岐阜城(ぎふじょう)

岐阜城の基本情報

通称・別名

稲葉山城

所在地

岐阜県岐阜市天主閣18

旧国名

美濃国

分類・構造

山城

天守構造

望楼型?[4重5階?/1567年頃築/解体(廃城)]、独立式望楼型[3重4階/1910年築・1956年再/RC造復興]

築城主

二階堂行政

築城年

建仁元年(1201)

主な改修者

織田信長

主な城主

二階堂氏、斎藤氏、織田氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切

指定文化財

国史跡(岐阜城跡)

再建造物

復興天守、門、石碑、説明板

周辺の城

鷺山城(岐阜県岐阜市)[3.3km]
加納城(岐阜県岐阜市)[4.3km]
更木陣屋(岐阜県各務原市)[4.6km]
川手城(岐阜県岐阜市)[4.6km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[5.5km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[6.0km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[6.2km]
高富陣屋(岐阜県山県市)[6.9km]
野口館(岐阜県各務原市)[8.0km]
北方城(岐阜県本巣郡)[8.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

39 岐阜城

設置場所

岐阜城資料館[地図

岐阜城の解説文



岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の稲葉山(岐阜県岐阜市の金華山)にあった日本の城(山城)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり[1]、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。[2]

(大きな複合的な城であり)山上の城郭部分と山麓の居館部分を中心としつつも、それらの間を結ぶ登城路、さらに山中の要所に配された砦もあり、なにより山そのものが天然の要害として機能していた[3]。麓に置かれた城主の館は、山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあり、地形は斎藤氏 三代の頃に造られ、信長が大規模に改修をし、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが発掘調査で分かっており、有力者なども招かれたらしく、ルイス・フロイスが訪れた記録もあり、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていたという。

当城の城主は、織田信長の後は、織田信忠、(信長亡き後に)織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らであるが、秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍側の池田輝政や福島正則らに攻められ落城、翌1601年(慶長6年)徳川家康によってに当城は廃城とされた。

近年の調査によりこの城の価値が見直されるようになり、2011年(平成23年)に岐阜城跡(ぎふじょうあと)つまり山頂の城の城跡および山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯の約209ヘクタール(2,091,602.74平方メートル)が国の史跡に指定された。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。

なお現在山頂にある建造物は、1956年(昭和31年)に(当時なりに想像し往年の天守を模したつもりで)鉄筋コンクリートで建てた模擬天守である。山麓付近では1984年ころから発掘調査が行われるようになり、現在も発掘が進行中である。山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、建物や庭園を配したものとなっている。又、岐阜市によれば山麓にあった庭園を復元する計画がある。

歴史・沿革 

鎌倉・室町時代

  • 1201年(建仁元年) - 二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資(稲葉氏・美濃安藤氏)が砦主となり支配した為、金華山は稲葉山と呼ばれるようになるが、二階堂行藤の死後、廃城となる。
  • 15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。

戦国時代

  • 1525年(大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
  • 1533年(天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
  • 1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。
  • 1541年(天文10年) - 利政が守護の土岐頼芸を追放。
  • 1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
  • 1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
  • 1556年(弘治2年)5月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
  • 1561年(永禄4年)6月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
    • 同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
  • 1564年(永禄7年)3月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
  • 1567年(永禄10年) - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
    • 同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。
  • 1576年(天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。
  • 1582年(天正10年)6月21日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると7月9日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。
    • 同年7月16日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。
    • 1583年1月13日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。
  • 同年(天正11年)6月6日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。
    • 同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。
  • 1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。
  • 1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。
  • 1591年(天正19年) - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
  • 1592年(文禄元年) - 10月14日に豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。
  • 1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。
  • 1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。既に幾度も落城した上に戦術の変化(鉄砲、兵数の増加)に伴う大規模な改修が難しい山城は敬遠され、平城の加納城が新規に築城された。

近現代

  • 1910年(明治43年)5月15日 - 模擬天守が再建、落成。これは長良橋(初代)の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので、木造・亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)であった。この際、石垣を一回り小さく積み直してしまった為、天守の古い石垣は石そのものは昔の物だが、形状は留めていない。
  • 1943年(昭和18年)2月17日 - 早朝に失火のため模擬天守が焼失。展示してあった織田信長の遺髪なども焼失した[4]。なお建築から34年経ち、老朽化のため建替えの話も出始めていたという。
  • 1955年(昭和30年)6月8日 - 第1回岐阜城再建期成同盟会を開催。同年8月から建設は市民、財界の浄財によるとの原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められる。
  • 1956年(昭和31年)7月25日 - 鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての模擬天守が落成。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた為、礎石等の遺構は失われたものとみられる。ただし、建てられた天守は、設計された物とは大きく違う。
  • 1975年(昭和50年)4月 - 隅櫓(岐阜城資料館)が完成。建設は創業30年を迎えた川島紡績(社長、川島精市 現カワボウ株式会社)の全額寄付(総額6,000万円)によるもので、彦根城を参考に設計された。
  • 1984年(昭和59年)11月 - 信長居館跡の発掘調査を行い、土塁・石垣などが発見され陶磁器や刀なども出土する。2000年以降も周辺の発掘と説明会が行われている。
  • 1997年(平成9年)2月 - 平成の大改修開始。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(39番)に選定された。
  • 2010年(平成22年)11月19日 - 岐阜城跡が、文化審議会で国史跡の答申を受ける[5][6]
  • 2011年(平成23年)2月7日 - 山麓から山上にかけた約209haの城跡が、「近世城郭の成立を考える上で重要」であるとして、岐阜城跡として国の史跡に指定される[7]。その区域は、現在の国有林に相当する。
  • 2012年(平成23年)11月26日 - 山麓の信長居館跡の発掘調査で信長時代の遺物と推測されるボタンとキクを意匠とした瓦の一部(28cm四方・厚さ3cm)が発見され、分析の結果、金箔が貼られた痕跡があると岐阜市教育委員会が発表した[8]
  • 2015年(平成27年)4月24日 - 「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 」の構成文化財として日本遺産に認定される[9]
  • 2018年(平成30年)山上城郭発掘調査が初めて本格的に始められた。

歴代城主 

二階堂氏及び伊賀氏
  • 二階堂行政:二階堂氏の祖、鎌倉幕府政所令、十三人の合議制の一人、稲葉山に初め館後に砦を築き京都への押さえとした。
  • 伊賀朝光:二階堂行政の娘婿。
  • 伊賀光宗:佐藤朝光の次男。鎌倉幕府政所執事、伊賀氏事件の結果、北条政子により信濃国に流される。
  • 稲葉光資:伊賀光宗の弟。稲葉氏に改姓。伊賀氏(美濃安藤氏)の祖。
  • 二階堂行藤:二階堂行有の子。鎌倉幕府政所執事、二階堂氏最後の館主。

以後、約153年余廃城。

美濃斎藤氏及びその家臣
  • 斎藤利永:二階堂行藤が去ったあと長く城郭が失われていた稲葉山城を修築して居城とした。
  • 斎藤妙椿:斎藤利永の弟。応仁の乱における主力の一人。常在寺や瑞龍寺を建立した。
  • 斎藤利藤:斎藤利永の嫡男。母違いの弟で妙椿の養子、利国と争い最終的に敗北した。
  • 斎藤利茂:斎藤利藤の養子の息子。斎藤利安(長井長弘)に破れ、稲葉山城を追われた。(落城1回目)
  • 長井新左衛門尉:長井長弘の家臣。元は京都妙覚寺出身の僧。後に利安を殺害したといわれる。
  • 斎藤道三:長井新左衛門尉の嫡男。長良川の戦いに敗れ戦死。享年63。
  • 斎藤義龍:斎藤道三の嫡男。道三を破り、信長を何度も撃退したが、急死。享年35。
  • 斎藤龍興:斎藤義龍の嫡男。竹中重治らに城を奪われる。のち返還されるも織田信長によって再び落城。龍興自身は刀禰坂の戦いで戦死。享年26。(落城2,3回目)
  • 安藤守就:斎藤龍興の家臣。西美濃三人衆。半年間、稲葉山城を占拠した。本能寺の変に乗じて乱を起こし自害。享年80。

織田氏及び豊臣氏家臣
  • 織田信長:斎藤道三の娘婿。京都本能寺で自害。享年49。
  • 織田信忠:織田信長の嫡男。京都妙覚寺から二条新御所に移動し戦死。享年26。
  • 斎藤利堯:斎藤道三の子。信忠家臣であり本能寺の変の際に岐阜城を掌握した。
  • 織田信孝:織田信長の三男。賤ヶ岳の戦いの後、岐阜城を落とされ尾張知多郡内海で自害。享年26。(落城4回目)
  • 池田元助:池田恒興の嫡男。小牧・長久手の戦いにおいて父子共に討死。享年26。
  • 池田輝政:池田恒興の次男。後に姫路宰相百万石と評され、姫路城を修築した。姫路で死去。享年50。
  • 豊臣秀勝:豊臣秀吉の姉(日秀尼)の子。総大将として朝鮮に出陣したが、巨済島にて病死。享年23。
  • 織田秀信:織田信忠の嫡男。清洲会議での三法師。高野山を追放された年に死亡。享年26。(落城5回目)

構造 

山城。京都に対して東の要所に位置し、急峻な山容の金華山からして難攻不落の名城として知られているが、内部からの裏切り(竹中重治)や籠城時点で兵力が少なかった(賤ヶ岳、関ケ原の時)などの理由で歴史上5回の落城にあっている。

