更木陣屋(さらきじんや)

更木陣屋の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県各務原市那加西市場町3-117-1(旗本徳山陣屋公園)

旧国名

美濃国

分類・構造

陣屋

天守構造

なし

築城主

徳山則秀

築城年

慶長5年(1600)

主な改修者

主な城主

徳山氏

廃城年

遺構

土塁

指定文化財

再建造物

模擬門、復元井戸、石碑、説明板

周辺の城

野口館(岐阜県各務原市)[3.7km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[4.2km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[4.6km]
松倉城(岐阜県各務原市)[5.3km]
川手城(岐阜県岐阜市)[6.0km]
加納城(岐阜県岐阜市)[6.1km]
大野城(愛知県一宮市)[6.5km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[7.9km]
黒田城(愛知県一宮市)[8.6km]
田代城(岐阜県羽島郡)[9.0km]

更木陣屋の解説文



更木陣屋(さらきじんや)は、岐阜県各務原市(美濃国各務郡)にあった旗本徳山氏の陣屋である。

概要 

清和源氏土岐氏あるいは東漢姓坂上氏の流れを汲む旗本徳山氏の所領地は美濃国大野郡徳山郷(旧岐阜県揖斐郡徳山村、現揖斐川町)であるが、美濃国各務郡西市場、山後、霧野、岩池、大島、島崎、野口など(現各務原市那加地区、蘇原地区)も所領していた。この地を治めるための陣屋である。

設置当初の陣屋の名は不明である。更木陣屋の名は、この地域を更木郷と呼ばれるようになってからという。

戦国時代に織田信長の武将柴田勝家、前田利家に仕えていた徳山則秀は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に仕え、功績をあげる。この功績により、徳山則秀は旗本として、出身地の徳山郷と各務郡を所領する。本拠地は徳山郷としたため、各務郡を治めるために、1600年(慶長5年)に各務郡西市場に陣屋を設置する。陣屋の建物などの配置は、江戸時代に描かれた「更木陣屋絵図」で判明している。

旗本徳山氏は、1868年(明治元年)まで12代続く。

2000年(平成12年)、陣屋跡にて発掘調査が行なわれ、堀、井戸の跡、礎石などが発掘されている。

旗本徳山陣屋公園 

2000年(平成12年)の発掘調査と古文書の「更木陣屋絵図」を元にした復元が行なわれ、一帯は2003年(平成15年)、旗本徳山陣屋公園として整備され、江戸期陣屋風景が再現されている。

広さ0.45ha。建物跡などの遺構は、枕木や石、植物などで示されている他、白壁の門、復元井戸、池などが配置されている。また、園内にはエゴノキやウメなどの樹木が植えられている。

2006年(平成18年)、日本の歴史公園100選に選出される[1]

所在地 

  • 岐阜県各務原市那加西市場町3丁目

交通機関 

JR東海
  • 高山本線「那加駅」より徒歩で約30分。

名鉄
  • 各務原線「新那加駅」より徒歩で約30分。
  • 各務原線「新加納駅」より徒歩で約25分。

岐阜バス
  • 尾崎団地線「琴が丘」バス停下車、徒歩で約8分。
    • JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりばより、「諏訪山団地」「各務原高校前」、「テクノプラザ」行きに乗車。
    • 名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりばより、「諏訪山団地」「各務原高校前」、「テクノプラザ」行きに乗車。
  • 岐阜各務原線「石山町」バス停下車、徒歩で約15分。
    • JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりばより、「各務西町営業所」行きに乗車。
    • 名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりばより、「各務西町営業所」行きに乗車。

各務原市ふれあいバス
  • 那加線「琴が丘」バス停下車、徒歩で約8分。

更木陣屋の口コミ情報

2024年07月11日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
山後古墳群(1号墳)[更木陣屋  寺社・史跡]



那加山後町一帯に所在する山後古墳群は、かつては9基の古墳があったと伝えられますが、現在残っているのは5基です。古墳時代後期に築造されたといわれています。
発掘調査の事例がなく詳細は不明でしたが、住宅地開発に伴い「山後2号墳」の緊急発掘調査が実施され、発掘調査の結果、墳丘の東側1/3程が失われていましたが、直径約16㍍の規模であると推定されています。
周壕は、試掘トレンチから確認され、幅約4.3㍍、地山からの深さ約0.4㍍の規模で、直径約24と推定されています。
石室は、西方向に開口する無袖式石室で、天井石は持ち去られており、石室内には土が堆積していた。側壁の石は多くが崩落しており、残存状況は良くない。石室は玄室・羨道部・前庭部の構造が確認された。墳丘東側を通る道路により石室の奥壁が破壊されているため、石室の本来の全長は不明で、残存長は約9.6㍍。
石室内からは、副葬品と思われる須恵器・勾玉・ガラス玉などが出土している。

1号墳の東側にあった2号墳は、宅地開発によって消滅(発掘調査・記録保存)しているので、1号墳も失われてしまうのだろうか?

