加納城(かのうじょう)
加納城の基本情報
通称・別名
- (沓井城)
所在地
- 岐阜県岐阜市加納丸の内
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 独立式層塔型御三階櫓[3重4階/1602年築/焼失(落雷)]
築城主
- 奥平信昌
築城年
- 慶長7年(1602)
主な改修者
- -
主な城主
- 奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀
指定文化財
- 国史跡(加納城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
川手城(岐阜県岐阜市)[0.6km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[3.5km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[4.1km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[4.3km]
田代城(岐阜県羽島郡)[4.5km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[5.6km]
更木陣屋(岐阜県各務原市)[6.1km]
黒田城(愛知県一宮市)[6.4km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[7.4km]
北方城(岐阜県本巣郡)[7.4km]
加納城の解説文
[引用元:Wikipedia「加納城」の項目]
加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった日本の城である。
概要
徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった。城跡は加納城跡(かのうじょうあと)として国の史跡に指定されている。
構造
加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約550メートル、東西約400メートル[1])であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、少なくとも北堀は障子堀であった[2]。外堀は東側が荒田川、北側が清水川、西側が長刀堀[3]であり、南側の外堀は加納中学校付近にあった。主要な部分は本丸を中心に、東に二ノ丸、北に厩曲輪・三ノ丸、南に大藪曲輪があった。この城の石垣には加工するにはあまり適さないチャートが使われている。
城下町・加納は、東に配置された武家地と、北側にある中山道53番目の宿場である加納宿であった。
本丸
本丸は方形をなし、そこから外枡形が突出している。これは初期徳川系城郭の特徴のひとつで「加納城型」とも呼ばれている。
『加納城修理絵図』には、本丸北西隅に天守台、北東、南東、南西の隅に2重の隅櫓、南西隅櫓と天守台の間に二重櫓が1棟が描かれている[4]。
天守は上げられず、代わりに二ノ丸北東隅に御三階櫓が建てられていた。
御三階櫓
御三階櫓は、享保13年(1728年)に書かれた城絵図[5]によれば独立式層塔型3重4階である。二ノ丸の東北隅に建てられ、現存当時は「お三階」と呼ばれていた。慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城山頂にあった天守を移築したものと伝えられ、絵図面からは、東西面と南北面とで柱間寸法に違いがあるなど改変の跡と見られる構造が覗える[6]。
享保13年に落雷による大火で焼失し、そのまま廃藩置県を迎える。現在は同地に岐阜地方気象台がある。
歴史・沿革
前期加納城
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。しかし、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。
後期加納城
関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城の櫓や石垣が用いられ、近くの革手城からも土砂などが用いられた。解体した岐阜城天守の部材を二ノ丸御三階櫓に転用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。
寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井直陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。
近代
明治4年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれたが、同年11月に岐阜県へ合併した。翌、明治5年(1872年)、廃城令により城は廃城処分となり建物は破却。城門などは売却された。明治33年(1900年)、岐阜県師範学校が跡地に置かれ、本丸跡を運動場とした。明治39年(1906年)三の丸跡に加納尋常小学校が移転される。昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に加納城跡として国の史跡に指定された。
近年の発掘調査で枡形や前期加納城の土塁・礎石の跡、埋没した石垣や井戸跡、多くの土器などが出土した。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に石垣、堀跡などがわずかに見られるのみである。
現存建物
- 岐阜市日置江 - 「EXEX GARDEN エグゼクス・ガーデン」に二の丸門とされる城門が移築されている。
- 各務原市蘇原 - 城門2棟がそれぞれ個人宅に移築されているとされていたが、そのうち蘇原野口町(野口館)にあった「安積門」について、門の土台に残された墨文字から大垣城のものであることがわかった[7]。この門は中山道鵜沼宿に移築され、2009年(平成21年)5月から一般公開されている[8]。
作品
歌川広重の浮世絵「木曽海道六十九次」のうち「加納」に城の一部が描かれている。
参考文献
- 【書籍】「加納城跡の発掘 : 発掘22年の成果 」 |ref=発掘(2010)}}
