城跡説明板

城跡説明板([楽田城  碑・説明板])

楽田城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:碑・説明板)、「城跡説明板」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

城跡説明板の口コミ情報

2025年10月19日 猫耳和装メイド萌え


楽田城跡
楽田城が建てられた正確な時期はわかっていませんが、少なくとも永正十四年(1517)には存在していたようです。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣(総大将の陣地)とした徳川家康・織田信雄軍に対抗して、羽柴秀吉軍は楽田城を改修し、本陣として使いました。
江戸時代の記録によれば、楽田城の中心部は南北が五十四間(約98㍍)、東西が四十間(約73㍍)で、周りは土塁と二重の堀で囲まれていました。土塁の高さは最高で四間(約7.2㍍)、堀の幅は最大二十二間(約40㍍)ありました。
城の中心部は現在、楽田小学校の敷地となっています。周囲は住宅地になっていますが、1960年代までは堀の形に沿って水田が広がっていました。小学校の周りを囲んでいる曲がりくねった道は、かつての堀の形をあらわすもので、楽田城の大きさが感じられます。
令和七年三月   犬山市教育委員会

案内看板が令和七年三月に、新たなものに交換されていましたので、旧案内看板の説明文を投稿されている写真から文字を起こしてみた。

楽田城は、織田久長により永正年間(1504〜1521)に築城されたて伝えられます。
戦国時代末の儒学者 小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、楽田城が急襲を受けた、永禄元年(1558)の様子が書かれています。この時、城中に高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷の二階座敷を設けたとあります。天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。
天正十二年(1584)の小牧長久手の合戦時には、小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、合戦終結の講和条件により取り壊しとなりました。
楽田小学校の敷地は楽田城のあったところです。昭和五十四年に学校敷地が拡大されるまでは土壇や堀の痕跡がありましたが、現在は当時の面影を残すものはありません。

旧案内看板全文。途中から最後の一文「が、現在は当時の面影を残すものはありません。」が消されていました。
新しい案内看板には、推定城域の地図があるので周辺の散策するのに良いと思います。

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore