相羽城(あいばじょう)
相羽城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県揖斐郡大野町相羽
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 饗庭(土岐)光俊
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- 鷹司氏
主な城主
- 饗庭氏、長屋氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪
指定文化財
- 町史跡
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
軽海西城(岐阜県本巣市)[3.4km]
北方城(岐阜県本巣郡)[5.4km]
曽根城(岐阜県大垣市)[6.1km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[8.0km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[8.7km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[9.1km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[10.4km]
大垣城(岐阜県大垣市)[10.6km]
揖斐北方城(岐阜県揖斐郡)[10.9km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[10.9km]
相羽城の解説文
[引用元:Wikipedia「相羽城」の項目]
相羽城(あいばじょう)は、美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡)にあった中世の日本の城(平城)。根尾川と三水川の間、旧・名鉄揖斐線相羽駅の近くに位置する。遺構はほとんどないが、本丸跡には神社があり、堀跡とみられる北東の池付近から遺物が出土している。
『新撰美濃志』によれば[1]、土岐光行の子の光俊が饗庭氏饗庭姓を名乗って建暦・建保頃に築城したが、承久の乱で戦死したという。その孫の国頼などが城主となった後に一度廃城となるが、天文年間に垂井城の長屋景興が修築・移住し、土岐頼芸に仕えた。天文14年(1545年)に斎藤道三に攻められて落城し、後に鷹司氏が城主となるも天文18年(1549年)に織田信秀に攻められ、やがて廃城となった。
所在地
岐阜県揖斐郡大野町相羽
参考文献
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館
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相羽城の口コミ情報
2024年06月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
糸貫民俗資料館(堂の城 推定地)[相羽城 関連施設]
堂の城
築城時期は不明。この地に八幡神社を勧請した、多田満仲美濃國守護の土岐補佐の臣として当國に来た、大橋右門吉直が築城したとされる。
城跡の位置は不明で、糸貫民族資料館が推定地の一つとなっています。
早野城跡の近所だったので、ついでに訪問したが資料館は閉業?(Googleマップ)となっている。
糸貫民族資料館は、旧土貴野小学校特別教室を改築した建物で、土貴野ばら公園が校庭跡かな?
早野(ときの)西、七五三(しめ)と難読地名の交差点があります。
2024年06月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
早野城(土貴野神社)[相羽城 周辺城郭]
早野(ときの)城
『日本城郭全集7』には、『濃州城主志略』によると、旧早野村に所在し、城主は中島吉右衛門であったという。城の規模などについてはまったくわからないが、現在、土貴野地区早野に「お城藪」・「お城塚」などの地名が残っている。と記載されている。
土貴野神社 主祭神 素戔嗚命
昭和五年四月、社殿を新築し大いに境内の整理をなせり、大正十三年自由月「早野」を「土貴野神社」と改称す。
神社の由緒を、岐阜県神社庁のHPで調べたが、創建年・由緒等の記載は無かった。
早野(はやの)と書いて、『ときの』と読む。
城跡の位置は不明、近くで東海環状自動車道の建設中だが…、発掘調査とかされてないのかな?
2024年06月28日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大垣城移築城門(牧村家住宅)[相羽城 遺構・復元物]
国重要文化財 牧村家住宅
赤穂浪士の討入りの前年、元禄十四年(1701)に建てたと伝えられており、重要文化財に指定されている民家としては岐阜県下最古の建築です。
