伊木山城(いぎやまじょう)

伊木山城の基本情報

通称・別名

伊木城

所在地

岐阜県各務原市鵜沼

旧国名

美濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

伊木忠次

築城年

永禄4年(1561)

主な改修者

主な城主

伊木氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、石垣、土塁

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

犬山城(愛知県犬山市)[1.6km]
羽黒城(愛知県犬山市)[4.3km]
小口城(愛知県丹羽郡)[4.9km]
猿啄城(岐阜県加茂郡)[5.8km]
宮後城(愛知県江南市)[5.8km]
野口館(岐阜県各務原市)[6.1km]
松倉城(岐阜県各務原市)[6.6km]
楽田城(愛知県犬山市)[6.9km]
小折城(愛知県江南市)[9.3km]
更木陣屋(岐阜県各務原市)[9.3km]

伊木山城の解説文



伊木山城(いぎやまじょう)は、岐阜県各務原市小伊木4丁目にあった戦国・安土桃山時代の日本の城(山城)。伊木山の山頂にある。

歴史 

築城時期や伊木家の経歴については諸説あるが、一般に信じられている来歴は以下の通りである。

1561年(永禄4年)、この地を攻めた織田信長によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、この地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊木忠次と改名したという。そして、この伊木山に伊木山城を築き居城とした。後に信長の家臣である池田恒興に転仕した。

1590年(天正18年)、廃城となった。恒興の死後も池田輝政に仕えた忠次は、岡山藩筆頭家老となった。

現在 

周辺はいこいの森伊木の森として整備されている。

伊木山城の口コミ情報

2024年06月09日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
各務城[伊木山城  周辺城郭]



平成二年に各務原市が発行した「各務原市史」及び、平成十二年に発行された東海古城研究会の機関誌「城」によると、大友皇子(天智天皇の子)に命を狙われ、大和の国 吉野を脱出した大海人皇子(天智天皇の弟)は、舎人 村国男依の出身豪族を頼って美濃に入ります。そこで、地元の村国氏・各務氏が中心となり、兵を集め近江の大津宮へ村国男依の指揮で進軍し勝利し、この功績により村国男依は「連」(むらじ)の姓(かばね)と「外小紫」(げのしょうし)の冠位を与えられ下級貴族となり、各務原を仕切ると共に、主家は奈良に在住し、都に勤めました。
また、壬申の乱の戦功で各務原の租税はかなり優遇されていたとされます。
村国男依の子孫は、天平宝字八年(764)仕えていた、恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起して失敗すると、村国氏の勢力は衰退し歴史の記録から姿を消していきます。
一方、各務郡では壬申の乱における無名の兵士とされる各務氏が台頭し、各務郡を統治する郡司に成り上がります。
各務氏は、各務郡・厚見郡の大領(郡司の長官)を歴任し、勢力を拡大していきました。
平安時代、広野川事件が発生し、事件後には、美濃国司・尾張国司が共に交代しているとされます。郡司の処罰については不明だが、その後、各務氏は承久の乱で朝廷側で参戦し敗北、領地を没収されたと伝わります。
その後、室町時代になり、守護代 斎藤氏の一族が、この地に居城を築き各務氏を名乗り、それが各務城と言われています。
織田信長の美濃侵攻の際に、落城。そのまま廃城となったと思われます。

石碑正面 史跡 各務氏一族居城地
  左側 御野国各務郡各務郷字城之屋敷
  右側 大領 各務氏は奈良・平安の時代、各務郡を支配した豪族である。

村国神社から石碑を目指して散策したが、城館の痕跡ないかな?

2024年06月09日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
村國神社[伊木山城  寺社・史跡]



式内金幣社  村國神社(由緒)
御祭神 天之火明命
    石凝姥命
    村国連男依命
    白山大権現
当神社は、飛鳥時代、この地一帯を治めていた村國の祖が、天の火明命を御祭神として、創建された社であります。
弘文元年 壬申の乱に、大海人皇子の命を受け、この地の豪族 村國男依氏は大勝し、この功勲で帝の信任厚く、時の政権につきましたが、天武四年 天命を全うし、この世を去りました。
延久四年(約920年前)白山大権現が合祀され、濃州一円の士豪も、勝利の神と、大いにあがめ祀ったと伝えられている由緒ある神社であります。

