墨俣城(すのまたじょう)

墨俣城の基本情報

通称・別名

墨俣一夜城、一夜城

所在地

岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

複合式層塔型[3重4階/1991年築/RC造模擬]

築城主

羽柴秀吉

築城年

永禄4年(1561)?、永禄9年(1566)?

主な改修者

伊木忠次

主な城主

羽柴(豊臣)氏

廃城年

不明

遺構

消滅

指定文化財

市史跡(一夜城址)

再建造物

模擬天守(墨俣一夜城歴史資料館)、石碑、説明板

周辺の城

竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[4.9km]
田代城(岐阜県羽島郡)[5.8km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[5.9km]
大垣城(岐阜県大垣市)[6.5km]
曽根城(岐阜県大垣市)[7.4km]
川手城(岐阜県岐阜市)[7.5km]
加納城(岐阜県岐阜市)[7.5km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[7.5km]
北方城(岐阜県本巣郡)[7.8km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[8.7km]

墨俣城の解説文



墨俣城(すのまたじょう)は、岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城。

概要 

築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)[1]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。

秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。 今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない。

現在の墨俣城

現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられているが、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。また、公園内にある白鬚神社(の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。

墨俣城 - 資料

墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。

織田信長の戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。

  • 『信長公記』
    • 太田牛一著。
    • 巻首「十四条合戦の事」に、永禄4年5月上旬(1561年6月中旬頃)、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。洲股要害の修築を誰に担当させたかについては言及されていない。

豊臣秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。

  • 『甫庵太閤記』
    • 小瀬甫庵著、寛永3年(1626年)成立
    • 永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、木曽川沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。 また、記述の中にも閏月が考慮されていないなどいくつか問題点がある。

  • 『武功夜話』(前野家古文書)
    • 昭和34年(1959年)に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年(1987年)出版[2]
    • 江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性には意見が分かれるところである[3]。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。

文学作品(軍記物)への引用 

  • 『絵本太閤記』
    • 武内確斎著・法橋岡田玉山挿絵、読本、寛政9年(1797年)初編刊行
    • 永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘中断、材木を組み立て、一夜にして完成。馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城。砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る、と表現している。

  • 『新史太閤記』
    • 司馬遼太郎(新潮文庫、1968年)
    • 墨俣築城に関して、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せたところ、藤吉郎は3日でほぼ完成させた、と表現している[4]

参考文献 

  • 【書籍】「トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義」
  • 藤本正行「墨俣一夜城は実在したか」(『歴史読本』1985年新年号)
  • 藤本正行『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』(JICC出版局、1993年)
  • 【書籍】「偽書『武功夜話』の研究」

墨俣城の口コミ情報

2024年05月10日 みぶ木工允ぽんの助
墨俣城



想像よりいい感じでしたよ〜近くに道の駅もありついでと言っては失礼ですが、景色も堪能してみてください!

2024年05月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高桑城武山一族無念塔[墨俣城  寺社・史跡]



無念塔
大永七年(1527年)から、高桑城主であった武山氏とその党類は、坂井城主乙部氏の注進により、織田信長の子 信忠の不意討ちを受けました。多勢に無勢でかなわず、永禄十一年(1568年)十二月この地で自刃しました。
自刃した武山党類を供養するため、昭和十七年(1942年)に供養塔が建立されました。これが無念塔です。
塔には、永禄戊辰武山党十六士自刃各霊供養塔と書かれており、自刃した武山党類十六名の名前が刻まれています。
無念塔が建立される以前は、五輪塔が数基ありました。
岐阜市  岐阜市文化財審議会
説明板より。

最近、無念塔の存在を知り、高桑運動広場駐車場から、無念塔を目指し高桑城跡・慈恩寺と再訪問しました。

2024年05月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高桑城の城石[墨俣城  遺構・復元物]



岐阜市指定文化財
有形文化財「十一面観音座像」
この十一面観音座像は、室町時代、高桑城主の菩提寺である龍雪寺のご本尊としてつくられました。その後、永禄元年(1558年)雲外和尚が慈恩寺を建立し以後、この寺のご本尊として今日に至っています。像は、蓮台上の座像の高さ65cm、ひさはり45cm、奥行き35cmの寄木づくりです。
昭和五十六年十一月二十日指定  岐阜市
説明板より。

