軽海西城(かるみにしじょう)

軽海西城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県本巣市軽海

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

稲葉氏

築城年

不明

主な改修者

片桐俊元

主な城主

稲葉氏、斎藤道三、片桐俊元、一柳直末

廃城年

天正18年(1590)

遺構

土塁

指定文化財

市史跡(軽海西城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

相羽城(岐阜県揖斐郡)[3.4km]
北方城(岐阜県本巣郡)[3.4km]
曽根城(岐阜県大垣市)[4.3km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[5.9km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[7.1km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[7.5km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[8.2km]
大垣城(岐阜県大垣市)[8.3km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[9.0km]
加納城(岐阜県岐阜市)[10.0km]

軽海西城の解説文



軽海西城(かるみにしじょう)は、岐阜県本巣市にあった日本の城(平城)。城跡には円長寺が建立されている。1970年(昭和50年)4月15日付で本巣市指定史跡。

概要 

築城年代は不明。中世には稲葉氏が数代にわたって居城とし、1468年(応仁2年)に稲葉氏が東濃へ移った後は、斎藤道三が在城したという[1]。1559年(永禄2年)には織田信長と斎藤龍興の勢力争いが当地であり、翌1560年(永禄3年)に織田家の家臣・池田恒興の家老である片桐俊元が修築して居城とした。俊元はやがて池尻(現・大垣市)へ移り、1589年(天正17年)に豊臣秀吉の家臣・一柳直末が大垣城から軽海西城に移って6万石を領した。直末は翌1590年(天正18年)の小田原征伐で戦死し、城は廃城となった。その後、1640年(寛永17年)に城跡に円長坊が建てられ、宝暦年間に円長寺となって現在に至る。昭和初期には城郭の遺構も一部に残っていた。

なお、かつて城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)などが拠ったとされる[2]

所在地 

岐阜県本巣市軽海

アクセス 

  • 樽見鉄道樽見線北方真桑駅から徒歩20分

参考文献 

  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館

軽海西城の口コミ情報

2026年06月10日 猫耳尾張守メイド隊
中山道美江寺宿・美江寺宿高札場跡[軽海西城  碑・説明板]



中山道美江寺宿跡
美江寺は既に、天正十七年(1589)豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられ、往還の荷物中継ぎの業務に当たっていたが、江戸時代になって中山道が整備されるに及んで、近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となった。寛永十四年(1637)四月、伝馬役家と歩行役家 各々二十五軒を定めて問屋の支配下に置き、交通業務に当たったのが、美江寺宿の公式開設である。
宿場の機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1669)春、時の領主 加納藩の戸田丹波守光永によって建設され、問屋 山本金兵衛が管理を兼ねた。以後、山本家が世襲して宿駅制廃止まで継承した。
一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕府改革の影響であろう。文久元年(1861)十月二十六日の和宮親子内親王江戸下向の途次、当宿御小憩と、慶応四年(1868)二月二十・二十一両日、当宿を発信地とした、東征軍東山道鎮撫隊のことは、当宿交通史の特記事項である。
明治三年(1870)閏十月、民部省布告による宿駅制廃止に伴い、宿場の歴史を閉じた。
説明板より。

高札場跡
江戸時代は、ここに 高札場がありました。
美江神社境内に当時の姿を 復元してあります。

2026年06月06日 猫耳尾張守メイド隊
美江寺城[軽海西城  周辺城郭]



美江寺城(十六条城)
室町時代に、美濃国守護職であった土岐氏の武将 和田八郎が、応仁・文明の頃(1460年代頃)本巣郡舟木庄十六條に居館を構えたのが、美江寺城の創始と伝えられています。
その後、八郎の子 和田佐渡守、次いで和田伊予守高知、和田将監高行と代々、此処に掾って土岐氏に従った。
斎藤道三が抬頭して、守護 土岐頼芸と軍を構えたとき、美江寺城主は和田将監高行であった。天文十一年(1542)道三の軍勢が美江寺城を襲い、九月三日夜、城は斎藤方の放った火によって焼失、灰燼に帰し廃絶となりました。
何時の頃か、城址に神明神社と八幡神社が祀られたが、大正三年(1914)神社を美江神社に遷して、ここに船木小学校が建られた。

