黒野城(くろのじょう)

黒野城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県岐阜市黒野388

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

加藤貞泰

築城年

文禄3年(1594)

主な改修者

主な城主

加藤貞泰

廃城年

慶長15年(1610)

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

市史跡(黒野城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鷺山城(岐阜県岐阜市)[2.7km]
北方城(岐阜県本巣郡)[3.9km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[5.2km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[6.0km]
高富陣屋(岐阜県山県市)[7.1km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[7.1km]
加納城(岐阜県岐阜市)[7.4km]
川手城(岐阜県岐阜市)[8.0km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[8.0km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[10.5km]

黒野城の解説文



黒野城(くろのじょう)は、岐阜県岐阜市にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城。

美濃国方県郡黒野の地に豊臣秀吉の命で加藤貞泰が築城。徳川家康の時代まで1代わずか16年間の存在だった。

概要 

黒野城は平城で本丸を中心に二の丸、三の丸と三重の堀に囲まれた輪郭式の曲輪。 規模は東西約1,000m、南北約800m。

外堀の土塁は防御に適した凹凸形状の横矢構造で、要所には門、神社や寺院が風水思想で配置されていた。 郭内は二ノ丸・広小路・役所・道場・馬場・蔵屋敷など城の施設と、家臣196家の屋敷などが並んだ。

主な屋敷は土塁・堀に囲まれ、外敵に備えた環濠集落に似た構造である。南西側には、15の町屋敷が整然と配置されていた。

本丸の規模は約110m四方の方形。その土塁は高さ約5m、幅約15mの堀に囲まれていた。 入口は枡形虎口で織豊系城郭の特徴があり、現在の城址碑付近に石垣に囲まれた城門と橋があった。 本丸土塁上の北西と南東隅には櫓が設けられていた。

歴史 

1594年(文禄3年)、加藤貞泰により築城される。

加藤景泰(貞泰の祖父)は土岐氏に仕え、美濃国橋詰庄で70貫の地を領していたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤龍興、豊臣秀吉に仕え、甲斐国24万石を与えられている。光泰は文禄の役に出陣したが、朝鮮で1593年(文禄2年)に病死する。

子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡4万石に削封されてしまった。加藤貞泰は領内の寺院を仮の住居とし、黒野城の築城に着手した。

1600年(慶長5年)、石田三成と徳川家康が対立すると加藤貞泰は西軍側の岐阜城城主織田秀信につき、竹中重門(正室は貞泰の姉)ら美濃の武将らと共に犬山城の加勢に入った。また、弟の平内を江戸の徳川家康の下に人質として差し出した。 しかし、貞泰らは以前から石田三成に恨みがあり[1]、貞泰は加勢衆を東軍に味方するように説得し開城させた。この働きは家康から貞泰宛の5通の書状[2]から、関ヶ原前哨戦での重要性を伺うことができる。 岐阜城が落城すると貞泰は西軍の大垣城の押さえとして本田(ほんでん)村に布陣した。

関ヶ原の戦いでは黒田長政、竹中重門と共に岡山(丸山)烽火場に布陣し、本戦では島津隊と戦う。貞泰は戦後、家康より黒野城と4万石は安堵された。また、加藤家の働きに対して弟平内は美濃国内で3,641石を賜り加増された。[3]

加藤貞泰は城下町を整えると共に治水事業を行い領内の生産を高め、1610年(慶長15年)正月に楽市の免許を町屋敷に出した。また町人に対して土地の年貢と諸役を向こう5年間免除するとした。

1610年(慶長15年)、加藤貞泰は伯耆米子藩6万石へ加増移封され、4万石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となる。前述の政策もわずか半年の実施となった。

一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納領が浸水したと、加納藩主奥平信昌の正室・亀姫が実父・徳川家康に訴えたため、貞泰は米子へ国替となったという。

