松倉城(まつくらじょう)
松倉城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県各務原市川島松倉町2232
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 富樫頼定
築城年
- 天文元年(1532)
主な改修者
- 織田信秀
主な城主
- 坪内(富樫)氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
大野城(愛知県一宮市)[3.1km]
宮後城(愛知県江南市)[4.3km]
野口館(岐阜県各務原市)[5.1km]
更木陣屋(岐阜県各務原市)[5.3km]
下奈良城(愛知県一宮市)[5.3km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[5.5km]
伊木山城(岐阜県各務原市)[6.6km]
小口城(愛知県丹羽郡)[6.7km]
黒田城(愛知県一宮市)[7.0km]
小折城(愛知県江南市)[7.0km]
松倉城の解説文
[引用元:Wikipedia「松倉城」の項目]
松倉城(まつくらじょう)は、尾張国葉栗郡→美濃国羽栗郡(岐阜県各務原市)にあった戦国時代の日本の城。
歴史
1532年(天文元年)、越前守護富樫氏嫡流の富樫頼定が犬山城主、織田信康に仕え尾張国葉栗郡松倉を領した際に築城する。このころ、頼定は坪内姓を名乗る。1548年(天文16年)に織田信秀により松倉城は強化される。
頼定の曾孫の坪内利定は織田信長に仕え、信長による美濃国稲葉山城攻略のため蜂須賀正勝ら各地の有力者の協力を取り付けに奔走。難航するが、木下藤吉郎の手助けによって成功した。
伝承によれば、1566年(永禄9年)、木下藤吉郎による墨俣城築城の際、木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工を施してから再び川に流し、墨俣に送るという、重要な役割を果たし、これが稲葉山城攻略の大きな手助けになったという。
信長の死後、坪内利定は羽柴秀吉と不和となり、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康側につく。しかし、池田恒興の軍勢に攻められ、やむを得ず松倉城に自ら火を放ち金山城に身を隠す。暫くして徳川家康に仕え、再び松倉城に入る。
1600年(慶長5年)、坪内利定は徳川家康の会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦。関ヶ原の戦いでは東軍東海道本隊(徳川隊)に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げる。この功績により、美濃国羽栗郡、各務郡20村、6,500石を治める大身旗本となり、同年、拠点を松倉城から各務郡新加納の新加納陣屋に移したため、松倉城は廃城となる。
江戸時代にはこの地に樫の大木と祠があり、道しるべになっていたという。明治時代、この樫の枯れた跡に祠を建て直した際、戦国時代の坪内家の墓所も発掘され、新加納の少林寺の墓所に埋葬しなおされた。
なお、当該地域は戦国期には尾張国葉栗郡に所属しており、美濃国松倉城では誤りとなる。綿密には、当該地域が尾張国から美濃国になったのは安土桃山時代の1585年(天正13年)であり、坪内家が関ヶ原の戦いの後に松倉から新加納に拠点を移したことで廃城になったと考えると、尾張国、美濃国両方の時代があったと考えても良い。
現在
- 城跡は河川改修により、殆どが木曽川河川敷となっている。
- 案内板と樫大神の祠がある。樫大神は坪内氏の墓所にあった樫の大木のことであり、この樫のことを伝えるために1910年(明治43年)に建立された。樫大神の祠の元の場所は現在地の北の河川敷であり、河川改修により移転。墓所は少林寺に移されている。
- 近くの上ノ島神明神社は、松倉城の裏鬼門の神社として崇拝されていた神社である。
所在地
- 岐阜県各務原市川島松倉町2232-1
交通機関
- 各務原市ふれあいバス川島線「スポーツ公園前」バス停下車、徒歩8分
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松倉城の口コミ情報
2024年07月29日 たくや
松倉城
土手沿いの道の側道を下った所に碑と看板がありました。車で行くことをオススメします!