校門に『美江寺城跡をご覧になりたい方は職員室にお声かけ下さい』とあったが、訪問時は、土曜日で人の気配は無く、道路側から城址碑方面の写真を撮影するのみ。

2026年06月06日 猫耳尾張守メイド隊
中山道美江寺一里塚跡[軽海西城  碑・説明板]



瑞穂市指定史跡  美江寺一里塚跡
一里塚は幕府により、江戸日本橋を起点として、中山道・東海道などの街道の両側に一里(約 4㌔)ごとに設けられた。五間(約 9㍍)四方の土盛りをし、塚の上に「榎」などを植えて目印とした。美江寺の一里塚は宿の東口にあったが、現在は塚は消滅している。

写真④は、一里塚跡の石碑近くにあった、瑞穂市指定史跡『自然居士之墓』の石碑。

2026年06月06日 猫耳尾張守メイド隊
中山道美江寺宿本陣跡[軽海西城  碑・説明板]



瑞穂市指定史跡  美江寺宿本陣跡
本陣は街道を利用する大名・宮家・幕吏の宿泊所であり、参勤交代制により発達した。美江寺宿の本陣は、寛文九年(1669)加納藩によって開設された。問屋 金兵衛が管理し、以後、山本家が代々管理運営した。建物は明治二十四年(1891)の濃尾地震で倒壊したため再建された。門・玄関・間取りなどに本陣の様式を残していたが、平成三年(1991)老朽化のために取り壊された。山本家には、当時の鬼瓦、手水鉢が残されている。

美江寺宿本陣跡の向かい側に石碑があったので、「写真③」
瑞穂市指定史跡  開蒙学校跡
明治六年(1873)に当時の美江寺村が創立した小学校。
明治十二年(1879)開蒙学校と月盛学校(十七条村と十八条村が共同で創立)が合併し、船木小学校が誕生、その後、紆余曲折あり、現在は瑞穂市立中小学校となっている。

2026年05月22日 猫耳尾張守メイド隊
小弾正城(小弾正屋敷)[軽海西城  周辺城郭]



築城時期、来歴等々は不明。

『日本城郭全集7』には、
「『土岐系図』によれば、饗庭二郎太郎国朝の三男 小弾正二郎国継、その子 小弾正二郎太郎国家が住まったという。『新撰美濃志』」

城跡は、竹後公民館北側辺りと推定されているが、住宅地、水田となり遺構は残っていない。

城跡推定地の北側には、東山道が通っていたので、東山道の監視するために築かれのだろうか?

2026年05月22日 猫耳尾張守メイド隊
北野神社・教倫学校跡地[軽海西城  寺社・史跡]



北野神社  主祭神 菅原道真
創祀不詳なれども、旧馬籠村の産土神たり。寛政三年 再興せる棟札あり。昭和二十一年四月 宗教法人令により届出。
特殊神事 立春の粥占神事、例祭に伴う鳥はみ神事(通称 お烏さん)
文化財等 本巣市無形文化財「北野神社の例祭行事」
岐阜県神社庁HPより。

市指定無形民俗文化財 北野神社大祭神事
場所 本巣市政田 (竹後 北野神社)
以前は、三月二十五日に行われていた祭であったが、その後、春分の日に行われるようになり、現在は三月の第三日曜日に改められた。言い伝えによると、北野神社は、鎌倉時代に土岐次郎光俊が、夢のおつげによって神社を建立したのがはじまりであるという。
祭は、祭元の家より正装に威儀を正した祭元が先頭に立ち、宮衣装をつけた子どもたちが御輿をかつぎ若衆が笛・太鼓・法螺貝で囃子を奏し、渡御行列が進み行列が境内に入ると囃子がかわる。
御輿が安置されると山の幸、海の幸、野の幸、とりのこ等お供え物が、神主の手で供えられ、祝詞と共に祭元神事が行われる。翌年の祭元は、神主が玉串の上に玉くじを落として決める。
神事が終わると、御輿に貼り付けてあった和紙で、とりのこを包み(これをおからっさんという)拝殿の屋根越しに投げられる。参詣の人たちは、競ってこれをひろいいただく。
本巣市教育委員会
説明板より。

