曽根城(そねじょう)

曽根城の基本情報

通称・別名

曾根城

所在地

岐阜県大垣市曽根町1

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

不明

築城主

稲葉良通

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

主な城主

稲葉氏、西尾氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

(発掘調査:石垣、土塁)

指定文化財

市史跡(曽根城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[4.0km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[4.3km]
大垣城(岐阜県大垣市)[4.7km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[6.0km]
長松城(岐阜県大垣市)[6.4km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[7.4km]
北方城(岐阜県本巣郡)[7.5km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[9.0km]
垂井城(岐阜県不破郡)[9.4km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[11.4km]

曽根城の解説文



曽根城(そねじょう)は、現在の岐阜県大垣市にあった戦国時代の日本の城である。大垣市指定史跡。

旧字を用いて曾根城とも表記される。春日局ゆかりの地である。

概要 

後述の華渓寺所蔵の「濃州曽根古城跡図」によれば、本丸の東に二の丸があり、内堀と外堀、城下町を囲む惣堀を備え、家老屋敷、侍屋敷、町屋などが並んでいたとみられる[1]。本丸は1000坪、二の丸を含めると4,000ないし5,000坪の規模だったと推定されている。

歴史 

  • 築城は永禄年間(1558年 - 1569年)、稲葉良通(一鉄)による。
  • 本能寺の変後、稲葉一鉄は豊臣秀吉の不審を買い、現在の揖斐郡揖斐川町清水に退く。その後、1588年(天正16年)、西尾光教が城主となる。
  • 関ヶ原の戦いでは、西尾光教は東軍に属す。西軍の島津義弘の兵が城下に火を放ち、銃撃するという示威行為を行う。水野勝成が援軍に駆けつけ反撃をしている。
  • 関ヶ原の戦い後、西尾光教はその功績により、揖斐陣屋(揖斐城の近く。現在の揖斐川町三輪)に移り、1601年(慶長5年)廃城される。

春日局との関係 

  • 春日局の父は明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉良通(一鉄)の娘である。後に稲葉正成の妻となっている。
  • 華渓寺に伝わる古地図には、斎藤利三の住居が記載されている。娘の春日局もこの地で誕生したという説もあるが、利三は当時、主君の明智光秀に従い、丹波国の黒井城にいる。

所在地 

  • 岐阜県大垣市曽根町1丁目

現在 

  • 本丸址には現在華渓寺という寺院がある。この寺は、稲葉一鉄が母親の菩提寺として建立した寺で、1734年(享保19年)にこの地に移転した。
  • 1989年の発掘調査の結果、華渓寺の北側より石垣や土塁などが発見されている。これらは保存のため埋め戻され、地上に復元されている[2]
  • 当地出身の江戸時代の漢詩人梁川星巌とその妻である紅蘭を記念した、梁川星巌記念館がある。
  • 東側の平野井川堤防には明治22年決壊之地の碑がある。公園内の池は碑に記された決壊の前の決壊の時に形成されたもので、押堀(おっぽり)という名称である。

曽根城公園 

  • 一帯は曽根城公園として整備されている[3]。約20,000m2の敷地に約4,000m2の池(湿地)があり、約80種、約1万6千株のハナショウブがある。
  • 毎年6月上旬、曽根城花しょうぶ祭が開催される。
  • 天然記念物のハリヨの生息地である。

交通機関 

  • 大垣駅前バスのりば1番のりばより名阪近鉄バス「大野バスセンター」行きで「曽根」または「未来精工前」バス停下車。徒歩15分。

曽根城の口コミ情報

2022年11月24日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
呂久の渡しと小簾紅園[曽根城  寺社・史跡]



呂久の渡し・呂久渡船場跡
天正時代 織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため、京に近く交通の要衝である、近江の安土城に居所を移した頃から、美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂〜呂久〜美江寺〜河渡〜加納の新路線が栄えた。
これが、江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ、中山道となりこの呂久の渡しも、それ以来、交通の要所となった。
慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は十三を数え、中でも船年寄 馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。
その頃の川巾は、平水で90㍍、中水で120㍍、大水では180㍍に及んでいたといわれている。
文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託され『おちてゆく 身を知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ』と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした、小簾紅園が建設され、昭和四十五年(1970)には巣南町指定の史蹟となった。
この地呂久の渡船場は、大正十四年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。
瑞穂市
説明板より。

少し、落ち葉多めになってましたが、紅葉が綺麗でした。

2022年11月24日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
西保北方城[曽根城  周辺城郭]