現状 

  • 黒野城跡地は岐阜市史跡に指定されており[4]、公園として整備されている。
  • 本丸跡地はグラウンドとなっており、幅約15mの水堀、高さ5m傾斜45度の土塁、石垣などに使われた石材が残っている。
  • 現在の南側土塁は削られていた物を昭和時代に再造成されたもので、造成の際に南側に橋、南西部は遊具が設置され虎口の原形の面影は少ない。
  • 本丸北の多賀神社裏手に、東西に650m、幅約4~5m、高さ約2mの空堀跡が残っている。さらに西約400mには土塁がL字形状に現存している。
  • 古図の外堀は現在では水路となっている場所が多数ある。また周囲には「二の丸」「惣門口」といった地名も残っている。
  • 2013年から発掘調査が進められており、2014年、入り口部分にて黒野城ではじめて石垣列が出土し、枡形虎口が確認された。[5]
  • 2015年の調査では石垣列の南で瓦の破片が出土し、城門などの建造物が存在したことが明らかになった。[6]

交通機関 

岐阜バス黒野線「黒野城跡前」下車、徒歩約5分

  • JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)
8番のりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」「本巣市役所」行き
  • 岐阜バスターミナル(名鉄岐阜駅南)
Eのりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」「本巣市役所」行き

黒野城の口コミ情報

2024年10月06日 KOUICHI
黒野城

城周りの道路は車同士がギリすれ違える道幅でした。ただ、小規模ながらも、まさに城跡と言える堀がしっかり残っていて、行ってよかったです。

2024年07月10日 前田利家猫耳メイド萌
山口城主居館説明板(織部駅)[黒野城  碑・説明板]



山口城主居館跡
掲載画は、織部駅の北東の山口城跡がある権現山から見下ろした想像図です。織部駅に降りた皆様から、西の方角を描いたものです。織部駅と道の駅「織部の里もとす」の西側には、一町四方(約100㍍四方)の「山口城主居館跡」があります。守護(有力な地元の武士)クラスの居館跡と考えられ、今も土塁、堀の跡等が、はっきりと残されています。戦国武将・古田織部が、この山口で誕生したとの説もあります。
遺跡内の西南では、鉄宰(スラッグ)が今でも落ちています。これは「山口鋳物師」の跡を示すものと考えられます。山口鋳物師は古文書にも掲載された中近世の職能集団で、現存するお寺の梵鐘と古文書より、江戸時代には、本巣市山口の地で鋳物を作っていたことが分かっています。本巣市の誇る素晴らしい文化財です。この素晴らしい文化財を後世に守り伝えましょう。
※掲載した想像図は、今後の調査の成果により、改変する可能性があります。
本巣市教育委員会社会教育課
織部駅に設置された説明板より。

写真②は、ホームから見た山口城主居館跡。

2024年07月05日 前田利家猫耳メイド萌
黒野城外堀跡(多賀神社)[黒野城  遺構・復元物]



多賀神社
創建は800年程前と推定。城を守る宮になる。明治に多賀神社、諏訪神社、神明神社を合祀する。
樹齢750年の大杉(神木)は伊勢湾台風で倒木。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)。
寛永十二年(1635)以来の棟札34枚が拝殿に掲げられている。

外堀跡
多賀神社の裏側に、幅約4〜5㍍、高さ約2㍍、東西に650㍍の空堀跡が残っている。
鳥居横にあった掲示物より、一部抜粋。

多賀神社 由緒及び沿革
祭神 伊弉諾尊建御名方尊天照大神 当神社は古来より延命長寿と農耕氏子安全の神として尊崇せられ、此の地に鎮めしめられしと伝へられる。
由緒 創設年月日は判然としないが、祭神は今より凡そ八百年程前に鎮座と推定されます。昭和三十四年秋の伊勢湾台風に倒れた大杉の御神木(圓周)二丈七尺余り。  黒野三大老木の一本で樹令、七百五拾年と言はれて居り、設立以来の長き歳月を物語て居ます。
沿革 明治□□年、諏訪神社・神明神社との合併を期に神殿・拝殿・渡り殿の造営に着手し完成。明治四拾参年春、折立北浦並に古町地区より、遷宮祭を修行せらる。以来、神饌□帛料供進指定神社となる。
本殿 間口壹間参尺四寸、奥行壹間四尺五寸
拝殿 間口四間八寸、奥行参間八寸余り
境内 面積八百壹坪、境外山林 参反弐畝拾四歩
石碑碑文より。

神社の裏側には、しっかり残る空堀が確認できます。

2024年07月05日 前田利家猫耳メイド萌
黒野城外堀・土塁跡[黒野城  遺構・復元物]