本堂?西、観音堂北側に、高桑城主菩提之地・高桑一族生誕之地と刻まれた石碑があります。

2024年05月07日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高桑城[墨俣城  周辺城郭]



高桑城趾
鎌倉時代初め(1190年代)から、永禄十年(1567年)まで、ここに高桑城がありました。
この城は土塁で築かれ、周囲は約400㍍、その北西には御館様と呼ばれる城主家 高桑氏の住居がありました。
城は、大永七年(1527年)八月留守居役の武山氏に渡り、永禄十年(1567年)織田信長の手によって落城しました。
今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。
岐阜市
説明板より。

高桑運動広場の駐車場から、高桑城跡とその関連史跡を巡りました。

2024年05月07日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
源平墨俣川古戦場[墨俣城  寺社・史跡]



源平墨俣川の合戦
養和元年三月十日(1181年)長良川をはさんで、源平の大激戦が展開された。世にいう源平墨俣川の合戦である。
同年二月四日平清盛病死す。東国源氏は勢を得て、京へ攻上る。これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛、通盛、忠度、知度、盛綱、盛久等の武将、七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。
一方源氏の将、行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。
源頼朝は応援のため弟の源義円をつけ、西上させたが合流せず、二町を隔てて軍を整えた。
義円は行家に先陣されては兄 頼朝に合す顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義円は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力つき、平盛綱に討たれた。
源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟 討死し、行家の子 太郎光家兄弟は平忠度に捕えられた。討死・溺死する者、六百九十余人に及ぶ。
敗れた源氏は退き、矢矧川の東岸まで退き東国源氏の大兵来たると宣伝し勢を盛りかえして、遂に平家を亡すことになる。
源義円は頼朝の異腹の弟で、義朝の妾 常盤御前の子 義経と同腹の兄にあたる。幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、黒染の衣を着て鎌倉へ駈けつけたと思われる。
墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。二十五才である。里人義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。
これより150㍍西に義円の墓がある。
昭和五十六年三月十日 八百年祭が行われた。
(源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より)
説明板より。

義円公園として整備され、源義円供養塔・源平墨俣川古戦場石碑・義円地蔵・説明板がある。

2024年05月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
源義円の墓[墨俣城  寺社・史跡]



養和元年(1181年)墨俣川をはさんで、平重衡を総大将とする七千余騎の平氏が西岸に、新宮十郎行家、源義円ら三千余騎の源氏が東岸に陣を整え、源平一大合戦がはじまろうとしていました。義円は行家に先を越されまいと一人馬で西岸へ一番乗りをしようとしましたが、平盛綱に討たれてしまいました。行家は、遅れてなるかと夜討ちをかけましたが、戦いに敗れ矢矧川まで退きました。

桜と歴史のまち歩くまち・墨俣 ガイドマップより
大垣市墨俣地域事務所駐車場から、奥田家住宅・下野家枝垂れ桜と蔵・鎌倉街道・不破神社・義円公園・源義円の墓と史跡を巡りました。
ガイドマップに記載がない、西之橋城(上宿城)跡推定地がメインですが…。

2024年05月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
西之橋城(上宿城)[墨俣城  周辺城郭]



築城時期は不明。
明治時代に書かれた『美濃国古蹟考〈別巻〉』に次のような記述がみえる「同郡西橋村ニ在リ元亀ノ頃、奥田将監氏勝ノ所居ナリ」上宿城は、安八郡西橋村にあって元亀年代には、奥田将監氏勝が居住していたという。江戸時代の『美濃明細記』『新撰美濃志』には、上宿城の記述はない。
『墨俣町史』には、西之橋城としての記述がある。
奥田氏系譜によると奥田氏勝は、織田信長に仕え岐阜入城の時に西之橋城を賜う。氏勝の室は、墨俣城主の伊木清兵衛の娘であると云う。