牧村家住宅は、鳥居建形式の代表的民家であり、解体調査の結果、当初は桁行八間(15.8㍍)、梁間四間(7.6㍍)の広間型三間造りの南向き民家建築で、茅葺きであったと判明したため、昭和五十七年三月建築当初の姿に復元されました。
「鳥居建」とは、上屋の中で柱や梁等の構造体の組み方が神社の鳥居に似ているところから名付けられたもので、牧村家住宅では土間と床上部の梁間など三カ所にみることができます。
かつては尾張・西三河・美濃・湖北(滋賀県)等、広い地域に分布していましたが、今ではほとんどみることはできません。
大野町
説明板より。
大垣城からの移築門とされますが、門の前に建てられた標柱には大野町重要文化財「門」と表記されるのみで、門については詳細不明です。
2024年06月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
下ノ城[相羽城 周辺城郭]
上ノ城・下ノ城は、それぞれ方一町・方半町程度の長方形の城館である。下ノ城は、現在も北半が残り、堀の痕跡とみられる凹地が巡っている。
六里遺跡Ⅲ
岐阜県文化財保護センター 調査報告書より。
築城時期は不明。徳永氏下ノ城とも呼ばれる。
城跡を訪問後に、城の来歴を調べていて見つけた報告書なので、凹地形には気付かなかった…。
最近口コミ、古墳・寺社が多かったので、城館遺構なし、城館推定地を巡ってみた。
2024年06月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
上ノ城[相羽城 周辺城郭]
上ノ城・下ノ城は、それぞれ方一町、方半町程度の長方形の城館である。上ノ城は、かつては土塁が残っていたが、宅地開発によって消滅した。
六里遺跡Ⅲ
岐阜県文化財保護センター 調査報告書より。
築城時期は不明。徳永氏上ノ城とも呼ばれる。
写真は、谷汲線 豊木駅跡で、城跡は駅跡西側の住宅地と推定されている。
2024年06月27日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
中之元城[相羽城 周辺城郭]
中之元城は、別名 中野城と呼ばれ、土岐成頼の後嗣争いに端を発した船田合戦の主戦場である。方一町を占める字一町田には、北・東に土塁の痕跡らしい地割が見られる。
六里遺跡Ⅲ
岐阜県文化財保護センター 調査報告書より。
この報告書の遺跡分布図には、中之元城の南側隣接地に、西尾氏中之元陣屋が書かれている。
築城時期は不明。城主は、古田上野介高重と伝えられている。
2024年05月06日 内匠頭RedKing
相羽城
鉄道柵らしき、でも線路もない駅舎のようなプラットフォームのような、そう、名鉄谷汲(揖斐)線相羽駅の跡地。お隣の八幡神社が本丸だったそうです。
周囲は宅地化されて城の遺構は分かりません。この辺りは近くに郡家の地名や条里制遺構に二子山(前方後円墳)の群れという古代から開けた土地でした。
縄張りとされる根尾(藪)川は、戦後に改修築堤されたものでその名の通り、上流(本巣市根尾)部の降雨が無ければ川原石の藪原だったそうです。西方の三水(ミミズ)川は、条里に組み込まれていました。上流部は今も源氏蛍が発生します。
住宅の周りは柿畑が広がるのどかな農村で廃線後、マイカーなしには根尾川も三水川の更に西方の揖斐川を超えて、岐阜又は大垣方面への通勤・通学はオオゴトのようで、逆に当地への最寄り駅も中々の難儀です。
2024年03月16日 大納言Z周防守369
相羽駅跡[相羽城 その他]
名古屋鉄道揖斐線の相羽駅が相羽城跡の東側にありました。2005年4月1日に揖斐線全線廃止に伴い廃止されましたが、ホーム跡は残っています。
2023年10月31日 RED副将軍
大御堂城[相羽城 周辺城郭]
竹中半兵衛 生誕の城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。竹中氏の居城であったとされ、竹中半兵衛こと竹中重治の父である竹中重元の居城。
1544年に竹中半兵衛は出生。
1558年、竹中重元は岩手城の岩手信久に攻め寄せて岩手城を奪い居城を移したとされ、大御堂城は廃城となりました。
見所
揖斐川東岸に築かれていましたが、現在は宅地化により遺構は消失。
かつては八幡神社境内に城跡碑が立てられていましたが、令和5年3月に城跡地の発掘調査、整備が完了し立派な城跡碑、案内板、幟旗が立てられました。
竹中重元や、旗本の加藤平内の墓も付近にあります。
半兵衛さんファンは菩提山城だけでなく大御堂城もご訪城くださいませ。
写真
①②整備された主郭跡
③案内板
④月真寺
⑤月真寺の墓地には竹中重元も眠る
⑥かつては城跡碑があった八幡神社
2023年05月28日 ともさお
相羽城
郭感のある微高地ですが、東側から登ると、遠目以上の高さがある。隣の廃線の駅と共に、いにしえに思いを馳せるには、良いロケーション。写真に掲載してしまうと、それまでなので、訪れて感じたい。
