戸切地陣屋(へきりちじんや)

戸切地陣屋の基本情報

通称・別名

松前藩戸切地陣屋、松前陣屋、清川陣屋、穴平陣屋

所在地

北海道北斗市野崎66-10

旧国名

蝦夷国

分類・構造

稜堡式

天守構造

なし

築城主

松前崇広

築城年

安政2年(1855)

主な改修者

主な城主

松前藩

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、砲台

指定文化財

国史跡(松前藩戸切地陣屋跡)

再建造物

大手門、搦手門、柵、石碑、説明板

周辺の城

茂別館(北海道北斗市)[9.4km]
弁天台場(北海道函館市)[11.4km]
二股口台場山(北海道北斗市)[11.8km]
四稜郭(北海道函館市)[12.9km]
五稜郭(北海道函館市)[13.1km]
志苔館(北海道函館市)[19.5km]
館城(北海道檜山郡)[23.1km]
砂原陣屋(北海道茅部郡)[30.4km]
戸井館(北海道函館市)[35.5km]
脇本館(北海道上磯郡)[36.3km]

戸切地陣屋の解説文



戸切地陣屋(へきりちじんや、史跡名称:松前藩戸切地陣屋跡(まつまえはんへきりちじんやあと)、英名:Hekirichi Bastion Fort of Matsumae clan)は、現在の北海道北斗市野崎にあった幕末期松前藩の陣屋で、日本で初めて稜堡式築城術に基づく星形堡塁(星堡[1])および19世紀当時の欧州軍事理論上における砲戦防衛のための選地・構造を採用した(後述)城郭である[2][3]。「戸切地」はアイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、美しい(明るい)・川)」を語源とし[4]、陣屋西側を流れる戸切地川の周辺地域を指す地名である。

昭和40年(1965年)に本陣星堡跡(43,400㎡)と大手側城地の一部が国の史跡に指定され、平成4年(1992年)にはさらに裏手火薬庫跡(2,213㎡)が追加指定された。これらを合計した104,206㎡が現在の史跡指定範囲となっている[5]。この項目では、同城の史跡指定後に実施された発掘調査と、それによる遺存状況の確認を経て、史跡の保存と活用に資するために同城本陣周辺に整備された戸切地陣屋跡史跡公園についても記載する。

名称について 

松前藩は公称として、同地周辺を広く指す「戸切地」の地名を冠する「戸切地陣屋」を用いた[6]。藩外などからの俗称としては、主として藩名からとった「松前陣屋」[7]と呼ばれ、このほか所在地近郷の名をとった「濁川(村)[8]陣屋」[9]、「文月(村)[10]陣屋」[11]などの呼称も用いられた[12]

なお「穴平陣屋」と伝するものが昭和10年代より散見されるようになる[13]が、当時史料に関連するものとしては、現地性のない幕府側文書の編纂題目にごくわずかに見られるのみである[14]。当時の現地名は「アナ・タ・ヒラ」(表記例として「穴太平」[15]・「穴タ平」[16]など)であり、これを「アナ・タイラ」のように読み分けるのは現地表記「アナタヒラ」の誤読またはその伝播と考えられる。

また、現在「清川陣屋」という通称が現地で広く知られバス停名等にも用いられているが、「清川」という地名は明治14年(1881年)に上述の濁川村と幕末期に新興した清水村とが合併して生まれた廃城以降の新地名であり運営当時は用いられていない。なお「清川陣屋」の書籍上の記載は国立国会図書館蔵書中においては『北海道年鑑』昭和26年(1951年)版が現在確認できる初出である[17]。戦後に生まれた(あるいは定着した)呼称である可能性が高く[18]、本城の歴史的呼称とは言い難いが、現在当地にて馴染み深い通称でもあるため発生の背景も併せ付記した。

築城経緯および立地 

本城は、開国直後の安政2年(1855年)に行われた江戸幕府による北方防衛直轄のための蝦夷地上知と、それに伴う函館平野一帯の警衛分担[19]命令のために松前藩が構築した戊営(警衛拠点)である[20]。設計者は佐久間象山が開いた洋学塾「五月塾」に学んだ松前藩士の藤原重太(後の藤原主馬)で、前述の通り日本で初めて稜堡式築城術に基づく星形堡塁構造を本陣に採用している。

