軽海西城(かるみにしじょう)

軽海西城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県本巣市軽海

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

稲葉氏

築城年

不明

主な改修者

片桐俊元

主な城主

稲葉氏、斎藤道三、片桐俊元、一柳直末

廃城年

天正18年(1590)

遺構

土塁

指定文化財

市史跡(軽海西城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

相羽城(岐阜県揖斐郡)[3.4km]
北方城(岐阜県本巣郡)[3.4km]
曽根城(岐阜県大垣市)[4.3km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[5.9km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[7.1km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[7.5km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[8.2km]
大垣城(岐阜県大垣市)[8.3km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[9.0km]
加納城(岐阜県岐阜市)[10.0km]

軽海西城の解説文



軽海西城(かるみにしじょう)は、岐阜県本巣市にあった日本の城(平城)。城跡には円長寺が建立されている。1970年(昭和50年)4月15日付で本巣市指定史跡。

概要 

築城年代は不明。中世には稲葉氏が数代にわたって居城とし、1468年(応仁2年)に稲葉氏が東濃へ移った後は、斎藤道三が在城したという[1]。1559年(永禄2年)には織田信長と斎藤龍興の勢力争いが当地であり、翌1560年(永禄3年)に織田家の家臣・池田恒興の家老である片桐俊元が修築して居城とした。俊元はやがて池尻(現・大垣市)へ移り、1589年(天正17年)に豊臣秀吉の家臣・一柳直末が大垣城から軽海西城に移って6万石を領した。直末は翌1590年(天正18年)の小田原征伐で戦死し、城は廃城となった。その後、1640年(寛永17年)に城跡に円長坊が建てられ、宝暦年間に円長寺となって現在に至る。昭和初期には城郭の遺構も一部に残っていた。

なお、かつて城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)などが拠ったとされる[2]

所在地 

岐阜県本巣市軽海

アクセス 

  • 樽見鉄道樽見線北方真桑駅から徒歩20分

参考文献 

  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館

軽海西城の口コミ情報

2022年11月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
旗本青木氏陣屋[軽海西城  周辺城郭]



築城時期は不明。
旗本 青木氏の陣屋であったとされ、別名「青木氏館」。
色々検索したが、来歴などは不明。

民家のブロック塀脇の電柱に隠れるように、石碑があるのみで遺構はないと思われる。
この民家の敷地内には、『貫学学校跡』の石碑があるが、陣屋の跡地を学校として、利用したと思われるが詳細は不明。

2022年11月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
旧領主 徳永昌新石見守之墓[軽海西城  寺社・史跡]



慶応二年・三年、藪川大洪水堤防決壊に際し、修復工事に功績顕著也。

墓石の前にある石碑側面の碑文より。

大野町五之里にある、徳永氏五之里陣屋となんらかの関係性があると思われるが、詳細は不明。

2022年11月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
宗慶大塚古墳[軽海西城  寺社・史跡]



宗慶大塚古墳にまつわる伝承
この塚は、地元では古くから王塚と呼ばれ、古代王族の墓であると言い伝えられてきました。この看板の位置は、古墳の前方部の延長上にあり、後円部頂上に鎮座する田辺神社の参道入り口にもあたります。
正月の元旦の朝に、この古墳の杉の下で、三羽の金の鳥が鳴くという伝説も、地元で言い伝えられています(「本巣郡誌」(昭和12年))。この第一声は「国家安泰」、第二声は「村内安全」、第三声は「五穀豊穣」の祈り声と伝えられています。(「真正のむかしの話」)また周辺には「胴塚」、「猫塚」という地名が残され、塚があったと伝えられています。
昭和50年に真正町史を編纂した吉岡勲氏は、「古事記」開化天皇の条に天皇の皇子 日子坐王の子、神大根王が、本巣国造として、当地域を支配したと記載されていること、当時の見解では、旧本巣郡内の平地で、宗慶大塚古墳が唯一の前方後円墳であったこと、扇状地から沖積低地に変わる地形の変わり目に位置していることなどから、神大根王の子孫の墓ではないかと説を出されています。
本巣市教育委員会
説明板より。

全長63㍍の前方後円墳で、後円部直径42㍍、後円部墳高4.1㍍で、現在は前方部は、殆ど残っていない。
公園の面積に対して、大きめな駐車場があり、トイレや若干の遊具が設置されている。