2022年11月26日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大御堂城[相羽城 周辺城郭]
築城時期は不明。
竹中半兵衛重治の父、竹中遠江守重元の居城であった。
弘治二年(1556)長良川の戦いで、斎藤道三に味方した為、重元不在の時に、斎藤義龍の軍に大御堂城を襲撃されたが、竹中重治は大将を務め籠城戦の末、これを退けた。
永禄元年(1558)、重元は岩手城主 岩手弾正信久を攻略し、永禄二年(1559)菩提山城を築いて、居城を移し、大御堂城は廃城となったとされる。
大御堂城要図からすると、この辺りが本曲輪跡と思われるが、標柱等はない。
2022年11月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
牧村家土塁(西曲輪)[相羽城 遺構・復元物]
大御堂城要図と航空写真を確認しつつ、本曲輪を目指し周辺をウロウロしていたら、白い標柱が2本見えたので、大御堂城関係かなと確認したら、大野町史跡「牧村家土塁」、大野町 重要文化財「牧村家文書」となってました。大御堂城の遺構だったらよいのだが、説明板等は設置されていないので、詳細は不明です。
件の土塁はどこにあるのだろうか?ソーラーパネル裏にある石組みが土塁なのだろうか?大御堂城要図からすると、この辺りが西曲輪跡に位置すると思われるが…。
2022年11月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
月真寺(大御堂城)[相羽城 寺社・史跡]
大御堂城要図には、月真寺辺りは搦手曲輪に、位置していたと思われる。以前は、山門として移築された、六之井陣屋の門が残っていたらしいが、撤去されてしまったらしく、石の門柱があるのみでした。門柱と史跡の標柱の間には、堀跡の名残りとおぼしき水路があります。
月真寺裏手の墓地には、大野町史跡「竹中重元の墓」、「旗本 加藤平内歴代墓所」があります。
2022年11月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大御堂城台所曲輪(鳥本家住宅(書斎))[相羽城 寺社・史跡]
八幡神社の大御堂城要図からすると、この辺りには台所曲輪があったと思われる。
城の遺構は残っていないが、大野町 重要文化財『鳥本家住宅(書斎)』という、標柱が門の前にありました。
『鳥本家住宅(書斎)』
明治天皇が岐阜行幸の折に休憩所として建造され、その後県庁警察屯所として建造された建築物。
その後、購入移築されている。
妻破風、出窓などのデザインが独自で斬新てある。
岐阜県公式HP参照。
書斎の建物は、北側にあるので標柱の立つ場所からは見えないが、母屋の建物も立派です。
北側の農道から、外観はみられるらしい。(未確認)
2022年11月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
竹中半兵衛生誕地[相羽城 寺社・史跡]
竹中半兵衛重治公の由緒
竹中半兵衛重治公は、天文十三年九月(1544)大御堂城主 竹中遠江守重元公の長男として、この地で誕生。幼少の頃より、学問を好み、特に兵法を学ぶ。
永禄元年(1558)父に従い岩手氏を襲い、岩手に移住し、斉藤龍興に仕える。同七年二月六日、家臣十六人を率いて稲葉山城へ登城し、城外の安藤守就軍と呼応して、城を占拠す。信長公の城譲渡話を断わり、同年八月龍興に返し、近江の浅井氏の食客となる。翌年、栗原山に蟄居中、木下藤吉郎の再三の説得に応じ、藤吉郎の客将分で信長公に仕えることになる。
元亀元年(1570)姉川の前哨戦、長亭軒城の説得降伏、後戦の横山城守備、翌年の小谷山城攻略、天正三年長篠合戦、同年五月からの中国攻めで明石親景の帰順、三木城攻撃の兵糧攻め戦法等々、秀吉公の軍師として活躍し、天下人へと育てた。天正七年、三木城攻撃中病に倒れ、六月十三日 平井山の陣中で没す。享年三十六歳。
郷土の生んだ英傑として永く顕著せんと、この碑を建てるものなり。
石碑碑文より。
八幡社の横に石碑があり、その前に駐車場スペースがあります。
そこには、大御堂城要図が設置されています。
2022年11月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
北山古墳(上磯古墳群)[相羽城 寺社・史跡]
明治42年(1909)、八幡神社社殿の建設工事中、鏡(内行花文鏡)・直刀片・鉄鏃・鉄斧・朱・土師器が出土したと記録されています。内行花文鏡は、県重要文化財に指定されています。
墳丘長 約83㍍の前方後円墳
後方部 幅約50㍍・高約7.9㍍
前方部 幅約21.7㍍・高約3㍍
墳丘は二段築成と考えられ、四世紀後半〜五世紀前半の築造と推定されている。
上磯古墳群
上磯古墳群は、四世紀初頭から、五世紀前半に築造されたと考えられている。亀山古墳(岐阜県史跡)は、全長98㍍と町内最大を誇る。
