荷之上城(服部家住宅)

荷之上城(服部家住宅)([小木江城  周辺城郭])

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荷之上城(服部家住宅)の口コミ情報

2021年12月05日 前田利家猫耳メイド萌


荷之上は、元はニ之上と言う地名で、平治の乱で平家に敗れた、源義朝(頼朝、義経の父)が東国へと落ち延びる際に、『ここまでくれば安心』と言って船から荷物を港(江)に上げて、休息を取った事が由来と言われています。

永享七年(1435年)室町幕府六代将軍 足利義教の時代、後醍醐天皇のひ孫にあたる良王君は、父である尹良親王と共に世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎を率いて、隠遁の地である諏訪から三河足助に向けて軍を発するが、阿智郡浪合(長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討死を遂げるものの、良王君は津島四家七名字に付き添われて、その長である大橋定省の居城である奴野城に入城した。

荷之上城の築城時期は不明だか、津島四家七名字の中に服部家の名前が有る事から、永享七年以前には、この地には城館があったと思われる。戦国時代になり、津島を本拠としていた、織田氏が次第に勢力を伸ばし、信長が尾張統一を目指す中で服部党は臣下になる事を拒み、長島一向一揆と結び敵対する事になった。

元亀元年(1570)に信長の弟で古木江城主として一向宗に対峙していた、信興が服部党に討ち取られた事を機に、信長は服部党を含めた長島一向一揆殲滅を決意し、三度に渡って大軍を送り込んで一向一揆を殲滅した。この時、荷之上城は灼き尽くされ、廃城となったと言う。

天正四年(1576)服部正友が離散した、一族を代表して服部家の復興を願い出て許可を受け、荷之上城跡に城館を構え拠点とし、荒廃した市江島(現在の弥富)を開拓し、荷之上村を再興すると、江戸時代には、代々大庄屋をつとめました。

天正四年に建てられた主屋のほか表門、離屋敷、文庫蔵等が、服部家住宅として重要文化財に指定されている。当時の城の規模は、90㍍四方とされ、服部家住宅北側には、堀跡とされる水路が残っている。現在も、子孫の方が住まわれおり、内部は非公開となっている。

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