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加納城の口コミ情報
2022年11月23日 尼崎城大膳大夫一口城主
加納城
10月10日、JR岐阜駅南口から徒歩にて進軍。道中、加納天満宮があったのでお参りしてきました。加納城築城の際、天満宮が城郭内に入るとのことで現在位置に遷座したとありました。時代は下り、幕末に和宮様が京都から中山道で江戸に向かう際に加納宿に泊まられた石碑や歌碑がありました。
加納城に辿り着くと立派な石垣がありました。石垣に囲まれた内側が本丸ということでしたが広大な敷地が広がっていました。周辺を散策してみると二の丸、三の丸の石垣のある所が小学校のグランドになっていました。加納城の規模はかなり広かったことを周辺を歩いてみて感じました。説明板を眺めていると加納城は堀や川に囲まれた水に浮かぶお城だったことが分かりました。現在も東側には新荒田川という川が流れていて、登城前で説明板を読むまでは普通の川にしか見えなかった川が昔はお城の要塞の一部だったのかと知るとなぜだか立派な川に見え方が変わってきてしまいました。
2022年11月07日 陸奥中務卿景衡
加納城
城址は本丸跡が公園になっており、南側に臨時無料駐車場があります。
土塁や石垣の一部が残っています。
2022年09月28日 ▷猫耳◁百武萌え隊
本丸跡[加納城 遺構・復元物]
現在、本丸跡は公園となり何も無いが、本丸御殿があったとも言われている。
諸事情があり、本丸内は江戸時代以前の地層が調査されていないらしいので、戦国期の加納城が、単郭の方形居館だったら、この下には城館跡が、そのまま残っているかもしれない。
2022年09月19日 小太郎弾正忠南海道20國守
加納城
徳川家康が縄張りし、天下普請による美濃の要衝、中山道加納宿としての役割もあった。
現在は本丸跡が加納公園として整備され、中央はグランドとなっている。未舗装ではあるが、無料駐車場は、南側に隣接している。周囲外側は、野面積の石垣、内側は土塁となっている。
2022年09月11日 内匠頭与助
加納城
JR東海道線岐阜駅から南南東に約1.5km、旧中山道と交差する経路は、所々に城下町の佇まいが残っています。城跡は加納公園になっていて、よく手入れされ、多くの市民が寛いでいました。
2022年09月04日 ▷猫耳◁百武萌え隊
加納宿高札場跡[加納城 寺社・史跡]
ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは、藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせる為に、人通りの多い通りの辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿のこの場所が高札場で、宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に、高さ 約3.5㍍、幅 6.5㍍、横 2.2㍍もあるものでした。正德元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以降、明治時代になるまで、何枚もの高札が掲げられました。
岐阜市教育委員会
大手門跡の石碑から少し北側に高札場跡の立札があり、その脇を流れている清水川が加納城北側の外堀の一部かな。
2022年08月15日 ▷猫耳◁百武萌え隊
加納城跡 二の丸と三の丸[加納城 碑・説明板]
加納城は、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の後、徳川家康が豊臣方の巻き返しに備えて築いたものです。本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・大藪曲輪などを備え、周囲に堀を巡らした平城でした。
家康は、長女の亀姫の夫である奥平信昌に、十万石の領地を与え、この城の城主としました。このことから、当時の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことが伺えます。二の丸には御殿、三の丸には役所がありました。
この場所は、二の丸と三の丸を隔てる堀にあたります。幅は23〜4㍍もあり、隣の荒田川から水を引いていました。
左手の石垣は二の丸の東北隅櫓のもので、岐阜城の天守(三階櫓)が移築されましたが、享保十三年(1728)の大火で焼失してしまいました。
岐阜教育委員会
尚、加納小学校の西側には、三之丸跡の石碑があり、加納幼稚園の園内にも、石垣(櫓台?)が残されているらしい。
2022年08月11日 ▷猫耳◁百武萌え隊
説明板[加納城 碑・説明板]
加納城は徳川家康が、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した、岐阜城から運んだと伝えられています。
初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以降、代々の城主は譜代大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶことができます。
今、あなたが立っている所は、本丸の北門にあたります。本来の本丸の出入り口である、大手口は東側凸字形に出っ張った部分にありました。これは「外枡形」という、徳川氏が初期に作った城の特徴といわれる形です。
説明板より一部抜粋。
説明板にある、推定復元図から北門(埋門)には内枡形があり、石垣の上には多聞櫓があったと推定されています。現在のように土橋は無く、門の外側は堀に面していたようで、此処から兵糧などを川から運び込んだのかなと思います。
2022年08月10日 ▷猫耳◁百武萌え隊
御三階櫓跡[加納城 遺構・復元物]
御三階櫓東側の石垣が、失われているのが残念だが、当時の石垣が多少でも残されたのは、良かったと思います。
因みに、御三階櫓跡から、遥か彼方に金華山山頂の岐阜城天守が目視出来ます。(写真じゃ判らないが…)
2022年08月10日 ▷猫耳◁百武萌え隊
加納城二ノ丸跡[加納城 遺構・復元物]
加納城の説明板の縄張り図から推定すると、本丸北東の石垣から、道路北端までが堀で、この辺りは、二の丸と厩曲輪をつなぐ部分で、櫓門があったと思われる。
岐阜気象台の西側から南側にかけて、石垣があるが、本来は二の丸御殿があったとされている場所なので、御三階櫓東側の石垣を再利用したのだろか?