山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはあるが、基本的に平坦面は少ない構造となっている。またチャートの堅い岩盤であるが故に井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯める物となっている。狭い曲輪の上、水の確保が難しい為、籠城には不向きである。その軍事的価値は要害よりも、濃尾平野を一望でき、また長良川を管制できる点にある。

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡からうかがえる。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。

岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。道三時代までは戦国期の典型的な詰城であったが、信長入城からは戦いの為の城でなく、基本的に城主の居住空間であり、威厳や権威を見せる城であったといわれている。

山麓に城主の居館があったとされる。現在の千畳敷を「信長居館跡」と呼んでいるが、信長は山頂に居住していた為、山麓の建物は政庁、もてなしの為のハレの間としての意味合いが強い。

京都へ進出する為に公家や商人をもてなすための迎賓館ともとれる豪華絢爛な建物があったとされ、巨石を用いた石垣や高石垣、多数の庭や池が発掘調査で発見されている。緑色片岩が庭の景石として発見されていることから、遠くから運ぶだけの力がある事を誇示する意味もある。料理も海の無い美濃では手に入れる事が出来ない海の幸が出されたと言われている。

こういった手法は、小牧山城からも見られるもので、防御面で劣る部分は自分の居城に敵を寄せ付けない戦法による所があると思われる。

天主・天守

信長・信忠時代の岐阜城
  • 麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は2m前後の巨石を立て並べた塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれる所にその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層[10]の華麗なものであったという。宮上茂隆の説[11]によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2018年で発掘調査が一旦終了されている。
  • 山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。一般的に言われる天守である。岐阜城に天守起源説がある。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している[12]。なお「由緒ある建物だから失念しないうちに」と描かれた古絵図によれば、元々4層だったものを3層に改変された跡がある。この事から、元々4層4階、または4層5階だった可能性がある。
  • 諸説あるが、信長時代に山頂には平屋程度で天守と呼べる高層建築は無く、信忠時代に高層建築が建てられたという説もある。
  • 最近の発掘調査で、信長時代の物と思われる天守台の根石が北西部、南西部で発見された。

復興天守(初代)
  • 1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15mで、長良橋の古材を利用し岐阜市保勝会の手によって建てられた。内部は吹き抜けであったらしい。当時は、夜も常駐する職員が居た。日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされる[13]。1943年(昭和18年)2月17日深夜、失火のため焼失した。「寒かったので焚火をしたら、城に燃え移った」と供述している。

復興天守(再建)
  • 1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書、丸岡城など参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。ただし、建てられた天守閣は設計された物とは異なる。
  • 3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る(1階:武具の間、2階:城主の間、3階:信長公の間、4階:望楼の間)。
  • 天守の所在地は「岐阜市天主閣18」であり、「天守」ではなく「天主」表記である[14]
  • なお、一部のウェブサイトでは「岐阜市金華山天守閣18」の表記も見られる。

支城

丸山砦
  • 現在金華山トンネルが通っている丸山の山頂にあった。元々は伊奈波神社の敷地であり、諸説あるが城域になるのと、城が神様を見下ろす事になるので、岩戸の物部神社と合わせて伊奈波神社を現在の位置に城主だった斎藤道三により移転させられた。山麓の御手洗池は、神社に参るための手水の名残池。この池には落城時の逸話が残る。

松田尾砦
  • 上格子門から東に下った所に数段の削平地と共に石垣が残るが、整備されていないのでかなり崩落している。正式な道も整備されていないので見学は不可。

稲荷山砦
  • 現伊奈波神社の北側の山の美峰稲荷神社境内が、その跡地。

稲葉山砦
  • 稲荷山砦から更に登った山頂にあった。

相場山砦
  • 現在は砦跡地の敷地の一部にNHK(NHK岐阜放送局)の中継基地が建つ。

権現山砦
  • 現伊奈波神社の南側の山にあった。現在は「時の鐘」が建つ。岐阜城の戦いでは、松田重大夫が守備に着いた。この山の麓から岐阜町を囲む堀と土塁が西へ伸びていた。コンクリートで蓋をされているので容易に判る。現在の長良橋通りと交差する場所に「平田橋跡」とあり、橋がかかっていたことが確認出来る。この堀より中を「内町」、外を「外町」と呼んでいた。岐阜街道が通っていた所などは木戸があり、番所もあったと思われる。

瑞龍寺山砦
  • 金華山南西の瑞龍寺山(通称:水道山)に存在した。岐阜城の外山に当たる砦。砦の正確な位置は特定できていない。南麓の瑞龍寺や梅林公園周辺から山道が伸びており、北麓で金華山ドライブウェーに合流する(現在、山道の大半は金華山ドライブウェイとなっている)。稲葉山城の戦いでは、佐久間信盛・柴田勝家が攻めた。岐阜城の戦いでは、河瀬左馬之助が守り、浅野幸長、一柳直盛、井伊直政が攻め込んだ。
  • なお瑞龍寺山砦のように、金華山から連なる外山、つまり国史跡区域外の岩戸山、鷹巣山、洞山、西山などにも数多くの砦が存在していた事も分かっているが、調査がまだ不十分で確認されていない砦も多くある物と思われる。また外山は正式な城域では無く、瑞龍寺や上加納村、岩戸村などが所有の権利を持っていた。権利を持たせる代わりに砦を設けさせ、管理、有事の守りなどをさせている。

岐阜城に至る登山道 

南側斜面を登る道

現在金華山ドライブウェイがあるが、所々に途切れた登山道があり、ドライブウェイ開発時に拡張され消滅した部分もあると思われる。

七曲口(大手道)
  • 距離:約1900m。かかる時間:約60分。斎藤道三が造ったとされ、岐阜城の大手道として岐阜城へ用事がある際使われていた。信長や岐阜城に訪れたルイス・フロイスや山科言継が登った道でもある。大手道の総門は、常在寺の前にあった。ここから西へ伸びる道は「七曲道」と言われ、昔からある道路で現在は北側を拡張されている。常在寺の向かいにある妙照寺は竹中半兵衛屋敷跡で、山寄りの門は岐阜城の移築現存門である。
  • 砦の跡が多く見られ、大堀切や、岩場を削った跡や道の端に積み石も残っている。また、現在石段がある直線的な現登山道から外れ、旧登山道も所々つづら折れに残っていて、当時の登山道の雰囲気を感じる事が出来る。また、道三が造った大堀切の場所に平場があり、砦や門などがあって兵士の詰め所もあったかもしれない。ドライブコースへ出ると小さな広場があるが、そこから岩戸公園へ出られる登山道がある。
  • 道三の時代から今に至るまで岐阜城への登山道の中で最もなだらかな登山道であるが、山科言継の『言継卿記』には、「信長の許可をうけ、武井夕庵の案内で七曲道から登城した。山上の城中で音曲・囃子などの後、信長のもてなしで食事をご馳走になった。その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかった。」と記されている。
  • 稲葉山城の戦いでは、西美濃三人衆が攻め上がり、岐阜城の戦いでは、総門口を津田藤三郎、七曲口を木造具康父子が守り、福島正則が攻め上がった。
  • 城郭部分では、硝煙庫(現、リス村)の東脇に出る。
  • 道三が作った堀切も近代に入って発破で拡張されたようである。更にこの堀切から下の登山道は、近代に入って付け替えられている為、昔の面影は少ない。登山道口も、昔の正確な位置は分からない。
  • 途中から脇道があり、東坂道に繋がる。

西側斜面を登る道

百曲口
  • 距離:約1100m。かかる時間:約40分。斎藤道三が造ったとされ、禅林寺から尾根を登っていく。道は険しい。稲葉山城の戦いでは、木下藤吉郎が攻め上がり、岐阜城の戦いでは、百々綱家が守った。登山口から名和昆虫館の南を通って西に抜けていく道は「百曲道」と言われ、昔からの道筋である。
  • 城郭部分では硝煙庫(現、リス村)の西側、七間櫓(現、展望レストラン)の下、ロープウェイ山頂駅の側に出る。

馬の背口
  • 距離:約1100m。かかる時間:約40分。水の手道(瞑想の小径)の丸山山頂から分岐する。岩場を頂上に向かって直登する最短ルート。途中四つん這いになって登らなくてはならないところがあり、下りは危険を伴う。登頂間近の所で石垣の遺構を見る事が出来る。
  • 急斜面である事と多数の登山者の通行により土が柔らかくなった為、雨で流されて木の根が剥き出しになってしまった箇所がいくつもある。
  • 城郭部分では上台所の側に出る。
  • 城郭時代では、登山道としての認識されておらず、近道のような認識だったようである。

北側斜面を登る道

水の手口(瞑想の小径)
  • 距離:約2300m。かかる時間:約70分。北西の尾根、金華山の北側を登るルートである。大手道に対して裏側の道であり、搦め手である。いくつかの水の流れる沢を横切るので、水の手道という。途中、丸山山頂から馬の背登山道が分岐する。後半に岩場の急斜面が続くが、七曲り道の次に歩きやすく、岐阜市の北部と長良川の景観が楽しめる。所々の平場は、砦跡の可能性が高い。元々の登り口は丸山北側の御手洗池付近と思われる。
  • 岐阜城の戦いでは、守備側の武藤助十郎に対し、東軍の元岐阜城城主、池田輝政が攻め上り一番旗をあげた。
  • 城郭部分では本丸の東に出る。途中鼻高登山道が合流する。合流地点の北東に石垣が残る。この合流点に、かつて裏門があった。
  • 裏門があったとされる場所で、登山道の脇を固める石垣の巨石の一部が発見された。また鼻高道側で道三時代の古い石垣も発見され、再利用されていたものと思われる。