奥田家住宅(大垣市景観遺産)
奥田家は江戸時代から続く旧家で、主屋は切妻造、桟瓦葺きの大型農家です。主屋と階段でつながっている水屋は、大正十年(1921年)に建築され、倉庫としても活用されてきました。住居と倉庫の機能を備えた水屋としては、墨俣地区に残る唯一の水屋になります。敷地南側に残る長屋門は左右に居室のある門となっており、建築年代は家伝によると明治時代とされています。主屋・水屋・長屋門がよく残っていて、屋敷構えとして景観上高い価値を有しています。

下野家枝垂れ桜と蔵(水屋)(大垣市景観遺産)
鎌倉街道沿いの下野家には、室町幕府 第十二代将軍 足利義晴から拝領されたといわれる、樹齢約500年もの枝垂れ桜があります。樹高約8㍍、枝張り約15㍍以上あり、丸いドーム型をしています。また、この桜の西側には水屋風の古い蔵があります。枝垂れ桜と古い蔵は、門や竹林とともに、とても落ち着いた素晴らしい風景を醸し出しています。

城跡の場所は不明だが、鎌倉街道と長良川が交差する交通の要衝に、築城されていたと思われます。

2024年05月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
不破神社・鎌倉街道[墨俣城  寺社・史跡]



史跡・伝説ご案内  大海人皇子と不破明神
西暦671年天智天皇崩ず。先に吉野に難を逃がれていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。壬申の乱である。
中央集権国家成立期における最大の悲劇である。
大海人皇子は逃れて伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に入る。安八磨郡の湯沐令多臣品治に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥淨御原に即位された。
宇治拾遺物語に「大海人皇子墨俣の渡にて難を逃がれたまう」と記してある。その一節を示すと
この国の洲俣のわたしに舟もなく立っておられた。
女が大きな湯舟で布を入れて洗っておるのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡し船をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡舟場を通過することはできない。こうして話しておる内に今敵軍が攻めて来るでしょう。どうして逃がれられますか」という。「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうには「あなたは拝見するとただ人でなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。しばらくして兵共、五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人が渡って行ったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた、今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。すばらしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この少勢では追付いても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、ほんとうにそうだと思って大友の皇子の兵は引返した。
その後、大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいができないたろうか」と問われると、その女はしりまといて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと二、三千人の兵が出来た。それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅された。このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。

鎌倉街道
千数百年前から東海道の熱田の宮より、東山道美濃の国府を結ぶ官道があった。当時、墨俣の宿駅は現在の上宿・下宿の地にあたる。日本武尊が伊吹平定に通ったとも伝えられている。
仁明天皇承和二年官費にて、二そうの渡舟を四そうに増し布施屋(無料休泊所)二ヶ所・墨俣川両岸(上宿と小熊)に造立したと太政官符に記録されている。この道は鎌倉に幕府がおかれて、京都と鎌倉を結ぶ重要な街道として整備された。
源頼朝・藤原頼経・十六夜日記の阿佛尼・東関紀行の源光行等が通っている。
室町末期以後、中町・本町へ移り、美濃路となる。重要な歴史の道である。

説明板より。

2024年04月15日 サクラ十勝守青鬼翼徳
墨俣城



青空と桜と天守のコラボが最高に綺麗でした。一夜城というイメージとは少し違いますが、それも気にならないくらい素敵なお城。駐車場から川越しに見る天守が自分の中でベストアングルです。

2023年12月10日 りゅうぱぱ
墨俣城



再建された天守は綺麗に整備されています。ただし、駐車場に数台しか停められませんのでご注意下さいませ。

2023年10月08日 大学頭RedKing
墨俣城



リア攻めは、平城ですから長良川右岸堤からよく見えます。が、見えていてなかなか行き着けないものです。その昔は長大橋などなく、時が下った江戸時代に当地は、中山道と東海道を結ぶ官道美濃路の宿場が置かれ賑わったそうです。城内には、太閤さんをお祀りした豊国神社が鎮座します。ご利益は残念ながら、料亭や置屋さんが繁盛した後陰もありません。模擬天守は、郡上八幡城と藤橋城、また尼崎城の外観が似ているのは国宝大垣城の調査結果を参考にされたとか。

2023年09月29日 にーさん尾張守佳祐
墨俣城



天守からは岐阜城が望めます。駐車台数が少ないので週末に行かれる方は気をつけてください。

2023年04月11日 黄金船兵部卿
墨俣城

川沿いで模造の城が見やすかった。手前の太閤出世橋が立派すぎるような気もしないでも?