築城時期は不明。
不破道広が築城したとされています。孫の光治は、土岐頼芸に仕えていましたが、土岐氏没落後、斎藤氏に仕えました。その後は、織田信長に従い、柴田勝家の与力として前田利家、佐々成政とともに、越前に領地を与えられ竜門寺城に移りました。西保城は、次男の彦三郎が継ぎますが、本能寺の変で信忠と共に討死したため、城には妹婿の稲葉方通(一鉄の子)が入りました。方通も、加茂郡和知(和知城)に移った為、天正十八年(1590)から木村宗左衛門重広が城主となりました。重広は関ヶ原の戦いで西軍に属し、子の伝蔵と共に大垣城で戦死したため、西保北方城は廃城となったとされる。

城址碑の立つ民家の背後の竹藪の中には、土塁や堀跡が残っているらしいが、民家の敷地内なので詳細は不明。

2022年11月14日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
吉田城[曽根城  周辺城郭]



美濃 吉田城。別名 北方城の築城時期は不明。
南朝方に与し、北朝方の美濃 土岐氏と戦った、吉田休三入道の居城と伝えられ。
その後、木村宗左衛門勝正の居城となったとされる。

城跡は、慈恵寺の境内一帯とされ、山門の前に城址碑があり、寺の南側には堀跡の様な水路があるが、遺構なのかは不明。

2022年11月11日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
曽根城本丸跡石列[曽根城  遺構・復元物]



発掘調査(平成元年四月の結果、本丸に伴うと思われる石列と石敷遺構が発見されました。石列は、赤坂金生山から産する石灰岩の自然石を並べ、石敷遺構とあわせて郭の一部を形成しています。さらにその内側にも、主郭を囲んだ土塁が推測されています。
石列の年代は、出土品などから稲葉一鉄時代(1525〜1579)と推定できる重要な城館跡で、将来にわたり大切に保存するため埋め戻し、公園整備として地上復元を行いました。
大垣市教育委員会
説明板より。

地上復元されているが、駐車場として使われているのか?写真が撮れなかった。

2022年11月10日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
斎藤利三館跡[曽根城  関連施設]



曽根城家老 斎藤内蔵助利三屋敷跡。
曽根城公園 花菖蒲池の南西角地に石碑があるのみで、屋敷跡の痕跡は無い。
時期が良ければ、綺麗だったと思われる。

2022年11月10日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
紅蘭女史生誕之地・圓徳寺[曽根城  碑・説明板]



女流漢詩人及び梁川星巖の妻として、著名な紅蘭は、文化元年(1804)に曽根の庄屋である、稲津長好の次女として、この地に生まれました。幼名は「きみ」。漢詩人としては、「張紅蘭」と称しました。
十三歳の時に、又従妹の梁川星巖が江戸から戻り、私塾の「梨花村草舎」を開設したので、入塾しました。十七歳の時、二人は結婚しました。星巖 三十二歳、紅蘭 十七歳でした。
以後、江戸や京都に住み、星巖が天下の漢詩人として大成し、明治維新の成立に貢献した活動を、妻として弟子として支えました。
紅蘭が生涯に作った詩は、400首程で、どれも素晴らしく、画も巧みで「群蝶の図」は、大垣市の重要文化財に指定されております。
明治十二年(1879)京都において、七十六歳で死去。大正十三年月、維新成立に尽力したことに対して、従五位を追贈されました。

曽杭山 圓堂寺 由緒
平安時代、菅原道真公の直弟である、大炊御門の末孫 藤原家成が、この地に下向し、その三男 道隆が天台宗 圓徳寺を延喜十五年(915)建立した。
二十八人の村人と共に建立したことから、二十八姓の寺とも言われる。
その後、本願寺第三世 覚如上人が美濃に御巡化のおり、住職の清浄房釈正道は、帰依して十字の名号をたまわり、康永元年(1342)天台宗から、浄土真宗に改宗した、この時の住職を開基(初代)としている。
やがて、第七世住職 道善のもとへ戦国武将である、明智光秀の姉、照子が嫁いだ。道善と三人の男子は、天正十年(1582)山崎の合戦で光秀を助けて参戦したが敗退、長男は討死し、次男・三男は、輪之内町里と福束に落ち逃れ、現在その子孫が門徒として杉山・野村姓を名乗り、この地に住んでいる。
当時の伽藍は、戦禍で焼失したが後に復興し、また再建して今日に至っている。
説明板より。