鼻高登山道
  • 距離:約1500m。かかる時間:約40分。金華山から長良川沿いに伸びる北東の尾根を登るルートであり、途中には岐阜城構築と関係のある砦の石垣が2ヶ所確認出来る。眺望は非常に良く、岐阜市北部の山々や市街地、長良川の景観が楽しめる。元々は長良川から登るルートであり斎藤龍興は、このルートから伊勢長島に逃れた可能性が高い。道は比較的険しい。現在、長良川河畔からの登り口は閉鎖されている。現在の登り口は、達目洞から登る大釜、又は大参道コースから入る。
  • 山頂近くで水の手口に繋がる。その合流点は平場となっており、かつて裏門があったようである。
  • 道三時代の石垣が発見される。水の手道側では、裏門の巨石の石垣の一部が発見されている。

東側斜面を登る道

東坂登山道
  • 距離:約1100m。かかる時間:約45分。岩戸公園から妙見峠を経て南の尾根を登るルート。地道あり、岩場あり、高原地帯と変化に富み、岐阜市の南部と各務原に向けての景観が楽しめる。妙見峠では達目登山道と合流する。
  • 妙見峠では、当時の石垣遺構の物と思われる石(裏込め石?)が多数散布する。砦や門があった可能性がある。
  • 城郭部分では、二の丸の下に出る。
  • この登山道から途中に脇道があり、大手道の七曲道に繋がる。

移築現存門 

妙照寺と法華寺にある山門は、岐阜城の移築門で、数少ない岐阜城の現存建築物である。

岐阜城からの眺望 

標高およそ320 mに建つ岐阜城の最上階(4階)の外側通路は展望台となっていて、眼下に長良川と周辺の市内の街並み、東側には木曽駒ヶ岳や恵那山などの木曽山脈(中央アルプス)、北東側に笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳などの飛騨山脈(北アルプス)と御嶽山、西側には伊吹山、養老山地、鈴鹿山脈、南側には濃尾平野と伊勢湾が望める[15]

現地案内 

所在地

  • 岐阜県岐阜市天主閣18

交通アクセス

JR東海道本線「岐阜駅」JR岐阜バスターミナルの11番、12番、13番乗り場および名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」路外バス停の4番乗り場から岐阜バスN系統、行先番号「N32」〜「N86」の「岐阜公園・長良橋・高富方面」行き、または「市内ループ線(左回り)」で約15分。「岐阜公園・歴史博物館前」下車、徒歩約3分で金華山ロープウェー「金華山麓駅」、金華山麓駅からロープウェーで「金華山頂駅」まで約3分、金華山頂駅から天守まで徒歩約8分。

イベント

  • 岐阜城盛り上げ隊(http://pomo.jp/gifujyou/)、ボランティア武将隊、観光ボランティア
  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 岐阜城資料館入口
  • 岐阜城パノラマ夜景(天守閣の夜間公開)
    • ゴールデンウィーク、夏季、秋季等、期間限定(最大22:00まで)。

御朱印 

2017年より、岐阜市のまちづくり団体ひとひとの会によって企画され県内各神社仏閣において行われている「金の御朱印」企画に岐阜城も取り組んでおり、毎月最終金曜日(プレミアムフライデー)に金文字の御朱印が授与されている[16]

2019年8月現在、岐阜城のほかに金神社、玉性院、岐阜信長神社(樫森神社内)、岩戸弘法弘峰寺、伊奈波神社、鏡島弘法乙津寺、天龍寺、護国之寺、関善光寺においても同様の背景で授与されている[17]

参考文献 

  • 中日新聞岐阜総局編著 『岐阜城いまむかし』中日新聞本社、1982年(昭和57年)、P143-170
  • 岐阜観光コンベンション協会 - 織田信長と岐阜(http://www.gifucvb.or.jp/nobunaga/index.php)

周辺 

  • 岐阜公園|日中友好庭園
  • 川原町
  • 岐阜大仏 | 正法寺
  • 常在寺
  • 妙照寺
  • 長良川温泉

岐阜城の口コミ情報

2023年12月30日 しげしげ主税頭信繁
岐阜城



バイクは直ぐ近くに無料で駐車場に停められます。
登りは瞑想の小道で登城しました、中間地点(約1km)まではなだらかで道も良く楽でしたが、だんだんと岩石丸出し、急斜面の登りになってきて結構きつかったです。途中で野生のリスがいて癒されました。1時間ちょいで天守に到着し天守の中を見学し天気が良かったので名駅のビル群が見えました。歴史資料館では『麒麟が来る』のもっくんがいました(笑)下りは百曲がりで降りました、岩石剥き出しの道が続くので転ばないように大変神経使いました。

2023年10月12日 とんかつおやじND
真福寺城[岐阜城  周辺城郭]



百々ヶ峰
岐阜市最高峰 長年無名時代があった悲劇?の山 なんと大正時代に制作された「二万五千分一地形図『岐阜』」に約1,100m西にある“なんでもない三角点”に誤って表記され 平成19年に漸く正規の位置に訂正され 岐阜市最高峰に復帰 
百々ヶ峰 名称の百々は 京極秀綱の子で、秀綱の代に近江国犬上郡百々村に居を構えて百々氏を称したのがはじまりで 初め織田信長に仕え 天正年間の終わり頃、秀吉によって木造長政と共に信長の嫡孫・織田秀信の家老に配された。文禄元年豊臣秀勝の死去に際して秀信はその遺領を継承して美濃岐阜城主に 家老の百々氏は岐阜城長良川対岸の山に館を構えたのが「真福寺城」とされ 山の名が百々ヶ峰となったのかな?と推察 城址は百々ヶ峰山頂では無く西峰山頂 流石に殿様を見下ろす位置とはいかず 略同じ位にしたのか❓ 遺構は無いらしいので 山頂とそれらしい地形と向かいの岐阜城をUP

2023年08月31日 syorin
岐阜城

とても眺めもよく、夜景も見られるとのこと。おすすめです。

2023年08月30日 かべ
岐阜城



市街地からは結構離れてますが、バスとロープウェイを使えば、車は必要ないです。
天守閣から眺める岐阜の街、長良川沿いの景色は圧巻!

2023年06月11日 リキマル 兵庫頭
岐阜城



ロープウェイはありますが、ほぼ登山で疲れました。

2023年04月01日 ミヤちゃん
岐阜城



愛知から来ましたが、ロープウェイ乗り場の表記を見落として、着くまでに苦労しました。ロープウェイ使ってからも結構お城まで歩きましたね。天守閣から見た景色は最高でした。

2023年02月05日 ともさお
岐阜城



先回の発掘調査で報告されました石垣の中で希少的に見学ができるのが、ニノ門周辺の石垣の中でも、①にあたる石垣です。登城道を進むと、道からは見えづらく、且つ案内看板がその先に出てくる事から、スルーしがちです。柵の向こう側から見学することになりますので、ご注意を。

2023年02月04日 ともさお
岐阜城



山麓の岐阜市歴史博物館で、添付の資料を入手できます。入館料は必要ですが、2階の常設展示も充実していて、常設展示の途中に資料は置いてあります。

2023年02月04日 ともさお
岐阜城

岐阜城山麓の岐阜市歴史博物館で、「どうする家康」展を3月30日までやっています。ばしょは1階エントランスで、家康展のみならば、無料です。

2023年02月04日 ともさお
岐阜城

長良川を挟んだ対岸の「長良川うかいミュージアム」で「THE LEGEND&BUTTERFLY」映画舞台衣装展をやっています。3月5日までで、場所は2階景観ラウンジ、衣装展のみでしたら、無料です。

2023年02月04日 ともさお
岐阜城

令和4年度岐阜城跡発掘調査へ行かれる方へ。資料について、山麓の信長居館発掘調査案内所で入手することをオススメしましたが、こちらにお見えになるスタッフは、ほとんどがあらかじめ現地を確認されています。現地には案内板のみで説明してくれる職員はいませんので、案内所で聞かれることを、オススメします。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
天守[岐阜城  遺構・復元物]



令和4年度発掘調査成果 天守台南西部の石垣
天守台の南西部で、信長期に築かれた天守台の石垣が見つかりました。これまでの調査で天守台北西部や西辺の下部で、戦国期の石垣が残っていることなどが明らかになっています。今回、見つかった石垣は、これまでに見つかった西辺の石垣と一連の石垣と考えられます。天守台南面の石垣は明治時代に積み直されたもので、戦国時代の天守台の規模は不明でしたが、新たに見つかった石垣が天守台の南西角とすると、既に見つかっている北西角との距離 約14㍍が、天守台西辺の長さとなります。天守台の規模に迫る重要な発見と言えます。

天守台南西部の発掘調査現場は、狭い為に非公開となっていますが、天守近くの転落防止柵に発掘調査の成果が掲示されています。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
ニノ門[岐阜城  遺構・復元物]



ニノ門周辺の石垣
ニノ門周辺では、1539年頃の斎藤道三から始まる後斎藤期の石垣と、1567年の信長入城後に築かれた石垣が見つかっています。
後斎藤期の石垣は、角張った石材を隙間なく垂直に積むのに対し、信長入城後の石垣は角の丸い石材を緩やかに傾斜を付けて積まれています。後斎藤期に築かれたニノ門周辺の石垣の一部は、信長入城後も引き続き利用されていたようです。
これらの石垣から、ニノ門の構造を推定すると復元図のようになり、今立っている場所はテラス状の張り出しが造られていたと考えられます。
説明板より。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
馬場跡[岐阜城  遺構・復元物]



伝 馬場跡
「一ノ門」から続くこの通路は、江戸時代の絵図や記録に「馬場」と記されています。享保二年(1717)、ここを訪れた尾張藩御畳奉行の朝日文左衛門は、一ノ門を「大下馬ともいう」と記しており、降りた馬をここに繋いでいたとも考えられます。
説明板より。

