小木江城(こきえじょう)
小木江城の基本情報
通称・別名
- 古木江城、古川城
所在地
- 愛知県愛西市森川町村仲
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 織田信興
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 織田信興
廃城年
- 元亀2年(1571)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
長島城(三重県桑名市)[5.7km]
大野城(愛知県愛西市)[7.1km]
勝幡城(愛知県稲沢市)[7.6km]
蟹江城(愛知県海部郡)[8.6km]
桑名城(三重県桑名市)[8.8km]
蜂須賀城(愛知県あま市)[9.5km]
高須城(岐阜県海津市)[10.5km]
松葉城(愛知県海部郡)[11.2km]
前田城(愛知県名古屋市)[12.3km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[12.6km]
小木江城の解説文
[引用元:Wikipedia「小木江城」の項目]
古木江城(こきえじょう)は、尾張国海西郡(現在の愛知県愛西市)にあった日本の城(平城)[1][2]。小木江城とも書かれる。
歴史
永禄年間に織田信長の4番目の弟・織田彦七郎信興によって築かれたとされる城で、伊勢長島の一向宗の抑えとして置かれた。
元亀元年(1570年)9月、本願寺と信長との間で石山合戦が始まると、長島でも門徒勢が蜂起。長島城を落した門徒勢は11月16日、古木江城を襲撃した。信興は信長や桑名城の滝川一益に援軍を要請したが、信長は浅井長政・朝倉義景の軍勢と延暦寺の僧兵によって大津に足止めされており(志賀の陣)、一向宗に攻められて籠城していた一益も援軍を出すことができなかった。6日後の11月21日に古木江城は落城、『信長公記』によれば信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている。その後、城は廃城となった。
現在
城があったと伝わる周辺は農地(レンコン畑)などになっており、遺構は残されていない。城の縄張なども不明である。なお、現地に鎮座する富岡神社は城の鎮守として置かれたと考えられている。
異説
宝暦2年(1752年)の『張州府志』では彦七郎の居城を「古川城」と記しており、古木江城とは別の城であったとしているが、天保15年(1844年)の『尾張志』ではこの説を否定している。なお、愛知県教育委員会の資料では大森村(現在の愛西市森川町村仲)にあった城が下古川城(小木江城)、下古川村(現在の愛西市森川町下古川)にあった城を古川城としている。
参考文献
- 愛知県教育委員会『愛知県中世城館跡調査報告 I(尾張地区)』1991年
- 山田柾之『史跡散策 愛知の城』盛岡タイムス社、1993年
- 立田村史編さん委員会『新編 立田村史 通史』立田村、1996年
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小木江城の口コミ情報
2023年12月27日 とんかつおやじND
小山城[小木江城 周辺城郭]
三重の中世城館(三重県教育委員会)では 永禄時代 城主 高井民部少輔 とあります 桑名志によると織田信長勢の侵攻際に滅んだ
主郭をとり巻く土塁は見事 主郭内部側は0.5〜5m程の高さで 東と北の外側には堀と土塁が巡る
南西角に虎口らしきが見られ脇に石積みがあるが遺構かは不明らしい 南東角付近には土塁↓に竪土塁あり直ぐ脇は堀切状となる
南東の麓から入って竹藪西脇を進むと主郭下にでました。
城址東側谷を登ると住宅街にでます。高台にある住宅街下の中腹にある城址遺構となります。多分 入口から城址と 城址から上の住宅街迄の比高はどちらも20m程だと思います
画像は土塁上からみた主郭
2023年01月06日 びん
小木江城
表記は古木江城でした。小さな落ち着いた神社でした。
2022年09月18日
小木江城
城跡の富岡神社の周囲の道はすべて未舗装で雑草が生い茂っているため、車での進入は避けた方が良いです。目の前の鵜戸川の対岸の道の駅 立田ふれあいの里に停めて行くと良いですね。
2022年08月03日 はちもく
