楽田城(がくでんじょう)

楽田城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県犬山市城山

旧国名

尾張国

分類・構造

平城

天守構造

殿守[2重/1558年築/破却(廃城)]

築城主

織田久長

築城年

永正年間(1504〜1521)

主な改修者

主な城主

織田氏、坂井政尚、梶川高盛、堀氏

廃城年

遺構

移築門?(常福寺)、土塁

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

羽黒城(愛知県犬山市)[2.9km]
上末城(愛知県小牧市)[3.5km]
小口城(愛知県丹羽郡)[3.5km]
小牧山城(愛知県小牧市)[5.2km]
大草城(愛知県小牧市)[5.3km]
宮後城(愛知県江南市)[6.3km]
伊木山城(岐阜県各務原市)[6.8km]
犬山城(愛知県犬山市)[6.9km]
小折城(愛知県江南市)[7.1km]
岩倉城(愛知県岩倉市)[8.9km]

楽田城の解説文



楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現愛知県犬山市楽田)にあった日本の城。

概要 

楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道が通る近辺にあった。平城。現在ほとんど遺構は残っていないが、「天守」に当たる建築物を建てたとの記述が歴史文献にある城としては最も古いとされる。

歴史 

永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わる。以後は楽田織田氏の居城となったが、織田寛貞(織田忠寛の父)の代に、永禄初年に尾張で最大勢力となった織田家末流の織田信長についた犬山城主織田信清に攻略され、信清の出城となった。ところがまもなく永禄5年(1562年)に信清は信長に離反したために犬山城を追われ、楽田城は信長の武将・坂井政尚が守備した。しかし坂井氏は長男の久蔵尚恒が元亀元年(1570年)7月の姉川の戦いで討死、さらに政尚自身も同年12月に近江国滋賀郡堅田(現在の大津市堅田)で戦死したともあり、楽田城には梶川高盛が入って城主となった。

その後小牧・長久手の戦いで前線基地となり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の部将であった堀秀政が入り、さらに秀吉自身も陣所としたという。戦後、楽田城は廃城となった。

文献上最も古い「天守」の記述 

小瀬甫庵の『遺老物語(おきなものがたり)』巻八「永禄以来出来初之事」によると永禄元年(1558年)に楽田城中に高さ5メートルほどの壇を築き、その上に二階櫓を構築して中では神仏を祀り、それを殿守(でんしゅ、天守に音が通じる)と呼んだという。楽田城の殿守以前には、1521年の伊丹城、永禄年間には、大和国でも松永久秀が多聞山城信貴山城で四階造りの櫓を構築したという記録があるが、殿守(天守)とよんだ高層建築が文献上に現れる城としては最も古いとされる。

当時、尾張を支配していた織田信長は、永禄6年(1563年)に居城とした小牧山城(『武功夜話』による)、さらに永禄10年(1567年)に居城とした岐阜城のいずれにも天守に相当するものを築き、さらに天正3年(1575年)から築城した安土城の中央に築いた5層7階の楼閣には天主と命名していることなどからも、天守という名称が尾張から生まれたと考えている学者もいるが、安土城岐阜城の天主を建てた織田信長と楽田城の殿守から、建築の意匠的なセンスが織田氏の血脈としてあったのではないかと西ヶ谷恭弘は言う[1]。また、起伏の少ない濃尾平野では、16世紀半ばまでの他の地域のように山城を築くことが困難であったために平城が発達し、同時に遠方を観測するための櫓が必要となり、こうした背景から天守のような高層建築が発生することとなったと考えられている(天守の起源に関する詳細は、天守を参照のこと)。

遺構 

遺構は大正年間まではある程度残っていたが、犬山市立楽田小学校の用地となって徐々に失われ、昭和55年(1980年)には天守台跡も運動場とするために撤去されている。現在では天守台跡から建造物としては移築した碑と土塁がわずかに残る。

裏門が楽田城の東方にある常福寺(犬山市北大門)に移築され、山門として利用されていると伝えられるが、定かではない。

交通手段 

  • 名鉄小牧線 楽田駅から南へ徒歩で約5分。

楽田城の口コミ情報

2024年10月03日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
烏塚古墳[楽田城  寺社・史跡]



烏塚古墳は、青塚古墳の前方部側外堤部にあります。墳丘の高さは約1.5㍍、一辺20㍍程の方墳で、墳丘はかなり崩れて、墳丘上に稲荷社が祀られていました。

青塚古墳の外堤上には他に、西側に耳塚古墳、北東側に駒塚古墳と呼ばれる、同程度の方墳が存在しましたが消滅しています。

青塚古墳の周辺に存在する方墳も、青塚砦の一部として利用されたのだろうか?

