野口館(のぐちやかた)
野口館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県各務原市蘇原野口町(私有地)
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、移築門
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
更木陣屋(岐阜県各務原市)[3.7km]
松倉城(岐阜県各務原市)[5.1km]
伊木山城(岐阜県各務原市)[6.1km]
犬山城(愛知県犬山市)[7.2km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[7.4km]
大野城(愛知県一宮市)[7.7km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[8.0km]
宮後城(愛知県江南市)[8.1km]
猿啄城(岐阜県加茂郡)[8.8km]
小口城(愛知県丹羽郡)[9.4km]
野口館の口コミ情報
2025年07月15日 猫耳感謝感激雨霰萌え
野口館
各務原台地の中央北部に位置し、北西方向に延びる浸食谷の西側中位台地の緩斜面に立地する、中世の館跡。
野口館は、東西77㍍、南北76㍍の「方形館」という正方形に近い形ではあるが北側にやや張り出し、主郭内の面積は約2376㎡、周囲には深さ2㍍ほどの堀があり、堀底から約4㍍の高さの土塁が築かれています。
南側の中央部には館の出入口である虎口があり、その東側には物見櫓の跡らしい小高い土盛りが見られ、南東隅には面積約72㎡の曲輪が付属している。
平成十年〜十二年に行われた堀周辺の調査で、鎌倉時代〜室町時代の陶器が出土している。
鎌倉時代に築城され、後世に改修されていると考えられています。
北側の月極駐車場が、分譲住宅地となっている為、北側から土塁が見えなくなりそうです。
今後、発掘調査・遺構の記録保存されて、遺構消滅…。残念です。
2025年07月15日 猫耳感謝感激雨霰萌え
八幡山城[野口館 周辺城郭]
歴史と現状
加佐美神社は歴史深い神社で、今から千年余り前の平安時代に書かれた『延喜式(えんぎしき)』という書物に、その名前が記載されていることからも、時の朝廷から重要視されていたことが伺えます。
戦国時代になると、加佐美神社は八幡宮と呼ばれ、この神社の呼び名に由来して神社裏手の加佐美山も八幡山と呼ばれました。この山には、戦国時代の城として、八幡山城がありました。
八幡宮は、明治維新後、加佐美神社の名に戻りました。現在の加佐美神社の本殿は、江戸時代(1687年)に造営されたもので、神社には、かつて一ノ鳥居から三ノ鳥居までを社殿ね南方に連ねていました。
各務原市 地区別景観計画 風景形成基準ガイドライン
重点風景地区3 加佐美神社地区 より一部抜粋。
戦国時代に人見清蔵が城主だったが、斎藤龍興に攻められ城を陥された。
文禄三年(1594年)に、人見清次が八幡宮に二十五石の領地を寄進した、こと以外の詳細な来歴は不明。
ウィキペディアより一部抜粋。
加佐美山(八幡山)の周囲は、東側から北西側を蛇行する新境川が流れる独立丘陵で、城が築かれるのに最適な立地かなと思われる。
加佐美山は、加佐美神社の敷地で入山禁止となっている為、遺構の残存状況は不明。
加佐美山の東側に、加佐美山1号墳がある。
2025年07月15日 猫耳感謝感激雨霰萌え
岩瀧陣屋[野口館 周辺城郭]
本庄道章は、大身旗本の本庄道高の長男として生まれ、元禄十年(1697年)に四千石で家督を継ぎ、宝永二年(1705年)に六千石が加増され、合計一万石の大名となった。
道章は美濃国各務郡岩瀧に陣屋を構え、同年六月に領知朱印状が下され、これにより岩瀧藩が成立した。
宝永六年(1709年)八月、山県郡高富に陣屋を移し岩瀧陣屋は廃された。
旗本本庄氏 宝永年間 岩瀧陣屋跡 (石碑北面)
推循小学校跡 (石碑西面)
鎌倉時代 岩瀧郷本主 小島二郎重俊館跡(石碑南面)
明治六年 この地に開校する
岩小学校 創立百二十周年記念
平成五年十一月七日建立 (石碑東面碑文より)
岩瀧陣屋の石碑裏側に、鎌倉時代 小島二郎重俊館跡と刻まれているので、この周辺には城館があったのだろうか?