岐阜城歴代城主の説明板なども設置されています。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
堀切[岐阜城  遺構・復元物]



敵の侵入を防ぐため、尾根の通路を遮断するように掘られた堀。中世山城に多くみられる施設で、普段は木橋が架かっており、戦時には橋を落として防御したと考えられます。
江戸時代には「切通」と呼ばれていました。
説明板より。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
天主撮影スポット[岐阜城  その他]



伝 下台所跡
江戸時代の絵図では、ここを「下台所」、上段の平地を台所と描いています。1569年に来訪した宣教師ルイス・フロイスは付近の様子を「2、3の大きな座敷があり、百人ほどの若い貴人がいる。彼らは信長の領国の主な領主の子で、12歳から15歳です。」と記しています。
説明板より。

閻魔堂や題目塚があります。ベンチ等も設置されています。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
井戸跡[岐阜城  遺構・復元物]



石垣・井戸跡
ここの本来の地形は大きな谷ですが、石垣で両側を護岸した立派な通路が造られています。岐阜城では最も良く石垣が残る場所で、その高い技術から信長の入城後に造られたと考えられます。また、ここには貯水用の井戸が存在しました。
説明板より。

井戸跡から見上げる、石垣と天守が良い。

2023年02月04日 織田猫耳信長萌え〜隊
太鼓櫓跡[岐阜城  遺構・復元物]



現在のレストランの周辺は、「太鼓櫓」と伝えられる場所です。絵図には、約18㍍✕10㍍の平地として描かれています。周囲の見通しがきき、斜面の下の「一ノ門」と一体となって、敵の攻撃を防ぐ施設であったと考えられます。
説明板より。

レストラン脇の階段から、屋上の展望台に上がれます。

2023年02月04日 ともさお
常在寺[岐阜城  寺社・史跡]



重要文化財の斎藤道三公、斎藤義龍公の掛け軸を保有する常在寺ですが、他にも斎藤道三の遺言書等、ゆかりの宝物が残ります。複製品や写真が多く、拝観料200円ですが、添付の重要文化財の掛け軸の絵ハガキ2枚がお土産に付きます。

2023年02月03日 ともさお
岐阜城



裏門跡を少し登って脇道に逸れるとここにも石垣(石積)、と言うか石垣に見えてしまう症候群。山頂から瞑想の小道を下り300m付近の裏門跡、一度訪れられては。

2023年02月03日 ともさお
岐阜城



今回の発掘調査の公開エリアには載っていませんが、山頂の資料館の東側にも発掘調査エリアがありました。山麓の信長居館発掘調査案内所で訪ねると、あまりめぼしい発掘成果が無かったのか、説明は聞いていないとの事でした。

2023年02月03日 織田猫耳信長萌え〜隊
天守東側の曲輪石垣(発掘調査現場)[岐阜城  遺構・復元物]



令和4年度発掘調査成果 天守東側の曲輪の石垣
天守東側の曲輪の石垣の続きが見つかりました。長さ約2㍍、高さ約2㍍、最大4段分の石垣が残っていることがわかりました。
また、石垣の前には、大量の瓦が見つかりました。周辺にあった建物に使用されていた瓦が廃棄されたものと考えられます。

今回見つかった石垣は、天守台の東側に付属する曲輪の東面の石垣です。この曲輪の南面の石垣は、現在でも当時の姿が残っています。積み方の特徴から池田輝政の頃の石垣と考えられていることから、東面の石垣も同じ時期の石垣と考えられます。また、この石垣は初代復興天守が建てられた後に撮られた写真に写っており、大正頃までは残っていたようです。この写真に今回見つかった石垣の石材が写っているかもしれません。

発掘調査現場の掲示物より。

2023年02月03日 織田猫耳信長萌え〜隊
伝一ノ門跡[岐阜城  遺構・復元物]



令和4年度発掘調査成果 一ノ門
一ノ門では、2つの時期の門があることがわかりました。
新しい時期の門は、平らに削った岩盤や礎石の上に柱を立てており、古い時期の門は穴を掘って柱を立てています。新しい時期の門は信長の頃、古い時期のものは斎藤氏の頃のものと考えられます。
また、岩盤を掘り抜いた巨大な穴も見つかりました。
★資料は発掘調査案内所で配布しています。

しまった、資料もらってくるの忘れた……。

2023年02月03日 ともさお
岐阜城



これから令和4年度岐阜城跡発掘調査地に向かわれる方、添付しました資料は、山頂にはありません。必要な方は山麓の信長居館発掘調査案内所で、貰っていって下さい。

2022年11月05日 飛騨守勘助
長山城[岐阜城  周辺城郭]



先日、散歩中にたまたま発見した長山城跡入り口より、満を辞して本日リア攻めを敢行しました。道中は昔日に整備された道が山頂まで続いておりました。なかなかの斜度の道で、岩や草木も生い茂ってますがこれぞ山城‼️堀切跡や狭い土橋のような物も残っており、感慨深いものがありました😊

2022年10月10日 双六治部少輔
岐阜城

駐車場の横で戦国体験として、無料で弓を教えてもらえます。また、係の方々が優しく大変貴重な経験をさせて頂きました。

2022年09月22日 野良犬しろチロ丸
岐阜城



今回は東坂ハイキングコースからの登山。駐車場の横に登山口があり、駐車後すぐに登り始められ、25分で登頂でした。公園駐車場は無料で30台は停められます。

2022年09月12日 世界右京大夫三郎太
岐阜城



加納城に建材、石垣を用いられたこともあり、思っていたより遺構はあまり残ってはいませんでしたが、天守からの眺望が国取り物語の世界を想像させます。
名古屋からの公共交通の利用は、名鉄の岐阜城下町きっぷが、名鉄岐阜駅までの往復割引乗車券、金華山ロープウェー往復乗車券等がセットでお得でした。

2022年08月28日 HAL2000上総介
岐阜城



ロープウェイを使わずに、登山道から向かわれる方へ。馬の背登山道は写真のような岩場がたくさんあり、けっこうなトレッキングを楽しむことができます。普段山にいかない人にはかなりきついと思いますので、お気をつけを!!

2022年06月09日 【城郭道】たっきー
枝広館[岐阜城  周辺城郭]



岐阜県岐阜市、枝広館。岐阜城から長良川を渡って少し先にある長良公園にあったお城です。1532年頃、美濃守護職・土岐氏によって築かれました。が、1535年頃に長良川が氾濫。枝広館は壊滅的被害を受け、その後土岐頼芸は美濃大桑へ移りました。

長良公園はのどかな公園でたくさんの人で賑わっています。公園からは岐阜城をよく見上げられます。入り口がお城を意識した石垣になっているので情緒を熱くさせてくれます。ちなみに発掘調査で堀が検出されているらしいです。以城。

2022年06月07日 くまなみ
岐阜城



ロープウェイや施設の割引クーポンを岐阜公園案内所で入手。山上駅からは天守まて10分.石垣や井戸も見どころ

2022年06月04日 糸満左京大夫の氶
岐阜城



実際に攻め落とそうと想定しながら天守まで行くと面白い。とてもでは無いが攻略は難しい難攻不落の城と解ります。天守からの眺望は最高!100名城中のトップクラスのお城です。

2022年02月26日 茗荷紋内蔵助康政
岐阜城



岐阜公園から歩いて登ってみました。スニーカーという舐めた格好で登って疲れましたが、岐阜城に登城して4階から景色を見たら疲れが吹っ飛び信長気分に浸ってきました。

2022年02月01日 織田猫耳信長萌え〜隊
枝広館[岐阜城  周辺城郭]



長良公園の北側駐車場に設置された掲示板に、枝広館跡の説明があるのみで、遺構は埋め戻され地中保存されていると思われる。

説明書には、貴重な遺跡と書いているわりに、説明書が、ペラ紙一枚…。扱いが雑過ぎない!?

発掘調査された場所は、説明書と航空写真を比較すると、長良公園フードコート南側辺りかな
?現状は、遊具が設置され、市民憩いの公園になっています。

2022年01月28日 ほずみ
岐阜城



とにかく石垣がかっこよかったです。自然ね大石も利用したりと見どころいっぱいでした。時間と体力が有ればケーブルカーではなく徒歩でがおすすめです。

2022年01月16日 山狐縫殿允
川原町の古い町並み[岐阜城  その他]

間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねるこの辺りは、昔、長良川の水運を利用した川港として栄え、多くの商店で賑わっていました。鵜飼観覧船のりばからすぐですので、鵜飼観覧前の散策にもおすすめです。(岐阜観光コンベンション協会「岐阜市漫遊」より一部抜擢)
専用駐車場は無いので、車でお越しの方は岐阜公園駐車場をご利用下さい。

2021年11月24日 敬将天司主計頭飛水
岐阜城

雨の日に登城しましたが霧の流れもよく見え抜けた時の街がとても鮮明で良かったです

2021年09月04日 イオ修理亮【✤】
美江寺観音[岐阜城  寺社・史跡]



元正天皇の勅願による奈良期の古刹を、城下町繁栄のために道三が瑞穂市から現在の地に移したとされますが、立派な仁王門や本堂は見られるものの、特に岐阜城(稲葉山城)に関連するものはなさそうです。

2021年09月04日 イオ修理亮【✤】
円徳寺[岐阜城  寺社・史跡]



円徳寺には織田信長らの楽市楽座の制札や信長寄進とされる梵鐘が伝わり、境内には織田塚改葬地のほか、岐阜城の戦いに敗れた織田秀信が高野山に上る前に剃髪した寺として髪切塚があり、秀信が用いたとされる兜が伝わっています。