2024年10月02日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
花塚古墳群[楽田城  寺社・史跡]



青塚古墳との関係は?お隣さんの古墳達

青塚古墳の周辺には、かつて多数の小さな古墳があり「青塚古墳群」を形成していました。現在、その多くは失われ、青塚古墳の南側にある烏塚古墳と、西側の竹藪内にある花塚1号分・2号墳・3号墳が残るのみです。これらの古墳は、四世紀後半ごろの築造で、青塚古墳はその盟主墳であったと考えられています。
また、周辺の状況を見てみると、本宮山の西側にある通称「楽田山」には、古墳時代後期につくられた数多くの小さな古墳が点在していたようです。
本宮山南西の丘陵一帯には、蓮池古墳群が存在していました。昭和二十五年(1950)・昭和二十六年(1951)に蓮池1号墳・2号墳の調査がされ、2号墳からは小型の家形蔵骨器が発見されています。
わたしのまちのとっておき文化遺産!
犬山たび  古墳の巻より一部抜粋。

花塚1号墳は、高さ2㍍で、一辺16㍍の方墳を呈する。周囲には周溝状の窪みと堤状の高まりが認められる。
以前は、墳丘上に王畦畔稲荷大明神が奉られていたが、現在は青塚古墳南側の神明社に移されています。この社には、「おけはん狐」という悪戯好きの狐の昔話が伝わっています。

花塚古墳群は、竹藪に覆われていて、墳丘がどの辺りに存在するのか分かりませんでした。

2024年07月29日 たくや
楽田城



駅から近いです。車だとすれ違えないくらい狭い道です。

2024年05月30日 ʀᴇᴅ副将軍
青塚砦[楽田城  周辺城郭]



小牧長久手の戦いにおいて森長可が布陣した古墳を利用した砦跡⚔

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1584年の小牧長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉の家臣である森長可が築いた砦。
3,000名の兵が駐屯したとされ、森長可は徳川家康の本拠地である岡崎城を攻略するべく池田恒興と出陣するも長久手の戦いで討死。
鬼武蔵と恐れられた森長可でしたが、水野勝成の配下である鉄砲足軽の杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれて即死したとされます。享年27歳でした。

見所
墳長123m、高さ約12mの前方後円墳を改変した砦です。愛知県下では2番目の規模とされる古墳です。
特に堀や土塁は周囲に見当たりませんが、古墳の上は見晴らしが良さそうでした。

青塚古墳として国史跡に指定されています。
駐車場は完備され、ガイダンス施設「まほらの館」が併設されています。

2024年05月12日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
岩崎山砦[楽田城  周辺城郭]



愛知県指定天然記念物  熊野神社の五枚岩
岩崎山は、新期堆積層からなる平坦な濃尾平野の中に、基盤の花崗岩が高く突出して山丘を成したものである。五枚岩は、花崗岩が山丘面から局部的にさらに高く突出し、五枚に分かれたもので、それぞれの厚さが0.7〜2.5㍍程で平行に並び、奥行き約10㍍、高さ約5㍍に及ぶ。岩崎山の花崗岩は二方向の節理が明瞭に認められ、地表に突出している部分で、この節理面に沿って風化侵食が進んだため五枚に分離し平行に相並んで独立に高く突出した奇観を呈するに至ったものである。
なお、石材の産地として知られた岩崎山には、各所に点在する刻紋石や切支丹灯籠、岩屋古墳など、石にまつわる文化財が数多く見られる。
愛知県・小牧市教育委員会
熊野社境内にある案内板より。

岩崎山の石垣
この石垣は岩崎山前土地区画整理事業、市道拡幅工事に伴い発掘された石(慶長年間名古屋城築城の残石)を用いて築造されたものである。
岩崎児童遊園東南角にある石碑より。

岩屋古墳側から山に入って、熊野社側から山を下りた為、岩崎山の案内図を見たのが終盤で刻紋のある石を見逃したので、熊野社の案内図(かなりアバウトですが)を確認してから、石を探した方が効率良く廻れると思います。
地元の方が整備されたと思われる、立札が各所に設置されています。

2024年05月10日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
年貢橋(清正橋)(移設復元)[楽田城  寺社・史跡]