教倫学校跡地
明治七年(1874)学制発布に基づき、政田、浅木、国領、森、温井、下福島の六ヵ村で、政田村に校舎を建築し、教倫学校を開校した。
明治二十四年、濃尾大震災により校舎が倒壊した。

2026年05月20日 猫耳尾張守メイド隊
真桑城[軽海西城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』には、
『濃州城主誌略』によれば、福田丹波守が住んだという。
城址は、真正町の糸貫川東岸、国鉄美濃こうみ線と名鉄揖斐線が交差したあたりにあったと伝えられるが、くわしいことはわからない。

城址推定地の候補地の一つが、旧名鉄揖斐線 真桑駅跡北側辺りとなっている。
もう一つの城址推定地が、旧名鉄揖斐線と樽見鉄道の交差地点周辺となっている。

2026年05月20日 猫耳尾張守メイド隊
教念寺[軽海西城  寺社・史跡]



当山 教念寺は、明応五年(1496年)に初代 釋了道によって開創され、今日まで五百余年の間 法灯を絶やすことなく受け継いできました。
現 本堂は、文化十五年(1818年)に第十世 釋大智により再建され、以後 百八十余年、風雨に耐え門信徒の念仏道場として護持されてきました。
時に蓮如上人 五百回遠忌法要を明年にお待ち受けするにあたり、永年の門信徒の懇念が結実し、本堂・山門屋根瓦修復工事が落成することができました。
この鬼瓦は、本堂が文化十五年に再建された当時のもので、私たちのご先祖のご労苦の証としてここに保存します。
平成九年十月  石碑碑文より。

権現石(腰掛石)
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦の折、東軍 徳川家康は岐阜から赤坂へ向う時、東山道を通り 教念寺へ立ち寄られ、暫し休憩をとられた。
紅梅の木の下にあった庭石を格好の休み所として武装のまゝ腰掛けられた。それより、敵の目を逃れるため、当寺 第四代 宗順住職がひそかに数屋(糸貫町)の渡舟場まで案内し無事に関ヶ原に着かれた。
そのほうびとして、門前に制札を賜った。

時の太鼓
北方陣屋 初代の戸田光賢が元禄十年(1697年)将軍 徳川綱吉の前で得意の馬術を披露し、その褒美として時の太鼓創設を許された。
本来は大名でなければ使用できないものを許可された上に、御三家(水戸、尾張、紀伊)だけの打ち方も許された。太鼓は大小各一つずつあり、小さい方が当寺のこの太鼓である。
説明板(二ヶ所)より。

昭和中期頃までは、四方を堀、築地塀に囲まれた寺であったと言う。
この辺りには、真桑城があったとされるが、城関係の記述は無かった。

2026年05月11日 猫耳尾張守メイド隊
本田代官所(本田陣屋)[軽海西城  周辺城郭]



本田代官所跡
江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、史料が残されておらず、詳細は定かではない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任じられ、この地に陣屋を設けたと思われる。
その後、五六閘門(牛牧閘門)の設置に大きくかかわった、川崎平右衛門定孝(十一年間在任)を迎え、治水事業にも取り組んだ。
本田代官所は、明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続き、「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