ここは黒野城の城郭では、唯一現存する三之丸、搦め手側の外堀・土塁跡。本丸から北東の方向、鬼門に位置し、途中に城守護の神明宮、隅には転深坊(天神坊)・超勝寺を配置。
侵攻する敵に対して、側面から攻撃と防御を高めるため屈曲した横矢屏風折。出隅の一部が残る。
城主 加藤貞泰が慶長七年(1602)に、この辺りの土塁と外堀を巡らせた。現在、土塁上長さ南北 約43㍍、東西 約33㍍が残る。土塁上の幅は、本丸と同様の約二間(3.8㍍)。
現在地は、黒野村と古市場村の村境に位置する。
黒野城と加藤貞泰公研究会
黒野地区自治会連合会
説明板より。

主郭部からは少し離れているが、綺麗に保存されている。

2024年07月05日 前田利家猫耳メイド萌
黒野城 東木戸跡[黒野城  碑・説明板]



黒野城ゆかりの遺跡・寺院
超勝寺・転深坊跡
浄土宗。本尊阿弥陀如来。天正十三年(1585)故念が開基。始め山号を馬定山。これには転深坊(天神坊)という一宇が属しており、浄土宗知恩院の末寺で坊号があった。境内に天深坊跡の碑が建つ。加藤貞泰が黒野城築城のとき三の丸搦手守護の仏堂となる。慶長十五年(1610)、貞泰公が米子に転封のとき、第二世定山老和尚は米子に菩提所開創のため、本尊とともに米子へ移った。その後、第三世林太が超勝寺を再興。

東木戸跡
黒野城郭の北東、搦手側にあたる地で、城下への出入口の木(城)戸があった。この附近の古市場には東木戸の小字が伝わる。東木戸跡から南への旧道は南方に、ほぼ一直線であった。

搦手側外堀・土塁跡
黒野城郭で唯一現存する横矢屏風折れ(攻撃・防御に適した出隅・入隅が繰り返す形状)の土塁・堀の一部が藪の中に残る。

北側外堀・土塁跡
黒野城郭の外堀跡。土塁は約60㍍現存する。昭和時代まで古市場の水田用水路に利用していた。明治の地籍図によると、約8㍍幅の土塁跡が見られる。
黒野城と加藤貞泰公研究会
説明板より。

各所に案内板が設置されていて有り難いです。

2024年07月05日 前田利家猫耳メイド萌
黒野城 西木戸跡・外堀跡[黒野城  碑・説明板]



西木戸跡・堀跡
黒野城郭北西の地で、城下への出入口で木(城)戸があった。この附近の古市場には西木戸の小字が伝わる。用水路として残る堀跡は、明治の地籍図によると、約8㍍幅の土塁と約8㍍幅の堀跡が見られる。

総門口・番所跡
黒野城郭の総門口があった。(此の入口に御番所あり。加藤信濃様と申す、御家老の役人が御番なされ候、北山より御城を覗かん哉と、その用意、まさかの時は報せの合図をしかけ有り。)
黒野城と加藤貞泰公研究会
説明板より。

堀幅は狭くなってしまっているが、折れのある用水路(堀跡)が多賀神社の裏側に向かって残っている。

2024年06月27日 前田利家猫耳メイド萌
祐國寺[黒野城  寺社・史跡]



美濃本巣の古刹めぐり
清巣山 祐國寺 (宗派/浄土真宗本願寺派)
当寺は、戦国期の武将であり茶人でもある古田織部の祖に当たる山口城主・古田総兵衛の菩提寺となっております。
古田総兵衛は、家臣団の掌握のため、当時、勢力を持ち、家臣団の中に浸透していた浄土真宗を宗旨とする菩提寺を建立するため、家臣団の一人である教光を娘婿として迎え、天台宗の寺院で空き寺であった祐國院を整備して、初代住職としたといわれています。