近年地中レーダー探査等により、笹山古墳(滅失・墳丘墓か)・北山古墳(岐阜県史跡)・南山古墳(大野町史跡)の三基が前方後方墳、亀山古墳が前方後円墳と判明し、それぞれ周濠の存在も確認された。また、亀山の陪塚とみられる三基の小古墳や、笹山東南に笹山と同規模の前方後方墳の存在も明らかになってきた。
上磯古墳群は笹山に始まり、北山・南山と三代に渡って、前方後方墳を築いた後、前方後円墳の亀山を築造して終焉したとみられ、古墳の成立から、在地首長が前方後円墳を受け入れるに至る様子を一望できる重要な遺跡である。
副葬品は、亀山・北山から出土した銅鏡(岐阜県重要文化財)が現存するほか、亀山から金銅製馬具、笹山・南山から銅鏡等が出土した記録が残る。また、いずれの古墳も多量の朱を出土したという。
大野町教育委員会
説明板より。
上磯公民館の所に、上磯古墳群の説明板が設置されています。
2022年11月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
亀山古墳[相羽城 寺社・史跡]
宝永7年(1710)、後円部頂上より2㍍程のところから、朱に染った冠・大刀・矢茎などの武具類の副葬品が出土したそうですが、村内に流行病が発生したので、すぐ埋め戻されたと云う。
文政12年(1829)、前方部に真宗学寮を建設した時に、鏡2面(四獣鏡・六獣鏡)が発見されました。共に、県重要文化財に指定されています。
墳丘長 約98.2㍍の前方後円墳
後円部 直径約62㍍・高約8.5㍍
前方部 幅約34㍍・高約3㍍
四世紀後半〜五世紀前半の築造と推定されている。
大野町バラ公園の駐車場から程近くにあるので、バラ鑑賞のついでに見てまわれます。
2022年11月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
南山古墳[相羽城 寺社・史跡]
明治42年(1909)に、墳頂に鎮座していた白髪神社を北山古墳に合祀した後、長年にわたって土取りされた為、後方部の一部しか残っていません。昭和47年(1972)県営圃場整備事業の農業用水路改良工事によって、北端部が掘削された折、多数の土器、さじ状の木器、木の実、炭化した茅等が、出土したことから、古墳造営以前には、弥生時代の遺跡があったと考えられています。
墳丘長 約96.3㍍の前方後方墳
後方部 幅約56㍍・高約8.5㍍
内部構造は不明。四世紀中頃の築造と思われる。
2022年11月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
西尾氏五之里陣屋[相羽城 周辺城郭]
築城時期は不明。
西尾氏の陣屋で、徳永氏の陣屋と隣接していたとされる。
妙円寺の北東の区画辺りにあったとされ、50㍍四方の規模であったと推定されている。
この辺りに以前までは、大野町指定文化財の長屋門のある民家があったらしいが、取り壊されてしまったのか見付からなかった。
近くには、十禅神社跡地の石碑と整地碑があったのみ。
2022年11月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
徳永氏五之里陣屋[相羽城 周辺城郭]
築城時期は不明。
徳永氏の陣屋で、西尾氏の陣屋と隣接していたとされる。
陣屋の規模は、50㍍四方程の規模と推定され、五之里公民館の東側一帯にあったと考えられているが、遺構などは残っていない。
2022年11月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
笹山古墳(滅失)[相羽城 寺社・史跡]
笹山古墳は、大正2年(1913)に開墾され滅失しました。その際に内行花文鏡(拓本のみ現存)や鉄鏃・銅鏃の出土が記録されています。かつては大型の円墳と考えられていましたが、平成22年に天理大学が実施した地中レーダー探査の結果、前方後方墳と判明しました。
令和2年度の発掘調査では、後方部にテラス状遺構が見つかり、これにより後方部一辺が約40㍍を測ることがわかりました。また、周濠幅は調査区内で9.5㍍を測り、地中レーダー探査結果の再検討から約12㍍程度に復元できることがわかりました。
周濠底からは、近江系小型甕や水銀朱塗高坏など、県内では類例のない貴重な遺物が出土しました。これらの遺物から築造は3世紀初頭に遡ると考えられます。
東海地方の出現期古墳としては最古級であり、この時期の古墳としては最大規模になると想定されます。
大野あけぼのミュージアムより頂いた紙資料より
地中レーダー探査により、笹山古墳より南東方向にも、笹山古墳と同規模の前方後方墳があったとされるが、開墾され滅失している。
2022年11月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
揖斐二度ザクラ[相羽城 寺社・史跡]
国天然記念物 揖斐二度ザクラ
一本の木に、早咲き・遅咲き、一重・八重・二段咲き、純白から濃桃まで、華の形も色もさまざまな多くの種類の花をつける珍しいサクラです。二段咲きの花は、四月中頃、八重咲きの花のなかに稀に現れます。花の中心についた小さなつぼみが膨らみ、開花して小さな花をつけるのです。
