナム::vi:Đạo_thành_Đại_Nài|ダイナイ要塞など)[11]と異なり北西・南東の幕壁を欠いた扁平形をなし、かつこの構造のため北側の2稜堡が隣稜援護の為の側壁(仏:flanc)を南方の片側ずつ欠くため、「蝶が四方に羽を広げたような形」と形容される特徴的な平面形を呈する。

規模は東西約100メートル、南北約70メートルの範囲に、幅5.4メートル、高さ3メートルの土塁を盛り、その周囲に幅2.7メートル、深さ0.9メートルの空堀を設けている[12]。土塁内周中腹にはほぼ全周に銃兵足場(:en:Banquette|banquette)が設けられており、各稜頂部に砲座が配置されている。南西側幕壁中央に門口があり、その後方に幅0.9メートルほどの通路が設けられている[13]。郭内の面積は約2,300平方メートルで、郭内建物はない。

築造時期に関して明記された資料はないが、『四稜郭史』[14]における古老からの聞き取りに拠ると、明治2年(1869年)4月下旬頃に構築が始まり、建設の人出として城中から士卒約200人、赤川・神山・鍛冶村から約100人が加わり、ほとんど昼夜の区別なく働いて数日で出来上がったという[15]

この築造の指揮について、平井松午は「幕末箱館における五稜郭および元陣屋の景観」の脚註において大鳥圭介らが担った[16]としているが、大鳥本人[17]によれば『四稜郭史』で述べられた工期に相当する4月下旬は、二度の木古内口防戦、知内に孤立した遊撃隊・彰義隊らの救出、矢不来の戦いと彼自身が文字通りの東奔西走に追われていた時期にあたり、この場合大鳥自身が指揮にあたれたかは疑わしい[18]。とはいえ、大鳥麾下の伝習隊、および工兵隊は元幕府陸軍所属であり、いずれも欧州軍事教本に基づく要塞学[19]を学んでおり、四稜郭規模の野堡築造の素養は持ち合わせていたと考えられ、殊に吉澤勇四郎[20]率いる工兵隊は陣地構築に特化した工兵の先駆けともいうべき部隊であり、当時伝習隊は歩兵隊・士官隊いずれも前線[21]に出ていたこともあり、工兵隊メンバーのいずれかが指揮を取った可能性がある。

設計者については定かではないが、徳山藩士として岡山藩兵らと共に官軍として箱館戦争を転戦し、明治2年(1869年)5月14日より占領後の四稜郭[22]の守備に就いた岩崎季三郎の日記『奥羽並蝦夷地出張始末』[23]においては、「仏人フリヨネー」(ジュール・ブリュネ大尉)の手になるものであると記録されている。

台場名称については、榎本軍側の当時史料ですでに「四稜郭」[24][25]とするものがある一方、台場の名称はおろか、所在地である神山(現函館市神山町)に陣したことのみを記すものも少なくない[26]。官軍側で四稜郭攻略を担当したのは岡山藩・福山藩・水戸藩・徳山藩であったが、うち岡山藩・福山藩・水戸藩の戦況報告では「神山(ノ)台場」[27][28][29]と記録している。岡山藩・福山藩はそれに加え「(榎本軍は)『新五稜郭』と称している」旨の記録を遺している[30][31]

『幕末実戦史』[32]の記述、あるいはその原本たる『南柯紀行』における「神山の小堡築造未だ成功せざれども…」[33]との4月30日付の記述などからみて、官軍による箱館総攻撃開始直前になっても未完成のままであったが、そのまま松岡四郎次郎率いる一聯隊がその防御に入っている。1869年5月11日の箱館総攻撃の際、山手より岡山藩[34][35]、沢手より福山藩[36]・徳山藩、隣接する台地より水戸藩[37]の攻撃を受け、権現台場とともに陥落した[38]

史跡と保存 

箱館戦争の終結後は荒廃が進んでいたが[39]、1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定された。旧亀田町によって1969年度(昭和44年度)から1972年度(昭和47年度)にかけて土塁の修復等の環境整備工事が実施された。合併後も1990年(平成2年)から函館市による再整備が断続的に続けられている。

5月には、付近一帯はスズランの花畑となる。

2002年(平成14年)5月26日のNHK『新・クイズ 日本人の質問』において「五稜郭を見るうえで重要なもの」として、四稜郭が紹介された。

註釈 

参考文献 

  • 【書籍】「箱館戦争の台場:道南・東部と函館周辺の野戦築城を中心に 」

四稜郭の口コミ情報

2024年08月07日 伸中務少輔
四稜郭



すぐ横にある駐車スペースに車を止めることができました。野原のようになっており、犬を散歩させている人もいました。五稜郭と合わせてリア攻めでき、形や規模の違いが実感できました!