年貢橋(清正橋)
現在地から南南東へ約140㍍、新木津用水の右岸を流れる原川に架けられていた、石材だけを組み合わせて作った石橋で、年貢橋と呼ばれている。
慶長年間の名古屋城築城にあたり、岩崎山からも石垣用の石材が切り出されて名古屋へ運ばれたが、その際に加藤清正が命じて作らせたという言い伝えから、清正橋とも呼ばれる。
歴史的な裏付けは明らかでないが、原川が江戸初期の入鹿三用水の開削、新田開発以前からの川であると考えられることから、建造年代の古さが推察される。
なお、現在の年貢橋は、土地区画整理事業に伴う水路改修工事により、現在地に解体移設し、復元したものである。
小牧市教育委員会
説明板より。

橋の石材には、矢穴で割られた痕跡も見られるが、岩崎山の石材とは若干雰囲気が違うかな?

2024年05月10日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
岩屋古墳[楽田城  寺社・史跡]



岩屋古墳は、岩崎山山麓の南東に所在した飛鳥時代の築造と考えられる横穴式石室を主体部とする単独の古墳です。墳丘は一部を除いて滅失し、石室が露出した状態で所在していました。
平成十九年の発掘調査により、この古墳は直径が30㍍弱の円墳であることが判明しました。石室は東海地方に多い胴が張る玄室で、擬似両袖式石室と呼ばれるものであり、約2㍍の玄門石を立て、玄室の入り口をつくり出していることがわかりました。石室の規模は、玄室の奥行きが3.8㍍、幅が2〜2.2㍍、天井の高さは2.2㍍あります。羨道は3.6㍍が現存し、開口部は南東方向を向いていました。
石室に使われた石材は、岩崎山から産出する花崗岩を切り出して使用しています。石室内には石棺が破壊された状態で出土しましたが、石棺の石材は凝灰質砂岩であり、産地は犬山市善師野と推定されます。
石室内からは金銅製の耳環、須恵器の長頸瓶が出土しました。出土した遺物は六世紀末から七世紀初頭のものです。また鎌倉時代の山茶碗も多く出土しており、その頃にはすでに盗掘されていたと考えられます。
発掘調査終了後に古墳を解体し、この場所に移設復元しました。石室の復元にあたっては、風化が進み、再構築が不可能な石材の入れ替え及び不足石材の補充を行い、築造当時の姿に復元しました。なお、石室上部については、露出展示とし、石室が観察できるよう整備しました。

岩崎山の石材
岩崎山は良質な花崗岩が産出することが古くから知られていました。古墳時代にはすでに石材加工の技術があり、岩屋古墳が造られています。
名古屋城の石垣普請の折には、岩崎山は加賀前田家の御用石場となり、多くの石材が名古屋城二之丸に運ばれた記録があります。岩崎山には、石場の跡や石の切り出しに関わった大名を示す刻紋のある石が多く残っています。
岩屋古墳の天井石に残る矢穴は、名古屋城の石垣普請の際、切り出すために開けられたものです。天井石の節理面に沿って矢(鏨)で17㎝程の長穴を開け、そこに楔を入れて叩く直前の状態で残っています。何かの理由で切り出し中止となったようですが、石材が必要でなくなったのか、古墳を壊すことを躊躇したのかわかりません。
小牧市教育委員会
説明板より。(羨道前と墳丘上2箇所)

地産地消としても、石材を切り出して、運搬、石室の組み立て、どれ程の労力と時間が費やされたのだろうか…。

2023年10月13日 ʀᴇᴅ副将軍
楽田城



小牧長久手の戦いにおいて羽柴秀吉が一時本陣を置いた城跡⚔

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1504年頃に織田久長により築かれたと云われます。
織田久長は、清洲織田氏の一族であり尾張守護代。大赤見城から新たに楽田城を築いて居城を移し、以降は楽田織田氏の代々の居城となりました。
1558年には尾張で勢力を拡大した織田信長に従属した犬山城の織田信清による侵攻で落城し、犬山城の支城となります。
しかし、1562年に織田信清は美濃の斎藤龍興と結んで織田信長から離反し敵対。犬山城は織田信長に落とされ、織田信清は武田氏を頼って甲斐へ逃亡しました。
代わって楽田城には織田信長の家臣である坂井政尚が守将として入城。
1570年に坂井政尚が朝倉氏・浅井氏との志賀の陣にて近江国堅田で討死すると、奥城の梶川高盛が入城しました。
1584年の小牧長久手の戦いにおいては、羽柴秀吉の家臣の堀秀政が在陣。徳川家康が小幡城から小牧山城に帰還すると、犬山城に本陣を布いていた羽柴秀吉も楽田城へ本陣を移したとされます。
合戦が終わると講和条件として楽田城は廃城となりました。