曽根城周辺をウロウロして見つけた、お寺の由緒に山崎の合戦の文字が…。

2022年11月09日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
梁川星巖邸跡[曽根城  碑・説明板]



この地は、戦国時代に西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄の本拠・曽根城の一角であると共に、幕末の尊王憂国の漢詩人として、その名を全国に知られた梁川星巖が生まれ育った邸宅跡で、かっては広大な敷地に白壁造りの土蔵が建ち並んでいました。
星巖は、寛政元年(1789)に大垣藩郷士 稲津丈太郎長高の嫡男として生まれました。幼名を善之丞長澄といい、七歳の時に華渓寺住職 太隨和尚から厳格な指導を受け、十九歳で江戸に出て勉学に励み、その後、妻 紅蘭と全国を吟遊行脚しました。
そして、頼山陽・藤田東湖・佐久間象山など、高名な文化人・学者とも交友し、尊王の大義を主張するなど明治維新の成立に多大な影響を与えました。
大垣市教育委員会
説明板より。

空き地の片隅に、石碑と説明板があるのみで、遺構などは無い。

2022年11月09日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
石碑と説明板[曽根城  碑・説明板]



曽根城は揖斐川の支流、平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城です。
創建は室町時代末期に、稲葉道富によってなされたと言われ、以後稲葉氏の勢力拡大の拠点になりました。中でも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどの優れた武将で、織田信長・豊臣秀吉に仕えて、数々の戦功をたてました。
天正十六年(1588)西尾光教が、稲葉氏に替わって曽根城主になりましたが、関ヶ原合戦後、揖斐城に移り曽根城は廃城となりました。
その後、城跡は開墾され田畑となっていましたが、一鉄が生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が、享保十九年(1734)に現在の場所(本丸跡)に移築されました。
大垣市教育委員会
説明板より。

華渓寺の境内には、梁川星巖記念館があり、他にもいくつか石碑がありますが、達筆過ぎて読めないです。

2022年10月13日 ▷☽◁猫耳萌え▷☾◁
十九条城[曽根城  周辺城郭]



ここには「屋敷」という小字名があり、城屋敷の名残を示している。また、犀川が西で半円を描いて流れ、天然の要害をなし城地として適地であった。永禄四年(1561)五月 織田信長は西濃へ入り「州俣」(墨俣)の要害を固めて滞在していたが、斉藤氏が軽海(真正町)へ出兵して備えを固めたと知るや、西軽海へ出兵し戦いをいどんだ。激闘の後、斉藤方は引き上げたが、信長は州俣(墨俣)城だけでは充分でないとして、十九条村に一城を築き、一族の織田勘解由左衛門信益(犬山城主 織田十郎左衛門舎弟)を城主とした。軽海の戦いで、勘解由左衛門は戦死し、城は焼かれ以後、復興されなかった。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

城跡は、津島神社周辺されるが、説明板があるのみで、遺構などは残っていない。

2022年07月31日 SATO右近衛少将
曽根城



発掘調査の結果、出土した石垣を再現したものを見ることが出来ます。

2021年12月12日 くっしー雅楽頭尚人
曽根城



現状は華渓寺と公園になっていて城らしさは残っていません。だだ、説明看板に古地図が載せてあったので、当時の姿を想像できて面白かったです。
公園に駐車場がたくさんあるので、車を止めるのには困りませんし、トイレもありますよ!

2021年09月07日 図書頭桜姫
曽根城



頑固一徹の、稲葉一徹の城。芝生の綺麗な城址公園となり、水堀はまだなお水を湛えている。釣り人多し。駐車場正面に寺あり。菩提寺? 平成元年に発掘調査をし石垣が見つかり、埋め戻して公園にしたよう。赤坂金生山の石灰岩の石垣。平成にタイムスリップしたい、切実に。御家老の屋敷跡は、遊歩道のある湿地になっていた。