現在、最初に指定された木の根元から、分かれた四株が生育しています。
平成21年に生育地が追加指定され、育成地内の同種のサクラが全て天然記念物になりました。
大野町教育委員会
説明板より。
公園駐車場の片隅に、「この線は大野郡条里の『十三条五里二十坪西縄』にあります。」と、駐車場の北側・南側に条里の境界線なのか?謎の看板がありますが、説明板が無いので詳細は不明です。この辺りには、宇津宮遺跡という遺跡(遺跡包蔵地?)があるらしいが、関係性は不明。
2022年11月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
野村城[相羽城 周辺城郭]
『野村村誌』によれば、承久の乱後、野村に住んだ野村常陸介は、南北朝のころ(延元三年(1338))南朝に味方して、野村山山頂の赤ざらの地の上方に本城を置き、城塚と室塚の上に出城を構えて、北朝側 土岐一族の鷲見忠保と対陣、一ヵ月後に落城したと言われています。
野古墳群の南出口古墳(野5号墳)が城塚といわれ、少し東側にある室塚古墳が室塚に当たるようで、野村城の出城であったと思われる。
写真は、野古墳群駐車場付近から、野村城跡方面を撮影したもので、超絶遠景です。
気になる方は、大野町 森林空間散策路・絆の森ハイキングコースを参照して下さい。
2022年11月18日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
野8・9号墳[相羽城 寺社・史跡]
野8号墳は、方墳で方形の周濠があったと思われる。
辺長 15.6㍍・高2.1㍍
野9号墳は、後円部二段築成の帆立貝形古墳です。馬蹄形の周濠があったと推定され、周濠から円筒埴輪片・須恵器片が出土しています。
墳丘長 30.5㍍
後円部 直径22㍍・高5.6㍍
前方部 幅15.4㍍
野8号墳の北側にある、溝は織田河内守邸跡の堀跡とされている。
野古墳群の出土品の一部が、大野あけぼのミュージアム(大野町埋蔵文化財センター)に展示されている。(入場無料、駐車場あり)
2022年11月17日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
野7号墳[相羽城 寺社・史跡]
後円部二段築成の帆立貝形古墳です。馬蹄形の周濠があったと思われる。墳丘から、円筒埴輪や朝顔形埴輪、竪穴式石槨で石室より須恵器・管玉・鉄鏃などが出土しています。
墳丘長 29㍍
後円部 直径22.6㍍ 高4.5㍍
前方部 幅8.8㍍
古墳の前に標柱があるが、触ったら折れそうな程、朽ちている。
2022年11月17日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
織田河内守邸[相羽城 周辺城郭]
築城時期は、慶長年間。
織田河内守長孝によって築城される。
寛永八年に、織田長則が死去すると、嗣子がいなかった事から改易となり、廃城となったと思われる。
戦前までは、邸宅を囲む土塁が残されていたが、現在は西側の区画に僅かに、その遺構が残るのみとなった。
大野町 天然記念物 野村モミジ
ここ野村の織田河内守邸跡は、楓の園芸品種として著名な野村モミジの発祥の地である。
野村モミジは、春の新芽は鮮紅色、その後成長とともに紅色が淡くなって緑と紫を加え、夏には緑または緑紫色、秋には黃紅色から紅色に変り、晩秋落葉するまでに葉の色が七度変わるとされる。
伝えられるところによると、関ヶ原合戦の功により多芸郡金屋村(養老町)から一万石の大名として、野村に移封された織田河内守長孝(信長の弟、有楽斎長益の長子)が、かねて養老山中で見出し金屋で愛育していた楓の一株を野村の邸内に移したものという。
織田家は二代 三十二年で断絶したが、旧邸跡には多くの文人墨客が訪れ、野村モミジを詠んだ詩句を残している。
野村モミジの原木は、幹囲 五尺(1.5㍍)ほどもあったが、享和か文化年間に枯れたと伝える。二代目の木も昭和二十年ころ惜しくも枯れ、現在は三代目が植え継がれている。
大野町教育委員会
説明板より。
2022年11月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
野村藩邸移築総門[相羽城 遺構・復元物]
野村藩邸址の説明板より南へ向い、布賀利八幡神社の参道を更に南に進んだ、先の民家の長屋門の所に、野村藩邸総門の標柱があります。
説明板は無さそうなので、詳細は不明です。
窓のサッシ等は、交換されてしまっていますが、門自体の部材や扉の金物などは、歴史を感じさせます。
此処よりも更に南側には、野村陣屋役所門と伝わる移築門があるらしい。(未確認)
2022年11月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
乾屋敷古墳(野6号墳)[相羽城 寺社・史跡]