2024年06月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
前渡坪内陣屋[松倉城 周辺城郭]
坪内氏は代々、鉄砲頭の名工として戦乱の世を乗り越えてきた武将です。加賀の国(石川県)の富樫氏を祖とし、戦国時代に松倉(各務原市川島町松倉)に城を構えました。その後、信長・秀吉に仕え武功により、次第に勢力を伸ばし、関ヶ原の合戦での功績により、家康から旗本に取り立てられました。新加納(市内那加新加納町)に陣屋を構え、その領地は各務原市(川島を含む)、岐南町、笠松町にわたり約六千五百石でした。
坪内氏は三分家(前渡・平島・三井)を出しました。そのうち前渡は、二男・定安が六百石を拝領し当地に陣屋を構え、十一代・昌壽まで続き明治維新を迎えました。
屋敷は、現在の前渡北町三丁目一帯で、敷地は稲羽東小学校の約二倍の広さでした。通称「お屋敷」と呼ばれていました。
各務原市文化財を守る会
前渡西町連合自治会
説明板より。
矢熊山の駐車場から散策、小学校より少し高い地形となっているが、この頃の陣屋には堀や土塁は無かったのだろうか?
2024年06月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
仏眼院[松倉城 寺社・史跡]
当山略縁起
当山に安置し奉る本尊不動明王は、下總國成田山の御分身なり。
当地□領主旗本坪内家(富樫左ェ門の子孫)の家臣 山本軍八郎藤原盛行の一子、秀之助十七才の時、眼病のため両眼を失明し成田山に参籠して、不動明王の御霊験により開眼し報恩のため発心「明心」と名づく、明治二十三年十一月十一日、当所に勧請して諸人の厄除を祈る霊場となせり。
明治二十四年春、京都市醍醐山より、土御門天皇 建仁三年 権僧正成賢御創建による豊臣秀吉公の御祈願所 佛眼院を当時の御本尊 阿弥陀如来(成賢の作で七百七十年程前)と共に、当山に移転し安置し奉る。
その後、盲目者の開眼したる者数多あり。諸病の平癒せる者又多し、依って開運厄除・無病長寿・良縁幸福・家内安全・家門繁栄・交通安全等の守護佛として、遠近・老若男女の参詣者絶えず今日に至る。
真言宗醍醐派 前渡不動
矢熊山 佛眼院
説明板より。
現在の本堂は、明治時代に再建されたものですが、小牧・長久手の戦いの際に、羽柴秀吉が「川縁大豆戸」に陣を張ったとされ、矢熊山に豊臣秀吉公に縁のある建物が移築されたのかなと思いました。
2024年06月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
承久の乱合戦供養塔[松倉城 寺社・史跡]
承久の乱合戦供養塔の由来
承久三年(1221)六月、承久の乱に際して、ここ各務原市前渡は、幕府軍と後鳥羽上皇軍の激戦地のひとつとなりました。前渡は木曽川の浅瀬で、夏場でも渡りやすかったためです。
矢熊山の西側に「西宮寺」という小字名が残っています。昭和七年(1932)の県道工事の際、この辺りで多数の五輪塔が出土しました。地元の住人は、これらは承久の乱で亡くなった人たちの供養塔であり、天台宗西宮寺に祀られていた塔が、木曽川の洪水で寺とともに流され、ここに埋没したのだと考えました。
この時、発見された五輪塔は、前渡地内の桃春院に集められましたが、より丁寧に供養しようと、有志の手によって昭和三十年代に仏眼院のある矢熊山(前渡不動山)に移されました。昭和四十五年に「承久の乱供養塔奉賛会」が結成されて供養祭が始まり、昭和四十七年に「承久の乱合戦供養塔」として市史跡に指定され、昭和五十三年に地蔵菩薩が中心に安置されました。平成十三年(2001)には、前渡全域の住民が関わって「前渡不動山発展会」が立ち上がり、奉賛会から供養祭を継承して毎年六月に法要を行っています。
五輪塔は、型式的な特徴から一部は十五世紀後半、多くは十六世紀後半〜十七世紀前半、つまり戦国〜江戸時代にかけて作られたものと推定されます。十三世紀前半に起きた承久の乱より、後の時代のものではありますが、後世の村人たちが乱の戦死者を弔うために作ったものと思われます。
各務原市教育委員会
各務原市観光協会
前渡不動山発展会
説明板より。