2021年07月24日 北風
曽根城



城址公園は、初春の桜トンネル(輪中堤)、春の花菖蒲園、夏のワサビ園(南隣民営)に清流の代名詞のハリヨと春日局縁の地(斉藤利三の口コミ参考)石碑前の池と郷土の偉人梁川星厳夫婦像前の芝広場と市民の憩いの場です。その立地は大垣輪中の最北部で安八郡神戸町の境界になります。堤防の切割りの写真(北100m位)の外側は平野井川で、この立派な堤を城の縄張りにしています。しかし、この防御施設でさえ明治期に破堤しました。決壊地の石碑(南300m位)が跡地にあります(大垣城本丸石垣浸水跡はまた別の後年のものです)。それでも城址周辺は、お囲堤外の沖積平野で洪水常習地にあって、堤頂部微高地にあります。本丸は一段と高いお寺さんとの石碑が建ちます。下の参道の城址石碑裏の井戸は自噴井で、市内十数箇所にあるものの一つです。ワサビ田は、この清流を活用しています。星厳翁は全国を漢詩行脚されましたが、中山道はすぐ南(大学キャンパス、グラウンド沿い)で輪中堤を乗越えます。尚、周辺には、中世の城跡や代官所が小輪中毎にあったようです。

2021年07月17日 清円院上野介華姫
曽根城

遺構はほぼありません。発見された石垣は埋め戻されたようです。本丸に鎮座している神社の横の広場は二の丸?三の丸?市民のいこいの広場みたいです。水堀跡?の池では釣りをしている方も居ました。

2021年01月12日 とんかつおやじND
斎藤利三館跡[曽根城  関連施設]



斎藤 利三(さいとう としみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。

利三は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめる(『寛政重修諸家譜』)、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家来になったとされるが、家来というよりは与力だった可能性が高いとする指摘もある。後に軍功の割に厚遇されていないことへの不満と一鉄への諫言を斥けられたことから稲葉家を致仕し、明智光秀から召し抱えられた。さらに光秀は那波直治も引き抜こうとして訴訟沙汰まで起こしていた。光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価されている 。光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老として用いられた。光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたる。
ウィキペディアより抜粋

一鉄と曽根城にいた頃の家老屋敷跡
石碑あります



2020年08月23日 とんかつおやじND
呂久の渡しと小簾紅園[曽根城  寺社・史跡]



小簾紅園
公武合体で仁孝天皇の第8皇女和宮が徳川第14代将軍家茂に嫁ぐため中山道を御降嫁され呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになる際、色麗しく紅葉しているもみじを一枝舷に立てられ、玉簾の中からご覧になり

「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

と御感慨をお詠みになりました。
中山道散策ガイドより

呂久の渡し
江戸時代、中山道が整備される以前から、東西交通の要地であった呂久には、杭瀬川(伊尾川、揖斐川)の渡場が設けられていた。
天正10年(1582年)、武田攻めより凱旋した信長を、稲葉一鉄が領内の呂久の渡しにて饗応する。

2019年06月09日 くぅ三河守ʕ•ᴥ•ʔわんこ
曽根城



花しょうぶ祭してました。福があるという湧き水もあるし蛍もいるそうで、水が澄んでますね(^^)

2017年04月09日 橘若狭守次郎吉
曽根城

曽根城は現在、城址公園として整備されています。本丸跡にあたる華渓寺は付近の土地よりも一段高くなっています。華渓寺の入口付近に石碑と説明板があります。華渓寺の境内の入口付近には本丸跡についての石碑と説明板もあります。境内には稲葉一鉄とその母の供養塔があります。

発掘調査で石垣と土塁が発見されていますが、現在は保存の為、埋め戻されています。華渓寺の北側には発掘された石垣と土塁を復元しています。その他に遺構はありませんでした。

2016年02月09日 まるき〜
曽根城

案内板の説明書きに石垣が発掘されたと…
見てもどこが石垣なのかわからず…(笑

本丸内、華渓寺の横の池の水は湧き水みたいでとても透明感のあるキレイな水でトゲウオ科のハリヨが生息していると案内板に書かれているがどこに居るのかわからず…
ここの城址公園は6月ごろの菖蒲が良いらしい
梁川星巌、紅蘭さん←誰?の像がありました…

駐車しても良い?と思われる場所あり(笑
トイレあり


曽根城の周辺スポット情報

 曽根城本丸跡石列(遺構・復元物)

 石碑と説明板(碑・説明板)

 春日局ゆかりの地(碑・説明板)

 梁川星巖邸跡(碑・説明板)

 紅蘭女史生誕之地・圓徳寺(碑・説明板)

 十九条城(周辺城郭)

 吉田城(周辺城郭)

 和泉城(周辺城郭)

 西保北方城(周辺城郭)

 呂久の渡しと小簾紅園(寺社・史跡)

 曽根城公園駐車場(駐車場)

 斎藤利三館跡(関連施設)

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