2023年04月09日 あっちゃん
墨俣城



長良川の向こうに、金華山を望むお城。戦国時代の鬼気迫る景色が思い浮かばれました。今は桜が全て散って祭りの後の風景。もう少し、早く城巡りができれば、両方を満喫できたのにと次回の城巡りを期待するのでした。

2023年02月19日 HAL2000下総守
墨俣城



岐阜から大垣に向けて車を走らせていると見えてくる墨俣一夜城。長良川沿いに建てられていたそうです。現在は天守がフィクションで建てられていますが、当時は地盤を固めて強固な城を作るのは、難しかったんだろうなと想像してみます。

2023年01月01日 noble筑前守弥勒菩薩
墨俣城

かの有名な一夜城、藤吉郎と小六縁の土臭いイメージですが、往時はなかなか偲べません。近代の天守閣、それから河川改修によって形態が完全に変わっちゃってます。

2022年10月26日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大垣城移築城門[墨俣城  遺構・復元物]



大垣城から移築された伝えられているが、どこの門かは不明、納屋も移築された建物らしいが、詳細は不明。
門の屋根瓦は、葺き替えられているが、門自体はかなり古そうなので、後世に伝えて欲しいと思います。
(説明板等は、設置されていないです。)

2022年10月09日 くっしー治部大輔尚人
墨俣城



秀吉が作った墨俣城とはぜんぜん違いますが、これはこれで綺麗なお城です!
天守の中の博物館も充実してます。

長良川沿いにあります。駐車場は5台ぐらいしかありません。

2022年10月05日 。
源義円の墓[墨俣城  寺社・史跡]



源平墨俣川の合戦で、25歳という若さで悲運の生涯を閉じた源義円の墓です。
頼朝の異母弟、義経の同母兄。

田んぼと畑が続く中に突然出現します。墓に入る通路が狭く、写真撮影が少々困難。笑
しかし、墓は綺麗に管理されています。以前中日新聞で、ご高齢の有志の方々で手入れされていると読みました。

源氏推しの方はもちろん、平氏勝利という点から平氏推しの方もぜひ、源平墨俣川古戦場跡(墓から徒歩数分)と共に、輪中イベントの折にでもお立ち寄り下さい。

駐車場は無いので、近くの路肩に停めるか、少々歩きますが墨俣公園に停められるのが良いかと思います。

2022年10月04日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
源平の古戦場碑[墨俣城  寺社・史跡]



源平の古戦場
昔から、このあたりの古池には、蛙合戦の伝説がある。毎年、旧暦三月になると無数の蛙が、源平両軍兵の七魂となって合戦するのだという。
養和元年(1181)三月十日、源氏は行家(頼朝の叔父)義圓(頼朝の異母弟)を将として、墨俣川の東岸に陣を取り、平家は重衡(清盛の五男)維盛(清盛の嫡孫)を将として、川の西岸に陣を布いた。翌十一日、激戦となり、義圓は討死、行家は敗れ退いて、このあたりに陣をとったが、防戦の後、源軍は敗走した。
この地から、足近町直道一帯は、第二の戦場であって、当時、戦死者を弔うため、この地に本養寺が建てられた。その後、この寺は羽島市足近町市場に移り、現在の願教寺となる「古戦場尾張川」の石標は、明治になって願教寺の手によって建てられたものである。

坂巻運動広場の最奥部に石碑があるが、籔が生い茂り近づく事は出来なかった、堤防の上からは石碑の裏面のみが確認出来る。

古戦場に彼岸花…悲壮感が漂う。現在、グランドになっている辺りに、本養寺があったのだろうか?