2021年09月03日 イオ修理亮【✤】
織田塚[岐阜城  寺社・史跡]



織田信秀(信長の父)が稲葉山城を攻めるも斎藤道三の反撃により大敗を喫した際、その死者を埋葬するために道三により織田塚が築かれました。住宅地の一角にありますが、注意しないと素通りしてしまいそうです。また、織田塚から南西に徒歩4分の円徳寺の境内にも織田塚が改葬されています。

2021年09月03日 イオ修理亮【✤】
御薗の榎[岐阜城  寺社・史跡]



加納市場は織田信長が楽市楽座を始めた地として知られますが、橿森神社の前には、市場の入口に植えられていた榎(の三代目)が移植されています。

2021年09月02日 イオ修理亮【✤】
梶川堀・梶川橋[岐阜城  遺構・復元物]



梶川堀は城下町を南北に区切る堀で、東側に武家屋敷、西側に町家が広がっていたと考えられ、現在でも堀の名残の水路が見られます。

また、常在寺の西側の堀に架かる橋は梶川橋と呼ばれ、橋の跡地に説明板を設け、歩道の舗装を変えて橋の存在を示しています。

梶川堀の南端は城下町の南端を区切る堀に続いており、往時の城下町の姿を感じさせます。

2021年09月02日 イオ修理亮【✤】
常在寺[岐阜城  寺社・史跡]



斎藤道三・義龍・龍興の菩提寺で、境内には道三の墓があります。

本堂内の拝観は有料(大人150円)ですが、複製ながら道三や義龍の肖像画をはじめ、斎藤氏ゆかりの品が展示されています。道三の肖像は濃姫(帰蝶)が、義龍の肖像は龍興が常在寺に寄進したものなので、それぞれ実際にこんな容姿だったんでしょうね。

2021年09月01日 イオ修理亮【✤】
妙照寺[岐阜城  寺社・史跡]



山門は岐阜城からの移築と伝わります。元は竹中半兵衛の屋敷跡なんだとか。

2021年09月01日 イオ修理亮【✤】
崇福寺[岐阜城  寺社・史跡]



織田信長の菩提寺で、本堂裏の廟所には信長・信忠父子の野位牌と位牌堂があります。

本堂内には信長の書状や肖像画、櫓時計、清洲城の鯱瓦などゆかりの品が展示され、本堂の天井は関ケ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城の血染めの床板を張ったもので血天井と呼ばれています。展示品の中でも、独断での伊賀攻めに失敗した信雄を叱責する信長の書状は、以前に伊賀の城をめぐった際にその存在を承知していましたので、原本を目にできて感慨深いものがありました。また、信長愛用と伝わる櫓時計は、実際には江戸期作の可能性が高いものの、写真でよく見かけるものだけに、展示されているのを見たときは、思わず「おお…」と声が出てしまいました。その他、土岐頼高(頼芸の孫)による土岐鷹の画などもあり、拝観料大人200円は安すぎるくらいです。

境内には幼少期に小僧として崇福寺で修業していた稲葉一鉄が寄贈した梵鐘(現在のは戦後に再々鋳されたもの)があり、歴史を見ても、三世住職を務めた快川紹喜が武田信玄に請われて恵林寺の住職となり、武田氏の滅亡に際しては織田信忠に攻められて「心頭滅却すれば火自ずから涼し」の言葉を遺して火定するなど、数奇な歴史の巡り合わせを感じられる寺院で、無料駐車場(10数台)もありますし、歴史好きなら訪れる価値は大いに有りです。

2021年08月31日 イオ修理亮【✤】
御手洗池[岐阜城  碑・説明板]



山上の伊奈波神社に参拝する際に手を洗う池だったことから御手洗(みたらし)池と呼ばれます。関ケ原の戦いの前哨戦として東軍の攻撃により岐阜城が落城した際には、大勢の奥女中たちが身投げしたと伝えられています。

2021年08月26日 乱会
岐阜城

バスを降りると目の前に金華山の上に立つ岐阜城が見えるが、とんでもなく高い所に建っているのでビビる。あの山にこれから登るの?
ただし、模擬天守まで登るルートは複数の難易度が用意されており、課金するかわりに楽々登れるロープウェイ、最短距離かつ急勾配の馬の背登山道、のんびり登れるハイキングコース等、その時のコンディションによって好きなルートを選べる。

また、現在庭園跡を発掘調査中であり、案内パネルからは出土遺構や遺物の情報が把握できる。金箔瓦が出土したって聞くとテンション上がるわね。

2021年07月27日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
岐阜城



本日、城友より『猪』と言う異名を頂きました☺️いや、自分でもホントそう思う…考えたらもう決めていて動いちゃう。城友から『真夏だし大桑城と岐阜城馬の背ルート同日制圧は止めとけ!』と言われてももうブレーキが効かない。はい、猪だから〜

ロープウェイでしか登城したことない岐阜城。なんか物足りん…そだ!今回は歩いて登ってみよう♪んで、ここは一発最難攻の馬の背登山道に挑戦してみようではないかっ!

大桑城登城のあと、ファミレスで腹ごしらえ大盛りオムカレーとチョコパフェ。これできっと頑張れるはず♪3分の2地点位までは順調に行ったが、残り3分の1位は地獄を見たねほれあの言葉が降臨したわ『退くも地獄、進むも地獄 』信長さまも『甲冑で登り下りしていた武将達に想いを馳せよ。お前は丸腰、水筒とスマホだけやろ!』頑張るしかない…半べそかきながら休憩してると…娘さんがやって来た。『あとどのくらいですか?』『もう少しですよ。おばさん頑張って下さい』ん?ん?お、おばさん?誰?それ誰よ?おばさんなんてどこにもいないのになんか変な娘さんやったわ〜

しばらくするとその娘さんが下山して来た。ここの崖を降りる魔物・バケモノがいるとは〜😵帰省中の20歳のバレーボール部員だと言う娘さんは『おばさん、ナイスです』とまた不思議な呼び名を残して崖下に消えていったわ
てか、いちいちおばさん呼び名いらんし!!笑

帰りは瞑想の小径で下山するつもりが、七曲がり登山道に迷い込み…方向音痴ってほんとイヤね〜

2021年07月27日 我流尾張守クール
岐阜城

ぎふ金華山ロープウェー【ナイター営業】

令和3年度
■7/17~8/31
ロープウェー営業時間 9:00~22:30
岐阜城開城時間 9:30~21:30

その他期間
■9/18~9/20、9/23~9/26、10/30~11/3
ロープウェー終了時間が22:00

◆ナイター特別運賃
18時から往復乗車券のみ販売
大人 900円 小人450円

金華山からの夜景はとてもキレイです。
池田山からの夜景はもっとキレイです。

2021年07月06日 北風
岐阜城



地域限定城巡りでお久しぶりの登城です。天候不順に付き新ロープウェイ初体験!セットの資料館は昨年の大河の余韻に浸れます。城址も麓の館も調査が進み新史実に基づくCG等でより分かりやすくなじみ深いものになりました。職員の方に教えてもらいましたが犬山城も小牧山城も遠く小さく感じます。館内のジオラマは理解しやすくよくできています。山塊の地層やチャートの説明も分かりやすくなりました。タモリさんのご尽力の賜物です。

2021年03月29日 山城守信長
岐阜城



ケーブルカーが混んでいます。足に自信のある方、また難攻不落の城攻めを体感したい人は、是非歩いて登ってください。
ケーブルカー往復1100円、天守閣入場にも200円必要です。
登って天守に入らないと、100名城スタンプは押せません。実質有料か…
御城印はケーブルカー乗り場で買えます。

2021年03月21日 明石家船上
岐阜城



岐阜城からは、齋藤道三の隠居城の鷺山城跡がよく見える。その手前が長良川の合戦があったところかも。

2021年03月21日 ポール駿河守マッカートニー
岐阜城

名鉄岐阜〜(バス)〜岐阜公園〜(ロープウェイ)〜岐阜城(食事)〜(七曲り)〜岐阜大仏〜信長居館跡〜長良橋〜崇福寺〜鵜飼屋バス停〜(バス)〜名鉄岐阜

基本徒歩で回りました。
午前10時から午後1時30分の半日で回りました。
天気が崩れる心配があったので、ちょっと駆け足気味の見学でしたが、街歩きも含めて楽しめました。

下山のみ大手道であったとされる七曲りコースを下りました。所要時間30分強でしたが、膝にきましたね(笑)

2021年03月15日 VTR美濃守シゲ23日松江
枝広館[岐阜城  周辺城郭]

先達様の登録に口コミさせていただきます

説明書きより
ここは土岐頼芸が天文元年福光城から枝広館に居館を移してとされる推定地
天文4年長良川の洪水により
館跡は大きな被害となりその後大桑城に
再転したとされます
平成四年の発掘調査で幅15m深さ5mの堀跡が見つかり居館の存在が確認されました
堀は洪水で流れてきた砂の層で埋まっており、大桑と書かれた木簡も見つかっています
と書かれてます(略して書きました)

今は長良公園として市民に親しまれ、遺構などは全く有りませんが、
公園の3分の2が館跡とするとかなり大きく、
当時の美濃守護職土岐源氏の力を感じてきました

駐車場有りますが土日は混雑する様
もちろんトイレは何箇所も有ります
公園は児童遊具類あり、
花も綺麗に植えられ四季を通じて楽しめます
芝生広場から見上げると金華山山頂にそびえる岐阜城が見えます

お弁当持ってくつろぐのも良いかと
すぐ近くには助け合いプロジェクトの
とんかつよこ家さんも有ります

岐阜城から北、東方面に向かう時のちょっと一息つくのに寄ってみて下さい

2021.3.15訪城


2021年02月15日 【城郭道】たっきー
堀切[岐阜城  遺構・復元物]