小木江城
1年で1番訪城付加価値があるのは今、蓮の花の綺麗な今です。道の駅に車を停車してください。道の駅では勝幡城の御城印が買えますよ。
2022年05月01日
小木江城
立田道の駅から川向のこんもりとした森。地元でないため研究していませんので、詳細はわかりません。正面には立て看板等ありましたが、このアプリとリアぜめキャンペーン?がなければ、なかなか立ち寄ることもすくないのではないでしょうか?少しずつではありますが、周辺の関連も含め学習していければと、思います。
2022年02月22日 曲輪衆尾張守名古屋のリラン
小木江城
立田道の駅へ行きましたから見学に今は神社があるだけ夏は隣が蓮畑になり心地の良い所になります
2022年01月09日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
佐屋代官所(佐屋御殿)[小木江城 周辺城郭]
慶長二十年(1615)家康が大坂夏の陣に、ここから船出した事から、徳川吉祥の地とされる。
元和二年(1616)初代 尾張藩主 徳川義直の鷹狩りの、休憩所として御茶屋が築かれた際に、佐屋街道が開かれとされる。
寛永十一年(1634)将軍 家光の上洛の際、佐屋宿、佐屋湊、佐屋街道が整備され、御茶屋を御殿と改めたとされる。
承応二年(1653)船番所が設置される。
天明元年(1781)奉行所に代わり、代官所が設置され、御殿を引き継いだと云われる。
佐屋御殿は、代官所付近にあったとされているが、詳細は不明。
代官所跡北側の説明板の前に駐車場スペース有り
2021年12月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
荷之上城(服部家住宅)[小木江城 周辺城郭]
荷之上は、元はニ之上と言う地名で、平治の乱で平家に敗れた、源義朝(頼朝、義経の父)が東国へと落ち延びる際に、『ここまでくれば安心』と言って船から荷物を港(江)に上げて、休息を取った事が由来と言われています。
永享七年(1435年)室町幕府六代将軍 足利義教の時代、後醍醐天皇のひ孫にあたる良王君は、父である尹良親王と共に世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎を率いて、隠遁の地である諏訪から三河足助に向けて軍を発するが、阿智郡浪合(長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討死を遂げるものの、良王君は津島四家七名字に付き添われて、その長である大橋定省の居城である奴野城に入城した。
荷之上城の築城時期は不明だか、津島四家七名字の中に服部家の名前が有る事から、永享七年以前には、この地には城館があったと思われる。戦国時代になり、津島を本拠としていた、織田氏が次第に勢力を伸ばし、信長が尾張統一を目指す中で服部党は臣下になる事を拒み、長島一向一揆と結び敵対する事になった。
元亀元年(1570)に信長の弟で古木江城主として一向宗に対峙していた、信興が服部党に討ち取られた事を機に、信長は服部党を含めた長島一向一揆殲滅を決意し、三度に渡って大軍を送り込んで一向一揆を殲滅した。この時、荷之上城は灼き尽くされ、廃城となったと言う。
天正四年(1576)服部正友が離散した、一族を代表して服部家の復興を願い出て許可を受け、荷之上城跡に城館を構え拠点とし、荒廃した市江島(現在の弥富)を開拓し、荷之上村を再興すると、江戸時代には、代々大庄屋をつとめました。
天正四年に建てられた主屋のほか表門、離屋敷、文庫蔵等が、服部家住宅として重要文化財に指定されている。当時の城の規模は、90㍍四方とされ、服部家住宅北側には、堀跡とされる水路が残っている。現在も、子孫の方が住まわれおり、内部は非公開となっている。
2021年11月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
西保城[小木江城 周辺城郭]
築城時期は、戦国時代末期、織田氏が築いた城で、織田信長の弟 信包の居城とされる。
西保城は、佐屋川を挟んで、小木江城と相対する位置にあり、長島一向一揆に対する城であったと思われる。
城跡の正確な位置は不明で、市江山 善定坊の東側、愛西市西保町北川原〜城之内辺りにあったとされている。
2021年11月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
石田城[小木江城 周辺城郭]
築城時期・城主等は不明。『尾張志』には、東西約72㍍、南北約108㍍で、北〜東側に堀があったとされる。
低湿地帯(立田輪中)の中央に築かれた城として、尾張では希少な存在と云われる。
城跡は、玉泉寺の西南辺りされ、堀跡と利用したと伝わる水路が残っている。
2021年07月31日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
鯏浦城[小木江城 周辺城郭]
弥富市指定文化財
史跡 鯏浦城跡
天然記念物 薬師寺の大楠
鯏浦城は、この辺りに勢力のあった服部党・一向門徒勢を攻める為、永禄八年(1565年)に織田信長が築いた砦で、城守は織田彦七郎信興(信長の弟)であった。信興は、元亀元年(1570年)小木江城(立田村)で服部党ら門徒勢に攻められ戦死した。これを機に信長は服部党ら門徒勢を攻め、三度目の天正二年(1574年)には大軍を送り込んで、ことごとく焼き尽くした。
鯏浦城跡には、信興が念持仏としていた薬師如来像を納める為、御堂が建てられこれが明治時代の初めに薬師寺となった。城跡の碑は、薬師寺境内の大楠のもとに昭和五十一年に建てられた。
大楠は、樹齢六百年以上ともいわれ、現在目通り8.3㍍に及ぶ。里人は、この楠の葉を薬として用い病を治したと言われている。また、この付近はかつての海岸線にあたり、信長の服部党・一向門徒勢攻撃の際、信長軍がこの楠に舟を繋いだとも言い伝えられている。
この樹下には、社(下の宮)が祀られ参拝者が後を絶たなかったというが、明治時代に弥富神社に合祀された。
説明板より
2021年07月30日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
田尻城[小木江城 周辺城郭]
田尻城跡・馬洗い石
田尻村は寛永元年(1624年)に立田輪中が一円輪中になった時に開発された村とされていますが、それ以前から独立した小さな村として人々が住んでいました。
この村は、石田村や高田村など立田輪中の一つの区切りとしての位置にあり、望楼を兼ねた砦の性格を持つような建造物が必要であったと思われます。
嘉永三年(1850年)に庄屋の弥左衛門が家数十七軒の小さな村として尾張藩に報告した文書の末尾に「当村城跡丸の内と申す場所も御座候」とあり、城があった事が分かります。また詳しい由緒書などもありましたが、以前に尾張藩からお尋ねがあった時に差出し、現在は残されていないとも報告しています。今では城主の氏名など詳しい事は分かっていません。後世、これを田尻城と呼ぶようになりました。
ここから南西へ10㍍程に大きな池がありました。馬洗い石は、その池の端にあり、馬を乗せて背中を洗ったと言い伝えられています。今では、池も石も埋まってしまいました。
立田村教育委員会
説明板より
2021年06月27日 ばらく~だ
小木江城
城跡につながっている道は、未舗装で道幅も狭く、地元の農家さんが軽トラで行き来するような道ですので、むやみに車で入っていかない方がいいと思います。隣の道の駅に止めるのがベストです。
2021年05月17日 駿河守スーさん
小木江城
佐屋駅前から真っ直ぐ歩いて25分ほど。道の駅「立田ふれあいの里」の手前です。川が天然の堀になっていて、横は蓮田です。花が咲く頃はきれいかも?
2020年12月22日 【城郭道】たっきー
小木江城
最寄り駅の佐屋駅から歩きました。片道徒歩25分。結構距離がありました。途中、コンビニがあるのでそこで休憩するのがおすすめです。
城跡には石碑がたっています。遺構はありません。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも出てきたので是非、行ってみてください。
2011年01月22日 ハッセー丹後守
小木江城
城址碑から川を挟んですぐ西に「道の駅・立田ふれあいの里」があります。
地元産のレンコンを使った料理や、地元農家直送の野菜を購入できました
城址最寄りの駐車場としても使えます!
2010年10月18日 三河守コーキしゃん
小木江城
石碑と説明板だけで遺構はこれと言ってありませんでした