駐車場から、お地蔵様が並ぶつづら折れの坂道を登った山の中腹にあります。ベンチが設置されており、ゆっくり休憩できます。
2024年06月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
矢熊山(前渡不動)駐車場[松倉城 駐車場]
承久の乱と各務原
源頼朝が開いた鎌倉幕府は、三代将軍 源実朝の暗殺により将軍が不在となりました。これを、幕府を従わせる好機とみた後鳥羽上皇は、承久三年(1221)四月、鎌倉幕府の実権を握る執権 北条義時の追討を決意し、畿内近国の武士を集めました。
後鳥羽上皇挙兵の報告を受けた幕府は、源頼朝の正室である北条政子の演説によって御家人たちを味方に付けました。幕府軍は、東海道軍の北条泰時・時房ら十万、東山道軍の武田信光ら五万、北陸道の北条朝時ら四万の軍勢に分かれ、京へ向けて進軍することになりました。
後鳥羽上皇に味方する京方軍は、集まった兵を東海道・東山道と北陸道の三手に分け、二万余りの東海・東山道軍は木曽川で幕府軍を迎え撃つ構えをとりました。
木曽川には当時、複数の浅瀬があり、京方軍はそれらの浅瀬に軍勢を分けました。その中でも大豆戸(摩免戸、各務原市前渡)は特に浅く、水量の多い夏場でも、渡河しやすい場所であったため、幕府軍は北条泰時、京方は藤原秀康と、ともに総大将が大軍を率いて布陣しました。
戦いは六月五日夜、大井戸(可児市土田)で始まりました。東山道の幕府軍が渡河攻撃を仕掛け、大井戸の京方の軍勢を敗走させました。東山道軍は鵜沼に向けて進軍を開始し、それを受けて東海道の幕府軍は木曽川を越えて進軍、京方と合戦しました。京方は敗走し、宇治川で防衛線を張るも再び敗れ、承久の乱は幕府の勝利となりました。
激戦地であった、ここ前渡にそびえる矢熊山中腹には、戦没者の供養塔が祀られています。
各務原市域は木曽川に面し、中世以前は東山道、近世は中山道が通る交通の要衝でした。戦乱の時代、木曽川と各務原は、東国と西国の間の「天下の分け目」であったと言えます。
各務原市教育委員会
各務原市観光協会
前渡不動山発展会
駐車場北側の説明板より。
おまけ
矢熊山駐車場から東に歩道を少し歩くと、矢熊山南掩体壕が見られます。(手前は私有地の為、近くまでは行けませんが…)
第二次世界大戦末期、陸軍によって作られた防空壕で、間口18㍍、奥行29㍍、高さ7㍍もある大規模なものです。(矢熊山北掩体壕・長根山掩体壕も近くにありますが、木が生い茂って見えない。(ストリートビュー確認ですが…。))
2024年06月08日 おうみのやま
松倉城
木曽川の堤防と住宅に挟まれた小さな竹やぶでした。堤防側に案内板と樫大神と刻まれた石碑があり、雑草に囲まれてさびい感じがします。堤防の上に立つと木曽川の緩やか流れを眺めることが出来ました。
2024年02月29日 RED副将軍
三井山城[松倉城 周辺城郭]
木曽川沿いの要衝に築かれた土岐氏一族の城跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代、築城主等の詳細不詳。
天文年間(1532年〜1555年)の城主として三井弥市郎の名が伝わります。
三井弥市郎は美濃国守護職の土岐氏の家臣であり、
1548年に土岐氏と守護代である斎藤氏との抗争が始まると、尾張の織田信秀がそれに付け込み侵攻し、三井城は落城。そのまま廃城になったとされます。
見所
標高108mの三井山に築かれています。
山頂に主郭を配し西側には雛壇状に郭が連なりますが、公園化に伴いかなりの改変を受けており明瞭な城郭遺構は見当たらず。
主郭は御井神社が祀られており、東側にも段郭がある様ですが遊歩道を外れると激ヤブで視認することも困難。木曽川沿いの一際目立つ山上にあるため、古来から要衝であったことは間違いなく、プリミティブな山城の印象です。
整備で改変されているか激ヤブの両極端な城跡でした。
行き方は、三井山ふれあいの森公園を目標に設定。南東麓に登城口があり、登り口周辺に路肩駐車しました。
2023年11月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
松倉城
史跡 松倉城跡