中山道沿いにあったと思われるが、遺構等は残っていない。

2025年12月01日 三原主殿頭重家
軽海西城



カーナビで行くと裏手になっていてわかりにくかったですが近くに公園や本巣市民文化ホールがあるので車は駐めやすいです🚗

2025年03月25日 ᴿᴱᴰ副将軍
軽海西城



斎藤道三や片桐俊元が在城したとされる城跡

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。稲葉氏により築かれたと云われます。
稲葉氏は数代が居城としましたが、1468年に東濃に移った後は、西村勘九郎(後の斎藤道三)が居城したともされます。
1559年には織田信長と斎藤龍興が争った軽海合戦の舞台であり、織田信長は軽海西城の南にある十九条城に従兄弟の織田信益を配しています。
斎藤龍興は洪水のため織田信長の救援は無いと判断し十九条城に攻め寄せます。織田信長は墨俣の池田恒興・佐久間信盛・柴田勝家を救援に向かわせますが、織田信益は稲葉又衛門と牧村牛助により討死。その後、救援に来た池田恒興により稲葉又衛門は討たれたとされます。
軽海西城は織田信長の属城となり、1560年には池田恒興の家老である片桐俊元が修築して居城としています。
片桐俊元が池尻に移ると、1589年に豊臣秀吉の家臣である一柳直末が入城。
1590年、一柳直末は小田原征伐に参陣するも山中城攻めで討死し、軽海西城は廃城となりました。
1640年に城跡に一柳氏の後裔が菩提を弔って円長坊を建て、現在に至ります。

見所
現在も円長寺の境内となっており、入り口に案内板と城跡碑が立っています。
西側の本堂裏には土塁の一部が残っています。

2024年12月16日 石垣参議
軽海西城



カーナビに従って小さい路地に入っていくと、少し開けた場所があります。近くに本巣市文化ホームがあり、さいがわ公園の駐車場も利用できます。

2024年07月30日 左近衛少将RedKing
軽海西城



リア攻めの円長寺と入り口の説明看板は既に多数ありますから縄張りと思われる微高地一帯です。
①本巣市道(旧真正町中央通り)の真東約10kmに金華山=岐阜城を望む位置です。
②樽見鉄道北方真桑駅から西に約2km,岐阜県主要地方道53号岐阜関ケ原線「軽海城前」交差点から北100mにあります。正に市の「文化センター」です。
③北隣は、中学校、公民館、体育館に奥の東は支所(旧真正町庁舎)と手前の中央通り沿いは図書館と言う市民文化の中心地です。
④「さいがわ公園」に駐車場トイレはあります。
⑤石碑が集められています。軽海の北隣の小字真桑はその名がついた真桑瓜(マクワウリ、信長にも献上されたメロンです。これについては北北東に約2kmの物部神社へ。国指定重文の文楽と治水恩人福田氏の由緒。)以外にも梨に転飼養蜂も、又市内には柿やミニバラに玉葱の産地があります。
⑥縄張りの西端の犀川堤外地を活用した遊歩道は、先日の豪雨で冠水痕がありました。犀川と言えば「犀川騒擾事件」が有名ですがずっと下流で起きました。尚、長良川には墨俣一夜城で、現況合流しますが、何キロも導流堤で下の排水機場から長良川増水時には汲出しています。
⑦⑧寺の裏側、北西から東(岐阜方)と南(県主要地方道、墨俣方)を望みます。

2022年11月22日 猫耳尾張守メイド隊
旗本青木氏陣屋[軽海西城  周辺城郭]



築城時期は不明。
旗本 青木氏の陣屋であったとされ、別名「青木氏館」。
色々検索したが、来歴などは不明。

民家のブロック塀脇の電柱に隠れるように、石碑があるのみで遺構はないと思われる。
この民家の敷地内には、『貫学学校跡』の石碑があるが、陣屋の跡地を学校として、利用したと思われるが詳細は不明。

2022年11月22日 猫耳尾張守メイド隊
旧領主 徳永昌新石見守之墓[軽海西城  寺社・史跡]



