高須城(たかすじょう)

高須城の基本情報

通称・別名

高洲城、高須御館、(高須陣屋)

所在地

岐阜県海津市海津町高須

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

氏家重国

築城年

延元3年〔南朝〕/暦応元年〔北朝〕(1338)

主な改修者

主な城主

氏家氏、高木盛兼、徳永氏、小笠原貞信、松平義行

廃城年

元禄4年(1691)

遺構

土塁、堀跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

八神城(岐阜県羽島市)[7.4km]
福束城(岐阜県安八郡)[8.7km]
勝幡城(愛知県稲沢市)[10.5km]
小木江城(愛知県愛西市)[10.5km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[11.0km]
片原一色城(愛知県稲沢市)[11.1km]
蜂須賀城(愛知県あま市)[12.7km]
上木城(三重県いなべ市)[12.7km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[13.0km]
中島城(愛知県一宮市)[13.9km]

高須城の解説文

高須陣屋(たかすじんや)は岐阜県海津市海津町高須(美濃国石津郡高須)にあった陣屋で、高須藩の藩庁である。

概要
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、高須城1万石の高木盛兼は西軍に与したため改易となった。代わって東軍方の徳永寿昌が5万石余りで入封し、高須藩が立藩。第2代昌重の代に加増され5万3千石となったが、寛永5年(1628年)改易となり、廃藩となった。

寛永17年(1640年)下総国関宿藩より小笠原貞信が2万2千石で入封した。元禄4年(1691年)越前国勝山藩に転封となり廃城となった。その後天領を経て代官領となった。

信濃国内にて3万石の所領があった尾張藩第2代藩主徳川光友の次男松平義行は所領を交換された。

宗家に嗣子が絶えた時、相続し、尾張藩を支える支藩となった。第3代、第5代、第9代、第10代藩主も宗家を相続している。第13代義勇の時、明治維新を迎えた。

陣屋址は海津明誠高校や公園になっており、土塁、堀跡が残る。

遺構
三重県桑名市大字桑名の六華苑が御殿の一部を移築したものと伝わる。

高須城の口コミ情報

2021年10月06日 ▼猫耳▽萌ですが…。
海津市立歴史民俗資料館[高須城  関連施設]



城郭風建築で、3階部分には高須城の御殿の一部が、復元されています。高須城から、少し離れています。無料駐車場有り、資料館入館には、大人310円でした。屋外展示には、名古屋城築城に使用された(河戸石)の刻印石(運搬中に川中に落とした?)が展示されている。

2021年10月06日 ▼猫耳▽萌ですが…。
長久保城[高須城  周辺城郭]



築城時期は、不明。城主は、福田某と伝えられている。

天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いの際、織田信雄領であったが、長久保城にあった福田某は、羽柴秀吉軍に寝返ったと言う。その後、羽柴秀吉軍が引き上げた後、松ノ木城の吉村氏吉に攻められ落城したと言う。

城跡は、誓賢寺の境内一帯と推定されており、周囲より一段高くなっているが、遺構はない。寺の周辺が水田に囲まれているので、堀跡に見えなくもないかな?

2021年10月03日 ▼猫耳▽萌ですが…。
御山の燈台[高須城  寺社・史跡]



伝   御山の燈台
当山 臥龍山記によると、天平の昔(千二百五十年前)このお山 臥龍山に大寺院が建立され、この地に仏舎利塔と、一丈余尺(三米余)の石積みによる、高燈籠が築かれた。この高燈籠は、常夜燈として遠方の人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様として崇められていた。
戦乱時には、狼煙台として使用された事もあるが、鎌倉末期南北朝の頃、兵火により寺院と共に崩れ焼失した。
その後、江戸中期 宝永の初め、当地 高須藩主 松平家初代義行公が行基寺再建の際に、再び築かれ、揖斐・長良・木曽の三大川を行き交う、船の標識と夜間の目印を示す、御山の燈台(燈標)としての役割も果たした。
時を経て平成の今、先人の残した多くの文化遺産が消え行くことを惜しみ、当時の資料・伝承に基づき、伊藤源一氏が再び復元されたものである。
石碑碑文より
行基寺の駐車場にあり、濃尾平野を一望する事が出来る。写真では、不鮮明だが名古屋駅周辺のビル群まで見る事が出来た。

2021年10月03日 ▼猫耳▽萌ですが…。
刻紋石[高須城  寺社・史跡]