敵の侵入を防ぐために築かれた堀切。現在は丈夫な橋がかかっています。江戸時代は切通と呼ばれていたそうです。

2021年02月06日 【城郭道】たっきー
裏門跡[岐阜城  遺構・復元物]



岐阜城天守から徒歩4〜5分のところにある裏門跡。この付近には麓の居館跡にあるような巨石が列になっていくつかあり、当時使っていたのかもしれません。現地にあった説明書曰く、斎藤時代のもののようです。
当時の岐阜城を偲ぶことができる場所の一つなので見逃しがちなところですが、是非行ってみてください。


2021年02月06日 能登守さとみっくす
信長居館跡[岐阜城  遺構・復元物]



信長公居館は威厳溢れる場所です。土塁、石垣に発掘調査の成果などがわかります。
信長公居館跡で和傘を使った展示が行われていました。2021年2月7日までなので是非、行ってみてください。(無料参加でアンケート回答で記念品もらえる)

2021年02月06日 【城郭道】たっきー
トイレ[岐阜城  トイレ]



ロープウェイ駅付近にあるトイレ。中は綺麗で心地良い利用することができます。トイレからは尾張方面を望むこともできます。(中には洋式があります。)

2021年01月21日 とんかつおやじND
上加納砦[岐阜城  周辺城郭]

金華山ドライブウェイからが近いですが 三月中旬迄車両通行止めになってます。弘峰寺の東から登る場合はそれなりの装備と服装で🤓 軽装ならばドライブウェイを歩くのがおすすめ(^O^)

2021年01月20日 とんかつおやじND
上加納砦[岐阜城  周辺城郭]



岐阜城を守る為の複数存在した砦の一つ 金華山から南側の岩戸山山頂にあったとされてます。

2021年01月01日 【城郭道】たっきー
天守[岐阜城  遺構・復元物]



金華山山頂にある岐阜城天守。中へは大人200円、子供100円で入ることができます。中は資料館となっていて、岐阜城について知ることができます。最上階からは濃尾平野や美濃国などを望むことができます。(写真は雪で見えなくなりました。)金華山山頂から是非、美濃三英傑(斎藤道三、織田信長、明智光秀)も味わったかもしれない風景を見てみてください。

2020年12月29日 とんかつおやじND
長山城[岐阜城  周辺城郭]



土岐 元頼(とき もとより)は、戦国時代の武将。美濃守護土岐成頼の四男。母は側室。通称は四郎。美濃長山城主。

権現山方面からは岐阜城が望めます長良川、木曽川も展望あり見張りには持ってこい各務原アルプスから猿啄城までいけます

2020年12月12日 【城郭道】たっきー
信長居館跡[岐阜城  遺構・復元物]



1569年、信長居館の内部を案内された宣教師ルイス フロイスはかなり鮮明な記録を残している。

①驚くべき大きさの石の壁が宮殿を取り囲んでいた。
②第一の庭には劇場風の建物があった。
③宮殿は4階建てで1階はすべて絵画と塗金とした屏風で飾られた部屋が20あり廊下の前には庭と泉と池があった。
④ニ階には下の階より優れた婦人部屋があった。
⑤三、四階の前廊からは周りの景色が展望できる。

この五つがその特徴である。居館はおそらく京都の西本願寺飛雲閣や同じく京都の鹿苑寺金閣のような建物であった可能性が高い。

③の池と泉の水は調査で確認できた谷川から引き入れられていると考えられている。

2020年12月05日 ぷうこ左衛門督
岐阜城

本丸のトイレ先に資料館分室があります。
トリックアートや歴代大河ドラマの展示がしてあります。

2020年11月10日 とんかつおやじND
岐阜信長神社[岐阜城  寺社・史跡]



樫森神社の境内に織田信長公を主祭神とする『建勲神社』があります。
明治時代に京都の建勲神社から分霊されました。
通称、岐阜信長神社。

2020年11月08日 【城郭道】たっきー
ロープウェイ駅[岐阜城  その他]



岐阜城の御城印は麓のロープウェイ駅で一枚300円で購入することができます。
毎月最後の金曜日は金字の御城印を購入することができます。
稲葉山城の御城印はついこの前、限定販売されていました。

2020年11月07日 とんかつおやじND
長良天神神社[岐阜城  寺社・史跡]



長良の氏神さま、天神神社は、菅原道真公を祀り今から約800年前に京都北面の武士から美濃の国の目代に任じられた斎藤家によって建てられました。斎藤家は京都北野天満宮を奉信しており、美濃に赴任し金華山に城を築くと共に守護として、当神社を祀った。
 その後、寛正年間(1460~1466)斎藤利藤が本殿を造営し、天正16年(1588)池田輝政が社壇を構築寄進し現在も残っている。
 江戸時代になると長良が尾張藩の所領となり、尾張藩や支藩高須城主も亦当神社を尊崇し、藩主代替わりの度に参拝を恒例として篤い崇敬を寄せられた。十代藩主義建侯は二度に亘って神額を奉納されている。

本殿を鎮祭する社壇は、南面の表幅が40尺(約12m)奥行50尺(約15m)高さ10尺(約3m)の基壇の前面には、横29尺(約8.7m)奥行10尺5寸(約3.15m)の持ち出し壇を同じ高さに、岩石を以て城郭石垣造りに築き上げられている。
 社伝によると天正年間に池田三左衛門輝政候が、築壇奉納したものと伝えられている。

2020年10月28日 とんかつおやじND
井戸[岐阜城  遺構・復元物]



付近で菊人形菊花展開催中
2020.11.23迄

2020年08月28日 とんかつおやじND
護国寺[岐阜城  寺社・史跡]



当寺は聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創されました 創建時は三十三の堂塔が並び長良、島、日野を寺領とする壮大な寺院であったと伝えられます

織田信長の兵火により全焼し灰燼と化しますが良啓上人により再興されます

屏風は戦国時代の頃 土岐一族による鷹の絵図で数人の手によるものと思われます六曲に各面に一羽ずつ六羽描かれて一双(一対)になっており計十二羽の鷹が描かれています

護国寺HPより抜粋

プレミアムフライデー限定御朱印あり
岐阜城が望めます


2020年08月27日 とんかつおやじND
西山4号墳[岐阜城  寺社・史跡]



西山4号墳は、百々ケ峰の南麓にあり、古墳時代後期の群集墳中のひとつである。

この古墳は直径およそ16mの円墳で、墳丘頂部がかなり削られているため、もとの高さは不明である。現在の高さは、石室入口の底面から6.4mである。

墳丘は現地形をさほど変えずにら造られ、墳丘の南半分(石室の入口方向)は二段になっており、表面には葺石と呼ばれる石が石垣のように張り付けてある。後期の古墳は、年代が新しくなるにしたがって、段々葺石など外部施設が簡略化される傾向にあるが、この古墳は念入りに築造されている。

内服構造は後期の古墳によく見られる横穴式石室で、玄室(遺体を安置する場所 全長5.2m)からなる。通常の横穴式石室は、羨道・玄室の床面が水平であるのに対し、この古墳は三段の床面傾斜をもつ特殊構造となっている。

この古墳は、出土遺物(須恵器、鉄製品、金環など)から7世紀に築造されたと考えられる。

岐阜市教育委員会の資料より

古墳から眺めた岐阜城

2020年08月25日 VTR美濃守シゲ23日松江
自転車、バイク二輪専用駐車場[岐阜城  駐車場]

二輪専用駐車場、スペースは狭いのでバイクの場合は注意を

2020年08月25日 VTR美濃守シゲ23日松江
岐阜城



駐車場

市営駐車場が西側にファミマ道路向かいが有りますが、北向は右折になるので入りにくいです。
そのまま信号も直進、交番過ぎて直ぐ橋渡る手前を左、直ぐに右で橋をくぐり、北側の市営駐車場行けます、コインパーキングも有り、そのまま真っ直ぐ岐阜護国神社迄行くと、その反対側が河川敷の無料駐車場、週末休日は早い時間に満車になります、又増水時は閉鎖します、岐阜護国神社駐車場は、参拝者以外は駐車禁止となってますので注意を。

トイレ
駐車場周辺、麓には何ヶ所かあります、山上部もロープウェイ駅前、資料館前に有ります。

ロープウェイでリア攻めの方

山頂駅から本丸天守まで山道では有りませんが、山登り10分ほどしますので、革靴、パンプス、ハイヒールはやめましょう、運動靴、スニーカーで。

遺構は堀切、本丸下の石垣、再建天守ですが、ここからの眺めは最高です。濃尾平野一望、斎藤道三殿、信長公、も見たであろう景色を是非。

2020年08月25日 源近江守頼光
岐阜城



ロープウェイで天守まで行けますが、結構な三密状態になるので、体力に自信があるなら歩いて登ったほうがよいかも。

2020年08月23日 横山日向守忠篤
岐阜城



天守に登る手前の2の門近くに最近TVで紹介された稲葉山城(斉藤道三時代)の石垣がありますので要チェックです。

2020年08月22日 とんかつおやじND
濃姫遺髪塚[岐阜城  寺社・史跡]



濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘で才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていないが、本能寺の変で信長と共に亡くなった濃姫の遺髪が、逃げ延びた家臣によってここに埋葬されたと伝えられている。 岐阜県HPより

2020年08月22日 【城郭道】たっきー
天守[岐阜城  遺構・復元物]

初代天守について

1887年、西洋文化の影響を受けて登山が流行し、1888年公園が開園しましました。その公園をのち岐阜公園と改名しました。こうして徐々に金華山整備の気運が高まっていきました。