この地(松倉上ノ島)は、坪内氏の古城跡である。
戦国の頃、加賀国(現石川県)の富樫の庶流 坪内藤左衛門尉頼定が尾張国に来て、犬山城主 織田信康(信長の叔父)に仕えた後、天文十六年(1547)に、初代松倉城主となり松倉を領地とした。
四代目城主 坪内(喜太郎)玄蕃頭利定は、織田信長に従いたひたびの合戦に臨み、武勲を輝かせた。しかし、信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と不和となり本領を離れ、一時、金山(現益田郡金山町)に退くことになる。
たまたま、天正十八年(1590)徳川家康に迎えられることになり、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には、井伊直政の軍に属し抜群の戦功をたてた。その功により、家康から直々に感状を賜り、翌年、羽栗・各務両郡において六千五百三十三石を賜ることになった。
その後、坪内氏は旗本を仰せつかり、坪内宗家は江戸に出府し、幕府の組織の中で重要な地位を占めた。
川島町 川島町文化財保護審議会
説明板より。
少し離れているが、川島スポーツ公園の駐車場に車を駐めてから、徒歩で松倉城跡、少林寺跡を巡りました。
2023年03月21日 志摩守与助
松倉城
松倉城はやはり車で行くのがベストですね。東海北陸自動車道の川島PAのスマートICがなくなったので、最寄りは岐阜各務原ICです。降りて東に4kmほど進み右折して、各務原大橋を渡ってすぐ右折し堤防道路の約200m先です。駐車場はありません。何もない堤防の法面に城跡を示す看板が立ってます。
2023年03月21日 いち近江守喪中
松倉城
近くの堤防道路を走行中でしたので立ち寄りました。
木曽川の南側堤防下に看板があり、城郭は木曽川の南方にあったこと、城主坪内氏の墓らしき遺骨や土器片などが出土した事が記されていました。場所は車の往来が多いので気づきにくいかな〜と
2023年03月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
少林寺跡[松倉城 寺社・史跡]
鎌倉時代の應長元年(1311)この地に、竜慶山 少林寺が建立された。ここは臨済宗南禅寺派に属し無学祖元の流れを汲む夢窓国師疎石の開山になるものである。
栄枯盛衰は時の流れとともに移り変わったが、その当時の寺郭伽藍は広壮で法灯が少林寺一帯に輝き、仏教文化の殿堂として、200余年栄えたのであった。たまたま木曽川の水魔の惡戯激しく、衰え廃寺となる。現在は、その証跡として僅かに、少林寺の一角を残すにすぎないが、寺郭の大部分は木曽川の本流の川床となっている。
附記
室町時代、明應八年(1499)薄田祐貞は少林寺の中興を図り、臨済宗妙心寺派の傑僧東陽英朝を開山として、新加納に再興する。後、戦国の兵火にあい焼失したるも、江戸初期領主旗本坪内氏の再建するところとなり、坪内家の菩提とする。現在の新加納少林寺は是なり。
本町小網町には、現在も多くの檀徒を有す。
川島町文化財保護審議会
説明板より。
堤防からは、説明板にある『〜僅かに、少林寺の一角を残す〜』は、確認出来ない。
2023年03月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
樫大神[松倉城 碑・説明板]
戦国時代の終わりの頃(天□年間)この地、川島に松倉城が築かれていました。当時、小網島と松倉上の島との境に、樫の大木が高くそびえていました。この樫の大木は、四方から眺められ水陸の交通の目印になっていたと言われています。
この樫の木の下に、松倉城主 坪内氏の墓があり、長い間守り続けられてきました。そして、明治四十三年八月、当時の守り役であった小島清太郎さんが、この樫の木のことを忘れ去られることがないようにと、碑を建立したと言われています。
現在の碑のある位置は、木曽川の改修工事のため、7~80㍍程南に移動しています。工事の時に、墓の跡からたくさんの、土器や人骨が見つかりました。この時の土器は、川島町のふるさと史料館に保管されています。
川島町文化財保護審議会
説明板より。
説明板の文字が1箇所削り落とされているが、天正年間だろうか?