2022年10月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
一乗寺[墨俣城  寺社・史跡]



臨済宗妙心寺派 小熊山一乗寺 由来
弘仁十年(819)空海の開基で真言宗の寺院として、境内十八町余歩の広い区域に七堂伽藍を建立し、大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩を彫られ、七間四方の空に安置し、「朽残る真砂の下の橋はしら又道かえて人わたすなり」と歌を読まれた。当時は、寺中に十二坊があり尊信の中心となっていた。
時を経て源頼朝は、この菩薩の奇瑞を厚く信仰し、文治三年(1187)武運の祈願をしたところ勝利を得たため本堂を再建したが、後の兵火にあい寺院建物を全部消失した。このことを霊夢で知った頼朝は、再び伽藍を建築し、後の世の手当てとして千両目の団金に、「朝日さす夕日かがやく木のもとにこがね千両後の世のたから」と一首の和歌を添えて付与したという。
時代は下り、織田信長が岐阜在城の時、この菩薩の霊威のあることを知り、永禄十一年(1568)菩薩を岐阜へ移したが、天正二年(1574)三月の初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたいと告げられた。帰すことを惜しんだ信長は、尊像を留めて、その地名を小熊と改め今にその地名を残している。
その後、一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗妙心寺派の寺として、江西長老により開山された。当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、開山した江西長老が尾張国田嶋村から、請い受けて空堂に安置したものである。さらに、貞享二年(1685)冬の頃、当山第三世月空紹長老に「汝我を信ずる事久し其心何ぞ空しからんや、先の尊像は彼地に在りといへども神此処に在す弥供養を怠る事なかれ」という霊夢があった。よって不二冥合の尊像を崇め、諸堂をことごとく再建した。時に元禄十年(1697)で、この寺の中興の開山と称している。
また、治承・寿永の乱(源平の合戦)における養和元年(1181)の墨俣川(現長良川)の戦いでは、墨俣から西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり、多くの戦死者がでた。この時の戦死者を供養するため、誓浄寺と本養寺の二つの寺が建立され多くの五輪墓石が造られたが、天正四年(1586)の大洪水で、この二つの寺が流され五輪墓石も散逸してしまった。
境川河川改修工事の際に、川底から多くの五輪墓石が出土したため、その一部が当寺に無縁墓石として安置され、墨俣川の戦いの激しさを今に伝えている。
羽島市観光協会  説明板より。

参詣者用の駐車場あり。

2022年09月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
墨俣宿脇本陣跡[墨俣城  寺社・史跡]



脇本陣は、本陣のみにて大名などが、泊まれない時に利用した休泊施設で、脇本陣役は、一時 加野家が勤めた時、以外は美濃三人衆の一人、北方城主 安藤伊賀守守就の子孫にあたる安藤家が代々勤めた。
現在の建物は、明治二十四年(1891)の濃尾大震災で崩壊した直後に、脇本陣時代とほぼ同様の構造で再建されたものである。
説明板より。

少し南側にある、本正寺の山門として、脇本陣の門が移築現存する。

2022年09月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
墨俣宿[墨俣城  寺社・史跡]



墨俣本陣跡
すのまたは古くから宿駅として発達し、室町末期に上宿から中町本町西町へ街道が移り、慶長年間この地に墨俣宿の本陣が置かれ、初代を沢井九市郎正賢という、二代目以後、代々沢井彦四郎を名乗り、明治に至るまで十三代続く。
徳川時代、勅使・大名・朝鮮・琉球使節等の休泊地となり栄えた。
石碑碑文より。

墨俣宿、美濃路、墨俣宿渡船場常夜燈、本陣跡の石碑と、交差点に色々立ち並んでいる。

2022年08月11日 はちもく
墨俣城



墨俣でおすすめグルメ。大光楼のちゃんぽん、皿うどん。一宮でよく食べました。あとは壺焼き芋。堤防まで歩いて少し上がって眺めてもよいです。少し走ると岐阜城が。

2022年06月01日 シロ
墨俣城

長良川のほとりにあるお城。建物自体は現代に建てられた新しいもので、中身は資料館になっています。周囲を川に囲まれて、「秀吉はこの河の流れに乗せて材木を運んだのかなー」なんて想いを馳せることが出来る立地ですが、この辺りの河川は大きな氾濫を明治時代まで繰り返しており、当時の河の流れとはかなり異なっています。なんて情報は無粋でしょうか。