時は流れて1909年。金華山西麓の長良橋建て替えの際に出た廃材を利用し、岐阜市保勝会(今で言う観光協会)と岐阜建築業組合による岐阜城天守の工事が始まりました。翌年5月に落成式を迎えた城は、白く塗った板張りの壁にトタン葺きの屋根を持つ、高さ15・15mの日本初の常設の模擬天守でした。建築費用は500円でした。新しい岐阜市のシンボルとなった城には、来場者が多く訪れ、1910年6月から翌年4月はじめまで43,900余人、一日平均約140 人が登山しました。
しかし、1943年2月17日午前3時頃。天守が2時間燃え、灰と化しました。中にあった武具など100点も燃え尽き、被害総額は5000円になりました。(大卒銀行員の初任給が75円)原因は焚き火の不始末でした。その後、天守再建計画が持ち上がりましたが、戦局悪化や岐阜市の空襲被害などにより計画は消えていきました。

2020年08月03日 【城郭道】たっきー
岐阜城資料館[岐阜城  スタンプ]



岐阜城天守の近くにある隅櫓を模した資料館です。大河ドラマ『国盗り物語』の放送を記念して建てられたもので、1975年4月に完成しました。
かつてこの場所には米や塩、味噌を蓄えておく蔵などが建っていたと考えられています。この資料館は創業30年を迎えた川島紡績の全額寄付(総額6000万円)によるもので、彦根城を参考に設計されました。内部は撮影不可ですが、古文書、武具、刀剣など岐阜城関係の資料が展示されています。
天守に入ってからでないと入らないのでご注意を。
入城料
大人 200円
子供 100円
子供は16歳未満です。



2020年07月04日 美濃守レスタト
ロープウェイ駅[岐阜城  その他]



ロープウェイ駅にて限定5000枚の稲葉山城の御城印です。通常は岐阜城の御城印です。

2020年05月23日 VTR美濃守シゲ23日松江
崇福寺[岐阜城  寺社・史跡]



織田信長 信忠親子の野位牌が安置してあります、又、関白一条兼良寄進の土塀、門、
稲葉一鉄(良道)寄進の梵鐘(作り替えあり)
も有ります

2020年05月23日 VTR美濃守シゲ23日松江
常在寺[岐阜城  寺社・史跡]



斎藤家の菩提寺
斎藤道三と斎藤義龍の肖像画が有ります


2020年03月01日 天道式部卿早雲
岐阜大仏・正法寺[岐阜城  寺社・史跡]



日本三大仏といわれている(他にも候補はいらっしゃるらしいですが)釈迦如来坐像を拝見できます。
金箔以外は金属・石などではなく、木・竹・粘土・紙でできている乾漆仏としては日本一の大きさ
拝観料200円 御朱印あります。
ロープウェイ乗り場から徒歩10ほど


2020年02月24日 【国替準備】国府左京大夫城介
道三塚[岐阜城  碑・説明板]



元は崇福寺の近くにあったのだが、長良川が度々氾濫するために、現在の場所に移転されました。

駐車スペースは、一台分ありますが、ここに停めると説明板がやや見えにくくなってしまいます。

2019年12月15日 RED副将軍
岐阜城

リア攻めされる方へ。
1,100円払いロープウェイなら5分で登れます。
主な登山道は、大手道60分、水手道60分、馬の背ルート40分です。
個人的なオススメは馬の背ルート。険峻な岩場が続き面白い上に、終盤に荒々しい石垣を見ることができます。

2019年11月25日 VTR美濃守シゲ23日松江
ロープウェイ駅[岐阜城  その他]



ロープウェイ乗り場、お土産やさんのレジにて岐阜城御城御頂けます。
月末最終金曜日は金の御城御、
いづれもレジが開いている時間帯で
印刷されたもの日付も入ります

2019年11月08日 紀伊守みつくん
岐阜城

冬期の閉城時間は16時30分ですが、それに間に合うには16時発のロープウェイに乗る必要があります!注意して下さい。

2019年11月04日 無限織部正武威鉄駆
岐阜城

ロープウェイを使わず登山をされる方へ。上りはめい想の小径、下りは七曲りの登山道を歩きましたが子供がいるのであれば七曲りが道も広く整備されているので歩きやすいです。めい想の小径は後半はほぼ岩場の道なので最低でもしっかりとした運動靴でないと足首に負担が大きいですよ。でも景色は素晴らしいです。

2019年08月06日 火狐
岐阜城

金華山ロープウェー乗り場の売店で御城印が売っています。プレミアムフライデー限定で黄金の御城印を買うことができます。

2019年07月27日 航輔主膳正小田原城北条
岐阜城

天守閣の上から長良川が見えました。織田信長の天下統一を目指した気持ちがわかります。何年か前だけど忘れません

2019年07月16日 はとまめ
信長公居館発掘調査案内所[岐阜城  関連施設]

入場無料で信長公居館の発掘調査の資料やジオラマ、関連映像が見られます。
信長公居館CGの現地体験タブレットの貸出があり、返却時には居館で発掘された飾り瓦の写真入りのクリアファイルを頂けました。

休館日 火曜日、年末年始(12月29日~1月3日) ※雨天時は貸出中止

◆タブレット貸出時間 9時~16時(貸出しは15時まで)
◆利用時間 60分以内
◆利用場所 岐阜公園内
◆申請方法 当日案内所に来所し申込書記入、本人確認書類提示
◆年 齢  小学生以上 ただし小学生の利用は保護者同伴
◆貸出料 無料(1人60分以内、1日1回まで)

2019年06月16日 こん美濃守
岐阜城



鼻高ハイキングコースに残る石垣です。ここから瞑想の小径との合流までは細尾根が続きます。この尾根の南斜面には小さいながらも石列が見受けられました。

2019年06月16日 こん美濃守
岐阜城

鼻高ハイキングコースに残る石垣です。ここから瞑想の小径との合流までは細尾根が続きます。この尾根の南斜面には小さいながらも石列が見受けられました。

2019年06月16日 こん美濃守
岐阜城



戦後復興といっても立派な岐阜城のシンボルですね。周辺には石垣もたくさん残っています。特に鼻高ハイキングコースに残る石垣は必見です!

2019年05月05日 山狐縫殿允
岐阜城

私はロープウェイにて麓まで行き、そこから岐阜城天守まで、歩いて行きました。
天守に行くまでの間にまた色々、岐阜城を紹介する看板があります。天守(資料館)内にある資料を見ていくのも、岐阜城を知る良い機会になるとは思いますが、その看板を一つずつ見ていくと、さらに岐阜城を知る事ができるので、一つずつ、看板を見ていった方が良いと思います。

2019年04月30日 兵部大輔あきまろ
岐阜城

金華山ロープウェイ乗り場にある売店で
御城印買えます!

2019年04月30日 兵部大輔あきまろ
岐阜城



ここに百名城のスタンプ捺印場所があります!スタンプ押すのもかなり過酷な道のりです!

2019年04月30日 兵部大輔あきまろ
岐阜城



岐阜公園から少し離れた長良川の橋の公衆便所の所にある道三公を鎮める碑です!
地元の人々には笑われるかもしれないけど、レアかなと思いパシャリしました❗️


2019年04月30日 兵部大輔あきまろ
岐阜城



GW期間でメチャクチャ混んでて、車を停めた場所も3~4キロ離れた場所で
大変でしたが来た甲斐がありました!
ロープウェイも片道50分位待ったかな?

2019年02月09日 図書頭かねつら
岐阜城

濃尾平野を広く一望出来る上に長良川と木曽川にも近く濃尾平野を支配するにはうってつけの立地。
山上部も断崖絶壁多く難攻不落な城の印象。水の手に乏しく、見晴らしが良すぎる故に劣性時の城兵士気を保てるかが大事⁉️

2018年10月15日 ppy太政大臣Jungle
岐阜城

ロープウェイを使わず登りたい方へ。
最短コースの「馬の背登山道」は、辞めなはれ。あれは登山修行の様なコースです。どうしても登るなら、それなりの覚悟と準備を持って、昇りのみチャレンジして下さい。
他のコース(七曲がり・めい想の小径)であれば、40分前後で登れると思います。

2018年07月28日 中務卿一之介
岐阜城

バスを利用する場合、墨俣城とセットで巡ると便利です。
岐阜公園前から、墨俣城最寄りの墨俣行きバスが一時間に二本のペースで運行されています。おかげで、一旦岐阜駅に行ってから乗り換える手間が省け、運賃も節約できました。

2018年03月28日 隼人正りょう
岐阜城

岐阜公園に自転車を停め、馬の背から登りました。このルートは2回目です。休憩はほぼせず、30分で登れました。
天主付近の自動販売機は売り切ればかりだったので飲み物は麓で買っていったほうがいいです。
下りは百曲を選びましたが虫(おそらくアブ)が飛んでいたり、何度か滑りそうになったりしました。下りはロープウェイや七曲がいいかもしれません。
景色はこの日は微妙でしたが苦労して登った分の達成感は十分得られると思います。
時間の都合上じっくり味わうことはできませんでしたが、登り始めてから1時間30分で麓まで戻れました。

2017年08月20日 中務大輔播磨の将軍
岐阜城

岐阜城天守閣から眺める岐阜市街や遠くは、名古屋のセントラルタワーズまで見える景色は、天下一で正しく絶景ですよ!
戦国時代の岐阜城からは、敵の城や砦の状況が粒さに把握できたと思います。