乾屋敷古墳は、野古墳群で最初に築造されたと考えられています。墳丘の南側半分が削平されており、後円部墳丘上に不動院が建立されています。
円筒埴輪片が採取され、四世紀末〜五世紀初頭に築造されたと、推定されています。
墳丘長 79㍍
後円部 直径49㍍・高6.3㍍
墳丘上の不動院は、老朽化の為なのか、廃寺になったのか、封鎖されています。
墳丘南側の破壊された部分が痛々しいです。
2022年11月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
南出口古墳(野5号墳・城塚)[相羽城 寺社・史跡]
前方部二段築成、後円部三段築成の前方後円墳です。墳丘の平面部が細長く、くびれ部が目立って低いのが特徴です。
明治二年に主体部から、鎏金獣帯鏡(五島美術館蔵、国重要文化財)や太刀などが出土しました。このとき主体部から取り除かれた、石室天井石が敷地内に保存されています。
試掘確認調査により、盾形周濠が確認されました。周濠から、円筒埴輪や形象埴輪、須恵器片(陶邑TK47型式)が出土しており、五世紀後半〜六世紀初頭の築造と考えられています。
墳丘長 78.3㍍
後円部 直径39㍍・高6.2㍍
前方部 幅41㍍・高4.2㍍
大野町教育委員会
説明板より。
説明板の前に置かれているのが、天井石だと思われるが、保存というのか?と思われるくらい、置かれています。
説明板読んでなかったら、気付かないかも。
2022年11月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
押ヶ谷砦[相羽城 周辺城郭]
築城時期、築城主、来歴等は不明。野村城の支城として、築かれたと考えるのが妥当な感じがしますが、関係性は不明。
砦跡のある大谷山には、ハイキングコースがいくつかあり、大野運動公園駐車場から、森林浴コース〜花立峠〜とりで跡コースで行く方法と、車で花立峠まで行って、そこから、とりで跡コースで行く方法があります。(※自分は、行ってないので、写真は野古墳群からの遠景です。)
2022年11月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
野村陣屋・野村藩邸[相羽城 周辺城郭]
大垣戸田家の分家 大垣新田藩は、明治元年(1868)大垣藩より野村を分知されて、翌年五月 野村藩と改称、藩主戸田氏良は藩知事を任ぜられた。明治三年七月廃藩置県となり、わずか一年余で藩庁は廃止された。
藩邸跡は面積約4.5ha、外周は土塁と堀で囲まれ、公会所、藩校(典学寮)、御殿などが設けられた。藩庁廃止後、建物は移築されるなどして失われたが、門は野村地内に御殿は本巣市内に現存する。
大野町教育委員会
説明板より。
口コミを書く前に、色々調べた所、北側にも堀跡ともされる水路があり、北西側辺りには土塁も一部残っているらしい。
航空写真と説明板の絵図を比較すると、ある程度敷地範囲がわかると思います。
2022年11月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
登越古墳(野4号墳)[相羽城 寺社・史跡]
三段築成の前方後円墳です。野古墳群最大の古墳で、墳丘は良好に現存しています。
周濠は、耕地整理前の墳丘周囲の水田の形状から、盾形周濠と推定されます。試掘確認調査では、前方部にのみ二重周濠が確認されました。主体部は未発掘です。
円筒埴輪や形象埴輪が出土しており、円筒埴輪などから五世紀中頃〜五世紀後半の築造と推定されています。
周濠を含む全長 130㍍(推定)、墳丘長 85㍍
後円部 直径54.2㍍・高7㍍
前方部 幅46.2㍍・高5.6㍍
大野町教育委員会
説明板より。
この野4号墳の墳丘のみ、登ることが出来たしいが、滑りそうなので断念しました。
2022年11月15日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
南屋敷西古墳(野3号墳)[相羽城 寺社・史跡]
前方部二段築成、後円部三段築成の前方後円墳です。土取りにより後円部が損傷しています。
戦前までは、墳丘の北から東にかけて周濠の名残の池が残っていました。盾形周濠と推定されています。試掘確認調査では、円筒埴輪列、葺石が確認されました。主体部は未発掘です。
出土した円筒埴輪列から、五世紀末〜六世紀初頭の築造と推定されています。
墳丘長 78.3㍍
後円部 直径54㍍・高6㍍
大野町教育委員会
説明板より。
屋敷の名を冠するのは、織田河内守邸跡からと思われる。
2022年11月14日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
不動塚古墳(野2号墳)[相羽城 寺社・史跡]
前方部一段、後円部二段築成の前方後円墳です。墳丘は東側が道路によって若干削平されていますが、比較的良好に現存しています。前方部は方形、後円部は急傾斜をもって立ち上がり、墳頂平坦部が比較的広いことが特徴です。
