福束城(ふくつかじょう)

福束城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県安八郡輪之内町福束

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

福束益行

築城年

応永21年(1414)

主な改修者

主な城主

福束氏(土岐氏家臣)、丸毛氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

消滅

指定文化財

町史跡(福束城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

大垣城(岐阜県大垣市)[6.8km]
八神城(岐阜県羽島市)[7.4km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[7.6km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[8.6km]
長松城(岐阜県大垣市)[8.6km]
高須城(岐阜県海津市)[8.7km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[9.4km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[10.5km]
曽根城(岐阜県大垣市)[11.5km]
垂井城(岐阜県不破郡)[11.8km]

福束城の解説文

福束は川の利用が重要な時代には、交通の要所であった。現在の船付、栗笠、烏江は三湊と呼ばれ、牧田川に沿った舟の発着地である。このあたりは舟運の便がよく、物資や人びとの集散繁く賑わうところだった。

福束城跡は、明治33年の木曽・長良・揖斐の三川分流工事によって跡形は全く失った。里伝によると改修工事以前は、老楓の下に小さな祠があって、わずかに城跡の名残をとどめていたという。

その位置は、揖斐川の城浦渡場とその南の鎮所の端を結んだ線の川の中央あたりだったようである。

美濃国諸旧記に福束城は“応永21年(1414)9月、土岐氏の家臣であった福束蔵人十郎益行が築城して南伊勢との船運を取仕切っていた。その後、正長元年(1428)に丸毛光慶が居城し、以来代々丸毛氏が継いだ”と書いている。

丸毛氏は代々2万石の小大名であるが、西濃では有数の実力者であった。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のとき、福束城主丸毛兼利は、東軍の福島正則たちからの誘いがあったが断り、石田三成の西軍に加わった。

8月16日、大藪村、大槫村に西軍の援軍とともに陣を敷いて、東軍の今尾城城主の市橋長勝、松ノ木城主徳永寿昌の軍と大槫川をはさんでにらみ合いをしたが、夜になって市橋軍の一隊が楡俣、十連坊へ忍び込み村人を味方につけ、火の手をあげたため、丸毛軍は、こらえきれなくなり、福束城を捨て17日になって大垣城へ落ちていった。

以後は城主なく、断絶した。

福束城には、市橋長勝が入り、関ヶ原合戦の東軍勝利のため働いた。

丸毛軍が、徳川方と激しく戦った大藪地区では、戦いで死んだ人や傷ついた人がいた。東大藪の北塚は、その時の戦死者を葬ったところといわれている。

丸毛兼利は、関ヶ原合戦後、加賀の国へ落ちていき、病死したといわれているがはっきりしない。

情報提供:輪之内町教育委員会


福束城の口コミ情報

2023年01月30日 玄蕃頭 高雅
福束城



行ってみて確信。
来るの2回目でした(笑)

南に接してる秋葉神社と紛らわしいのでご注意を。

ちなみに看板にある中で
松ノ木城の場所付近に御霊神社がありましたが
そこが城かどうかは確認出来ませんでした

2023年01月28日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
烏江城[福束城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』によると、近鉄烏江駅の南側一帯にかけて「烏江城」という、城があったとさせる。
寛永三年(1626)に、善正寺の住職 鈴音が、烏江城の絵を描いた際、『この絵図は濃州多芸郡石津庄烏江城にまつわる伝記、ならびに『古老物語』を参考に録したもので、浅井備前守長政が領して、当城を守らせ交代の武士を置いたのだが、後に織田信長に滅ぼされた。』と記している。
養老町教育委員会の『養老町の歴史文化資源』では、杭瀬川と牧田川の合流地点北、現在の牧田川の中心地の川敷内に砦程度ではあるが、烏江城があったと伝えられている。善正寺文書によれば、文明四年(1472)の頃は、吹原久内左衛門重時善正が城主であった。善正寺住職 吹原竜二氏の先祖にあたる。

この辺りには、吹原家が代々庄屋を務めた、周囲に堀をめぐらせた大邸宅あったとされ、牧田川の改修により、その屋敷も現在は無くなっているが、烏江城の跡地を利用して庄屋の屋敷となったのかもしれない。

2023年01月23日 長谷川平蔵
福束城



遺構は確認できませんが、福満寺境内に、関ヶ原の戦いの前哨戦として、丸茂兼利と福束城を紹介する看板により当時を偲ぶことができます。アクセスの道路は狭いので、リア攻めの際は注意してください。御城印は、境内か近くのイオンモールで入手できますよ!