現在の北斗市中央より北西に約5キロメートルに位置する舌状台地、通称「野崎の丘」の基部に築かれている。「野崎の丘」は、江戸中期の松前藩家老にして史学者であった松前広長がその著作『松前志』(天明元年(1781年)序)において「西にアナタヒラの崖壁峙(そな)え、東大野十八郷を瞰開し、南は遥かに他郷を眺望すべく、北は楚山の深林に近く…」と防衛・眺望に利する立地条件を高く評価して「近国無双の城地」と讃え、彼の父である六代藩主・松前邦広が幕府への建白を決意しながら直後に没し果たせなかった藩拠移転の候補地に挙げている[21]。このほか上知後の幕領期に蝦夷地内を視察した探検家・近藤重蔵は文化4年(1807 年)に幕府に提出した「惣蝦夷地御要害之儀ニ付心付候趣申上候書付」(『蝦夷地実記』所収)において「要害之勝地」として松前福山の機能を野崎へ移すことを進言[22]するなど、城地としての評価は一貫して高かった。 戸切地陣屋の本陣星堡は、この「野崎の丘」の舌状台地としての最高地たる平坦面に位置し、南西側を崖地「アナタヒラの崖壁」、北側を松前半島へと連なる山地、北東側を沢に囲まれた天然の郭状地形に守られ、本陣へのアプローチルートは南東側に延びる緩斜面に限定されている。本陣星堡は土塁・壕からなる四稜堡で、うち東稜に構築されている:en:Bastion|稜堡に6基の砲座が備えられた構造となっている。

同城の建築に至る日程は目まぐるしいものであった。先達のあった上知による警衛分担地の具体的な割り当ておよび警衛拠点築城の命が幕府より下されたのが安政2年(1855年)5月8日[23]、これをうけ城地として戸切地の「向陽原(アナタヒラ、「野崎の丘」のこと)」を選定し箱館警衛の所管総屯を築くことを箱館奉行に請願したのが同年6月8日、認められたのが6月10日[24]。その翌11日には箱館奉行の城地検地を受け、間を置かず戸切地陣屋築造は着工される。そして北方における施工の大敵である土壌が凍結する冬[25]を待たずして、同年10月20日、工期わずか5か月という驚くべき速さでこの「日本最初の洋式城郭」は竣工を迎えることとなった。

藤原主馬の体得した欧州軍事にかかる[26]および理論(後述)には、解析幾何学的な構造計算に基づきながら、かつその目標構造を効率的に構築する手法[27]といった、後に工兵という兵科として確立・体系化される陣地構築の基盤的メソッドが集約されており、これが早期かつ堅牢[28]な竣工に大きく貢献したものと考えられる(なお、当時松前藩内にその知識を持ちうるものは他に存在しなかった)[29]。藩主・松前崇広はこの戸切地陣屋築造に係る主馬の功に対し、士席先手組から中之間席への永代昇格を以て賞した。この辞令は崇広の御前で直々に行われ、家格昇格に加え時服二着が直接下賜されるなど、格別の扱いであった[30]

構造・選地における19世紀欧州軍事理論の実践 

ファイル:戸切地陣屋平面構造図.png|サムネイル|戸切地陣屋の現地遺構の考古学的分析から割り出された外郭の幾何学的設計 ファイル:戸切地陣屋平面構造図.png|サムネイル|戸切地陣屋の現地遺構の考古学的分析から割り出された外郭の幾何学的設計