2024年06月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
手力雄神社境内古墳(2号墳)[更木陣屋  寺社・史跡]



丘陵南麓に立地する二基の古墳です。東側の二号墳は、直径 約12㍍の円墳で、横穴式石室が南に開口していますが、土砂が崩れており石室の規模は不明です。
古墳時代後期頃の築造と推定される円墳群で、二号墳の東側に三号墳があったとされるが、詳細は不明です。

二号墳は、稲荷神社側から行くことができます。

2024年06月24日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
手力雄神社境内古墳(1号墳)[更木陣屋  寺社・史跡]



丘陵南麓に立地する二基の古墳です。この一号墳は、直径 約18㍍の円墳で、横穴式石室が南に開口しています。石室の全長は10.5㍍あります。
古墳時代後期頃の築造と推定される円墳群。

手力雄神社拝殿西側から延びる渡り廊下の下を潜れる場所が二箇所あり、東側は秋葉神社、西側が手力雄神社境内古墳(1号墳)に続いています。

東側の秋葉神社側から墳丘を見ると、玄室の天井石と思われる岩が見えるので、墳丘はかなり崩れていると思われます。

2024年06月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
弓掛桜・的場桜・駈馬祭由来碑[更木陣屋  碑・説明板]



弓掛桜・的場桜・駈馬祭の由来
織田信長公は、手力雄神社に岐阜城攻略を祈願し、岐阜城入城の後も厚く当社を崇敬され、武運長久を祈って当社に、社領千三百町歩を寄進されたことは有名である。昭和三十三年四月まで続いた駈馬祭 別名「かけち祭」は公が駿馬を買上げのため、駈馬をさせたのが起因と伝えられている。また、信長公は弓術を尊び当社参拝の際、ここで技を競いその弓を掛けたと伝えられるものに弓掛桜・的場に植えたと伝えられるものが的場桜である。
これらの史跡を保存するための土地改良事業の竣工を記念して玉垣を奉納するものである。
那加西部土地改良精算区
石碑碑文より。

石碑の東側にある、注連縄された木が的場桜らしいが、桜の木なのか?楠ぽいが…。桜なのか?樹種はエドヒガンザクラらしいが…?
周辺には、いくつか石碑があり、弓掛桜は見忘れた…。

2024年06月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
手力雄神社[更木陣屋  寺社・史跡]



美濃国那加総社 手力雄神社
祭  神 手力雄神(天手力雄命)
相殿入座 高御産霊神 神産霊神 美和都神宇津井剣火御子三所神 伊波乃西神 長山神 村国神 村国真墨田神
創  立 年代不詳(約千三百年前)
由  緒 当神社は、社伝によれば平安時代初期に書かれた美濃国神名帳に従五位下真弊明神と記された神社で、本社裏山の中腹に大きな御神岩があり、古来より真弊岩(ミテクライワ)と称して里人に深く崇敬され、岩□祭祀が行われていたのを社に祀ったもので、相殿入座の神々も同神名帳に記された神々の分霊を合祀奉斎したものである。
御祭神 手力雄神は、信濃國戸隠大明神と同一神で、古く「古事記」「日本書紀」の神話によれば、天照大神が天の岩戸にお隠れになられた時、天の岩戸より大神を外にお迎えされた神であり、伊勢の内宮に同座され、戸隠山の麓に奉斎され、全国各地九□□社に祀られる神である。当社も往古は山中に祀られていたが、後に現社地に奉遷され、更に中世以降は、現在の各務原市那加地□の母体となった佐良木郷八ヶ村の統座土神として崇敬され、現在は那加地区の総鎮守として広く人々に尊崇されている。
当神社では、後花園天皇の天安二年(1445年)浅野刑部源重家の神官に任せられているが、現存する文化財に文明七年(1475年)この地の領主 薄田源左衛門尉藤原祐貞が寄進した長塚宮□鐘(現無動寺□□□蔵・県重要文化財)や同九年、祐貞寄進の木狛犬(現社宝)等があり、当時の領主の尊崇の様子をうかがわせている。
更に永禄十年(1567年)には、織田信長公が岐阜城攻略の折、当神社に戦勝を祈願し、成就の後、禁制を下し、また各務原の西□および北部山地あわせて千三百町歩の地を社領に付している。なお境内には、信長公の弓術稽古の遺跡も現存している。また、社領は徳川時代も除地となり、時の領主旗本坪内氏・徳山氏等も深く当神社を崇□ている。
こうした由緒ある歴史と共に□□□□にわたり佐良木郷八ヶ村の□□等に祟り………以降の数行は、汚れの為、碑文読めず。

佐良木→更木になったと、途中で気づく。

2024年06月18日 大学頭RedKing
更木陣屋



徳山氏の陣屋遺構は、復元門位です。立派な公園になっていて、地域の皆さんに大事に使われているのも、ご領主様やお代官様の徳政あってのことでしょう。
木曽川右岸の河岸段丘として各務原台地は灌漑用水路の整備がされるまで米作りは大変でした。遺跡が飛行場の周りに多数あって、古くから人の営みがなされていたようですが、中世の石高が経済の基準だった頃はさぞかし大変だったかと思います。