山口の町並み  場所 本巣市山口祐國寺周辺
掲載画は、江戸時代元禄年間に描かれた古文書を参考にした想像図です。今でも戦国時代からの城下町の町並みが残っています。江戸時代元禄年間に描かれた古文書にある町並みと変わっておらず、戦国時代からの城下町を今に伝えています「山口城跡調査報告書(1994)」。
現在地の東には、武将クラスの屋敷跡と考えられる「山口城主居館跡」があります。戦国武将・茶人 古田織部は山口出身との説があり、祐國寺はゆかりの寺です。遺跡内では、鉄宰(鉄くず)が今でも落ちています。これは「山口鋳物師」の痕跡を示すものと考えられます。本巣市の誇る素晴らしい文化財です、この素晴らしい文化財を後世に守り伝えましょう。
説明板より。

本堂の前に、梵鐘が置かれているが何だろう?鐘楼にも梵鐘があるが…。

2023年12月13日 とんかつおやじND
城田寺城[黒野城  周辺城郭]



岐阜市内城田寺にある城
船田合戦の前半戦 正法寺の戦いに敗れた土岐元頼を推していた土岐成頼が隠居所とした館? 
敗れ国外退去していた元頼が 石丸利光と軍勢を引き連れ 成頼の隠居所城田寺城に再起を図り展開 
が 土岐政房、斉藤妙純軍と援軍の北近江佐々木氏の配下浅井・三田村の両氏 尾張の織田氏が斎藤方の援軍として 最後には越前の朝倉氏の軍勢が到着 コレで完全包囲され城田寺城側は敗北。城田寺の戦い 舎衛寺が、船田合戦終焉の地となる
が…現在城田寺城は舎衛寺が比定地となってますが のみでは護る事には手薄 背後の山にも遺構があるはず…舎衛寺は、館で 城田寺城は背後の山 城ヶ峰が連絡と見張り砦なのでは…妄想
が 地元歴史研究会の方に城田寺城の縄張り図を頂き やはり 舎衛寺の裏山
で 舎衛寺裏から探索開始 尾根に出る前には微妙な地形があり 期待UP が 猪の出現で暫し谷を背後に待機 気配が無くなり 再開
尾根西側のピークが主郭らしい 北西の尾根を城ヶ峰方面に進むと…突然先が無くなり 谷かと思ったら大堀切 西側にY字に開いて北側は切通となり 自身の立つ南側は堀底まで10m程あろうかの深さで西端は土塁で真ん中の小島に繋がり西は塞がれてる。元々古道があって 城域側に堀切を付け足したかと想像
コレだけでも大収穫 が 南側尾根を進むと 竪堀が二条あり その先は墓地跡で此方が大手らしい
東側尾根も半分くらい探索 岩盤利用の堀切風地形などや何本かの古道らしきもありました。
まだまだ市内にもこんな遺構があるとは…楽しみが増えた😊

2023年12月07日 とんかつおやじND
雛倉城[黒野城  周辺城郭]



現在の地名 岐阜市雛倉

ご案内と資料提供頂いた網代歴史研究会と常盤歴史研究会の方々には感謝しかありません。

雛倉 (中世)雛倉荘 鎌倉期の荘園名。永仁三年の鎌倉将軍家政所下文写によれば、源左近大夫泰朝の弘安九年六月三日、正応三年十一月十五日両度の譲状等に任せ、「若狭国本郷、美濃國雛倉庄地頭職が子息源隆泰に安堵されている(石清水八幡宮文書)とみられ

本郷氏の所領相伝関係には 若狭本郷地頭職、美濃雛倉荘地頭職、越後吉河荘中条北方一分地頭職、若狭永富保公文職、越中米田保地頭職 とある

現在は白山神社となっています。直ぐ上段に主郭らしき平地 北東奥の尾根に堀切があり土橋がかかる 堀切は両端が短く竪堀となって落とされ 城址らしい遺構が見られる。 他は白山神社付近には切岸と腰曲輪風の平地があるが神社があり城址遺構かは❓
岐阜市内にまだ隠れた城址遺構があるとは…

画像は唯一遺構らしい堀切土橋竪堀となります

2023年07月27日 西倉木工助汝愚
山門ギャラリー[黒野城  関連施設]



2階部分がギャラリーとして開放されてました。エレベーターもあり車椅子の方でも上がれます

2023年07月27日 西倉木工助汝愚
織部展示館[黒野城  関連施設]



入場無料の展示館です。古田織部にまつわる展示がありました。入口の事務所で漫画「へうげもの」が無料で借りれるようです(行ったときは不在で確認できず)