2022年10月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小柿城[軽海西城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』には、「古城址は村内にあり、城主は小柿六三郎と『美濃明細記』に記してある。また『土岐家図』に土岐弾正少弼頼遠の五男 小柿六郎頼長(頼永)が、本巣郡小柿にすむとある。永禄以来、御番帳に土岐小柿式部少輔とあるのは、他の一族の人で、この付近から出た人であろう。
『伊賀氏系図』に伊賀守藤原定就(伊賀太郎左衛門光就の子で、大野郡に住む)の二男 伊賀丹後守光重(はじめの名三郎伊賀守定重の弟である)本巣郡小柿に住む、その子 安藤伊織安光小柿に住す、とあるのはこの城であろう。」

城跡は、小柿地区の糸貫川の堤防に、半ば取り込まれてしまったと思われ、正確な位置は不明となっているが、堤防の北西部にある水田辺りまでが、城域と考えるられている。

2022年10月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
軽海東城[軽海西城  周辺城郭]



『日本城郭全集7』によると、軽海東城の沿革は古く、加留美長勝の居城とされる。
又、朝倉義景 十二代の祖 朝倉太郎大夫高清の城であったとも、土岐家の砦であったとも伝えられている。康暦(1379〜1381)の頃より、稲葉七郎通高が在城し、のちに安藤五左衛門守宗(安藤伊賀守の弟)が守っていたが、元亀二年(1571)に石津郡太田で長島一向一揆征伐の際、氏家卜全と共に戦死したという。

軽海東城の位置は不明で、軽海東城を検索すると、この辺りとピンがでるが、推定地の一つと思われる。すぐ近くに、古墳があるので城の一部だったりしたら良かったが、古墳の説明板には、軽海東城の事は書かれていない。

2022年10月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
軽海神社[軽海西城  寺社・史跡]



軽海神社 由緒
創立年月は不詳であるが、伝によると加留美長勝卿(軽海東城の城主)が勧請されたもので、長勝卿の鎮守であるとされている。
明治維新前は春日明神と称していたが、明治六年一月に軽海神社と改称された、また当社は、古来より村社であったが、明治六年三月郷社に列せられ、十四条・重里・美江寺・小柿・宗慶・馬場・高屋・柱本・軽海、九ヶ村の総社となった。
美濃神名帳に本巣郡、従三位 軽海明神と記されているのは之の社である。
明治四十二年七月 八幡神社(軽海村字八幡 境内社 稲荷明神を含む)、日吉神社(字城前)、神明社(字神明)、神功皇后社(字神宮)、八王寺神社(字下起 井尾神社ともいう)、御鍬神社(字城前)を合祀する。
軽海神社境内の石碑より一部抜粋。

軽海神社に近接して、軽海東城があったともされているが、正確な位置は特定されていない。

2022年10月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
十七条城址碑[軽海西城  碑・説明板]



十七条城跡の石碑は、昔の写真を見ると、それなりに見えたようですが、現在は生け垣の中に完全に埋没していました。

石碑を探して、ウロウロしていたら、丁度、近所の方と思われる軽トラが通りかかったので、聞いてみたら、そこにあるよと指差してくれて、生け垣の奥に石碑を見つける事が出来ました。
トラックに乗っていた、おじさんに「こんな物、見に来たんか~」と、言われてしまった。(笑)

2022年10月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
十七条城(船木城)[軽海西城  周辺城郭]



春日局の夫、正成 生誕の地
『美濃明細記』『新撰美濃志』などによれば、南北朝時代(1333年〜1392年)のはじめ、土岐頼貞の子 舟木頼胤が築城したという。その子、武藤頼實が合戦で討死した後、二階堂氏 二代を経て、仙石秀豊が入った。しかし嘉吉二年(1442)十一月十七日に病死。次に、和田利詮を経て、享禄年間から林氏が三代在城した。三代目 正三の子、市助が稲葉重通(大垣・曽根城主・一鉄の子)の養子となり、稲葉正成と改名し、徳川家康に仕え、十七条藩一万石を拝した。
正成の妻は斎藤福、後に家光の乳母となる春日局である。子の正勝は春日局の推輓で累進し、老中(小田原八万五千石)となり、弟 正定は尾張 徳川義直に属して、旧領の十七条一千石を与えられ居住した。
しかし、正定の孫、六郎右衛門が延宝三年(1675)病死して嗣子なく、家は断絶、領地も尾張藩組み入れとなり、十七条村は幕末まで尾張領となる。なお、この城跡付近の微高地を「城山」と呼んでいて『本巣郡志』でも十七条城の所在地として「船木村大字十七條西浦城山」と記載されている。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