慶長十八年 約四百年前、名古屋城築城のおり
当山(臥龍山)一帯より採石された河戸石の一つである。
当時、この地域には、蜂須賀阿波守、細川越中守、鍋嶋信濃守ら三人の西国大名が出向き、多くの石材(河戸石)を採石している。
この刻紋石は、蜂須賀阿波守(小六の子)が切り出したものなれど、当時、輸送中に落としたか、或いは何らかの理由により、放棄されたものと思われる。
(上記を裏付ける古文書は当山に保存されている。)
近年、当地南濃町上野河戸の元船着場近くの桑原家屋敷を整備中、地中約四尺程下に埋もれていたものを見つけられ、これを放置する事なく広く見聞して頂く為にと、ここに是の如く築かれ奉納されたものである。

平成十年五月吉日 行基寺住職 誠 誉
説明板より

2021年10月02日 ▼猫耳▽萌ですが…。
臥龍山城[高須城  周辺城郭]

臥龍山城は、尾張二代藩主 徳川光友の次男・松平義行が、美濃高須藩主として、封ぜられたとき松平家の菩提寺として、元禄十五年(1702)から伽藍を再建し、宝永六年(1709)改修工事が完了した。
名目上は、行基寺として七年がかりで築いた、有事の際の城とも言われている。

行基寺は伝承によれば、天平十六年(744)地方を巡っていた行基が、この地の洪水による被害を目の当たりにし、聖武天皇に懇願し人々の為に建立したと言う。
南北朝時代の延元元年(1336)結城友定の手により焼失したが、天平年間(1346〜70)に再建されたと言う。
元禄十五年(1702)から、美濃高須藩主 松平氏の菩提寺として、大規模な改修工事に着手し、宝永六年(1709)完了した。
文政三年(1820)には、山門が建立された。
現在の本堂は、天保三年(1832)再建されたものである。
明治維新になる迄は、一般の人々が参拝する事を禁止していたと言う。

臥龍山城は、養老山地の中腹に築かれており、濃尾平野を一望のもと見渡せます。
西美濃三十三霊場の二十七札所となっており、別名「月見寺」「隠れ城」とも呼ばれていると言う。

中腹の寺まで、車で行く事ができますが、道は狭いので注意が必要です。
駐車場があり、片隅にトイレもあります。

2021年09月04日 ▼猫耳▽萌ですが…。
志津三郎兼氏屋敷[高須城  周辺城郭]



志津三郎兼氏は、所伝によれば長包の子で弘安元年(1278)、東大寺の別院である千手院に生まれ、十三歳で手掻包永に師事して鍛刀の技術を学んだという。
美濃守護職 土岐氏に招かれ志津の鍛冶谷に移り住んだのは、嘉元ニ年(1304)二十七歳(一説に乾元元年・1302)の時である。

兼氏が志津山に居を構えた理由は、水が清く景勝であることの外に、材質の良い砥石を産することが挙げられる。彼は刀剣を鍛えるごとに背後の志津山の大岩に祈念をこめ、斎戒沐浴したという。

正和二年(1313)三十六歳で鎌倉に赴き刀匠正宗について腕をみがき、建武元年(1334)五十七歳で志津に帰った。その後、専ら作刀に励み、関に出かけること数度、関鍛冶の基を築いた。康永三年(1344)秋、六十七歳で没し、鍛冶谷に葬られた。鍛冶谷は、慶安三年(1650)九月の大洪水で崩れてしまい。その子孫は直江に移り住んだと、伝えられている。

説明板より

善教寺の境内に説明板があるのみです。
寺の参詣者用の駐車場がありました。

2021年09月03日 ▼猫耳▽萌ですが…。
西島城[高須城  周辺城郭]



築城時期は不明。吉村次郎左衛門の居城とされる。西島城の東にある、松ノ木城主 吉村兵庫頭信実や吉村又吉郎氏吉と思われ、松ノ木城の支城として築城されたと思われる。

城跡は、明蓮寺の北側辺りと推定され、集落のひときわ大きな木のある民家に、土塁が残っているらしい。輪中内の古い民家は、敷地自体が石垣で嵩上げされ母屋等建てられ、更に嵩上げした石垣の上に土蔵が建てられており、一軒一軒が城跡に見えてしまう。

2021年09月02日 ▼猫耳▽萌ですが…。
駒野城[高須城  周辺城郭]

駒野城  海津市指定史跡
正暦年間(990〜994)船岡山と称されていた。

この小丘に初めて城を構えたのは、瀬戸道明寺であったと伝えられる。文治・建久年間には、守護職 土岐氏が城を築き守将を置いた。

承久年間 伊藤裕朝が守将となり、十二代 裕長に至り、天文十六年滅亡した。その後は、斎藤道三の客分 高木彦左衛門が居城していた。

織田信長が領国巡視を行った時、駒野城に入ったとも言う。信長没後、信雄方についた駒野城の高木貞利と、その一族は天正十二年(1584)秀吉方の筒井順慶らと戦って、これを退却させた。