2023年01月16日 ぴあ野
福束城



現在は、満福寺というお寺なので、カーナビをセット。ところが、ナビちゃんのガイドは、わかりにくく、堤沿の車一台分の細いを走らされ、ドキドキしました。お寺の裏から入ることになりますが、結果オーライ、何とか、とめられました。今は静かなお寺です。でもこの辺りのお約束、関ヶ原合戦の解説板が城跡であることを偲ばせてくれました。

2022年12月30日 あだち左兵衛尉
福束城



お寺の一角に案内板と大きなな鬼瓦があります。とても良く感動します。

2022年12月29日 在来線男右京進
福束城



堤防側から行きました。車1台やっと通れる入口の狭さです。車は2台しか停めれません。お寺の本堂と鐘楼がありました。トイレも完備してます。お城らしきものは何もありませんでした。

2022年12月07日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
大跡城[福束城  周辺城郭]



築城時期、築城主は不明。
戸倉九久右衛門の居城とされ、(年代不詳)渋谷宗印に攻められ、落城したとされる。

城跡は、六社神社東側、随陽寺南側辺りとされ、大正時代頃までは二重の堀が残っていたらしいが、昭和三十四年八月十三日の集中豪雨の後に埋められ水田となったと言う。

2022年12月06日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
下笠城(下笠陣屋・下笠代官所)[福束城  周辺城郭]



築城時期は、不明。別名 下笠陣屋・下笠代官所。
田中喜兵衛の居城とされる。

城跡は、素戔嗚神社周辺とされるが、遺構等は無く、素戔嗚神社北側に、下笠代官所址の石碑が立つのみです。

下笠代官所址石碑碑文。
『左面』元和元年(1615年)から、元禄十二年(1699年)まで、八十四年間ここに代官所が置かれ、初代 石原清左衛門一重から第四代 石原清左衛門正利まで、この地方の幕府直轄地の年貢の収納や、その他政治を支配しました。
『右面』初代 石原清左衛門一重は、上有知(現美濃市)の代官から下笠代官所へ移り、代々清左衛門を襲名し、二代 正重、三代 正永と続き、四代 正利の時、四日市代官所へ移りました。正利は呂千と号し俳句をよくしました。

2022年11月16日 秋月美濃守十兵衛
福束城



御城印は少し離れた輪之内町役場に❗土日祝は町内にあるイオンタウンでも買えるようなことが書かれていました。

2022年11月13日 【瓢】毘沙門天剣士尾張守
福束城

車で行きました。駐車場が分かりませんでした。堤防道路側から行くと停めやすい所がありましたよ。

2022年11月06日 SATO右近衛少将
福束城



1つもらって帰りました、うれしいですね。

2022年10月12日 雲如露絶兎
福束城



【限定】10月15日まで堤防道路が工事で通行止めです。ご注意を下さい。

2022年10月11日 楠円心
福束城

訪れた昨日は直ぐ側の揖斐川堤防沿いの道が通行止めになっていてウロウロしてしまいました。
駐車場となっている場所もスレ違いが難しい道なので徐行して行かれてください。

2022年10月10日 トミー
福束城



行ってきました。
輪中を感じ堤防内の寺院に面影をほのかに感じる素敵な場所でした。
車で福満寺の案内板どおりにいくとつくのですが、最後たんぼのど真ん中の一車線は大型車ですれすれの幅で入るのに躊躇しますが、向こうのカーブミラーででる車がみて待ってくれているのでチャレンジしてみて下さい。駐車場という名前のスペースは斜めに置いて3台すれすれが寺の入り口手前にあります。お寺の方が気さくに声をかけていただきよかったです^_^

2022年10月08日 シゲ越前守豊右衛門
福束城

カーナビでは、福満寺が案内されますが、当寺の駐車場は、3台程度しか駐車出来ないので、ご注意

2022年10月08日 橙百姓
福束城

跡地付近は住宅地であり、堤防側は一部通行止めの処置(期間は不明)がしてありました。車で行く方は注意して下さい。

2022年10月07日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
大葉城[福束城  周辺城郭]



築城時期は不明。土岐氏の末流、岡田左馬助頼時の居城とされ、岡田頼時は大葉城から、安八町の結城に移り、更にその後、加賀の前田利家に仕えたという。

城跡は、西運寺の周辺と伝わるが、八幡神社の辺りともされ詳細は不明。

2022年10月06日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
輪之内町産業課[福束城  御城印]