慶応二年・三年、藪川大洪水堤防決壊に際し、修復工事に功績顕著也。

墓石の前にある石碑側面の碑文より。

大野町五之里にある、徳永氏五之里陣屋となんらかの関係性があると思われるが、詳細は不明。

2022年11月05日 猫耳尾張守メイド隊
宗慶大塚古墳[軽海西城  寺社・史跡]



宗慶大塚古墳にまつわる伝承
この塚は、地元では古くから王塚と呼ばれ、古代王族の墓であると言い伝えられてきました。この看板の位置は、古墳の前方部の延長上にあり、後円部頂上に鎮座する田辺神社の参道入り口にもあたります。
正月の元旦の朝に、この古墳の杉の下で、三羽の金の鳥が鳴くという伝説も、地元で言い伝えられています(「本巣郡誌」(昭和12年))。この第一声は「国家安泰」、第二声は「村内安全」、第三声は「五穀豊穣」の祈り声と伝えられています。(「真正のむかしの話」)また周辺には「胴塚」、「猫塚」という地名が残され、塚があったと伝えられています。
昭和50年に真正町史を編纂した吉岡勲氏は、「古事記」開化天皇の条に天皇の皇子 日子坐王の子、神大根王が、本巣国造として、当地域を支配したと記載されていること、当時の見解では、旧本巣郡内の平地で、宗慶大塚古墳が唯一の前方後円墳であったこと、扇状地から沖積低地に変わる地形の変わり目に位置していることなどから、神大根王の子孫の墓ではないかと説を出されています。
本巣市教育委員会
説明板より。

全長63㍍の前方後円墳で、後円部直径42㍍、後円部墳高4.1㍍で、現在は前方部は、殆ど残っていない。
公園の面積に対して、大きめな駐車場があり、トイレや若干の遊具が設置されている。

2022年10月29日 猫耳尾張守メイド隊
小柿城[軽海西城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』には、「古城址は村内にあり、城主は小柿六三郎と『美濃明細記』に記してある。また『土岐家図』に土岐弾正少弼頼遠の五男 小柿六郎頼長(頼永)が、本巣郡小柿にすむとある。永禄以来、御番帳に土岐小柿式部少輔とあるのは、他の一族の人で、この付近から出た人であろう。
『伊賀氏系図』に伊賀守藤原定就(伊賀太郎左衛門光就の子で、大野郡に住む)の二男 伊賀丹後守光重(はじめの名三郎伊賀守定重の弟である)本巣郡小柿に住む、その子 安藤伊織安光小柿に住す、とあるのはこの城であろう。」

城跡は、小柿地区の糸貫川の堤防に、半ば取り込まれてしまったと思われ、正確な位置は不明となっているが、堤防の北西部にある水田辺りまでが、城域と考えるられている。

2022年10月24日 猫耳尾張守メイド隊
軽海東城[軽海西城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』によると、軽海東城の沿革は古く、加留美長勝の居城とされる。
又、朝倉義景 十二代の祖 朝倉太郎大夫高清の城であったとも、土岐家の砦であったとも伝えられている。康暦(1379〜1381)の頃より、稲葉七郎通高が在城し、のちに安藤五左衛門守宗(安藤伊賀守の弟)が守っていたが、元亀二年(1571)に石津郡太田で長島一向一揆征伐の際、氏家卜全と共に戦死したという。

軽海東城の位置は不明で、軽海東城を検索すると、この辺りとピンがでるが、推定地の一つと思われる。すぐ近くに、古墳があるので城の一部だったりしたら良かったが、古墳の説明板には、軽海東城の事は書かれていない。

2022年10月21日 猫耳尾張守メイド隊
軽海神社[軽海西城  寺社・史跡]



