福束城(ふくつかじょう)

福束城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県安八郡輪之内町福束

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

福束益行

築城年

応永21年(1414)

主な改修者

主な城主

福束氏(土岐氏家臣)、丸毛氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

消滅

指定文化財

町史跡(福束城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

大垣城(岐阜県大垣市)[6.8km]
八神城(岐阜県羽島市)[7.4km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[7.6km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[8.6km]
長松城(岐阜県大垣市)[8.6km]

福束城の解説文

※この城郭は2019年4月6日に名称と位置が変更となりました。

福束は川の利用が重要な時代には、交通の要所であった。現在の船付、栗笠、烏江は三湊と呼ばれ、牧田川に沿った舟の発着地である。このあたりは舟運の便がよく、物資や人びとの集散繁く賑わうところだった。

福束城跡は、明治33年の木曽・長良・揖斐の三川分流工事によって跡形は全く失った。里伝によると改修工事以前は、老楓の下に小さな祠があって、わずかに城跡の名残をとどめていたという。

その位置は、揖斐川の城浦渡場とその南の鎮所の端を結んだ線の川の中央あたりだったようである。

美濃国諸旧記に福束城は“応永21年(1414)9月、土岐氏の家臣であった福束蔵人十郎益行が築城して南伊勢との船運を取仕切っていた。その後、正長元年(1428)に丸毛光慶が居城し、以来代々丸毛氏が継いだ”と書いている。

丸毛氏は代々2万石の小大名であるが、西濃では有数の実力者であった。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のとき、福束城主丸毛兼利は、東軍の福島正則たちからの誘いがあったが断り、石田三成の西軍に加わった。

8月16日、大藪村、大槫村に西軍の援軍とともに陣を敷いて、東軍の今尾城城主の市橋長勝、松ノ木城主徳永寿昌の軍と大槫川をはさんでにらみ合いをしたが、夜になって市橋軍の一隊が楡俣、十連坊へ忍び込み村人を味方につけ、火の手をあげたため、丸毛軍は、こらえきれなくなり、福束城を捨て17日になって大垣城へ落ちていった。

以後は城主なく、断絶した。

福束城には、市橋長勝が入り、関ヶ原合戦の東軍勝利のため働いた。

丸毛軍が、徳川方と激しく戦った大藪地区では、戦いで死んだ人や傷ついた人がいた。東大藪の北塚は、その時の戦死者を葬ったところといわれている。

丸毛兼利は、関ヶ原合戦後、加賀の国へ落ちていき、病死したといわれているがはっきりしない。

情報提供:輪之内町教育委員会

福束城の口コミ情報

左近衛中将さん[2017年07月22日]
福満寺内に今年3月に建てられたばかりの案内板があります。
城跡は川底に沈んでしまっています。
治水工事をする以前、まだ川が浅いときには石垣が見られたそうで、近所の年配の方が子どもの頃はよく遊んでいたそうです。
お寺付近には関ヶ原戦没者を供養したお墓もあります。

【駐車場情報】
寺内に3台ほどの駐車場はありますが、入口がわかりにくいためおすすめはできません。
北に数メートル離れた道路脇に駐車スペースがあるのでこちらにとめた方が無難です。(看板はありませんが、お寺の駐車場とのこと)

訪問した際、たまたま居合わせたお寺の方にいろいろとお話をお伺いすることができました。とても親切丁寧な対応、感謝致します。

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