弁天台場(べんてんだいば)
弁天台場の基本情報
通称・別名
- 弁天岬台場、弁天砲台
所在地
- 北海道函館市弁天町20
旧国名
- 蝦夷国
分類・構造
- 台場
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 安政3年(1856)
主な改修者
- -
主な城主
- 旧幕府軍(蝦夷共和国)
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
五稜郭(北海道函館市)[5.1km]
四稜郭(北海道函館市)[8.0km]
茂別館(北海道北斗市)[8.2km]
志苔館(北海道函館市)[9.8km]
戸切地陣屋(北海道北斗市)[11.4km]
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弁天台場の解説文
[引用元:Wikipedia「弁天台場」の項目]弁天台場(べんてんだいば)は、江戸時代末期(幕末)に北海道函館市に設営された台場。弁天岬台場、弁天砲台とも。設計者は武田斐三郎。
【概要】
周囲390間余(約710メートル)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていた。総面積は11,611坪(約383,000平方メートル)、高さ37尺(約11.2メートル)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780メートル)で囲まれていた。東南端にはトンネル式通路のアーチ型入口を構えていた。砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備し、その中にはエフィム・プチャーチン搭乗のロシア艦ディアナ号のものもあったといわれている。土石は主に函館山より切り出し、大手門などの重要な部分には、大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれる。工事は松川弁之助が請け負い、翌年から井上喜三郎がこれを引き継いだ。
【歴史】
江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて、外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設した。
しかし実際に使用されたのは箱館戦争という内戦においてだった。箱館戦争終盤の箱館湾海戦において、新選組が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。明治2年(1869)5月15日、本陣五稜郭に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。
明治30年頃に取り壊され、現在は函館どつく入口前に碑が建つのみとなっている。なお使われていた石材は函館漁港の護岸に使用されている。
【参考文献】
・函館市史資料集 第37集 1960年 函館市史編纂委員会[続きを見る]
弁天台場の口コミ情報
征夷大将軍クララ姫様[2017年08月18日]
弁天台場領内函館の金森赤レンガ倉庫内に戦国武将グッズ屋さんがあります。ステッカーを買っちゃいました。
イオニア図書頭様[2016年11月06日]
函館市電の「函館どっく前」で下車。すぐ隣の公園に説明板と「新撰組最後の地」の碑があります。
KUBO石狩守様[2012年09月04日]
現在は、函館どつくになってますが、函館どつく裏門前に標柱があります。また近くの入舟児童公園前に説明板があります。