軽海神社 由緒
創立年月は不詳であるが、伝によると加留美長勝卿(軽海東城の城主)が勧請されたもので、長勝卿の鎮守であるとされている。
明治維新前は春日明神と称していたが、明治六年一月に軽海神社と改称された、また当社は、古来より村社であったが、明治六年三月郷社に列せられ、十四条・重里・美江寺・小柿・宗慶・馬場・高屋・柱本・軽海、九ヶ村の総社となった。
美濃神名帳に本巣郡、従三位 軽海明神と記されているのは之の社である。
明治四十二年七月 八幡神社(軽海村字八幡 境内社 稲荷明神を含む)、日吉神社(字城前)、神明社(字神明)、神功皇后社(字神宮)、八王寺神社(字下起 井尾神社ともいう)、御鍬神社(字城前)を合祀する。
軽海神社境内の石碑より一部抜粋。

軽海神社に近接して、軽海東城があったともされているが、正確な位置は特定されていない。

2022年10月21日 猫耳尾張守メイド隊
十七条城址碑[軽海西城  碑・説明板]



十七条城跡の石碑は、昔の写真を見ると、それなりに見えたようですが、現在は生け垣の中に完全に埋没していました。

石碑を探して、ウロウロしていたら、丁度、近所の方と思われる軽トラが通りかかったので、聞いてみたら、そこにあるよと指差してくれて、生け垣の奥に石碑を見つける事が出来ました。
トラックに乗っていた、おじさんに「こんな物、見に来たんか~」と、言われてしまった。(笑)

2022年10月21日 猫耳尾張守メイド隊
十七条城(船木城)[軽海西城  周辺城郭]



春日局の夫、正成 生誕の地
『美濃明細記』『新撰美濃志』などによれば、南北朝時代(1333年〜1392年)のはじめ、土岐頼貞の子 舟木頼胤が築城したという。その子、武藤頼實が合戦で討死した後、二階堂氏 二代を経て、仙石秀豊が入った。しかし嘉吉二年(1442)十一月十七日に病死。次に、和田利詮を経て、享禄年間から林氏が三代在城した。三代目 正三の子、市助が稲葉重通(大垣・曽根城主・一鉄の子)の養子となり、稲葉正成と改名し、徳川家康に仕え、十七条藩一万石を拝した。
正成の妻は斎藤福、後に家光の乳母となる春日局である。子の正勝は春日局の推輓で累進し、老中(小田原八万五千石)となり、弟 正定は尾張 徳川義直に属して、旧領の十七条一千石を与えられ居住した。
しかし、正定の孫、六郎右衛門が延宝三年(1675)病死して嗣子なく、家は断絶、領地も尾張藩組み入れとなり、十七条村は幕末まで尾張領となる。なお、この城跡付近の微高地を「城山」と呼んでいて『本巣郡志』でも十七条城の所在地として「船木村大字十七條西浦城山」と記載されている。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

神社の社務所前に説明板があり、城址碑は少し南側にある民家の生垣の中にあります。
神社前に、駐車スペース(1台程)が有ります。

2022年10月15日 猫耳尾張守メイド隊
十五条城[軽海西城  周辺城郭]



築城時期、築城主など、詳細不明。

この周辺には、十七条城・十九条城など、数字を冠した城が、いくつか存在するので、他にも無いかなと検索したら、十四条城跡・十五条城跡が出てきたが、レビュー記事など無く、詳細は不明です。
城跡と思われる地点は、田畑・果樹園(柿)等となっており、特に何もありません。

2022年10月14日 猫耳尾張守メイド隊
十四条城(上里遺跡)[軽海西城  周辺城郭]



築城時期、築城主は不明。

この辺りでは、織田信長と斎藤龍興が争った、十四条の戦いがあり、織田軍がこの地に布陣した説と、斎藤龍興がこの地に布陣した説があるらしいので、この時の陣城?かもしれないが、詳細は不明です。(森部の戦い後、数日しかないから無理かな?)