2023年04月11日 尼崎城駿河守一口城主
黒野城



4月9日、鷺山城下城後に向かいました🚙駐車場もありました。詳細は写真①の説明板下部を参照願います🙇🏻‍♂️
当日、入城してみたところまだ桜🌸が散らずに残っている木がありました。(写真②)蛇の目◉の旗があるなと思ったら後に大洲城(愛媛県)の城主になる加藤家ゆかりのお城とのことでした(写真③④)
説明板(写真⑤⑥)によると黒野藩は短期間に終わったとありましたが、本丸を囲う堀や土塁は良好に残っていました(写真⑦)土塁上を一周してみましたが四方の山々や櫓の説明板やベンチもあり手頃で良い散策コースでした。
黒野城跡には記念撮影用のパネル(写真⑧)もありました。近くにいた地元の方が蛇の目部分もスライドしたら顔を出せるので2人で記念撮影出来るよと熱く勧めて来るので私と引率してもらった方と2人で撮ってもらいました📷

2023年02月19日 HAL2000壱岐守
黒野城



スギドラッグ黒野店の裏にあります。無料で見れるし、入れます。城跡はグラウンドになっていますが、堀と土塁がきれいに残っています。土塁に登ると、少し眺めがいいです。たんぽぽの物語が紹介されていました。

2023年01月18日 前田利家猫耳メイド萌
山口城主居館[黒野城  周辺城郭]



築城時期・築城主は不明。
山口城主の居館と思われる屋敷跡とされ、八代目 山口城主「古田織部」公の生誕の地と言われています。
一町四方(約100㍍四方)の居館跡で、土塁や堀が一部残っているらしいが、荒れ果てた竹藪となり確認出来ない。
西側に、山口城主 古田氏の菩提寺(祐国寺)がある。

敷地南東角に、石碑が建てられているが、フェンスが蔓系植物に覆われているので、写真は上手く撮れなかった。

2022年12月05日 前田利家猫耳メイド萌
山口城[黒野城  周辺城郭]



岐阜県本巣市の権現山、祐向山の尾根上に山口城、法林寺城、祐向山城が連なるように築かれています。城下は谷汲街道と根尾街道が交差する要衝に当たり、山口城(標高345㍍)からは濃尾平野が一望できます。現在は文殊の森公園として整備され、尾根伝いに散策することができます。
江戸時代に書かれた「美濃国諸旧記」には、鎌倉時代に梶原景時が築城したとも書かれていますが、山口城の築城年代や築城主などの詳細は不明です。山頂には削平された曲輪や、それを取り巻く腰曲輪が残っており、それらの形状から16世紀前半の築城と考えられています。また山口城は戦国武将 古田織部の誕生の地とも伝わり、西麓には山口城主居館跡もあります。実際に織部がいたという確証はないものの、地元には伝承も残り、織部の名を冠した樽見鉄道の駅があります。
山口城御城印に添付された山口城のご説明より。

写真は、山口城主居館跡の南側辺りからの遠望です。

2022年12月05日 前田利家猫耳メイド萌
山口の条里跡[黒野城  寺社・史跡]



大化の改新(645)で口分田を公民にあてがうための地割として、条里制が実施された。山口を起点として十九条(穂積町)まで、条里の跡を見ることができる。
石碑裏面の碑文より。

道の駅 織部の里『もとす』駐車場(道路を挟んだ東側)の南側片隅に石碑があるのみ。

2022年05月21日 とんかつおやじND
鵜飼山城[黒野城  周辺城郭]



御望山 鵜飼山城があったとされてます。 土岐頼芸の嫡男太郎法師の傅役の村山芸重が居城としていた。芸重は 中島監物政重、国島相模守隆重と共に 土岐の三将と称された重臣
 
鵜飼山城 

①斎藤利政との争いの際に 籠城。

②斎藤龍興が竹中半兵衛や安藤守就らによって稲葉山城を占拠された時に 鵜飼山城、祐向山城、揖斐城と逃走。その後 鵜飼山城に兵を集め 稲葉山城奪回の機会を窺う…が 半兵衛らに稲葉山城は返還された。