この周辺に、豪族 村國氏一族の屋敷があったのだろうか?
拝殿の裏側から村国神社奥の院へ続く石段があります。

2024年06月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
村国古墳群[伊木山城  寺社・史跡]



村国古墳群は、古墳時代後期頃の築造と推定され、直径10〜15㍍ほどの円墳が4基確認されています。

マップに記されている場所に、何かしらの説明板が設置されているのを期待して行ってみたが、何もなく山へ入れそうな道があるのみでした。
周辺を見ると墳丘らしき小丘が確認できるが、古墳の説明板は無く、立札は有るが子宝杉・縁結びつつじなど神社関係の物のみでした。
何枚か写真を撮ったが、古墳が写っているか不明…。
帰りがけに石碑を発見したが…。

村國古墳公園(表側)
濃州古墳昔話(裏側)
此の地域一帯は古墳の多い所であり。その昔、羽島・厚見・茜部・各務・葉栗の各郡を支配し、其の拠点を当地、各務の里に築き豪族として信望をあつめ、智力・政力並ぶ者□き時の実力者、村國男依兵が壬申の乱の折、一早く出兵し大海人皇子の参謀として大活躍され、その功績により、連の位を授り、其の後、朝廷に代々仕えられたと云々。
村國連男依氏没後、境内に御祭神として祀り。其の後、一族及び重臣の方々を順位□囲一帯に合祀したのが、此之村國古墳群です。
石碑碑文より。□は漢字不鮮明、句読点追加。

こちら側から、村国神社奥の院方面に行けたらしい。

2024年06月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
村国座の舞台[伊木山城  寺社・史跡]



国指定重要有形民俗文化財
各務の舞台(村国座)
明治十年(1878)の創建と伝わる。そして明治十五年九月という太夫座の墨書により、この時がこけら落しだったと考えられる。本格的な劇場形式の建物は、切妻造りの瓦葺きで約百三坪を有す。舞台には、直径約7.54㍍の廻り舞台のほか、花道・太夫座・ぶどう棚・奈落なども備えている。
かつては地元の青年による歌舞伎が上演されていたが、昭和四十年代後半からは村国神社の祭礼に合わせて子供歌舞伎奉納が行われている。
創建以来、たびたび修理の手が入って建物が維持されて来たが、老朽化が顕著になった平成十八年から、三カ年にわたる「平成の大修理」が行なわれた。これには文化庁からの補助金に加え、市民のみなさんからの浄財が財源となり、解体修理とともに耐震補強もされた。これにより再び甦った「村国座」を各務原市民の宝として大切に守りたい。
各務原市教育委員会 各務原市文化財を守る会
説明板より。

説明板の改修前の写真には、屋根に雨樋が設置されているが、現在は雨樋が取り外され、地面には雨落溝が周囲を廻っているので、創建当時に近い姿に戻されていると思われます。

2024年06月07日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
村国男依墓所伝承地[伊木山城  寺社・史跡]



延喜式神名帳によると、村国神社は美濃国各務郡(現 各務原市)に二座とされています。各務おがせ町に村国神社は二か所あり。
神社は、村国男依の墓所があった場所と伝わり、現在では御旅所となっています。

南側に鳥居があり神社ぽいが、フェイスに囲まれ侵入不可となっています。北側に村國男依候古墳地と看板があるのみです。

2024年06月07日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
二ノ宮神社(二ノ宮神社古墳)[伊木山城  寺社・史跡]



二ノ宮神社は、江戸時代の初めに鵜沼宿が開設されるにあたって、この場所に移転してきたと云われています。祭神は、坂道や村境を守ると云われる国狭槌命です。寛永六年(1629)、貞享四年(1687)の棟札が残されています。
境内には、五穀や養蚕を司る保食大神の石碑や、火伏信仰のある秋葉神社の祠があり、東側の拝殿は明治後期に建てられたものと云われ、農村舞台の特徴を良く示した建物です。
訪ねてみたい各務原の史跡より、一部抜粋+α。

二ノ宮神社古墳
この古墳は、二ノ宮神社ができる前から、この場所にあったものです。古墳の形は円墳で、大きさは直径29㍍です。およそ六〜七世紀(西暦500〜600年代)に造られた古墳と考えられます。
神社境内の石垣に揃って見える大きな穴は、古墳の横穴式石室です。本来の石室は、前半部の羨道(せんどう)と後半部の玄室(げんしつ)から成りますが、この古墳の場合は羨道が取り外され玄室のみが残された状態になっています。石室の残存部の大きさは、長さ6㍍、幅2.1〜2.6㍍、高さ(現状)2.3㍍です。元の大きさを推定すると、石室は市内最大クラスであると思われます。
説明板より。