本陣の平面設計については、設計図は失われているが、現存遺構の考古学的形状分析などから一辺200m[31]の正方形とその対角線・等分線を基準とし、かつメートル法[32]を用いて行われていることが明らかとなっており、その幾何学的設計法ならびに各部の寸法・角度はフランスのサン・シール陸軍士官学校にて教本として用いられたニコラ・サヴァール著"Cours élémentaire de fortification[33]"(初版1812年[34])ならびに同著をネーデルラント連合王国の技術士官フレデリク・ペイトレス・フィジエス・ナニングがオランダ語に訳し補遺を加えた"Beginselen der versterkingskunst[35]"(1827年訳)(訳題:『要塞学原論』、以下「サヴァール教本」)における"'Des Forts à bastions(蘭:Gebastioneerde Forten、稜堡式要塞)"の章[36]の本文・図で詳述される模式的構造の諸元と一致する。なおこの蘭訳本は藤原主馬の師である佐久間象山の遺品内に確認できるほか[37]、象山が師事した幕末洋学のパイオニアの一人である江川英龍の蔵書として[38]、あるいは伊達宗城の書簡中[39]における言及や、『蕃書調所書籍目録寫』のうち「建築類」にもその名が見えるなど[40]、1840年代から開国に前後する時期の幕末日本において、欧州における砲戦防衛を学ぶための初期テキストとして用いられていたことが伺える[41]。File:戸切地陣屋外郭構造.png|thumb|戸切地陣屋の現存外郭遺構(上)とサヴァール教本(1827)内に図示された外郭の幾何学的断面構造(下)との対照|左このほか、内面頂部全周に設けられた銃兵足場(仏:、蘭:)が特徴的な土塁[42]から壕まで一連に連なる外郭の幾何学的断面構造(仏・蘭:profil)[43]や、当時欧州軍学における砲台(仏:、蘭:)の構成要件[44]である、

  • 郭内の兵員および砲を守るための堡塁
(仏:、蘭:)[45]
  • 堡塁内より砲弾を通しかつ射角を広角に取るための外側に広がる構造を有する砲眼
(仏:、蘭:)
  • 発砲位置の較正および砲車の移動による床面へのダメージを防ぐための架台
(仏:plates-formes、蘭:beddingen)[46]

を全て備えた砲座など、各部の構造にサヴァール教本をはじめとする19世紀当時欧州の砲兵の運用を前提とした防衛拠点構築理論の反映が見られる。

加えて、本陣を段丘頂部に置き、崖・沢により両手からの寄せ手を阻み、大手前に長く延びる緩斜面を持つ地勢はサヴァール教本中にある、

「大砲の射程範囲(少なくとも小銃あるいはぶどう弾の射程範囲内まで)を制圧下に置く戦場を制圧し…(中略)…(陣地を置く)高台の前方には、窪みなど不可視の箇所が無い緩やかに伸びる斜面を備えていなければならない」

(qui dominé le terrain environnant jusqu'à de canon; …qui le découvre exactement, au moins jusqu'à portée des petites armes et de la mitraille;Il faut encore que les Hauteurs sur lesquelles il règne se prolongent en avant, en pente douce et thiforme, de manière à ne laisser aucun pli de terrain qui ne soit éclaire et découverts.)

「軍(を配備する陣地)の側面は、敵にとって侵攻を困難にする、あるいは攻撃のためにそれを迂回する必要が生じるような障害物によって守られていることが好ましい。この障害物とは、深い森林・流水または湖沼・渓谷・山・村落・要塞などである。」

(Que les flancs de l'armée soient couverts, ou, autrement, appuyés à des obstacles qui obligent l'ennemi à une attaque difficile, ou à une marche longue pour les éviter; en sorte que dans les deux cas, on ait le temps de faire les dispositions convenables. Les obstacles auxquels on appuie les flancs d'une armée, sont les bois très-fourrés, les eaux vives ou stagnantes, les ravins, les montagnes inaccessibles,les villages, les places fortes.)

といった砲戦上の優位陣地の条件を満たしており、同陣屋の構築に当時日本で蘭学経由で学ばれた欧州軍事の理論が強く反映されていることが伺える。少なくとも築造当初は、開国間もない国内において想定される対外事態のひとつであった有事(軍事的接触および揚陸による陸戦等)の際[47]に、対手と同列の技術[48]で対抗しうるべき防衛構造であったと言える。