の2回歴史に登場しています。

山頂西側に堀切らしき遺構と東側に竪堀らしき遺構がみられました。稲葉山城はよく見え 中々の景観…監視できます。

2022年04月14日 オーイ!テツロ
黒野城



里山環境でもなかなかみられなくなったニホンタンポポですが「城域」という空間にて自生が認められることがあります。

黒野城址においては、地元有志の方々の城愛と土塁によって、トウカイタンポポの自生が確保されています。なお、写真案内板「黒野城に咲くタンポポの物語」によると、城主であった加藤貞泰公の国替え先の鳥取:米子城や愛媛:大洲城にも、その時持ち込まれたトウカイタンポポが自生しているとか、、

「殿、黒野のタンポポがずっと御供いたしますぞ」歴史的記録のない妄想ですが「ういやつめニヨニヨ、、」と返したくなるお話かな 、、、

2022年04月05日 とんかつおやじND
岩利城[黒野城  周辺城郭]



「美濃國諸舊記」によると方縣郡岩利の城主は 大岡左馬助家師とあります

天正十二年四月徳川家康は、豊臣秀吉の兵を尾張・長久手で破った。この時池田元助は豊臣方に味方して戦死 岩利城の兵も破れて、岩利まで逃げ帰り北洞の山中に隠れた。家康方は岩利城と、その館・安楽寺を焼き払った。

安楽寺東側用水路の東脇道を北へ 裏山を回り込み西側尾根切通から南直ぐに 堀切あり両側は竪堀となって 土橋右手に土塁で左虎口 尾根南先端に虎口らしき竪堀風遺構あり

2021年11月06日 はっとにんにん左近衛中将
黒野城



本丸跡は草野球にぴったりなグラウンドになっているんですね^_^ 近くの支留琵亜(喫茶店)で入手した黒野城のパンフレットによると、城主だった加藤氏は施策に優れていたようですね。その後、米子→大洲へと渡り歩かれたとあります。

2021年07月31日 【城郭道】たっきー
山口城主居館[黒野城  周辺城郭]



織部駅より西の木々が生い茂っている場所が守護クラスの人間の居館だったと言われる山口城主居館です。一辺100メートル四方で土塁、堀が確認できます。フェンスの付近には石碑があります(我は確認できず)。

中に入りたいですが、獣道となっていて、虫もたくさんいそうでしたし、何より暑かったので断念しました。冬に挑戦すると良いです。と言っても、中に勝手に入ることはできないんですけどね。居館西南あたりにはには鉄宰(スラッグ)が散乱しているそうです。勝手に持ち帰らないでくださいね。

一説では、ここで茶人・古田織部が探していたのではないかと言われています。道の駅には、古田織部に関する展示や資料があるので、是非見ていってください。

今度は北東にある山口城行きたいですね。蜂、熊、蛇の城攻め三大要注意生物がいる可能性が低い冬が山城に行くには、一番ですかね。

2021年02月04日 とんかつおやじND
祐向山城[黒野城  周辺城郭]

祐向山城(いこやまじょう)は岐阜県本巣市に存在した中世の日本の城(山城)。

城の位置する法林寺集落の北側には3つの山があり、地元では東の城、中の城、西の城と呼んでいた。このうち東の城・中の城の山は祐向と呼ばれ、東の城を文殊城、中の城を祐向山城、西の城を山口城に比定する説もある。このうち文殊城の西の城を祐向山城といい、土岐氏の砦であるともされる。また文殊城の別名が祐向山城であり、同一の城だという説もあるが真偽は不明。

弘安年間頃には、藤崎行長の次男で美濃国守護代の藤崎泰綱がこれらの城の城主だったとされる。戦国時代には斎藤家の家臣・長井利安が居城とし、また斎藤道三も一時は拠点とした。道三の孫・斎藤龍興は1564年(永禄7年)に稲葉山城を一時退去し、この際に祐向山城を経て揖斐城に移ったという。1568年(永禄10年)、織田信長の美濃侵攻に伴って祐向山城は滅ぼされた。
ウィキペディアより

2021年02月02日 とんかつおやじND
山口城[黒野城  周辺城郭]