見所
現在は、楽田小学校の敷地となり遺構はほぼ消滅。
北西部の校門付近と北側の須賀神社に石碑と案内板が立っています。

2023年09月18日 中務少輔RedKing
楽田城



石碑と説明板があります。よくある跡地の丘陵地が学校です。小牧線に並行する県道もほぼ真南に名古屋へ向かって下って行きます。木曽川が犬山で急に緩やかになって濃尾平野になります。扇の左手長久手に至る山の裾野を2本の動脈が通っています。古墳の時代から物流・軍事拠点だったのでしょう。駅北の踏切には尾張二宮大縣神社の案内碑があり、この東方1km少しの山です。天下の奇祭が行われる田縣神社とセットです。因みにこの西方2kmにある青塚砦の土地は、この神社の名義だそうです。神世の時代から何かしらの関係があったのでしょうか。奇しくも千年を経てまた合戦だったとわ。

2023年03月14日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
青塚古墳史跡公園(まほらの館)[楽田城  関連施設]



青塚古墳史跡公園 ガイダンス施設(まほらの館)では、令和5年3月13日〜5月7日までの期間限定で、楽田城址の御城印が売店されています。

青塚古墳ガイダンス施設(AM9:00〜PM16:30)
月曜定休
入館無料
駐車場あり

楽田城址の御城印の他に、青塚古墳の御墳印なども各1部 300円で販売されています。

まほらの館では、青塚古墳周辺の古墳の出土品や東之宮古墳で出土した銅鏡のレプリカ等が展示されています。

2022年09月14日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
小松寺山砦[楽田城  周辺城郭]



天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で、秀吉方の砦が築かれた。小松寺山一帯に、砦は二か所あったといわれ、その規模は、東砦が十間四方、西砦が東西八間、南北十間であったという。三好秀次、丹羽長秀などが守備した、秀吉軍の主陣地であった。
この合戦のとき、小松寺にあてた池田恒興、森長可などの軍陣制札が、小松寺に保存されている。小牧市歴史館には、その複製が展示公開されている。
小牧市教育委員会  説明板より。

小松寺山門の扉が、閉ざされていた時は、愕然としたのですが、石碑や説明板は小松寺の上に位置する、八所神社・熊野神社合殿という神社の境内にあったので、お寺の近くをウロウロして正解でした。
小松寺の参詣者用駐車場あり。

2022年07月18日 青コアラ美濃守
楽田城

現在の楽田小学校が楽田城の主要部であったようですが、楽田駅の東と西にそれぞれ裏門跡・北之門跡の石碑が建っていて、これらと小学校を結ぶと実際の城域が意外と広かった事がわかります。
いずれも駐車場がなく道も狭いので、歩いて巡る方が城の大きさも実感出来ていいと思います。

2022年07月05日 尼崎城右近衛大将一口城主
楽田城



6月4日、羽黒城下城後に名鉄小牧線羽黒駅から一駅乗り🚉楽田駅から徒歩にて登城。進軍していくと楽田小学校の門の脇に石碑と説明板がありました。説明板を読むと、小牧長久手の合戦時に秀吉公の本陣とされた場所とありました。もっと資料や小説を読んで小牧長久手の両陣営の陣地について知りたくなってきました📚

2022年05月07日 飛騨守勘助
楽田城



小学校を囲むように、お城の跡や門の跡の碑などがありました。じっくり歩いて回ると小1時間くらいかかると思います。閑静な住宅街の中の1角に時が止まったかのように存在していました。

2022年01月25日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
青塚砦[楽田城  周辺城郭]



天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いに際して、123㍍の青塚古墳の墳丘を改変して砦として利用されたとも伝えられている。

青塚古墳は四世紀中頃(古墳時代前期)に造られた、愛知県で2番目に大きい前方後円墳です。
標高31㍍の台地の端にあり、古墳の西側には平野が広がります。古墳は、低い基壇の上に後円部が3段、前方部が2段に築かれています。段ごとの平坦面には、赤く塗られた壺形埴輪が並び、前方部の頂上には、方形壇を囲んで円筒埴輪、朝顔形埴輪が並んでいました。また、古墳全体は大量の河原石で覆われていました。古墳の周りには周濠(堀)と外堤が巡り、周濠を横切って古墳に向かう通路(陸橋部)がありました。

