今尾城
今尾城([高須城 周辺城郭])
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今尾城の口コミ情報
2023年01月23日 RED副将軍
現状は小学校敷地となり案内板と碑が立つのみ。
近くに移築された城門が現存しています。
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
文明年間(1469年〜1487年)に美濃守護代の斎藤利国の家臣である中島重長によって築かれたと云われます。
中島氏4代の居城でしたが、1562年に織田信長による西美濃侵攻で攻められ中島氏は滅亡しました。
その後、織田信長の家臣である高木貞久が駒野城から今尾城へ入城。
高木氏はその後も貞利、貞盛と続きましたが、1584年の小牧長久手の戦いにおいて織田信雄に従いましたが、羽柴秀吉軍により攻められ敗戦。池田恒興家臣の森寺清右衛門が入城しましたが、1587年に池田恒興が転封となると、市橋長勝が入封しました。
市橋長勝は、1600年の関ヶ原戦いでは東軍に属し、加増されて二万石の大名となりました。
1610年に伯耆国へと市橋氏が転封となると、しばらく天領となり、1619年に尾張藩付家老の竹腰正信が入城し、明治を迎えるまで竹腰氏が代々続きました。
見所
現在は今尾小学校の敷地となり案内板と城跡碑が設置されています。
近くの西願寺には城門が山門として移築され現存しています。
2021年08月21日 前田利家猫耳メイド萌
今尾城と竹腰氏
今尾城のはじまりは、文明年間(1469〜1487)と言われ、中島氏、高木氏らを経て、天正十五(1587)年に市橋下総守長勝が入城しました。
関ヶ原の合戦後、一時的に幕府が支配しましたが、元和五(1619)年、尾張藩祖 徳川義直の異父兄にあたる同藩付家老 竹腰山城守正信の居城となり、明治維新までつづきました。
『濃州安八郡今尾村絵図』によると幅の広い濠を三重にめぐらし、西側には、土塁(堤防)が築かれています。その内側に「御城屋敷」「書院屋敷」「役屋敷」が設けられましたが、天守などは無く、今尾陣屋とも呼ばれました。
今尾小学校を中心とする周辺一帯がその遺跡とされ、周囲の水路なとにその名残りを感じる事が出来ます。また西願寺(東本町)の山門は今尾城の門の一つを移築したものといわれ、海津市の文化財に指定されています。
江戸時代の今尾城主 竹腰氏は、犬山城主 成瀬氏とならぶ尾張藩の重臣でした。所領は美濃国と尾張国のうちで合計三万石を与えられ、江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐しました。幕末期、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、九代 竹腰正富(正美)は佐幕派を支持して、一時失脚しました。
慶応四(1868)年、同じく徳川御三家の付家老であった成瀬氏(尾張)・中山氏(水戸)・安藤氏(紀伊)・水野氏(紀伊)とともに、明治新政府に働きかけ、立藩を許されました。
今尾藩はわずか三年足らずで廃藩を迎え、敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられて、現在に至ります。
高須藩松平三万石顕彰会 説明板より
小学校周辺は、少し高くなっています、この辺りがやっぱり主郭跡で、説明板後ろの、盛土が土塁跡に見えなくもないかな。