輪之内町立図書館・歴史民俗資料館の東側にある、輪之内町役場内の1階の奥の方にあります。福束城の御城印は、2種類 各300円です。

会計室の所に、特産品?が置いてあった?飾ってあったが、そこで購入が出来るかは不明です。(勇気が無かった…。)

2022年09月18日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
北塚[福束城  寺社・史跡]



慶長五年(1600)九月十五日に、関ヶ原合戦がありました。当時、福束城には、石高二万石の丸毛三郎兵衛兼利が居城していました。福束城は揖斐川沿いにあり、舟運の便がよく、重要な地点でありましたので、東西両軍から誘われましたが、丸毛氏は豊臣秀吉と親しかったため、西軍に加わりました。
関ヶ原合戦の前哨戦といわれる、八月十六日の夜半、東軍がひそかに大榑川を渡り、楡保村・十連坊村の集落に火を放ち、西軍を急襲しました。西軍は必死に戦いましたが敗れ、福束城は落ちました。
多くの両軍の兵が、原野を血に染め傷つき倒れました。戦いの後、村人は勝者敗者の区別なく遺骸を葬り、石仏を建て塚を築き、墳墓としました。
この地が、大藪の北部に位置するので、いつしか「北塚」と呼ぶようになり、地元では今も花や水を供えて弔っています。
説明板より。

北塚の南側に駐車場があります。

2022年09月13日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
宝暦治水三之手出張小屋跡[福束城  寺社・史跡]



薩摩藩による、宝暦四年(1754)〜五年のお手伝い普請「大榑川洗堰」築造などの際、工事のため出張小屋が、大藪の庄屋 渡辺勘右衛門の屋敷におかれた。
当時の、渡辺家の屋敷「一本松屋敷跡」は、その面積1515坪(約5000㎡)に及ぶ。
現在この地の中、52坪(約170㎡)が町に寄附され、大藪地区 戦没者墓地となっている。
説明板より。

輪之内町コミュニティバス、大藪バス停南側の細い路地の先に標柱と説明板があります。

2022年09月06日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
金谷城[福束城  周辺城郭]



築城時期は不明。
室町期、土岐氏に仕えた、伊藤氏の居城とされ、関ヶ原の戦いでは西軍に味方して、東軍に抵抗したとされている。

城跡は、御井神社付近にあったと、伝えられているが、御井神社は高速道路の建設に伴い、現在の位置に遷座されているので、此処よりも東側にあったと思われる。
金屋川原の古戦場の近くなので、金谷城はこの時に、落城したのだろうか?

御井神社には、城跡を示す石碑は無いが、金屋鋳物師居住の跡の石碑があります。
金屋は、室町時代から江戸時代初期にかけ鋳物師が繁栄し、当代美濃国の梵鐘等の鋳造を独占していたという。
現在、美濃市大矢田神社の鐘、谷汲山華厳寺の鍔口等の外十数点の作品が残っている。金屋という地名も、その名残りであるといわれる。
石碑碑文より。

2022年09月06日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
金屋川原古戦場[福束城  寺社・史跡]



慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで、栗原山・岡ケ鼻に陣を構えていた西軍の将は、その敗報を聞いて、戦わずして伊勢方面へ逃げようとした。東軍の徳永・市橋・横井等の軍は、口ケ島・岩道村に陣を構えていたか、直ちにこれを金屋川原に迎え撃った。
この戦いで、東軍は侍八十一人、雑兵六十三人の首を挙げた。金屋の春日神社の側、堤防の下にあるムクの巨木は、その首を埋めた墓標といわれ、玉泉寺には、戦死者を弔った五輪の塔が祀られている。
石碑碑文より。

2022年09月05日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
大塚城(大墳城)[福束城  周辺城郭]



荘福寺  大塚城の址
(石碑右面)
荘福寺は小笠原長清が、建久年間(1190〜1199)に創建し、小笠原家の末裔 丸毛家の菩提寺である。元禄十二年(1699)焼失、後、再建した。
室町時代の歌人、徹書記の配流地で、姥石の伝説がある。
長清の遺骨を納めた、漆骨蔵器は県指定重要文化財である。
昭和九年(1934)牧田川改修のため、現在地 押越に移築した。
(石碑左面)
丸毛六郎兼頼は、小笠原長清六世の孫で、丸毛家の始祖である。荘福寺 境内にあった大塚城に住み、その子孫は多芸郡に勢力を広め、織田信長・豊臣秀吉に仕え、一万石を領していた。
丸毛三郎兵衛兼利(安職)は、天正十七年(1589)安八郡 福束城に移り、二万石を領した。慶長五年(1600)関ヶ原の戦には、西軍に属し敗退した。後、前田家に仕えた。