国指定史跡として、整備されていて墳丘が綺麗にみえます。前方部が一部欠損しているのが、砦の名残りなのかな?
古墳の南側にガイダンス施設があります。
月曜日は、休館日で駐車場も封鎖されているので、注意して下さい。

2021年12月03日 侍従えっき
楽田城

だいぶ狭い住宅地。車での城攻めは注意。戻れなくなるかも。

2021年09月13日 じゅんまる兵部大輔
楽田城



住宅街、小学校の横に楽田城址🏯があります。車で訪れる方は駐車場が無いのでマナーを守って訪れてくださいね😊

2020年11月23日 ゆーみん
楽田城



名鉄楽田駅から南東に伸びる一方通行の道を突き当たりまで行くと、楽田城址の碑があります。
周辺は道幅狭い住宅地です。
近くには織田信長公に縁があると言われる永泉寺があり、地図上で見ていても面白い場所だと思います。

2020年08月30日 ときDon兵衛
楽田城

名鉄小牧線・楽田駅のすぐ東側の道を南ヘ下って行くと、楽田小学校の横に出ます。そこに楽田城跡の小さな碑があります。一瞬見に行くだけなら碑の前にちょっとだけスペースがあります。
周りの住宅地に迷い込まないよう注意です。

2020年08月19日 民部大輔与助
楽田城



名鉄小牧線楽田駅の南東、楽田小学校の西端です。小牧長久手の戦いで秀吉が来ていたとか。

2017年05月28日 てつ&あゆ刑部卿
楽田城

楽田小学校が中心となりますので、訪問は土日がベストですね。
ここまで来たなら、ぜひ寄って欲しい田縣神社と大縣神社。
毎年3月に行われる豊年祭は世界各地から観光客が訪れる程有名な奇祭!
田縣神社では男茎神輿、田縣神社では女陰の山車がねり歩きされます。
'(小牧山麓には間々観音(おつぱい)があり、これだけそろう地域は他に無いのでは。)
また、国定指定史跡・青塚古墳も歴史好きなら訪れてみては。東海地区最大級の前方後円墳でありながら、小牧長久手の戦いでは秀吉陣営の砦となった場所です。
古墳には登れませんが、公園から家康陣営(小牧山)を眺めてみては。
ガイダンス施設『まほらの館』では、文化遺産カード貰えますし、古墳消しゴムを作ったりもできます。
楽田城から田縣神社へ向かう途中にある桃花亭で篠岡の完熟桃を使ったスイーツを堪能するのもお勧めです。期間限定、完熟桃丸ごと一個使った『まるごとピーチ』や『氷室白桃』は自分へのご褒美に。残念ながら9月末に閉店らしいので、楽田城近くで食べられるのは今年が最後です。

2016年12月03日 百段久太郎
楽田城

楽田小学校の西門前に「城山 楽田城址」の石碑と案内板がありますが、ここから北側に歩き、最初の路地を右に曲がった突き当たりにある須賀神社に「楽田城小城址」の石碑と高台が残っています。むしろ、こちらの方が城址の雰囲気があります。
100メートルもないくらいなので是非とも足を運んでみてください。

2013年01月06日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
楽田城

名鉄小牧線楽田駅下車南西へ5分弱。現在楽田小学校敷地内に説明板と石碑あり、土塁の一部も確認できた(^_^)b


楽田城の周辺スポット情報

 移築裏門(遺構・復元物)

 城名石碑(碑・説明板)

 北之門跡(碑・説明板)

 裏門跡(碑・説明板)

 楽田城小城址(碑・説明板)

 城跡説明板(碑・説明板)

 小松寺山砦(周辺城郭)

 岩崎山砦(周辺城郭)

 久保山砦(周辺城郭)

 青塚砦(周辺城郭)

 余語氏館(周辺城郭)

 内久保山砦(周辺城郭)

 内久保砦(周辺城郭)

 小松寺山砦(東砦)(周辺城郭)

 入鹿村古墳(寺社・史跡)

 烏塚古墳(寺社・史跡)

 花塚古墳群(寺社・史跡)

 岩屋古墳(寺社・史跡)

 年貢橋(清正橋)(移設復元)(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 青塚古墳史跡公園(まほらの館)(関連施設)

 青塚古墳(その他)

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