2024年12月10日 彦千代
野口館
名鉄各務原線六軒駅より徒歩約25分、途中まで直線道路にて分かりやすい、遺構はびっくりするぐらい残っているも個人宅、月極駐車場からの見学、第三者の視線が気になるところ、邪魔にならない所に説明案内板があると嬉しいかな。
2024年06月18日 中務少輔RedKing
野口館
更木陣屋から東山道跡との説もある蘇原街道(苧ヶ瀬街道)を東に、こちらも蘇原第一小学校や各務原市役所の支所等のお隣の区画です。街区ははっきり市道で区切られ、東西と北はフェンスになっています。
今尚、個人所有でコンディション良く管理されておられるとのこと。市役所ホームページの史跡の項目や小学校区ごとのウオーキングコースに掲載されています。
文献や発掘調査結果との表現も史跡指定の手続き等も、検索しても定かではありません。これは各務原市教育委員会にお聞きするよりないようです。
2024年06月12日 ニワニワ
野口館
私有地の為、フェンス越しにて拝見!木々が生い茂り遺構らしき堀が見えました。
2024年04月04日 みその対馬守
野口館
私有地で、柵で囲まれていて、周りから眺めるだけでした。堀・土塁は、しっかり残っています。車🚗は、隣の施設の駐車場に止めました。
2023年12月11日 装鉄城副将軍乱怒
野口館
野口館は私有地なので当然入れず。北側の駐車場と東側の道路沿いから空堀土塁を見ることができます。駐車場は停めていいかわからないので路駐で停めて見学。長時間にならないよう注意
2023年10月07日 ᴿᴱᴰ 副将軍
野口館
空堀跡が残る詳細不明の居館跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代、築城主等の詳細不明。在地土豪の居館跡と思われます。
発掘調査により築城は14世紀前半頃と推察されています。
見所
単郭方形の居館跡であり、四方に土塁と堀が巡り南に虎口が開口しています。
特に東側と北側の残存度が素晴らしいです。
かつては、加納城からの移築門と伝わる門がありましたが、市に寄付され、鵜沼宿に移築される際に大垣城の鉄門であったことが判明しています。
私有地であり許可が入ります
2022年05月01日 飛騨守勘助
野口館
通りに面しているのですが、近付いてよく見ないとスルーしそうです。でも、しっかりとした土塁が現存しています。手や器具で固めたのでしょうか。浪漫が広がります😊✨✨✨
2020年09月13日 式部大輔与助
野口館
JR高山本線蘇原駅から北北西1.5km、名鉄各務原線三柿野駅から2.5kmです。館の周囲を一周しましたが、入口を見つけられませんでした。竹藪になっていて、東と北面に堀が残っています。竹藪はよく手入れされていました。
2020年08月23日 とんかつおやじND
市隼雄命墳墓[野口館 寺社・史跡]
市隼雄命は、垂仁天皇の第一皇子である五十瓊敷入彦命と景行天皇の第六皇女淳熨斗媛命の間の子。なお建御名方神の子・出早雄命の4世孫に会知速男命がおり、その別名を市速男命(いちはやおのみこと)という。
橿森神社の主祭神は市隼雄命
同じ岐阜市の伊奈波神社に父・五十瓊敷入彦命、金神社に母・淳熨斗媛命を祭ることから、この三つの神社は関係が深い。
ウィキペディアより
2020年08月22日 とんかつおやじND
伝蘇我倉山田石川麻呂の墓[野口館 寺社・史跡]
伝蘇我倉山田石川麻呂の墓とは、岐阜県各務原市蘇原宮塚町にある史跡で蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝承されている。1972年(昭和47年)に市の史跡に指定された。
蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の孫で、大化の改新(645年)後に右大臣を務めた人物である。各務原市蘇原地区には、当時の都である奈良地方と共通する地名や寺名とともに、この宮塚の丘を蘇我倉山田石川麻呂の墓とする伝承が存在している。
なお、大阪府太子町の仏陀寺古墳(府指定史跡)も蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられている。 ウィキペディアより
2016年06月08日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
野口館
とにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。
一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。
さらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の門が明治9年に払い下げされたこと。
長らく加納城移築門とされていたが、平成21年にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政四年の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の門と判明した。
なお、現在の中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施されたので、私が投稿した写真よりは綺麗になっているが、一見をオススメする。
2015年12月02日 巾たつとも
野口館
投稿写真について
私有地(個人宅)の為、住人の方に、自身の身分証明書(運転免許証)を提示し、訪問目的を伝えた上、家屋を撮影しないことを条件に撮影の許可をもらいました。
住人の方によると、無断で敷地内に入る人が多くて困っていると言う事でした。
また、私有地であり生活空間であることから、訪問もあまり歓迎していないとも話していました。
敷地内を見学させてもらい感謝すると同時に、申し訳ない気持ちになりました。
野口館の周辺スポット情報
八幡山城(周辺城郭)
岩田城(周辺城郭)
岩瀧陣屋(周辺城郭)
伝蘇我倉山田石川麻呂の墓(寺社・史跡)
市隼雄命墳墓(寺社・史跡)
津島神社(熊田山北古墳群9・10・11)(寺社・史跡)
平蔵寺跡塔心礎(寺社・史跡)
行念寺古墳(行念寺古墳群)(寺社・史跡)
山田寺跡塔心礎(寺社・史跡)
山田寺礎石(寺社・史跡)