当地も境川の対岸にある各務原市立那加第一小学校の丘の方に目が行ってしまいます。が、現在も県道が交差する要衝です。

また、江戸期に尾張藩領は木曽川の南だけではなく、旗本の徳山氏の知行も周囲の村々との関係調整に難儀されたことでしょう。排水機場が近いのも、全体の利益のために小異を捨てられた先人が居られのでしょう。殿様もお江戸のお屋敷から國の方の空を見上げて平穏を祈ったのでしょう。

2021年07月04日 【城郭道】たっきー
新加納陣屋[更木陣屋  寺社・史跡]



更木陣屋より南にある陣屋。安宅の関で有名な冨樫左衛門の血筋がある坪内氏の陣屋です。坪内氏は関ヶ原の戦いで井伊直政の与力として鉄砲隊を率いて活躍しました。そのうちの一人、坪内喜兵衛はかの有名な関ヶ原の戦いの様子を描いた絵図に描かれています。

現在は門、説明板を飾る塀、展望台などがあり、散歩ついでの歴史散策についてむいている公園(新加納陣屋公園)となっています。2019年にできたばかり見たいですね。

2021年02月01日 mitt
更木陣屋



部屋割りが地面に石の標識で示されていて、想像しながら、歩くのもいいと思います。写真は看板です。

2020年09月18日 とんかつおやじND
新加納陣屋[更木陣屋  寺社・史跡]



永禄8年信長が稲葉城を攻めるには、まだ距離があり。前線基地が必要だった。それが歴史的には有名な「墨俣一夜城」作戦だった。しかし、実は一夜城作戦はその一年前に新加納でも実施されていた。その実績を受けて墨俣作戦が断行されたのだ。
中略
一夜城が構築された場所は、坪内家の菩提寺「少林寺」がある辺りだと言われている。かくして「新加納の一夜城」は成功を納めた。
信長は坪内衆の活躍を褒め、新加納や松倉など多くの所領を与えた。

新加納陣屋看板より



画像が遺構かは分かりません
が夢を持ち投稿します

2020年08月25日 とんかつおやじND
新加納陣屋[更木陣屋  寺社・史跡]



1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの戦功によって、付近の松倉城の城主であった坪内利定が美濃国羽栗郡、各務郡20村などを治める旗本となり新加納陣屋を設置した。 坪内氏は、1868年(明治元年)まで続いた。

明治に入り解体されたため現地に陣屋の遺構はなく、坪内氏の菩提寺である少林寺南西辺りが跡地であると伝えられてきた。 そこは各務原台地西端の突出した丘状の部分で、南、西、北の三方向に広がる低地を見下ろす位置にある。  ウィキペディアより

お隣の少林寺は 坪内氏の菩提寺になります
新加納陣屋公園として2020.03に開園?
本日歴史館は閉まってました
この堀は不明?
最後の画像は近くにある 坪内氏の御殿医今尾家の門


2020年08月12日 とんかつおやじND
手力雄神社[更木陣屋  寺社・史跡]



主祭神手力雄神はお力の強い神さまとしてしられており、永禄年間には織田信長公が戦勝祈願をしたことから勝運、開運の神として崇敬されております。 神社HPより

2020年06月27日 【城郭道】たっきー
更木陣屋

陣屋なんだと侮っていたら意外と綺麗に整備されててびっくりしました。模擬門や井戸が復元され、屋敷は平面復元されていました。駐車場もあり、車でも充分にリア攻めできます。石碑より右に行くと遺構の土塁がしっかり残って見応えがあります。各務原の城をリア攻めするならばここがおすすめです。

2019年05月12日 しげぽん
更木陣屋



陣屋は公園として整備されてます
入り口付近に数台自動車が停めれそうなスペースがあります

2018年04月16日 青コアラ美濃守
更木陣屋

公園の入口が駐車場のようなスペースになっています。駐車禁止とは書かれていなかったので短時間だけ停めましたが、自己責任で。
公園東側の道を北へ歩くと、左側に道に沿ってL字状に土塁が残っています。

2012年06月29日 與儀
更木陣屋

駐車場はありません…バスなどで来る方が良いと思います。今は公園となっているので、ちいさい子がときどき遊んでいます。

小学校がすぐ近くにあります。卒業生です。地域の歴史を学ぶという授業があります。手力神社も近くにあります。

更木陣屋の周辺スポット情報

 井戸(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 新加納一里塚(碑・説明板)

 弓掛桜・的場桜・駈馬祭由来碑(碑・説明板)

 新加納一夜城(周辺城郭)

 手力雄神社(寺社・史跡)

 新加納陣屋(寺社・史跡)

 柄山古墳(寺社・史跡)

 琴塚古墳(寺社・史跡)

 浜見塚古墳群(1号墳)(寺社・史跡)

 手力雄神社境内古墳(1号墳)(寺社・史跡)

 手力雄神社境内古墳(2号墳)(寺社・史跡)

 山後古墳群(1号墳)(寺社・史跡)

 山後古墳群(4〜6号墳)・八幡神社(寺社・史跡)

 山後古墳群(8号墳)・稲荷社(寺社・史跡)

 模擬門(関連施設)

 新加納宿(その他)

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