安政6年(1859年)の『戸切地御陣家勤中御達書留』には当時の配備大砲の種類と性能が列記されており、6ポンド短カノン砲や3キロのほか、13ポンドなどの曲射砲も備え[49]、その射程は「野崎の丘」上を全て火制範囲に収めるものであり、その火制範囲の総面積は「アナタヒラの崖壁」と沢にはさまれた緩斜面全体と見て計算すると約355,000㎡に及ぶ。また、文久元年(1861年)に箱館奉行に提出された届出に見える配備砲数は砲座6基に対し4種27門を数え、このほか小銃[50]59挺を備えており[51]、接敵の位置・状況に即した各種砲を取り揃え、主砲トラブル時のバックアップや砲台に拘らない郭外への広域展開などにも対応可能な備えであったことが伺える。 しかし、こうした欧州軍事に則った防衛構造を有しながら、開国後の諸外国との接触は(少なくとも北方では)軍事に拠らない平和的交渉を以て推移したこともあり、戸切地陣屋には築城以降実戦の機会は訪れなかった。さらに藩内の洋式砲術拒絶派の存在[52]に加え、上記届出の同年に「野崎の丘」を兵の駐屯と開拓を目的とする献策が採択され[53]、最終的に大手通り沿いの24軒の武家屋敷群とそれを囲む土塁が築造されることとなり[54]、この結果緩斜面の可視性が損なわれ、砲戦機能は大きく減衰する[55]こととなった。

郭内構造と史上における役割 

現存する絵図面、ならびに発掘調査により郭内には最大17棟の建物があったことが明らかとなっている[56]。最も古段階のものと見られる『アナタヒラ松前陣屋絵図面』(函館市中央図書館蔵)では築造当初の建物数は16軒であり、西稜隅に「角場(鉄砲射場)小屋」「大アツヽ(大安土。的場)」「玉見(クランク状の土塁。弓道で言う看的所)」などが見え、郭内に鉄砲稽古場が備えられていたことが伺える[57][58]。しかし他の図面ではこれらは失われており、史跡整備に伴う発掘調査(後述)時にも図面上で鉄砲稽古場射線上にあたる位置に(後世の絵図面で新規に出現する)建物の跡が検出されており、加えて玉見土塁・大安土遺構も現存しないことから、陣屋運営中のある時期に鉄砲稽古そのものが廃止され、そのスペースが新たな建物のために充てられた可能性が考えられる[59]

居住・執務に係る建物は、『戸切地御陣屋心得書』によれば備頭の詰める「一番御長屋」・徒士らが詰め医学所なども備える「二番御長屋」・勘定方の詰める「御勘定所」・その他足軽や卒らの詰める「大部屋」が郭内中心に設けた4つの長屋にそれぞれ割り当てられている[60]。複数の絵図面を比較すると、これらの部屋割りは時代により変動がある。このほか、書籍・米・味噌・大砲・鉄砲などの各蔵や道場・厩、門番所・物見櫓、風呂場や井戸などが備えられていた[61]

竣工後の初代備頭(守備隊長)には竹田作郎が就いた。竹田は江川英龍に洋式砲術を学んだが[62]、帰藩後関わった松前城改築では洋式築城に係る立案を何ら出せておらず、:en:Fortification|要塞学は門外であった可能性がある。以降新井田浦人(安政3年)・北見政庸(安政4~6年)・柴田元剛(安政6年)・工藤長善(万延元年)・杉村治休(文久元~3年)・明石季典(元治元~慶応2年)・蠣崎伴茂(慶応2~3年)・藤原主馬(慶応3~4年)・竹田作郎(慶応4年、2期目)が約半年~3年半、平均1年強の期間で備頭を務めたが、このうち洋式軍学を実学として学んだのは藤原主馬・竹田作郎のみであり、残るメンバーも藤原主馬とともに戸切地陣屋を普請した北見政庸を除き、洋式砲術はおろか文武いずれともつかぬ人選[63]があてられている。戸切地陣屋には彼ら備頭に加え、副備頭(守備副隊長)・勘定方、および藩拠よりの目付が配備された。 配備兵員は備頭ら陣屋首脳陣以下徒士・足軽・卒らを併せ120~160名が交代制で詰めたものと推計されており、絵図面によると雑用に当たる中間らにも部屋が割り当てられていた。のち前述の開拓案に応じた藩士らが家族ぐるみで移住し大手通り沿いに居を構え、後背の土地を農地とし兵務と農務を兼任しつつ常在した。大政奉還の後、慶応4年(1868年)に清水谷公考が箱館府知事として五稜郭に入ると、5月に発せられた公考からの令に従い戸切地陣屋の兵が交代で出張しその防備に当たった[64][65]。箱館戦争において戦死した松前藩(館藩)藩士の履歴記録である『旧館藩士族殉難調』には、松前藩士・高畑喜六の来歴として文久2年(1862年)に戸切地陣屋に家族とともに移住したこと、ならびに慶応4年に箱館府からの要請に応じ7月から9月まで五稜郭守備部隊の一員として派遣された旨の記録がある[66]