その後、秀吉の天下となった為、高木氏は開城し一族は離散した。慶長五年(1600)石田三成が、南濃を巡察した時、桑名から大垣への守りの為に、塁壁を構えさせたと云われる。

関ヶ原戦後、駒野城は廃城となり、高須藩 松平氏の所領となったが、明治三十五年 城山小学校校地として寄付された。

説明板より

海津市のHPには、本丸曲輪とそれを取り巻く土塁、ニの曲輪の一部が確認出来るとありますが、小学校の敷地の為、校門の少し奥に設置された説明板を確認して、撤収しました。

2021年08月22日 ▼猫耳▽萌ですが…。
今尾城移築門[高須城  遺構・復元物]



海津市指定有形文化財  西願寺山門
西願寺の山門は、明治時代の初期まで今尾の町内にあった今尾城の城門の一つが移されたものてある。
今尾城には天守閣はなかったが、まわりを堀や藪で囲み、その建物が堀から浮び上がるように建っていた。御城屋敷・書院屋敷及び役屋敷の三構えに分かれ、内郭には濡門と外郭には辰巳門と呼ばれる門があり、藩士といえども、この門を通るには、それぞれ厳しい掟があったという。
城門というのは、敵を一人も入れないように、どの城においても頑丈に造られている。門は単なる城の入口では無く、城を守る為に大切なもので、まさに城の命とも言うべきものである。
明治時代になって武士の時代が終わった為、城の必要性が無くなり、多くの城が取り壊された。今尾城もその中の一つで、一般の人々に売りに出されたのを西願寺が譲り受け、後の世の形見にと明治七(1874)年頃、この場所に寺の山門として移築されたものである。
歴史のある木造建築であると共に、城門建築としても価値がある。
海津市教育委員会

寺の山門としては、珍しい長屋門形式の山門で、左右の長屋部分に特徴的な飾り窓がある。
長屋部分の下半分が元々は下見張り?だったと思われるが、モルタル?になってしまっている。
現在、鐘楼の下の石垣修復中の為、門の裏に鐘楼の破風と思われる部材が置かれていた。

2021年08月21日 ▼猫耳▽萌ですが…。
今尾城[高須城  周辺城郭]



今尾城と竹腰氏
今尾城のはじまりは、文明年間(1469〜1487)と言われ、中島氏、高木氏らを経て、天正十五(1587)年に市橋下総守長勝が入城しました。
関ヶ原の合戦後、一時的に幕府が支配しましたが、元和五(1619)年、尾張藩祖 徳川義直の異父兄にあたる同藩付家老 竹腰山城守正信の居城となり、明治維新までつづきました。
『濃州安八郡今尾村絵図』によると幅の広い濠を三重にめぐらし、西側には、土塁(堤防)が築かれています。その内側に「御城屋敷」「書院屋敷」「役屋敷」が設けられましたが、天守などは無く、今尾陣屋とも呼ばれました。
今尾小学校を中心とする周辺一帯がその遺跡とされ、周囲の水路なとにその名残りを感じる事が出来ます。また西願寺(東本町)の山門は今尾城の門の一つを移築したものといわれ、海津市の文化財に指定されています。
江戸時代の今尾城主 竹腰氏は、犬山城主 成瀬氏とならぶ尾張藩の重臣でした。所領は美濃国と尾張国のうちで合計三万石を与えられ、江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐しました。幕末期、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、九代 竹腰正富(正美)は佐幕派を支持して、一時失脚しました。
慶応四(1868)年、同じく徳川御三家の付家老であった成瀬氏(尾張)・中山氏(水戸)・安藤氏(紀伊)・水野氏(紀伊)とともに、明治新政府に働きかけ、立藩を許されました。
今尾藩はわずか三年足らずで廃藩を迎え、敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられて、現在に至ります。
  高須藩松平三万石顕彰会 説明板より

小学校周辺は、少し高くなっています、この辺りがやっぱり主郭跡で、説明板後ろの、盛土が土塁跡に見えなくもないかな。

2021年06月17日 北風
高須城



リア攻めマップは高校の中です。隣の土建業者さん同様に市道を走って行くと遺構の雰囲気はありません。高須松平3万石のイメージが色々遺っています。尚、幕末に活躍した高須四兄弟は、本文で少し触れられていますが逸材揃い、ネットで検索してください。お時間のある方は最後の写真、城を模した海津市の資料館へどうぞ。

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