山口城が建っていたこの山を権現山といいます。
「美濃国諸旧記」によると梶原景時が城主であったといいます。
また、麓には一町四方の「山口城主居館跡」があります。武将クラスの屋敷跡と考えられ、今も土塁、堀等がはっきりと残されています。戦国武将・茶人古田織部がこの地で誕生した説もあり、この居館に住んでいたかもしれません。
この山の標高は345mあり、曲輪、虎口等の跡が残されています。
山頂には平に整地された平場が残り、主郭跡の周りに幅2〜6mの腰曲輪があったと考えられます。
南東100mの場所には急激な起伏を超えて中ノ城があり、主郭と合わせて山口城であったと考えられます。
本巣市教育委員会現地看板より

正直言うと東の掛洞城、祐向山城と比べると見応えある遺構は少ないかな…。

2021年01月27日 とんかつおやじND
祐向山城[黒野城  周辺城郭]

この城で一番知られているのは 永禄七年に竹中半兵衛に稲葉山城を占領された際に、城主斎藤龍興が逃れた城として挙げられている。

2021年01月27日 とんかつおやじND
掛洞城[黒野城  周辺城郭]



掛洞城、祐向山城、法林寺城、山口城は尾根続きになります。起伏はかなりあり
遺構は掛洞城が見応えあり
掛洞城と祐向山城は15分ほどしか離れてませんが あとは…

2021年01月27日 とんかつおやじND
龍峰寺[黒野城  寺社・史跡]



龍峰寺は岐阜県岐阜市奥にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は廣徳山。北方城主安藤守就の菩提寺である。

戦国時代に北方城主の安藤守就が、弟の湖淑を開山として一族の菩提寺として北方に建立した。正確な創建年は不明で、湖淑の法系も伝わっていない。その後、天正10年(1582年)に北方城が稲葉良通により攻められた際に城と共に兵火により焼亡した。湖淑は本巣郡の奥村まで逃れ、安藤守就の菩提を弔い寺院を再興した。湖淑和尚の没後は住持を欠くが、明暦年間に越前国報恩寺の別川和尚が住持となる。その法嗣、蜜外和尚は人里離れた山上から麓に寺を移した。天和3年(1683年)に乙津寺の鉄錐和尚を住持に招いたのちその法が受け継がれた。寺宝として湖淑和尚の肖像を所蔵し、安藤守就の墓が本堂裏手の山に建っている。
ウィキペディアより

裏手の山麓にお墓あります
掛洞城へ登城できますが、すぐに道は無くなり 足場を探しながらの急登になり おすすめはできません

2021年01月26日 とんかつおやじND
掛洞城[黒野城  周辺城郭]



東から登り城域を最初に感じる 土塁
今山頂につき 詳しくは後ほど

2020年10月11日 くっしー治部大輔尚人
黒野城



土塁が美しいお城です。本丸だけではなく北側の外堀が用水路として残っていますし、北東の端っこには土塁も残っています。
何より地元の黒野城と加藤貞泰公研究会が積極的に活動されており、地元の尽力によって維持されている史跡です。
駐車場はないので注意して下さい。

2020年08月26日 VTR美濃守シゲ名城オフ会
黒野城



駐車場
土曜、日曜は近所の会社駐車場に停めることが出来ます、本丸まで行くと手作りの案内板あり

本丸は土塁に囲われていて土塁の上をぐるっと一周出来、水堀と土塁を楽しめます

本丸に有る説明板と地図を頼りに外堀と土塁を見に、宅地化した中に残る空堀とL字の土塁、当時の城域の大きさを感じました

2020年05月23日 【城郭道】たっきー
トイレ[黒野城  トイレ]



黒野城本丸西にあります。隣には石碑や説明板、パンフレットがあります。

2019年11月04日 マサキ兵部大輔
黒野城



近くに個人で開いている資料館があり、手作りながら見応えがありました。

2019年08月27日 織田上総介晃司
黒野城

北西から本丸の土塁と水堀を眺めて撮影しました。

こぢんまりとした城で、本丸はグラウンドになってますが、遺構は良好に残ってる方だと思います。

2019年05月04日 しげぽん
黒野城



本丸を囲む土塁。本丸内はグラウンドとして解放されている。
駐車場は特にないが、公園入り口の隅に駐車しました

2017年06月20日 青コアラ美濃守
黒野城

本丸虎口には石垣が使われていたようで、説明板の裏にある石材には矢穴があるものも見られました。
今は虎口に2本の橋が架かっていますが、南側の橋は昭和に新設されたものです。