以上のように、基本的には眺望や地勢を活かした函館平野部の警衛拠点として、またそれにあたる人員の駐屯地として機能し、併せて軍事的機能に乏しい箱館府・五稜郭の補完的役割を担っていた。加えて、元治元年(1864年)には久保田から当地に渡り7年奉公した無宿の身元引受についての取り次ぎを行っているなど[67]、内政における分庁的裁量も一部担っていたと推定される。

陣屋自焼(明治元年)から現在まで 

明治元年(1868年)、旧幕府軍の蝦夷地上陸に端を発し勃発した箱館戦争では、戸切地陣屋守備兵は10月22日に箱館府の要請に応じ五稜郭へ援兵に出た後、峠下の夜襲(23日)・七重の戦い(24日)でつづけざまに敗れそのまま陣屋に戻ることなく撤退。松前より援兵にきた松前藩鎗劔隊[68]も大野口の戦い(24日)で惨敗し陣屋に立ち寄らず撤退した。同日、大野の新政府側諸藩隊を駆逐した大鳥圭介の命により哨戒のため南下した伝習隊滝川充太郎・本多幸七郎の部隊の接近を見て、残る僅かな兵は建物を自焼して戦わずして撤退した[69][70]。この際滝川らは大砲2門・米150俵・其他弾薬等を鹵獲している[71][72]

箱館戦争後、明治33年(1900年)に香雪園の造成などで知られる函館の豪商岩船家(https://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/01_a/01-iwafune_ya.html)の所有するところとなり、明治37年(1904年)に旧大通り沿いに日露戦争の戦勝を祈念して桜が植樹された[73]。以降この桜並木を以て戸切地陣屋は名勝として知られることとなり、後の保存へと繋がった。

昭和40年(1965年)3月18日に国史跡に指定された(特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準のうち史跡2(城跡)による)。この際の史跡名は、上述の通り松前藩による公称であった「戸切地陣屋」を用い「松前藩戸切地陣屋跡」とされた。

平成30年(2018年)より北斗市郷土資料館による再評価研究が継続して行われており、その成果は各年度ごとに特別展および市民講座として一般に報告・公開されている。令和6年(2024年)1月に創刊された同館紀要第1号には、令和5年度までの一連の研究の成果とそれらによる戸切地陣屋の再評価の総括が論考として所収されている。この紀要は北斗市ホームページおよび国立奈良文化財研究所のリポジトリサイト「全国文化財総覧」上[74]で一般に公開されており、インターネットを通じて閲覧が可能である。

稜堡式城堡における四稜堡の系譜と、それに連なる戸切地陣屋の歴史的位置付け 

File:A schematic diagram of the geometric design of a four-bastion fort, as depicted in the work of Camray, a disciple of Vauban.jpg|thumb|伝ヴォーバン教本("Nouveau traité de géométrie et fortification", 1691年)における、幾何学的理論に基づく、正方形を基盤とした四稜堡設計の概略図。戸切地陣屋は、様々なタイプを含む稜堡式城堡[75](Bastion Fort)の中では「四稜堡」に分類される。このタイプの稜堡式城堡は四稜の尖角と、うち少なくとも一基に稜堡(bastion)を含み、それらによる火器(銃・大砲)により攻勢に対抗する防衛構造を構築する。「稜堡」の構造条件については、ヴォーバンの理論をまとめた教本"Nouveau traité de géométrie et fortification"(1691年、以降「伝ヴォーバン教本」)において極めてシンプルに定義されている。すなわち、(1)通常、土塁として要塞の角に取り付けられる構築物(une maſſe de terre élevée d'ordinaire ſur l'angle de la gorge)であり、(2)二つの側面(deux flancs)と二つの前面(de deux faces)からなる(compofee deux flancs & de deux faces)、すなわち通常菱形の平面を呈する要塞の附属構築物ということであり、これに半稜堡(Demibaſtion, 側面=flancと前面=faceを一つずつ持つ、半割された稜堡)が稜堡にカテゴライズされるもので、これらを持つ防衛施設(fort)が稜堡式城堡(Bastion fort)ということである[76]