秋葉神社の祠の前に、石室の天井石が露出しており、墳丘の高さもかなりの大きさの古墳だったと思われます。
二ノ宮神社の南側の石段は急ですが、すぐ近くの坂道から神社の西側に続く道もあります。

2024年06月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
中山道鵜沼宿本陣跡[伊木山城  碑・説明板]



鵜沼宿本陣跡
鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じ桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来、桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。
寛延二年(1749)十代将軍 家治に輿入れした五十宮が、ここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。
文化六年(1809)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。
「中山道宿村大概帳」天保十四年(1843)に、「本陣凡そ建坪百七拾四坪余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・二之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたと言われています。
明治維新後、鵜沼第一小学校の前身の新々義校は、ここに創設されました。

菊川酒造(本蔵・一号倉庫・二号倉庫)
中山道の南側に建つ本蔵は、大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材に籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っています。土蔵造り二階建てで、梁間 約14㍍、桁行 約24.4㍍の規模があり、大きな瓦屋根が宿場町の景観に寄与しています。
敷地東側の細い路地に沿って建つ蔵は、一号倉庫・二号倉庫と呼びます。明治時代後期の建物で、外観は一棟ですが内部は完全に仕切られた壁があります。小屋組みは、北側は登り梁で、南側は洋小屋トラスと形式が異なります。土蔵造り二階建てで、梁間 約6.2㍍、桁行 約20㍍の規模です。

菊川酒造豆蔵跡
豆蔵は、本蔵の西側に並んで中山道に面して建つ土蔵造り二階建ての建物で、酒づくりのための原料を保管し蒸留工程の一端を担っていました。本蔵と連続する桟瓦葺きの大きな切妻屋根が宿場町の景観に寄与していました。
各務原市が指定する景観重要建造物、また国の有形文化財にも登録されていましたが、老朽化により、令和四年八月に解体されました。この看板は、当時の豆蔵の面影を残すものです。
[建築時期]明治時代初期
[ 構造 ]土蔵造り二階建て
[ 面積 ]184.25㎡ 梁間 五間(約9.5㍍)桁行き 九間半(約18㍍)

中山道沿いには、いくつか建物の案内看板が立てられています。

2024年06月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
鵜沼宿復元高札場[伊木山城  寺社・史跡]



高札場 由緒
高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現・赤坂神社)の間に南向きにありました。
この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。
また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。
説明板より。

鵜沼宿の東の見附は、赤坂神社の少し南の赤坂地蔵堂辺りに、枡形と呼ばれる急な曲がり道があったとされる。

2024年06月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
鵜沼宿問屋場跡・尾州領傍示石(移設)[伊木山城  碑・説明板]



鵜沼宿問屋場跡
鵜沼宿には、江戸時代を通じ東町と西町にそれぞれ一ヶ所問屋場がありました。東町では野田家が代々この地で問屋場を努めました。
「中山道宿村大概帳」天保十四年(1843)に「問屋場二ヶ所にて、一日代り継立て、問屋一人・年寄一人・帳付一人・人馬指二人相詰め、重き通行の節は一同罷り出で取り扱い来る。」と記されており、西町の桜井家と一日交代で務めていたことを窺わせます。
野口家は、江戸時代後期の安政年間に、西町の坂井家に代わって脇本陣も務めることになりました。

尾州領傍示石 由緒
中山道は鵜沼村(尾張藩領)から、各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の二本の傍示石を建てました。
この傍示石は、明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられていましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。
各務原市の大切な歴史遺産の一つとなっています。
説明板より。

写真の傍示石は、西側の傍示石で道路の反対側に、もう一つの傍示石があります。

2024年05月30日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
旧大垣城鉄門[伊木山城  寺社・史跡]



市指定重要文化財  旧大垣城鉄門
安積門(旧大垣城鉄門)
由来
当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明治九年に払下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。
規模は、間口約5.7㍍、高さ約4.5㍍、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造りの屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられました。
当門のもう一つの特徴は、正門の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。
当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。

中山道鵜沼宿町屋館
由来
当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の附属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明治二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたものです。附属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものとみられ、太田宿から移築されたものと伝えられています。
三棟とも、市指定文化財・景観重要建造物に指定されています。
説明板(二ヶ所)より。