上里遺跡
大化の改新(645)の際、班田収授法により残された上里の跡である。本巣市山口を北限とし、南へ一条から十九条(瑞穂市)まで上里をおき、耕地の形を整えた。
本市では、十四条が現在においても字名として使用されており、地名として三条町(十三条)がある。さらに、上里制の単位である、里・坪という区轄では、本市の軽海地区に西三ノ坪、東四ノ坪があり、政田地区に、一ノ坪、ニノ坪、三ノ坪、四ノ坪、五ノ坪の小字名がある。
江戸時代には、この条境が村と村の境になっていた。元は八幡神社の前に小溝があり、十四条と重里(現瑞穂市)との条里の境とされていた。現在は、この十四条の境の延長上に標柱が建っており、さらに十三条の境と推定される所に石碑が建っている。
本巣市教育委員会
説明板より。

2022年10月09日 ビン太
軽海西城



リア攻めに関しては大通りからの入り口が見つけづらいくらいで特にありません。写真から見てもわかるとうりスポットの前が充分に広いので車輌の置き場には困らないと思います。と、言っても周辺含めて特段これといったものもないので記念撮影等さほど時間もかからないと思います。

2021年09月07日 左近衛少将桜姫
軽海西城



御堂横の竹藪と曲がり道を抜けた城址に、寺と普通の民家? 
斎藤道三が一時期に居た城で、色々のちに秀吉配下の一柳伊豆守直末の城。直末は小田原攻めで討死したので廃城となり、祀ったのがリア攻地の円長寺。寺横の民家は、元城主と同じ表札!子孫なのかな。ドキドキ。

2019年05月04日 しげぽん刑部卿
軽海西城



円長寺境内のあたりにある、説明板
この前までは車で侵入可能です

2017年04月10日 橘若狭守次郎吉
軽海西城

円長寺付近が軽海西城跡です。円長寺は付近の土地よりも一段高いのが特徴です。境内の南側から西側にかけて土塁と堀が残っています。

2017年02月17日 京楽秋水石狩守
軽海西城

県道53号軽海城前交差点北東に有る神社が城跡で有ったと子供の頃に聞いた覚えが有るが、此処が軽海西城(現円長寺)の一部であったのか隣接説のある軽海東城だったのかは不明。
尚 近隣には登録されていない小柿城、本田城、十九条城・・・等が有ったとされる。

2015年09月06日 京楽秋水石狩守
軽海西城

東軽海にも城が存在していたらしい。織田勢が西軽海に斎藤勢が東軽海に陣を敷いた合戦は、かなり激しかったらしく戦場となった川が赤く血で染まり赤血川と呼ばれ、それが赤血川伝説として今に伝わっている。現在は赤瀬川と呼ばれています。

2011年07月05日 古楽侍従広家
軽海西城

宮本昌孝さんの『ふたり道三』では、斎藤道三(父・長井新左衛門尉)の居城として長く登場します。

軽海西城の周辺スポット情報

 十七条城址碑(碑・説明板)

 中山道美江寺宿・美江寺宿高札場跡(碑・説明板)

 中山道美江寺宿本陣跡(碑・説明板)

 中山道美江寺一里塚跡(碑・説明板)

 東山道跡(碑・説明板)

 美江寺城(周辺城郭)

 十五条城(周辺城郭)

 小柿城(周辺城郭)

 十四条城(上里遺跡)(周辺城郭)

 十七条城(船木城)(周辺城郭)

 軽海東城(周辺城郭)

 真桑城(周辺城郭)

 旗本青木氏陣屋(周辺城郭)

 本田代官所(本田陣屋)(周辺城郭)

 山田館(宮田の要害・山田屋敷)(周辺城郭)

 小弾正城(小弾正屋敷)(周辺城郭)

 宗慶大塚古墳(寺社・史跡)

 軽海神社(寺社・史跡)

 旧領主 徳永昌新石見守之墓(寺社・史跡)

 天神神社(伊久良河宮跡)(寺社・史跡)

 教念寺(寺社・史跡)

 北野神社・教倫学校跡地(寺社・史跡)

 さいがわ公園トイレ(トイレ)

 本巣市民文化ホール駐車場(駐車場)

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