2025年、北斗市郷土資料館において、世界各国に所在する約1,000件の稜堡式城堡のデータ収集とその定量的分析が行われ、その結果、うち約40%の稜堡式城郭が星形をとらない、いわゆる「非定型」タイプに属することが明らかとなった[77]。そして残る60%はいわゆる「星形」をとるタイプであるが、そのうち約半数、稜堡式城堡の約30%が四稜堡であった(なお、この分析は今日同一視される例が多い「星形要塞 (Star fort)」と「稜堡式城堡 (Bastion fort)」は別項の分類であり[78]、必ずしも同義たりえないという事実も適示している)。

17世紀は、稜堡式城堡の構造に対する幾何学的分析の時代であった。16世紀後半以降、八十年戦争に伴いネーデルランド連邦共和国(現:オランダ)で進められたシーモン・ステフィン()[79]とアドリアン・アンソニス()、そしてサミュエル・マロロワ()[80]らによって進められた幾何学の要塞建築への援用の試みは、フランスに要塞学を導入したジャン・エラール()[81]、エラールに続き要塞学と幾何学との理論的追及を続け大いに発展させ、その基礎を築いたブレーズ・フランソワ・パガン()[82]と欧州を舞台に連綿と系譜として紡がれ、その結実がパガンの弟子として彼の理論を太陽王・ルイ14世の庇護を背景とした数多の実践による検証を以て「定理」の域へと導いたのがヴォーバンであった。ヴォーバンはその理論を著作として遺さなかったが、その弟子カンブレーが基盤たる幾何学を前半、そこから導き出される幾何学との融合を含む要塞学全般の汎用理論を書籍としてまとめたのが伝ヴォーバン教本、すなわち"Nouveau traité de géométrie et fortification(新しい幾何学および要塞構築に関する論文)"であった[83][84]。 同書では、既存城堡の強化法のほか、稜堡式城堡の新規建設に係る幾何学的平面設計について、正多角形を基準とした描画法を用いて解説している。その「幾何学的設計」の起点として示されているのが、最も描画が容易でかつシンプルな正多角形、つまり正方形基準の四稜堡であった。File:4-star_shaped_Bastion_Fort_in_Straith's_Treatise_on_Fortification_and_Artillery.jpg|left|thumb|ストレイス著 "Treatise on Fortification and Artillery" (1848年)における、正方形を基盤とした四稜堡の幾何学的設計の解説図。

正方形を基準にした四稜堡が稜堡式城堡の中で「最も設計しやすい」…この単純な答えは、ヴォーバンらが幾何学的にそのことを裏付ける以前、すなわちヴォーバンがその理論に基づき顕著な業績を始める前、人々がその理論的帰結を知り得る以前(17世紀の第三四半期まで、すなわち1675年まで)に建設されたことが確認されている549件の稜堡式城堡のうち、その30.7%、169件が四稜堡であったという事実によって追証される。最もシンプルな多角形である正方形囲壁の四つの角に、それぞれ稜堡を追加するのみ[85]ともとれるこの建設方法は、小堡から大型囲郭まで、あらゆる規模の要塞にとって最も「建設しやすい」アプローチでもあったと見ることができる。

この「最も描きやすい」正多角形である正方形に基づく四稜堡設計法は、その幾何学的構造の解明と組み合わせられることで、稜堡式城堡設計の基盤理論として以降も継承されていく。その起点であった伝ヴォーバン教本が刊行されてから約150年後、19世紀前半においては、例えばサン・シール陸軍士官学校の要塞学教官たち、例えばニコラ・サヴァールやその後継者であるジャン・バティスト・アンベール(Jean-Baptiste Imbert)[86][87]、アマンド・ローズ・エミー(Amand Rose Émy)[88]の著作や、ヘクター・ストレイス(Hector Straith, イギリス)の"Treatise on Fortification and Artillery"(「要塞と砲兵に関する論文」、1848年)[89][90]、C.M.H.ペル(C.M.H. Pel, オランダ)の「"Handleiding tot de kennis der versterkings-kunst, ter dienste van onderofficieren"(「下士官のための要塞技術知識の手引き」、1849年)[91][92]などの教本群において、引き続き採用され、また詳説された[93]