旧大垣城鉄門の南側が、中山道鵜沼宿町屋館の駐車場として利用できます。

2024年05月15日 マエヒロ
展望台[伊木山城  その他]

犬山城とライン大橋が見れるので清々しいです。

2024年03月21日 ニワニワ
伊木山城



標高173mの独立丘陵の伊木山は、信長が美濃攻略のさいの砦。山頂に、所々に石垣がみられる。写真は、木曽川を手前に真っ直ぐ 小牧山が見えます。

2024年01月16日 宮内卿スーさん
伊木山城



駐車場は3つありました。
遊歩道入り口から入り、心臓破りの道を登りました。高齢者にはけっこうきつかったです。山頂に中央曲輪がありました。
そこから下ってまた登るとキューピーの鼻に着きます。そこからは犬山城、木曽川、御岳などが見えて景色抜群に良かったです。

2023年06月06日 eye3主馬首eye3
伊木山城



伊木山への入口がわかりにくく、芝生広場の近くの階段を登ったら、途中から下りになり、山からはずれて結局芝生広場を一周してしまいました。改めて別の入口(遊歩道入口)から入ったら、山の中は、「心臓破りの道」「尾根の道」などと標識があり、山頂まで行けました。山頂から少し下った「キューピーの鼻」は見晴らしが良かったです。

2023年02月13日 尾張守えりっき
伊木山城

遺構はほとんど残っていませんが、キューピーの鼻からの犬山城・木曽川が素晴らしいです!

2022年03月06日 ばらく~だ
伊木山城



伊木山城リア攻めしました。伊木の森近くの、伊木山城の説明看板が有る所の遊歩道入口から入り、山頂へ行きました。山頂からは小牧山城がよく見えますが、付近にアンテナが何本か立っているだけで、お城に関する表示は何もありませんでした(城巡アプリのお城マークは山頂に設定されている模様)
犬山城は、遊歩道入口近くにある「木曽川展望台」からのほうがよく見えます。

2021年12月06日 ファン掃部助トム治郎
伊木山城



頂上からの展望は今一つですが南側の尾根から小牧山から名古屋のビル群まで見渡せます。Googlemapで、清須から小牧山までが木曽川までの距離のちょうど半分くらいであることを確認。犬山から美濃侵略にむけて小牧山に拠点を移した戦略性を実感できます。鵜沼駅から伊木山東麓の少年の家あたりから登り西の観音寺に下山その後南側のダートの道をとおりフォレストへ戻りましたが南のダート道は途中から私有地になっておりやめた方がよさそうです。

2021年05月10日 
伊木山城

伊木山城に行って来ました。
山の中腹まで道路が通っていて、そこに駐車場があります。
ここは所謂、城下町があるような城では無く、織田信長による犬山城攻めの為の前線基地の役割だったようです。
駐車場に車を停め、遊歩道に入りますが違和感を感じました。
ここは城跡なのですが、【←本丸】といった看板が見当たりません。遊歩道の分岐点で、どっちを選べば良いのか迷いました(笑)
ここで頼りになるのが城巡のGPS。城マークを手掛かりに遊歩道を登って行くと、やがて山頂に。
ここで犬山城を見下ろす風景を期待していましたが、木々に囲まれて何も見えん(笑)
とりあえずポチだけして駐車場に帰ると、駐車場横に【展望台】の看板が。
(気付け!俺!)
展望台からの風景は木曽川と犬山城を一望出来る見事なモノ。
犬山城を愛でながら静かで落ち着ける
居心地の良い所でした。


2021年03月01日 右近衛少将与助
伊木山城



城があった伊木山は、我が家から約3.5km。なのに、このたび初めて登りました(汗)。木曽川が作った濃尾平野の要となる平地にポツンとそびえる小さな山で、城があった頂上へは東西南北4方向から可能です。東の対岸には犬山城が対峙しています。

2021年01月17日 我流尾張守クール
伊木山城

伊木山は各務原市にそびえる独立峰で「夕暮れ富士」と言われているようです。
山頂付近に天守台(見張台)があったようですが、第二次世界大戦時に敵機を迎撃する設備が作られ、当時の面影はありませんでした。
木曽川対岸にある犬山城を眺めるなら「キューピーの鼻」を目指して下さい。
山頂から北側の眺めは開けていて、中山道、木曽川など敵の進軍を監視するには絶好の場所だと思います。
木下藤吉郎は多分?登ったのではないでしょうかね。