神社の社務所前に説明板があり、城址碑は少し南側にある民家の生垣の中にあります。
神社前に、駐車スペース(1台程)が有ります。

2022年10月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
十五条城[軽海西城  周辺城郭]



築城時期、築城主など、詳細不明。

この周辺には、十七条城・十九条城など、数字を冠した城が、いくつか存在するので、他にも無いかなと検索したら、十四条城跡・十五条城跡が出てきたが、レビュー記事など無く、詳細は不明です。
城跡と思われる地点は、田畑・果樹園(柿)等となっており、特に何もありません。

2022年10月14日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
十四条城(上里遺跡)[軽海西城  周辺城郭]



築城時期、築城主は不明。

この辺りでは、織田信長と斎藤龍興が争った、十四条の戦いがあり、織田軍がこの地に布陣した説と、斎藤龍興がこの地に布陣した説があるらしいので、この時の陣城?かもしれないが、詳細は不明です。(森部の戦い後、数日しかないから無理かな?)

上里遺跡
大化の改新(645)の際、班田収授法により残された上里の跡である。本巣市山口を北限とし、南へ一条から十九条(瑞穂市)まで上里をおき、耕地の形を整えた。
本市では、十四条が現在においても字名として使用されており、地名として三条町(十三条)がある。さらに、上里制の単位である、里・坪という区轄では、本市の軽海地区に西三ノ坪、東四ノ坪があり、政田地区に、一ノ坪、ニノ坪、三ノ坪、四ノ坪、五ノ坪の小字名がある。
江戸時代には、この条境が村と村の境になっていた。元は八幡神社の前に小溝があり、十四条と重里(現瑞穂市)との条里の境とされていた。現在は、この十四条の境の延長上に標柱が建っており、さらに十三条の境と推定される所に石碑が建っている。
本巣市教育委員会
説明板より。

2022年10月09日 ビン太
軽海西城



リア攻めに関しては大通りからの入り口が見つけづらいくらいで特にありません。写真から見てもわかるとうりスポットの前が充分に広いので車輌の置き場には困らないと思います。と、言っても周辺含めて特段これといったものもないので記念撮影等さほど時間もかからないと思います。

2021年09月07日 図書頭桜姫
軽海西城



御堂横の竹藪と曲がり道を抜けた城址に、寺と普通の民家? 
斎藤道三が一時期に居た城で、色々のちに秀吉配下の一柳伊豆守直末の城。直末は小田原攻めで討死したので廃城となり、祀ったのがリア攻地の円長寺。寺横の民家は、元城主と同じ表札!子孫なのかな。ドキドキ。

2019年05月04日 しげぽん
軽海西城



円長寺境内のあたりにある、説明板
この前までは車で侵入可能です

2017年04月10日 橘若狭守次郎吉
軽海西城

円長寺付近が軽海西城跡です。円長寺は付近の土地よりも一段高いのが特徴です。境内の南側から西側にかけて土塁と堀が残っています。

2017年02月17日 京楽秋水佐渡守
軽海西城

県道53号軽海城前交差点北東に有る神社が城跡で有ったと子供の頃に聞いた覚えが有るが、此処が軽海西城(現円長寺)の一部であったのか隣接説のある軽海東城だったのかは不明。
尚 近隣には登録されていない小柿城、本田城、十九条城・・・等が有ったとされる。

2015年09月06日 京楽秋水佐渡守
軽海西城

東軽海にも城が存在していたらしい。織田勢が西軽海に斎藤勢が東軽海に陣を敷いた合戦は、かなり激しかったらしく戦場となった川が赤く血で染まり赤血川と呼ばれ、それが赤血川伝説として今に伝わっている。現在は赤瀬川と呼ばれています。

2011年07月05日 古楽侍従広家
軽海西城

宮本昌孝さんの『ふたり道三』では、斎藤道三(父・長井新左衛門尉)の居城として長く登場します。

軽海西城の周辺スポット情報

 十七条城址碑(碑・説明板)

 美江寺城(周辺城郭)

 十五条城(周辺城郭)

 小柿城(周辺城郭)

 十四条城(上里遺跡)(周辺城郭)

 十七条城(船木城)(周辺城郭)

 軽海東城(周辺城郭)

 小弾正城(周辺城郭)

 真桑城(周辺城郭)

 旗本青木氏陣屋(周辺城郭)

 宗慶大塚古墳(寺社・史跡)

 軽海神社(寺社・史跡)

 旧領主 徳永昌新石見守之墓(寺社・史跡)

 天神神社(伊久良河宮跡)(寺社・史跡)

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