それでも最上階からの眺めはよく、金華山の岐阜城を目視することが出来ます。秀吉も同じ風景を見ていたのかも知れません。売店の大垣ラムネはリーズナブルでおススメです。水都大垣の水で作られた逸品、是非ご賞味下さい。

2022年01月30日 たまちゃん
墨俣城

川の流れも改変されてるし、よくわかりません。遺構は何も無し。模擬天守から稲葉山城は遠くに見えます。

2021年11月29日 山城守さとぴ~
墨俣城



お城に近い方の駐車場はとめられる台数が限られてました。6台ほどです。人手の多い土日祝は、離れたところのさい川堤外地の駐車場へ止めなくてはならなかったです。道としてはアスファルトの平らな道なのですが、歩行困難者は堤外地の駐車場からは距離がありしんどいでしょう。

2021年10月29日 やしち三河守
墨俣城



Googleマップだと、近くの和食屋さんの駐車場に案内されたので注意してください。中の資料館は秀吉の様々な合戦資料が多いので、秀吉ファンは楽しめますね。

2021年09月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高桑城の城石[墨俣城  遺構・復元物]



高桑城跡の説明板には、観音堂の石垣に城跡から出土した礎石?が使用されているらしいが…。
慈恩寺には、石垣についての説明板は無い。

慈恩寺には、高桑城主の菩提寺にあった、十一面観音座像がご本尊として祀られいる。

2021年08月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
結城[墨俣城  周辺城郭]



結城址
高田二郎兵衛の館が、ここから南西700㍍の地にあったと伝えられております。
一説には、斎藤道三の家臣で六人衆と呼ばれた、大将格で重臣の日比野下野守清實が天文年中(1532〜55)結城主として三千貫を領して住み、東結入方の津島神社の社殿や社領を寄進したりしましたが、永禄四年(1561)五月、織田信長と森部で合戦し、大垣城主 長井甲斐守衛安と共に討ち死にし、斎藤軍は敗走しました。
この時の、兵火で城や津島神社の社殿は、焼かれてしまいました。

結神社と織田信長
天正二年(1574)信長は長島の一向宗を焼き討ちしました。
しかし、まだ東は武田勢、西には一向宗の反抗勢力があり、翌天正三年、長篠合戦、越前の一向宗を撃つ前に、この結神社にて七日間の戦勝祈願をしたと言われています。
その後、信長は天下を取ることになる縁起の良い祈願でした。
          安八町教育委員会
説明板より

城跡は、明治三十六年 揖斐川改修により、河川敷となってしまったと思われる。
結神社もこの時に今の場所に遷座されています。

スポットの位置は、説明板の位置に合わせています。

2021年07月06日 とんかつおやじND
土岐康貞の墓[墨俣城  寺社・史跡]



土岐康貞の墓

土岐 康貞(とき やすさだ)
鎌倉時代後期から室町時代の守護大名。久々利氏の祖で南北朝時代に久々利城を築城したとされています。
土岐頼康の弟。弓の名手であった。観応3正平7年3月,頼康とともに後村上天皇を擁する南朝軍と荒坂山で戦ったが,楠木一族の和田正忠に討たれた。通称は悪五郎。

墨俣一夜城から南へ約500m明台寺の墓地東側に石碑あります。
付近に墨俣脇本陣跡もあり 散策におすすめ

美濃守護代の斎藤利藤の墓もあります。美濃守護代を継承したが叔父の妙椿に実権を握られ力を揮う事は出来なかった人物。

2021年05月08日 百折不撓美濃守
墨俣城

入館しなくても券売所で御城印は購入できます

2021年04月13日 ときDon兵衛
墨俣城



のんびりとした雰囲気で癒やされます。
橋の近くの駐車場が一杯のときは河川敷公園の駐車場へどうぞ。

2021年04月02日 【城郭道】たっきー
高桑城[墨俣城  周辺城郭]