現在、川島町ふるさと史料館は、複合施設 各務原市川島会館 各務原市木曽川文化史料館になっていると思われます。松倉城から堤防を川下に進むと、川島大橋(現在架替中)手前にあります。
2022年06月16日 zato尾張守
松倉城
木曽川の河川敷に看板だけがあります。遺構等はないと思います。
2022年06月12日
松倉城
近くの各務原大橋を各務原市のコミュニティバスが通りますが、土日祝日も運行していても本数が少ないので注意が必要です。名鉄一宮駅前と名鉄笠松駅前から名鉄バス・岐阜バスの路線が2km弱西の川島(名鉄バス)・川島松倉(岐阜バス)まで来ています。
岐阜バスの路線は、以前は名鉄岐阜バスターミナルから来ていた路線が笠松駅発着に変わった様子です。エーザイの川島工園と川島運動公園の外縁には歩道がありますが、それ以外は車のすれ違いがギリギリな道を進むことになります。
2022年06月12日 刑部卿スーさん
松倉城
一宮駅から川島行きのバスで終点まで行き、20分ほど歩きました。木曽川の堤防道路の土手に説明板が立っています。堤防道路は歩行帯がないので気をつけて歩いてください。車も堤防下に停められます。
川島バス停まで戻って一宮行きに乗り、大野で降りれば大野城も行けます。
2021年06月29日 火狐
松倉城
各務原大橋から少し下流に堤防道路を進んだ辺りで内側の側道に入ったところに石碑と説明看板があります。少しわかりにくいので、通り過ぎてしまうかもしれません。側道であればそんなに車は来ないので路駐可能。本来の城の場所はここから北80mの辺りらしいので、川の真ん中かも。遮蔽物がないので景色が綺麗です。
2021年05月30日 Yana右兵衛督
松倉城
堤防沿いを一本内側に入って車道に面したところに石碑と看板があります。石碑のまわりは草が生い茂っています。
2021年04月25日 野良犬しろチロ丸
松倉城
説明看板があるくらいです。駐車場はないですが、近くに路駐スペースがあります。
2020年08月21日 とんかつおやじND
承久の乱合戦供養塔[松倉城 寺社・史跡]
承久の乱合戦供養塔とは岐阜県各務原市矢熊山(仏眼院)中腹にある承久の乱両軍戦没者の五輪塔群のことである。 市指定史跡(昭和47年11月)。
元々は承久3年(1221年)の承久の乱、「摩免戸の戦い」での鎌倉、京都両軍の戦没者供養のため、この地の人々の手により西宮寺(前渡西町地内)に安置されていたもので、 その後、木曽川の氾濫により寺は流され供養塔も埋もれたままになっていたが昭和初年に発掘され かかわりの深い矢熊山に移転安置された。 以来毎年6月5日に供養祭が行なわれている。 ウィキペディアより
2020年08月12日 とんかつおやじND
三井山城[松倉城 周辺城郭]
三井山城の築城時期は1482年(文明14年)の辺りとはっきりしてはいないが、土岐氏の家臣であり、斎藤氏の一族で花村修理の子孫である三井弥市郎(三井弥一郎)もしくは土岐氏の土岐忠八郎が築城したといわれている。木曽川のほとりに程近いことから、古くから砦が築かれ、やがて山城となったようである。山頂に本丸があり、その下に三層の曲輪があったことが確認されている。
これはと言える遺構は余りありません。
が、木曽川越え尾張方面の展望はよし。
各務原基地を飛び立つ戦闘機の撮影スポット
2020年07月03日 【城郭道】たっきー
松倉城
現在の岐阜県各務原市にあり、木曽川に囲まれた地にあります。
遺構は何も残っていませんが、説明板が跡地に建てられています。駐車場はおそらくありませんが、少しより道する程度ならバスいいところなのでぜひ言ってみてください。
ちなみに一宮市木曽川資料館には松倉城の資料があるそうです。