堤防下の、ソーラーパネルに囲まれた場所に、石碑と井戸跡のようなものがある。
丸毛氏の居城なんの因果が、大塚城、福束城と河川改修の為に、姿を消す。

2022年09月05日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
直江志津日本刀鍛錬所址[福束城  寺社・史跡]



志津で多くの名刀を生んだ、志津三郎兼氏の子兼俊は、直江に鍛錬所を設け、直江六郎を名乗り、直江志津と称しました。鎌倉末期から室町期にかけて、その一派から多くの名工が出て、志津派・赤坂派・関派とともに栄えました。
石碑碑文より。

この付近にあった、西光寺が廃寺となった際に、境内にあったと五輪塔・石塔・石仏がこの地に、移されたと言う。

躊躇する藪の中かと思ったら、綺麗に通路があり、石塔などに樒?が供えられ、大切にされていると思いました。

2021年11月07日 近江守フロクニ
福束城



現在堤防工事中でR3.03.31まで立ち入りが出来ない。福満寺に看板が有るのみか。

2021年09月26日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
宇田城[福束城  周辺城郭]



宇田城跡
応安年間(1368〜1374)土岐悪五郎康貞の子、康任が可児郷より、宇田の地に移り住み、宇田館を築城したことに始まり、子孫は当地に勢力を伸ばし繁栄を見た。
天文二十一年(1552)美濃国守護 土岐頼芸勢として、大桑合戦に参加し齋藤方に敗れる。以降、一族に衰えが見られ、当地より離散する者が現れるようになり、当城も廃城となる、
現在、城を偲ぶものとしては、城内に築かれ康貞親子を弔う大通寺と、小字 堀之内の地名が残るのみである。
           説明板より
寺の西側の墓地の片隅に、城主の五輪塔があります。
大通寺の寺標、東側辺りが駐車場となっています。

2021年09月26日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
根古地城[福束城  周辺城郭]



築城時期は不明。
城主は、徳永左馬助昌重で、徳永寿昌の子と伝えられている。
城跡は、天照寺の境内と伝えられており、周囲より若干微高地となっているが、遺構などは残っていない。
天照寺には、天照寺薩摩工事義歿者墓や、薩摩義士資料館があります。
また、根古地地内の主な遺跡や、宝暦治水史跡の案内図等もありましたが、城跡に関係する説明板はありませんでした。
笠松町から南濃周辺には、薩摩義士の墓や慰霊碑が点在しています。薩摩カイコウズ街道等もあり、強い感謝の意を感じられます。

2021年09月07日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
松ノ木城[福束城  周辺城郭]



築城時期は不明。 別名 美濃高松城

戦国期には、織田信長に仕えていた、吉村兵庫頭・同又吉郎安実が居城としていたが、信長の没後は、その次男である織田信雄に仕えた。しかし、信雄が改易されると、吉村氏は徳川氏に従って関東へ移った。
天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後、豊臣秀吉の家臣 徳永寿昌が尾張 丹羽郡・美濃 松木氏 島内を与えられ居城とした。
秀吉没後、寿昌は井伊直政の招きによって、徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦が起ると、福島正則に属して、今尾城主 市橋長勝とともに高須城主 高木盛兼・福束城主 丸毛兼利らの石田三成軍と対峙し、福束城・高須城を攻め落とした。
戦後、徳永寿昌は戦功により2万石を加増され、5万余石を領し、その後、居城を松ノ木城から高須城へ移し、廃城となったと思われる。

城跡の位置は正確には、分かっていないが、推定地の一つとして、松ノ木公園西側の御霊神社一帯に築かれていたと云われています。
神社北側辺りに、空堀跡ぽい?窪地がありますが、写真では分からない。
神社の参道に車止めが並んでいるので、数台駐車てきます。

2021年09月04日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
津屋城[福束城  周辺城郭]



津屋城は、関ヶ原合戦まで 高木八郎左衛門正家が居城していたが、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の時、石田三成方(西軍)に従った為、没落し廃城となった。八郎左衛門正家は記録によれば、高須城主 高木十郎左衛門の縁者であり、十郎左衛門は高須旧記によると、文禄元年〜慶長五年八月(1592〜1600)まで高須城主に在り豊臣秀吉の旗下と伝えられる。