発掘調査により、二の丸御殿と思われる建物礎石等が検出されているが、住宅地やグランド等に変わり、遺物は地中保存されていると思われるが、詳細不明です。
2022年08月09日 ▷猫耳◁百武萌え隊
南門(裏門)跡[加納城 遺構・復元物]
説明板には、臆病門と書かれ、薬医門があり、その先に内枡形があり、櫓門があったらしいが、内枡形が撤去されているので、残念な感じです。
堀が埋められて、駐車場になっています。
2022年07月15日 デノロ
長刀堀跡[加納城 遺構・復元物]
妄想だけど、ちいさいころ御堀に落ちたことがあるの、、その堀はもう住宅地になって埋められちゃったんだって、、
でも今思い出したの。その堀の名はナギナタ堀、、そう、あなたの本当の名は「長刀堀」!
かつて加納城西側の防衛と水運を担った大外濠は、神隠し?のごとく「加納長刀堀」という町名しか残っていません。家中屋敷跡のチャート石垣(写真)は堀があった境界を示す唯一の面影かな。
ここは岐阜市の扇状地と旧木曽川の自然堤防が重なる地、長刀堀の底や石垣の隙間から染み溢れる湧水、、市街地からの清流:清水川や荒田川と併せた美しい水辺空間があったと妄想を掻き立てましょう「水に浮かぶ城」のごとく、、、。
【余談】日本で最初の小学校プールは、この長刀堀跡地にできた湧水プールだったそうです。大正13年から昭和18年まで使用されていましたが、これも残念ながら今はありません。うーん、もしかするとチャート野面積みを残したゴツゴツなプールだったとか?、城好き男子-!そんなプールサイドで走ってはいけませ-ん!!、でもちょっと押されてみたいかも、ってザブーン!!!ちべてー、、はしゃぎすぎなんだよ、、、夏休みだな!!
(実際はRC造の近代的な50mプールだったようです、小学校プールですから浅瀬を設けた安全設計がされてましたよ💦)
2022年06月23日 おっちゃん868号
加納城
現在、本丸後は加納公園になっており建物は何も残っておりません。公園の南側に駐車場があり無料で停められます。
1601年に豊臣氏への備えの為、徳川家康が築城を命じたとされており、家康の娘、亀姫の婿である奥平昌信が10万石の加納城初代藩主となりました。
2022年06月07日 【城郭道】たっきー
上茜部城[加納城 周辺城郭]
岐阜県岐阜市、上茜部(かみあかなべ)城。堀資重が築いた城で堀秀政誕生の城でもある。築城時期は不明。廃城は秀政が長浜城主になったり(1581年)、北ノ庄城主になったり(1585年)しているため、この頃といわれている。遺構らしいものは見当たらない。
現在は国道157号沿いに石碑と説明板がある。加納城や川手城から歩いて行けるほどの距離である。
2022年06月06日 マーヴェリック伊勢守
中山道加納宿まちづくり交流センター[加納城 関連施設]
まだ新築の木のいい香りがしてます。和傘の展示。加納城の模型。街道沿いの交流センターが、活気づくといいですね。
2022年05月15日 スーさん
加納城
私は岐阜市の信長神社からあるいたので、30分ほどかかりました。名鉄岐阜駅からなら20分ほどかと。本丸は公園になってますが、周りの土塁が残っており、その下の二の丸の石垣は岐阜城からもつてきたようです。三の丸には小学校が建っていて、そこにも石垣が残ってます。
2021年08月12日 図書頭桜姫
加納城
関ヶ原戦のすぐに建てられており、豊臣方への抑えとしては凄く良い位置にある。荒田川のほとり、「西の山口(大内)、東の川手」の川手城の、川向。川手城の土塁が使われており、川手城はそれにより跡形もなくなってしまった。天守は造られず、岐阜城の天守が、二ノ丸に三階櫓として移築され、あったが火災で消失。
師範学校、日本軍駐屯地、自衛隊駐屯地、と経てきてるので、石垣と水堀(水なし)以外は何もなし。石垣が黒いのは、岐阜空襲のせい?金華山と同じチャートの、野面のカッコいい石垣が、真四角に本丸を囲んだ平城。