試掘確認調査と地中レーダー探査により、墳丘の周囲に馬蹄形の二重周濠がめぐることがわかっており、中堤にも埴輪列がめぐっていたと考えられています。主体部は未発掘です。
埴輪は円筒埴輪のほか、朝顔形埴輪・蓋型埴輪が出土しており、埴輪から六世紀前半頃の築造と推定されています。
墳丘長 62.5㍍
後円部 直径40㍍・高6㍍
前方部 幅16㍍・高1.2㍍
大野町教育委員会
説明板より。
この古墳の南側にある溝は、近くにある織田河内守邸の堀跡ともされ、土塁の一部も残っているらしい。(未確認)
2022年11月14日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
モタレ古墳(野1号墳)[相羽城 寺社・史跡]
後円部二段築成の帆立貝古墳です。前方部は削平されていますが、後円部は良好に現存しています。後円部墳丘は急傾斜をもって立ち上がることが特徴です。
試掘確認調査と地中レーダー探査により、墳丘の周囲に馬蹄形の周濠がめぐることがわかっています。主体部は未発掘です。
周濠から出土した須恵器(陶邑TK23型式)から、五世紀後半の築造と推定されています。
墳丘長 54㍍(推定)
後円部 直径37.4㍍・高6.7㍍
大野町教育委員会
説明板より。
国史跡 野古墳群、観光者用の駐車場があり、綺麗に整備されている。
2022年11月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
身延神王社(神王神社遺跡)[相羽城 寺社・史跡]
神王社がある「身延」の地名の由来は、「みのぶ」が「みねべ」に転化したもの、「みの」は美濃の国、「ぶ」は「府」のことで、役所の所在地をさすと伝えられています。(「糸貫町の地名の由来」1995)。神王社は本巣国造の祖神大根王を祀ると伝えており、古代本巣郡の中心地であった可能性があります。神王社は相撲(角力)の神社で、毎年9月の祭礼には相撲が開催されています。神王社より西の北野神社には、神大根王の孫で牟宜都君(現在の関市)の祖となった、押黒弟日子王を祀ると伝えられる乙福神社があります。
神社周辺では、古代の土器片が見つかり、周知の埋蔵文化財包蔵地「神王神社遺跡」となっています。
素晴らしい文化財を後世に守り伝えましょう。
本巣市教育委員会社会教育課
説明板より。
説明板の空から見た古代の本巣郡・席田郡には、堂の城・八居城・花木城・軽海城・小柿城他、色々な城館・寺院・史跡が書かれているが、この辺りにあったと思われる「身延城」は書かれていない。この地図の範囲には、他にも「長屋城・早野城・真桑城・仏生寺城・春近城」など、多数の城跡があったとされる。
2022年11月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
身延城[相羽城 周辺城郭]
『日本城郭全集7』には、「城址のある一帯は、往古美濃部村といい美濃國発祥の地と伝えられる。
城址は原掃部が住まったという、原掃部は一名を頼房といった。その城址はいま、飯尾氏宅の裏手か、或いは乙福神社のある辺りとも言う。(新撰美濃志)」
城跡の場所は、大正期頃に、乙福神社が北野神社境内に遷座されている為に、正確な位置は不明となっている。
乙福神社の遷座前の位置が分かればいいのだが…、この辺りで神社を遷座する理由としたら、線路敷設くらいかな?
この辺りには、いくつかの水路があり堀の名残りかもしれない…。
2022年11月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
堂の城[相羽城 周辺城郭]
築城時期は不明。この地に八幡神社を勧請した、多田満仲美濃國守護の土岐補佐の臣として当國に来た、大橋右門吉直が築城したとされる。
城跡の位置は不明で、いくつかの推定地の一つが覚勝寺(廃寺?本堂跡と思われる基壇がある)周辺とされ、敷地南側に用水路があり、西側に土塁の様な盛土が存在する。他の推定地として、八幡神社の南側辺り・糸貫民俗資料館辺りが候補地となっている。
2022年11月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
屋井城(八居城)[相羽城 周辺城郭]
築城時期は不明。
土岐氏の一族、屋井(八居)氏の居城。
八居三郎国幸によって築城され、代々八居氏の居城とされる。
城跡とされる位置は、個人宅となっており、南側の門の前から西側に堀が残り、西側に土塁も一部残っている。(航空写真を見ると、西側の堀跡が分かると思います。)
2022年11月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
花木城(中野城)[相羽城 周辺城郭]
花木(かぼく)城、別名 中野城の築城時期は不明。
織田信長の家臣 原隠岐守長頼の居城とされる。
長頼は土岐光貞の子、隠岐孫太郎定親の十代後、安房守頼房の長男である。天正三年(1575)織田信長の朝倉攻めの時、長頼は金森氏と共に越前に攻め入り、敵兵数百人を討ち取り、その功により越前大野郡に二万石を与えられ、勝山城城主となった頃に、花木城は廃城となったと思われる。