2017年08月19日 素手左衛門佐素手男
岐阜城

馬の背の登山道から登りましたが、思っていたよりも険しい道で大変でした。岐阜城を堪能でき、オススメですが覚悟が必要です。

2017年08月07日 摩免戸の蓮華各務弾正大弼
岐阜城

関ヶ原の戦い前哨戦時、岐阜城は城主が信長の孫(清洲会議の三法師が成人した)秀信のとき落城。その時の家臣38名の戦死を供養する血天井が岐阜城下長良川を渡った長良福光にある崇福寺にあります。織田家ゆかりのお寺です。織田家ゆかりの品、墓所、庭も手入れが行き届いていて綺麗でした。お時間がある方は是非足を運んでみて下さい。

2017年07月30日 織田上総介晃司
岐阜城

有料駐車場は岐阜公園の周りに多くありますが、少し歩くようになりますが護国神社を進んだ先の長良川の岸辺に無料駐車場があります。

2017/07/27現在麓の信長公館跡は発掘調査中でシートが掛けられて納得のいく写真は撮れないので諦めましたが、またの楽しみにとっておきます。

今回は雨霧のため遠望は望めませんでしたが、晴れた日の眺めは天下一です。

斎藤道三の頃の稲葉山城の頃は天守に居を構えてましたが、織田信長は経済性を重視して麓に居を構えました。

作家・海音寺潮五郎は岐阜城を呪われた城として紹介している。

城主のほとんどが非業の死。または流刑の地で亡くなったからである。

唯一の例外が池田輝政。
父(恒興)と兄(元助)が身代わりになったから。

2017年05月12日 伊賀守しゅうさい
岐阜城

岐阜城の素晴らしさは、岐阜城から見渡した景色を見ればどなたでも感動します。

金華山の高さは329メートルしかありませんが、南を向けば伊勢湾が確認できます。右手には桑名、四日市。左手は知多半島。正面には名古屋駅の高層ビルが見えます。

更に双眼鏡で覗いたら、ナガシマスパーランドのホワイトサイクロン、小牧山城、犬山城、そして名古屋城もはっきりと見えます。

もっと凄いのが、常滑の中部国際空港の陸橋が見えます。驚きです!

織田信長が同じように岐阜城から景色を眺めて、いよいよ天下取りを目指す強い気持ちになったと分かるような気がします。

2017年05月09日 てつ&あゆ右兵衛督
岐阜城

無料駐車場有りますよ。意外と書き込まれていなかつたので。

256号線・長良橋交差点を長良川方面に進み、すぐの左側道に下ります。下りて100m位で右折し256号線をくぐり抜けます。そのまま進むと有料駐車場が有りますが、我慢してホテルパーク〜護国神社まで進めば、神社前の川岸に、造成された無料駐車場があります。(何年も前からあったと思います。)
去年行った時は舗装は無く砂利道で、大きな水溜りが出入り口にあり大変でしたが、昨日行った時は、きれいに舗装されておりました。
駐車場出入り口付近から見上げる天守閣は、ロープウェイ側から見える天守閣よりも大きく見えるので、撮影ポイントとしても◎です。

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
岐阜城

山頂に見える岐阜城が一番インパクトがあります。駐車場は有料駐車場がロープウェイ乗り場近くにあります。

2016年08月24日 カーネル
岐阜城

岐阜駅から岐阜バスで10分の岐阜歴史公園前で下車
公園から登る登山道はいくつかありますが、馬の背は石垣がありお薦めです

早朝のロープウェイ運行前に登ると、誰もいない城山が多いですが、ここは朝から地元の方でいっぱいです(一度、豪雨の中で登ったらさすがにガラガラでした。雲にけむる天守がよかった)
おかげで道がよく整備されていて、迷うことはないです

下の公園から30分でロープウェイからの道と合流し、帰りは二ノ丸・馬場跡経由でロープウェイ方面に下り、乗り場手前から百曲登山道で下山しました
こちらも道中に石垣があります

岐阜駅行のバスは、行きにバスを降りたところでなく、公園前の大通沿いにあります

1時間半ちょいで麓の公園に戻りました

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2016年07月20日 土塁ルイ
岐阜城

駐車場が少し離れています。必ず駐車場の位置を確認して近づくべし。
カーナビを「岐阜城」としたところ、到着音声と同時に金華山トンネルに突入。トンネルを抜け、かなり先でターンして戻ってきてロープウェイ方向に進みましたが駐車場はありませんでした。一方通行も逆走しそうになりました。

パンフレットは、ロープウェイ乗り場には小さい三つ折りだけでしたが、信長居館跡発掘現場のフェンスにプラスチックケースに入ったA4版三つ折りのパンフレット(空撮・山頂部縄張図・居館跡発掘写真)がありました。

2016年02月04日 かげちゃん参號
岐阜城

二の丸辺りで岐阜城おもてなし武将隊の方が、ちびっ子や外国人の観光客と記念撮影していました~。

2015年07月25日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
岐阜城

今もあるのか分かりませんが、昔は岐阜公園内の名和昆虫博物館の横にあった茶店で、味噌おでんをよく食べました(^-^)

2015年07月24日 青コアラ美濃守
岐阜城

金華山麓の岐阜市歴史博物館で売っている「国史跡 岐阜城跡」(400円)という冊子は、内容が濃くおすすめです。

2013年11月23日 富士丸式部大輔孫兵衛
岐阜城

駐車場は岐阜公園第1が近くておすすめです。1回300円だったかな。
100名城のスタンプは天守閣の下にある資料館にありますが、入場券の半券をもぎる人が自分の席のカウンター内に潜ませていますので、声をかけないと出てきません(>_<)


2010年11月26日 tomm加賀守
岐阜城

この程ようやく「国史跡」に認定されます

2010年11月06日 tomm加賀守
岐阜城

岐阜城を堪能する意味合いで、個人的には「馬背」の岩場を登って「瞑想の小道」で景色を眺めながら下りるのをお薦めしたいのですが、体力に自信のある方向けという事で
大手道の「七曲」は登りやすいですが、途中からコンクリの階段になるので個人的には面白くないです。。。

100名城スタンプは山頂の岐阜城資料館に(昔はここで無料で陣羽織&模造刀で記念写真撮れました)
パンフレットはロープウェイ乗り場のチケット売り場(人がいる所)・天守閣・資料館などにあります。

2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
岐阜城

[武将像追加]織田信長像
岐阜城麓の岐阜市歴史博物館内に、福井県織田に立つ平服立像のミニチュアが鎮座。

2010年07月23日 徳川内大臣源朝臣康武
岐阜城

[武将像]織田信長像
居館跡の冠木門前にあった騎馬像が、新築された御殿様式の観光案内所の門横に移転。
岐阜駅前に黄金の甲冑立像火繩銃持ち。
なぜか大垣市のソフトピアビル内に、平服マント火繩銃持ち立像あり。
ゆるキャラ「のぶさま」売出中。


2010年06月20日 傾奇揚げ仙兵衛
岐阜城

ロープウェイに乗ると往復1050 登山ルートを行けば無料だがかなり険しい。

岐阜城の周辺スポット情報

 信長居館跡(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

 天守(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 天下第一の門(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 ニノ門(遺構・復元物)

 伝一ノ門跡(遺構・復元物)

 裏門跡(遺構・復元物)

 梶川堀・梶川橋(遺構・復元物)

 太鼓櫓跡(遺構・復元物)

 天守東側の曲輪石垣(発掘調査現場)(遺構・復元物)

 馬場跡(遺構・復元物)

 上台所(旧稲葉山測候所)(遺構・復元物)

 道三塚(碑・説明板)

 御手洗池(碑・説明板)

 百曲がり登山道入口(碑・説明板)

 信長の庭(碑・説明板)

 松田尾砦(周辺城郭)

 枝広館(周辺城郭)

 長山城(周辺城郭)

 上加納砦(周辺城郭)

 丸山砦(周辺城郭)

 福光館(周辺城郭)

 真福寺城(周辺城郭)

 長良砦(周辺城郭)

 岐阜大仏・正法寺(寺社・史跡)

 常在寺(寺社・史跡)

 崇福寺(寺社・史跡)

 濃姫遺髪塚(寺社・史跡)

 西山4号墳(寺社・史跡)

 護国寺(寺社・史跡)

 長良天神神社(寺社・史跡)

 岐阜信長神社(寺社・史跡)

 千成瓢箪発祥の地(寺社・史跡)

 金神社(寺社・史跡)

 山内一豊と千代婚礼の地(寺社・史跡)

 伊奈波神社(寺社・史跡)

 妙照寺(寺社・史跡)

 御薗の榎(寺社・史跡)

 織田塚(寺社・史跡)

 円徳寺(寺社・史跡)

 美江寺観音(寺社・史跡)

 岐阜護国神社(寺社・史跡)

 瑞龍寺山頂遺跡(寺社・史跡)

 千畳敷遺跡(寺社・史跡)

 お土産販売売り場(御城印)

 岐阜城資料館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 岐阜公園有料駐車場(駐車場)

 無料駐車場(増水時水没注意)(駐車場)

 自転車、バイク二輪専用駐車場(駐車場)

 岐阜公園第2駐車場(駐車場)

 (関連施設)

 信長公居館発掘調査案内所(関連施設)

 岐阜市歴史博物館(関連施設)

 長良川越しの写真が綺麗に撮れる道(その他)

 バス停(岐阜公園)(その他)

 ロープウェイ駅(その他)

 天主撮影スポット(その他)

 若き日の織田信長像(その他)

 総合案内所(その他)

 岐阜公園の庭園(その他)

 板垣退助像(板垣退助遭難の地)(その他)

 黄金の信長像(その他)

 七曲(大手)道入口(その他)

 川原町の古い町並み(その他)

 金華山展望台(その他)

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