墨俣城から東にある城。堤防の上に説明板が建っています。説明板を見るとここは岐阜市なんですね。びっくりしました。
説明板後ろに土塁のようなものがありました。
近くの慈恩寺観音堂には高桑城の石材が使われているとか。高桑城の近くです。

2021年04月02日 【城郭道】たっきー
墨俣宿[墨俣城  寺社・史跡]



墨俣は、美濃路が設定される以前より、古くから宿場町として栄えていた。
室町時代までの鎌倉街道(京~鎌倉)の宿場町は大垣市墨俣町上宿付近にあり、美濃路の設定時に大垣市墨俣町墨俣付近に移された。
揖斐川と長良川に挟まれていて、重要な宿場であった。また、長良川には墨俣の渡しという渡し船があった。

2021年04月01日 【城郭道】たっきー
冠木門[墨俣城  遺構・復元物]



墨俣城は模擬天守に目が行きがちですが、意外と柵や冠木門等の当時の墨俣城にもあったかのようなものがあります。
それだけを見て回るのも結構有りかもしれません。

2021年03月25日 大宰大弐たろすけ
墨俣城



駐車場は少し離れた河川敷に止めましょう
御城は復元された鉄筋コンクリートですが、展示は素晴らしいです。
御城印 受付で手に入ります。


2021年03月05日 コロラド宮内卿ロッキー
墨俣城



墨俣宿の脇本陣近くの無料駐車場に車を駐めるのがベスト。脇本陣も墨俣城も両方が良い具合に訪問出来ます。

2021年01月05日 野良犬しろチロ丸
墨俣城



橋の入り口辺りに5台くらい置ける無料の駐車場があります。

2020年12月19日 小太郎左衛門督南海道22國守
墨俣城



本来渡河困難な木曽川沿いに建てられた墨俣城(砦)は、戦略的上の要地であるが、木曽三川は合流、分流を繰り返しており、1586年の大氾濫により木曽川の流域は、現在のものとなり、同城は、長良川沿いとなっている。また同年上杉景勝、徳川家康が、秀吉に臣従したことにより、戦略的位置は、著しく低下したと思われる。現在は、天守を模した歴史資料館が、建てられている。大雪の合間の晴れ間に訪問。20201215。

2020年11月12日 【城郭道】たっきー
模擬天守[墨俣城  関連施設]



模擬天守一階で御城印が販売されています。一枚三百円でなかなか面白い感じになっているのでリア攻めの記念におすすめです。

2020年11月08日 VIFAM 【7】尾張守
墨俣城

墨俣城、大垣城、新しい御朱印帳が販売されていましたです。(^^)墨俣城御朱印もなかなかいいですよ(^^)

2020年09月22日 ぱぱ〜ん伊豆守
墨俣城



資料館として分かり易く天守が有ります。実在はしてないですが。駐車場は橋の入口前に4台程度と近くの他に河川敷公園の大きいのがあります。

2020年09月09日 とんかつおやじND
高桑城[墨俣城  周辺城郭]



高桑城(たかくわじょう)は、岐阜県岐阜市柳津町高桑(旧羽島郡柳津町)にあった、鎌倉時代から戦国時代の日本の城である。

築城時期は諸説あるが、高桑城の城主である高桑氏が、承久3年(1221年)の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期(1190年代)と推測される。土塁で築かれ、周囲は400m(約8a)。

高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城の支城の役割を担っていた。

明応3年(1494年)、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により、落城。後に再建される。

大永7年(1527年)、斎藤道三に内通していた留守居の武山氏の手により、高桑城は占領され、高桑氏は越前国へ逃亡する。享禄3年(1530年)には道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、正式に武山氏の居城となる。

永禄10年(1567年)、織田信長の命を受けた織田信忠(信長の息子)が攻め、高桑城は落城し、廃城となる。
 ウィキペディアより

遺構は土塁があるらしいですが確定できず冬出直します。ここにも土岐氏内紛の船田合戦がでてきました。ここから東にも承久の乱合戦碑がありますが藪に埋れています (^◇^;)

2020年08月21日 とんかつおやじND
源平墨俣川古戦場[墨俣城  寺社・史跡]



墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。 ウィキペディアより

2020年05月16日 【城郭道】たっきー
桜祭りの時のみ有料[墨俣城  駐車場]



墨俣城模擬復元天守より少し距離があります。模擬天守の近くに駐車場がありますが、数台しかとまらないのでとめられない時は少し距離がありますが、そこにとめることをおすすめします。

2020年02月29日 青き巨星弾正少弼かみ
墨俣城

登城記念メダルを売っています。1種類で1枚400円です。墨俣一夜城と刻印されています。

2019年05月04日 しげぽん
墨俣城



一夜城址の碑と奥は皇太子様、皇太子妃様立ち寄りを記念した碑です。駐車場は、川の反対側の道路脇にスペースがあります

2018年07月28日 中務卿一之介
墨俣城

岐阜城の最寄りバス停の、「岐阜公園前」バス停を経由するバスがあります。岐阜城とセットで巡る場合にお勧めです。

2017年05月08日 京楽秋水治部少輔
墨俣城

四月初旬ソメイヨシノの開化に合わせ桜祭りが開催されます。県道163号線は普段も朝晩は交通量が多く桜祭りの時は渋滞します。駐車場はこの道から橋を西に渡って少し行った右手に有ります。祭りの時のみ有料になります。

2017年04月28日 テツ治部少輔颯亮
墨俣城

桜の時期は本当に綺麗です。墨俣城から堤防を南に向かって歩くと、どこまでも桜のアーケードが続きます。

2016年03月09日 監物ハム男
墨俣城

すこし歩くのですが、駐車場は広いです。
桜の時期も見ごたえあります

2015年11月04日 いち
墨俣城

祝日の次の日は休館という罠に嵌まったでござる。

2015年11月03日 kan美濃守
墨俣城

現在4階にて一夜城築城に関する武功夜話絵巻展示中です。

2015年05月24日 まー刑部卿
墨俣城

入場料金の割に資料が少なく入らない方が良いと思います。

2013年10月14日 弾正尹ロドリゲス【☘️】
墨俣城

JR岐阜駅からバスで30分弱、運賃は490円でした。そこから10分程度歩きます。

2012年07月08日 ルーク三河守
墨俣城

大垣駅からバスで15分、墨俣で下車して徒歩5分で到着。
秀吉が出世するあしがかりになったとされる墨俣一夜城の築城までの流れが映像及び展示にて分かりやすく紹介されてました。

2012年01月19日 桑名中務大輔はまぐり〜
墨俣城

豊臣秀吉GETできました!

2010年07月23日 徳川内大臣源朝臣康武
墨俣城

[武将像]木下籐吉郎秀吉像
城跡公園内に座像が鎮座。
「木下〜像」となってますが、唐冠被った豊太閤像。

墨俣城の周辺スポット情報

 冠木門(遺構・復元物)

 高桑城の城石(遺構・復元物)

 加納城二の丸移築門(遺構・復元物)

 大垣城移築城門(遺構・復元物)

 石碑(碑・説明板)

 墨俣城石碑(碑・説明板)

 高桑城(周辺城郭)

 結城(周辺城郭)

 岐阜砦(周辺城郭)

 西之橋城(上宿城)(周辺城郭)

 源平墨俣川古戦場(寺社・史跡)

 墨俣宿(寺社・史跡)

 豊国神社(寺社・史跡)

 土岐康貞の墓(寺社・史跡)

 寺町(寺社・史跡)

 墨俣宿脇本陣跡(寺社・史跡)

 夜城園遊郭跡(寺社・史跡)

 一乗寺(寺社・史跡)

 源平の古戦場碑(寺社・史跡)

 源義円の墓(寺社・史跡)

 不破神社・鎌倉街道(寺社・史跡)

 高桑城武山一族無念塔(寺社・史跡)

 大垣市墨俣歴史資料館(御城印)

 トイレ(トイレ)

 桜祭りの時のみ有料(駐車場)

 墨俣町観光客用駐車場(駐車場)

 模擬天守(関連施設)

 豊臣秀吉像(その他)

 太閤出世橋(その他)

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