城跡は、花木山 最乗寺の辺りにあったと思われる。
2022年10月10日 ビン太
相羽城
リア攻めに関しては特に問題ありません。特に高い建物もない住宅地の中で敷地も塀に囲まれてるといったこともないので見つけやすいと思います。敷地はそこそこあるのですが普段無人の為か入口が封鎖されているので車輪で来た方は路駐になります。
2021年01月14日 とんかつおやじND
牛洞陣屋[相羽城 寺社・史跡]
牛洞陣屋は戸田氏胤によって築かれた旗本陣屋です。牛洞戸田氏は初代大垣藩主・戸田氏鉄の六男・氏照を祖とし、氏胤はこの氏照の子にあたります。陣屋は現在の長念寺の北側にあり、民家となっています。
当時の石垣が残っています。
石碑あり
2021年01月01日 とんかつおやじND
月桂院 稲葉一鉄の墓 [相羽城 寺社・史跡]
稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。
大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。月桂院・・・西美濃観音第4番札所
ぎふの旅ガイドより
稲葉良通の菩提寺になります良通の妻が死去した際にその菩提寺として良通が開基
2020年12月31日 とんかつおやじND
深坂陣屋[相羽城 寺社・史跡]
戸田 氏栄(とだ うじよし、寛政11年(1799年) - 安政5年8月21日(1858年9月27日))は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は従五位下・伊豆守。知行は500石。浦賀奉行としてマシュー・ペリー来航時の折衝役となった。大垣戸田家の分家、深坂戸田家6代当主である。
美濃国揖斐郡谷汲(たにぐみ)村の円立寺に葬られた。同寺は深坂戸田家代々の菩提寺であり、氏栄の奉納札なども納められている。寺内には昭和18年(1943年)、ペリー来航90周年を記念して「戸田伊豆守氏栄顕彰之碑」が建立された。 谷汲村は、2005年1月31日に揖斐郡内の他5町村と合併し揖斐川町になった。
ウィキペディアより
現在はかなりあれてます石垣を以前堀だったと思われる 水路で囲んでます。画像の門は 円立寺にある陣屋移築門
2020年12月26日 とんかつおやじND
月真寺(大御堂城)[相羽城 寺社・史跡]
大野町公郷は秀吉旗下の天才軍師、竹中半兵衛重治の出生地と伝えられてきました。半兵衛の出生地には諸説ありますが、垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」には、半兵衛重治は、天文13年(1544)、竹中遠江守重元の長子として、大御堂城(現大野町公郷)に生まれたと記されています。
半兵衛の弟久作(重矩)、従弟源助(重利)もこの地で生まれています。
平成8年4月、竹中氏ゆかりの八幡神社の一角に石碑が建立されました。
江戸時代にこの地を治めた旗本加藤氏の文書では、大御堂城は月真寺の西にあったと記されています。現在では遺構ははっきりしませんが、昭和30年代までは大御堂城のものと伝えられる土塁や堀が残っていたそうです。残念ながら土地改良事業により改変されて、往事の面影をみることはできません。
大野町HPより
2017年04月08日 橘若狭守次郎吉
相羽城
付近の土地よりも一段高くなっている八幡神社の境内が曲輪跡で、其処に石碑があります。曲輪跡以外には遺構はありません。
2016年08月04日 青コアラ美濃守
相羽城
岐阜市方面から来ると、R303の薮川橋を渡ってすぐの信号を左折、突き当たりを左折してすぐに右折すると八幡神社があり、そこが城跡で石碑もあります。
遺構らしきものはありませんが、周囲より若干高くなっているのがわかります。
神社の裏が公民館になっていて、駐車スペースがあります。
余談ですが、すぐ横は廃線になった名鉄揖斐線の相羽駅跡でホームが残っています。廃線好きなら合わせてどうぞ。
相羽城の周辺スポット情報
野村藩邸移築総門(遺構・復元物)
野村陣屋移築役所門(遺構・復元物)
大垣城移築城門(牧村家住宅)(遺構・復元物)
牧村家土塁(西曲輪)(遺構・復元物)
牛洞陣屋移築表門(遺構・復元物)
中之元城(周辺城郭)
長屋城(周辺城郭)
堂の城(周辺城郭)
花木城(中野城)(周辺城郭)
屋井城(八居城)(周辺城郭)
野村城(周辺城郭)
押ヶ谷砦(周辺城郭)
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上ノ城(周辺城郭)
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深坂陣屋(寺社・史跡)
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糸貫民俗資料館(堂の城 推定地)(関連施設)
相羽駅跡(その他)