2024年06月11日 横山 右近衛大将 彰寛
四稜郭



五稜郭に比べると地味ですが、一周して大きさを感じられます。

2024年05月30日 さーはる@ALL右京大夫
四稜郭

神山通バス停から歩いて45分ほど。前半はとても緩い登坂、後半は傾斜か強くなるので運動不足の私にはキツかったです 自販機は無いので飲料必須です(徒歩の場合)。綺麗に整備されていますが、土塁に登る人が角の部分を削ってしまっていたり、足場を掘ってしまっていて悲しかったです

2023年04月23日 内蔵助ジョンジョン子
四稜郭



とても静かな地元の方のいこいの場所的な感じです。半日で陥落してしまったのはちょっぴり悲しいですね。

2023年04月21日 虎虎虎
四稜郭

五稜郭を守る大切な役割の四稜郭ですが、ペットの散歩の人が沢山いました。

2023年03月19日 マタローちゃん左兵衛督
四稜郭



城址公園として整備されており、駐車スペース、トイレ、東屋があるので休憩するにも便利。遺構としては土塁が残っている。ついでにここから北方1㎞少々進んだ先の北海道東照宮の観光がお勧め。

2022年05月06日 伊豆守十郎
四稜郭



久々の訪問。前回は天気の悪い中の訪問だったが、今回は晴天。土塁の高さ、広さ的にはもう少しだが趣きもあり、また訪れたい。

2020年08月30日 眞田左衛門佐十兵衛
四稜郭



レンタカーで行きました。五稜郭から車で10分(約4.4キロ)で着きます。駐車場も10台以上止まれます。空堀と約3m位の土塁が残されています。落ちている松ぼっくりを使って、子供達と戦争ごっこするには最高でした!

2020年08月01日 ばんきえ
四稜郭



函館駅からは約7.5km、権見台場跡を経由して走って行きました。道中はほぼフラットですが、権見台場跡からは坂道になります。

2019年04月29日 さすらい
四稜郭

私も函館バスで赤川入口で下車し、徒歩で四稜郭へ向かいました。ただ、亀田支所前で下車し、69系統上陣川旋回場行に乗り換えると、四稜郭バス亭へ行けます。69系統は便が少ないので、赤川入口から徒歩の方がいいかも。
なお、1日乗車券でも赤川入口までは利用可能ですが、69系統の四稜郭バス亭は1日乗車券のエリア外になっていましたので、よく確認してください。

2019年04月29日 さすらい
四稜郭中心曲輪[四稜郭  遺構・復元物]



四隅には砲台跡と思われる平らな箇所があり、土塁に上がれるようになっています。また、外側は小さな堀に囲まれています。土塁に上がると四稜郭の形がよくわかります。

2019年04月29日 さすらい
駐車場[四稜郭  駐車場]

自動販売機はありませんので、飲み物は準備しておきましょう。

2018年11月04日 藤陸奥守重真
四稜郭

函館駅から函館バスで、赤川入り口バス停下車そこから徒歩25分で到着。四稜郭バス停は交通の便がよくありません。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
四稜郭

駐車場あり。
史跡としては手入れされてます。
五稜郭と比べたら小さいです。
長野の龍岡のと比べてもこちらの方が小さいです。
邸一軒分くらいしかない印象です。
緑の綺麗な土塁で稜郭になってます。
五稜郭ですら大砲の飛距離伸びた時代には時代錯誤だったので、これは戦うにはとまうかなと言う規模ですね。


2013年09月15日 中務卿一之介
四稜郭

「四陵郭入口」バス停はありますが、本数は30分ごとくらい。このバス停からでも15分ほど歩きます。

公園として整備されていて、未舗装ですが15台ほど停められる駐車場があり、トイレもあります。

土塁の高さは2メートルほどあります。

2013年07月07日 みかん治部少輔
四稜郭

五稜郭付近からだと、函館バスで五稜郭公園前→神山通バス停 そこから約2キロ先でした。神山通バス停の近くに案内標識出ていました。
行きは上り坂です。
バスの本数が少ないので時間を調べてから行ったほうがいいです。

2013年02月02日 副将軍函館雄一郎
四稜郭

この時期は雪でまったく近付けません。

四稜郭の周辺スポット情報

 四稜郭中心曲輪(遺構・復元物)

 枡形門(遺構・復元物)

 四稜郭について(碑・説明板)

 入り口(碑・説明板)

 権現台場(周辺城郭)

 神山稲荷神社(寺社・史跡)

 大円寺(寺社・史跡)

 駐車場のトイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

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