現在は、慶長八年(1603)に当時の領主 徳永法印寿昌(高須城主)の許しを得て移された、本慶寺となっている。寺を中心とした付近一帯が城跡で、主郭部は境内にあるが付近は道路が通じた住宅が建ち、全容を明らかにする事は出来ない。

主郭は内堀と土塁に囲まれた区画内で、西北隅の一画(離屋敷地)が一の曲輪、それより一段低い平地(本堂・庫裡敷地)がニの曲輪で南側内堀の外側に三の曲輪(畑地)があり、大手門があったと考察される。堀は主郭を囲む内堀と、三の曲輪を内側とした外堀の二重堀で、西高東低の傾斜地の為、南・西・北の三方は空堀で東側は水堀とし、ことに外堀東側は津屋川を中心とした池沼となっている。

主郭の西側に屋敷、北側に西曲輪・台所曲輪が配され、東側虎口に一段低く大手曲輪があり、更にその下段に屋敷・馬場などが川岬に配置されていたようである。

津屋城跡は、北勢地方に多く見られる「北勢四十八家衆」の城と城地条件・縄張形式がまったく相似しており、歴史的連繋が伺われる。岐阜県では、希な中世平城遺構で貴重な文化財といえる。

海津市教育委員会 説明板より

寺の山門は、津屋城の城門を転用したものと伝えられている。境内の南から西に空堀があり、西側は土塁も残っているらしいが、薮に埋もれて確認出来なかった。

参詣者用の駐車場あり。

2021年06月17日 北風
福束城

リア攻めマップは川の中です。揖斐川の川道も改修工事で変わったのでしょう。この立派な完全締切堤防も旧河川法に基づく改修のおかげです。この輪之内町は正に輪中で、長良川決壊の災害でも守られていました。尚、揖斐川の右岸側にも飛び地がありますが、塩喰の輪中の真ん中に川が瀬替えされて分かれたそうです。

2020年11月23日 くっしー雅楽頭尚人
福束城



遺構は完全に消失。揖斐川の中です。
揖斐川の東側に福満寺というお寺がありますが、その境内に説明看板が設置してあります。

ちなみに、車を止めるところがなかったのでお寺の南側にある白髭神社の前に車を止めさせてもらいました。

2017年07月22日 羊左近衛中将
福束城

福満寺内に今年3月に建てられたばかりの案内板があります。
城跡は川底に沈んでしまっています。
治水工事をする以前、まだ川が浅いときには石垣が見られたそうで、近所の年配の方が子どもの頃はよく遊んでいたそうです。
お寺付近には関ヶ原戦没者を供養したお墓もあります。

【駐車場情報】
寺内に3台ほどの駐車場はありますが、入口がわかりにくいためおすすめはできません。
北に数メートル離れた道路脇に駐車スペースがあるのでこちらにとめた方が無難です。(看板はありませんが、お寺の駐車場とのこと)

訪問した際、たまたま居合わせたお寺の方にいろいろとお話をお伺いすることができました。とても親切丁寧な対応、感謝致します。

福束城の周辺スポット情報

 粟笠湊跡(碑・説明板)

 烏江湊跡(碑・説明板)

 船附湊址(碑・説明板)

 高田湊跡(碑・説明板)

 津屋城(周辺城郭)

 松ノ木城(周辺城郭)

 根古地城(周辺城郭)

 宇田城(周辺城郭)

 大塚城(大墳城)(周辺城郭)

 金谷城(周辺城郭)

 烏江城(周辺城郭)

 押越城(周辺城郭)

 前田屋敷(周辺城郭)

 大跡城(周辺城郭)

 大葉城(周辺城郭)

 飯田城(周辺城郭)

 下笠城(下笠陣屋・下笠代官所)(周辺城郭)

 柏尾城(周辺城郭)

 淡海城(周辺城郭)

 鷲巣城(周辺城郭)

 高田城(周辺城郭)

 福満寺(寺社・史跡)

 北塚(寺社・史跡)

 直江志津日本刀鍛錬所址(寺社・史跡)

 金屋川原古戦場(寺社・史跡)

 荘福寺(寺社・史跡)

 宝暦治水三之手出張小屋跡(寺社・史跡)

 柏尾廃寺(寺社・史跡)

 中将姫公園(寺社・史跡)

 輪之内町産業課(御城印)

 福満寺(御城印)

 ホッとステーション「わのうち」(御城印)

 福満寺駐車場(駐車場)

 養老町 郷土資料館(関連施設)

 輪之内町立図書館・歴史民俗資料館(関連施設)

 感謝碑(薩摩義士)(その他)

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