2021年01月14日 とんかつおやじND
旧大垣城鉄門[伊木山城  寺社・史跡]



蘇原の安積家の門として使われてきたものをここに移築したものです。高麗門と呼ばれる型式の門で、正面には短冊状の筋鉄(すじがね)が張られています。このような種類の門を鉄門と呼びます。幅約5.6メートル、高さ約3.6メートルの大きさです。移築に伴う解体調査の結果、土台に墨書が発見され大垣城本丸の門であったことが分かりました。各務原市指定重要文化財です。
中は観光用?駐車場になってます

2019年05月05日 大納言Z武蔵守369
伊木山城



誰もいないと思ったら、伊木の森は2019年4月から休園中との事。

2015年10月05日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
伊木山城

伊木山は池田家の家老となる伊木忠次の居城です。地元では寝仏山と呼んでいます。なぜ、寝仏山なのか?
木曽川の対岸から眺めればすぐに分かります(^-^)

2015年10月05日 まるき〜陸中守
伊木山城

所在地は岐阜県ですが愛知県の犬山城から近い場所にあります。

県道95号線からいこいの広場伊木の森と書かれた信号の無い看板のある交差点を南に、あとは一本道です。
途中にある展望台からは少し遠いですが犬山城がよく見えます。

登山道、登城口は展望台入り口の少し先、歩いて1〜2分の所からルートはいくつかあるみたい…
かなり急な勾配のルートもあるので軽装での登城はオススメできません!
登る途中で麓を見ると広大な田畑が目に飛び込んでくる、
当時の城主は今年も豊作でヨシ!とか思っていたのだろうか…(笑

本丸付近にはベンチとテーブルがあるだけで城を思わせるものは見当たらず(素人にはわからず、汗
尾根づたいに熊野本宮跡とかがあるみたいです、

案内板には頂上から犬山城が見えると書いてあるが、この時季頂上は木々が生い茂り犬山城は望めない、秋、冬なら見えるのかもしれない…

犬山城に行く前に登城しておけば、
犬山城天守より、あの山がさっき登った伊木山城か!とよくわかりますよ。

登山口付近とその先、施設手前の右側にも案内の看板があります。






2013年11月04日 尾張守ひろっちぃ
伊木山城

登山口に伊木山城の説明文の書かれた看板があるのみです。山頂までは整備されたハイキングコースになっています。
山頂からは木曽川の向こうに犬山城を望むことができます。

伊木山城の周辺スポット情報

 石垣(遺構・復元物)

 伊木山城と伊木瀬兵衛忠次(碑・説明板)

 中山道鵜沼宿本陣跡(碑・説明板)

 鵜沼宿問屋場跡・尾州領傍示石(移設)(碑・説明板)

 各務城(周辺城郭)

 天野山砦(愛宕山)(周辺城郭)

 旧大垣城鉄門(寺社・史跡)

 村國神社(寺社・史跡)

 村国座の舞台(寺社・史跡)

 村国男依墓所伝承地(寺社・史跡)

 坊の塚古墳(寺社・史跡)

 炉畑遺跡(寺社・史跡)

 ふな塚古墳(大牧4号墳)(寺社・史跡)

 大伊木山西古墳(寺社・史跡)

 衣裳塚古墳(寺社・史跡)

 鵜沼西町4号墳(寺社・史跡)

 狐塚の石棺(寺社・史跡)

 二ノ宮神社(二ノ宮神社古墳)(寺社・史跡)

 鵜沼宿西の見附跡(寺社・史跡)

 金縄塚古墳(寺社・史跡)

 洞ひさご塚古墳群(寺社・史跡)

 村国古墳群(寺社・史跡)

 中山道鵜沼宿脇本陣(寺社・史跡)

 鵜沼宿復元高札場(寺社・史跡)

 三ツ塚(寺社・史跡)

 会本古代窯跡(八幡神社)(寺社・史跡)

 天狗谷遺跡・天狗谷古墳(寺社・史跡)

 船山北古墳群(寺社・史跡)

 伊木の森トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 伊木の森駐車場(駐車場)

 炉端遺跡駐車場(駐車場)

 展望台(その他)

 キューピーの鼻(その他)

 遊歩道入口(その他)

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