しかし想像より広い。二ノ丸に岐阜気象台、三ノ丸に加納小学校、曲輪もあり、大手町=大手門の表示にニヤニヤ。もう少し観光化されても良いのに、そのままの放置状態。まあ、これはこれで良いのかも。
2021年07月31日 いち近江守㊉懸り乱れ龍
加納城
関ヶ原戦のち岐阜城は廃城し、新たに加納に天下普請で築城
平城、本丸跡は土塁や石垣で真四角に囲まれて残る 明治廃城まで加納藩として奥平家ら徳川譜代で続いた。
廃城後も学校、自衛隊駐屯地などで使用され今に至る。石垣は岐阜城のようなチャートの石材を使用。また岐阜城天守を天守台に築かず、隅櫓として用い移築したが江戸期に焼失している
2021年01月05日 【城郭道】たっきー
上茜部城[加納城 周辺城郭]
加納城から歩いて15分程で着く上茜部城。現在、歩道のそばに石碑と説明板が建っています。遺構は無さそうです。
加納城リア攻めの際に行ってみてはいかがですか。
2021年01月02日 【城郭道】たっきー
駐車場[加納城 駐車場]
現在、駐車場となっているところはかつて堀だったところです。
2021年01月01日 【城郭道】たっきー
加納城
岐阜城付近の『歴史博物館前』から『加納付属小学校前』まで名鉄バスで移動し、歩いて10分で加納城に着きました。『加納付属小学校前』の近くの歩道橋に大手門跡の石碑がありました。
野面積みの石垣が本当に綺麗ですね。いくらでも見ていられます。なかなかの規模で楽しめるのですが、説明板が少ないのでもう少し建ててほしいですね。
加納城は現在、岐阜県ではなかなか見られない平野部にある野面積みの石垣を持つ城なので岐阜城へ行ったら是非、行ってみてください。
2020年10月14日 播磨屋左京大夫
加納城
JR岐阜駅南口から加納めぐりバス(岐阜市コミュニティバス)が1時間に1本程度の頻度で運行され、加納城址もしくは加納公園バス停下車。土日祝も運行あり(2020年10月現在)。
加納城はJR岐阜駅から1.2km程なので、バスの谷間なら歩いた方が早く着きます。
2020年09月24日 織田上総介晃司
加納城
加納公園(加納城)の南側に駐車場があります。
公園内部からは土塁が、外からは石垣が見れます。
夏場は石垣に草が絡みついて隅石垣しかはっきりと見る事ができません。
岐阜城があるので観光としての加納城とは行政も見てないのだろう…
ただ公園としては市民の憩いの場となってます。
2020年09月01日 あ!信濃守どうも
加納城
本丸の石垣がよく残っている。南側に駐車場もあります。
2020年08月07日 とんかつおやじND
上茜部城[加納城 周辺城郭]
1990年に堀秀政没後400年として、上茜部城跡堀秀政顕彰碑という石碑がある。
2019年06月08日 Pretty美濃守継之助
加納城
徳川初期城郭の特徴で「加納城型」とも呼ばれる東に突出した外枡形の石垣です。
2019年04月01日 えるパパ右近衛中将
加納城
只今、加納城参上!
中々感じの良い野面詰の石垣です。
桜も3分から5分咲きです。
もう2〜3日で見頃かと
2018年01月05日 左近衛大将みきを
加納城
JR岐阜駅から徒歩15分程度で到着します。
本丸をぐるっと回る形で石垣が残っており、なかなか見ごたえがあります。
特に南側からは、本丸を含めた外枡形の石垣も見ることができるのでオススメです。
また、本丸内は現在公園となっており、下記の通り開園時間が決まっていますので、注意が必要です。
5月〜9月:7:30〜19:00
10月〜4月:8:30〜17:00
2013年02月07日 はせちゃん弾正忠
加納城
2/10 10:00〜
厩曲輪跡にて、発掘調査現地説明会が実施されます
貴重な遺構を見られるかと
2011年01月28日 傾奇揚げ仙兵衛
加納城
今はただの運動公園
2010年09月13日 古楽侍従広家
加納城
本多忠勝が築城に関わった城の一つ