僅か16年しか存在しなかった割には外郭の遺構までよく残っています。外堀の跡はそのまま水路として随所に残り、特に多賀神社の裏の堀は水こそありませんが深くて見応えがあります。また、ここから東へ300m程の所に屈折した土塁も残っています。(説明板あり)

休日の駐車場については先人が書かれている通りですが、平日は本丸の西南、二ノ丸資料館の駐車場が利用できます。どちらもご厚意によるものですので、マナーを守って使わせて頂きましょう。


2016年08月11日 武蔵守マクシミリアン
黒野城

1.5キロまで近寄らないと取れず「どうして?」と思い、どうせならとリア攻めした。いやー良い城跡でした。本丸とか二の丸とか住民?による手作り感のある表示看板があちこちに。本丸跡は内堀跡に囲まれ、土日は脇の会社の駐車場が使えます。トイレもきれい(妻談)でした。住民に大事にされてる感があり、パンフレット(本丸跡にあり)によると、城主の加藤貞泰の善政を慕ってのことらしい。

2016年02月12日 まるき〜陸中守
黒野城

どーぞ見ていって下さいと
アピール感を感じる城跡
城内に野球のユニフォームを着た人達が…かつて本丸のあった所はグラウンドに虎口には遊具が設置されており小さいお子さんが遊ぶ空間に
本丸(グラウンド)を土塁で囲う形になっていて土塁上の二ヶ所に櫓跡の案内板が設置されていました。堀はやや埋められて浅くなってしまっているが土塁も立派です
城内のあちこちに手書きの案内があったりと、近隣の方々が自分達の手でこの城を守っている!という感じが伝わってきます
近所に私設の資料館があるらしいのですがパンフレットを読むと事前予約が必要みたいです
武家屋敷跡や馬出し、広小路跡等お手製のプレートで案内されており当時の場所を想像しながら楽しめる城跡、城下だと思います。
パンフレットは城址案内板の所のポスト内にセルフサービスで
駐車場は土日祝のみ城址の奥 南西にある平成医療専門学院の駐車場が使用できるようです
フラっと立ち寄りサクッとみて回れる城址跡でした。

2011年01月25日 June02
黒野城

住宅地にある平城としては、堀も残っており自治体に感謝です。
内堀周囲と土塁上を歩くだけでも、土塁の美しさと迫力を、また、高さをそれぞれ感じる事ができました。また、土塁上は隅櫓台跡を想わせる場所が2ヶ所あり、本丸跡入口では、桝形?虎口を想像してしまいました。
さらに、多賀神社裏手(北に徒歩5分以内)には、外堀と教えて頂いた水路?があり、神社を中心に東西に延びていました。
その外堀一部の写真をアップさせて頂きました。私見ですが、散策より探索の方が楽しめる城郭かも知れません。

黒野城の周辺スポット情報

 南東櫓跡(遺構・復元物)

 北西櫓跡(遺構・復元物)

 市原家住宅長屋門(遺構・復元物)

 黒野城外堀跡(多賀神社)(遺構・復元物)

 黒野城外堀・土塁跡(遺構・復元物)

 山口城主居館説明板(織部駅)(碑・説明板)

 城趾碑、説明板(碑・説明板)

 黒野城 東木戸跡(碑・説明板)

 黒野城 西木戸跡・外堀跡(碑・説明板)

 掛洞城(周辺城郭)

 祐向山城(周辺城郭)

 法林寺城(周辺城郭)

 山口城(周辺城郭)

 山口城主居館(周辺城郭)

 文殊城(周辺城郭)

 鵜飼山城(周辺城郭)

 岩利城(周辺城郭)

 黒野城(周辺城郭)

 文殊陣屋(周辺城郭)

 雛倉城(周辺城郭)

 城田寺城(周辺城郭)

 石谷城(周辺城郭)

 龍峰寺(寺社・史跡)

 山口の条里跡(寺社・史跡)

 祐國寺(寺社・史跡)

 石谷1号墳(石谷古墳群)(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(道の駅織部の里)(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 山門ギャラリー(関連施設)

 織部展示館(関連施設)

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