戸切地陣屋が築造された時期は、前世紀後半より急伸した砲戦の進化により、稜堡式というシステム自体が役割を終える時代と重なった。この歴史的転換期の中で、戸切地陣屋の防衛構造設計は当時日本国内での理解者・修得者が極めて希少かつ従来の国内理論と完全な別軸にある19世紀欧州の軍事理論に基づき進められた。またその基盤理論(例えばサヴァール教本)においても、「旧来の『稜堡式』」と「新進の『砲戦防衛』」という対立項たる2つの軍事的アプローチが併存して記載される変革期ならではの状況を示していた。この状況下で藤原主馬が選択した本陣設計は、最も効率的である正方形を基にした四稜堡から、さらに稜堡砲台を一稜に偏重させる独特の構造[94]であった。主馬はさらにさらに地形を活用し大砲の性能と相乗させ本陣前の緩斜面全体を火制下に置き、かつ本陣の外郭構造は銃兵足場(baquette)を含み教本に忠実に構築した。これにより戸切地陣屋は、稜堡式構造の利点である近距離での相互掩護機能と、地形条件と火制によって長距離砲戦優位を維持する、いわば「城の時代」と「砲戦の時代」両者の技術体系を調和させた、四稜堡構造、ならびに稜堡式城堡の系譜の最終形の一つといえる。

戸切地陣屋跡史跡公園について 

上述の松前藩戸切地陣屋跡の史跡指定に伴い、上磯町(現:北斗市)は昭和52年(1977年)に史跡指定範囲を町有地化し、史跡保護のための現状確認と、活用のための整備を目指して昭和54年(1979年)より国・道の補助を受けて考古学的発掘調査と環境整備を行った。発掘調査は上磯町(当時)調査研究協議会(昭和55年度・1,102㎡)、財団法人北海道埋蔵文化財センター(昭和56~58年度・計12,500㎡)、北海道文化財保護協会(昭和59~60年度・計6,400㎡)、上磯町教育委員会(当時、昭和61年度および平成7・8・12年度、計3,011㎡)が年度ごとに分担して実施し、これらの成果により、古図面等と位置関係がほぼ合致する郭内建物跡の検出と、幕末期を主体とした生活什器を中心とする陶磁器や金属製品、キセル・碁石などの娯楽品を含む計65,000点の遺物の出土が確認され、本城の松前藩出張陣屋としての運営が裏付けられた[95]。 また、公園の中核をなす本陣星堡は土塁・壕ともに築造当時の状況を現在も遺しており、上述した欧州軍事理論を細部まで反映した構造を現在も実遺構を以て確認することができる。特に稜堡部の砲台は、底面厚10mに及ぶ堡塁、それに穿たれた外側に開く砲眼と、かつて砲の位置の較正に用いられた架台からなる砲座群という19世紀欧州軍事上の教程内容に忠実に構築されている。これらの遺構がほぼ当時の姿のまま遺存し観覧できる例は全国でも例がなく[96]、藤原主馬を初めとする当時本邦における欧州軍学者の理論の理解のありかた、そしてその陸戦における[97]実践の成果を、周辺の地形的条件と併せて形成される防衛構造を包含した歴史的景観として、ほぼ往時の姿のままで「生」で見ることができる国内でも貴重な史的スポットといえる。

加えて公園周辺から函館平野側を望むと、戸切地陣屋の警衛範囲であった函館平野広域を眺望することもでき、同所に警衛拠点としての陣屋が築造された所以を体感することもできる。

「桜回廊」と戸切地陣屋にちなんだモニュメント 

北海道道96号上磯峠下線から分かれ「野崎の丘」を陣屋本陣まで登る緩斜面上の道沿いに連なる800mの桜のトンネルは、上述のとおり日露戦争勝利を祈念して函館の呉服商である岩船峯次郎が、かつての戸切地陣屋の大通り沿い、表御門跡から陣屋登り口までの道の両脇に桜を植樹したことから生まれたものである[98]。樹種としてはソメイヨシノを中心にエゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)、ヤエザクラ、珍しいジュウガツザクラ、ギョイコウなどもあり、今日では市内各所に点在する桜の名所を繋ぐ「北斗桜回廊」[99]の一環として訪れる人々の目を楽しませている。

なお、新函館北斗駅の南口には戸切地陣屋本陣である四稜星堡の形状を模した花壇が造営されている[100]ほか、市内庁舎の入り口マットにも本陣星堡のデザインがあしらわれている。

参考文献 

  • 「『日本最初の星の城』松前藩戸切地陣屋における19 世紀洋式軍学の実践 -日本における「稜堡式城郭」の理解のために-」(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/132877) 北斗市郷土資料館研究紀要第1号、2024年、2025年6月1日閲覧。
  • 「世界各国における稜堡式城堡データリスト」(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/141926)北斗市郷土資料館研究紀要第2号、2025年、2025年6月1日閲覧。
  • 松前藩戸切地陣屋跡 北斗市歴史年表.北斗市.2016年1月6日閲覧(http://www.city.hokuto.hokkaido.jp/bunkazai/data/bunkazai/1.htm)
  • 松前藩戸切地陣屋跡 北海道ファンマガジン.PNG Office.2016年1月6日閲覧(http://pucchi.net/hokkaido/spot_south/matsumaehan_hekirichi.php)

戸切地陣屋の口コミ情報

2025年07月05日 蘭丸まい
戸切地陣屋

カーナビに従って行くとわかりにくいです。近くになったら、城巡りの地図を見ながら進んでください。草刈りがしてあり歩きやすいです。想像より広かったです。

2025年06月30日 岩井陸前守半太郎
戸切地陣屋



桜の時期は並木が綺麗です。門のすぐ近くに広い砂利の駐車場があります。土塁の内側は平で歩きやすく内部にも説明板があるので散策には最適です。

2024年12月24日 【城郭道】たっきー
裏御門[戸切地陣屋  遺構・復元物]



現在、戸切地陣屋には二つの門が推定復元されています。そのうちの一つが、裏御門跡に位置するこの搦手門です。形式は棟門。付近には板塀、木柵、土塁が構えられ、防御に備えられています。
この門の先に蔀土塁が構えられているので、門を突破したら、あの正面の土塁から矢や鉄砲が放たれて討死してしまうのかあ、と戸切地陣屋の縄張の素晴らしさに感嘆してください。

2022年10月09日 noble権大納言弥勒菩薩
戸切地陣屋

タクシーの運転手さんは、ひたすら『へりきち』と仰ってました。んんん?と思っていたのですが、後でみたらやはり『へきりち』…。火薬庫まで見に行くのは忘れてしまいましたが、土塁は立派なもの。一箇所だけの大砲堡塁もしっかり残ってましたよ。余は満足!

2022年06月27日 とざちゃん越前守
戸切地陣屋

城郭写真をみて、予定外に訪問しました。最初の星形城郭と聞いていましたが、陣屋とは思えない大規模な土塁や空堀に感動しました。旧幕府軍の攻撃で、松前藩があっさり放棄したのは不思議な気がします。
整備がしっかりされており、総門手前の解説も分かりやすく、見学もしやすいのでオススメできます。
こちらこそ四稜郭の名前に相応しいと感じました。

陣屋位置をカーナビで指定すると裏門総門側をナビされて林道を走るはめになったので、駐車場とトイレをリア攻めマップに登録しましたのでご参照下さい。

2022年05月07日 伊豆守十郎
戸切地陣屋



初訪問。先に四稜郭を見ていたので期待していなかったが、立派な大きさに好感触。土塁の高さも高く満足。

2016年11月06日 イオニア右京大夫
戸切地陣屋

駐車場が隣接されています。
けっこう多く停めれます。

土塁と紅葉が素晴らしい。

2012年07月08日 KUBO石狩守
戸切地陣屋

五稜郭に似た星形(ただし四角形)の土塁・空堀が見所です。裏門からしばらく歩くと火薬庫跡の土塁もあるので、こちらもお見逃しなく。GWの頃は陣屋までの道が桜のトンネルになります。

戸切地陣屋の周辺スポット情報

 大砲入跡(遺構・復元物)

 鉄砲入跡(遺構・復元物)

 裏御門(遺構・復元物)

 足軽詰所跡(遺構・復元物)

 諸士詰所跡(遺構・復元物)

 表御門(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 火薬庫(遺構・復元物)

 戸切地陣屋跡説明板(碑・説明板)

 トイレ(トイレ)

 駐車場 (駐車場)

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