墨俣城(すのまたじょう)
墨俣城の基本情報
通称・別名
- 墨俣一夜城、一夜城
所在地
- 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 複合式層塔型[3重4階/1991年築/RC造模擬]
築城主
- 羽柴秀吉
築城年
- 永禄4年(1561)?、永禄9年(1566)?
主な改修者
- 伊木忠次
主な城主
- 羽柴(豊臣)氏
廃城年
- 不明
遺構
- 消滅
指定文化財
- 市史跡(一夜城址)
再建造物
- 模擬天守(墨俣一夜城歴史資料館)、石碑、説明板
周辺の城
-
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[4.9km]
田代城(岐阜県羽島郡)[5.8km]
大垣城(岐阜県大垣市)[6.5km]
曽根城(岐阜県大垣市)[7.4km]
川手城(岐阜県岐阜市)[7.5km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[7.5km]
加納城(岐阜県岐阜市)[7.5km]
北方城(岐阜県本巣郡)[7.8km]
加賀野井城(岐阜県羽島市)[8.7km]
黒田城(愛知県一宮市)[8.8km]
墨俣城の解説文
[引用元:Wikipedia「墨俣城」の項目]墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。
【概要】
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めたが、1561年5月の織田信長による美濃侵攻にあたって、または1566年(永禄9年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜城を築いたという逸話がある。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実とは異なる。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
【歴史】
;信長公記
:太田牛一『信長公記』巻首「十四条合戦の事」に「洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及び勝利、洲股帰城、洲股を引き払う。」との記述がある。
墨俣城が最後に歴史に現われるのは1584年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修した。その2年後の1586年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。
秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下に示す。
;甫庵太閤記
:秀吉の伝記として記された小瀬甫庵の『太閤記』(1626年)には、「1566年に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった」という記述がある。また、記述の中にも閏月が考慮されていない、遊撃戦を目的として建設された城であるのに敵に目立つようにして完成した、などいくつか問題点がある。
;武功夜話(前野家古文書)
:1959年になって『永禄州俣記』を含む前野家古文書が発見され、その一部が武功夜話として1987年に刊行された。
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墨俣城の口コミ情報
2021年01月05日 野良犬しろチロ丸
墨俣城
橋の入り口辺りに5台くらい置ける無料の駐車場があります。
2020年12月19日 小太郎左馬頭四国七國守
墨俣城
本来渡河困難な木曽川沿いに建てられた墨俣城(砦)は、戦略的上の要地であるが、木曽三川は合流、分流を繰り返しており、1586年の大氾濫により木曽川の流域は、現在のものとなり、同城は、長良川沿いとなっている。また同年上杉景勝、徳川家康が、秀吉に臣従したことにより、戦略的位置は、著しく低下したと思われる。現在は、天守を模した歴史資料館が、建てられている。大雪の合間の晴れ間に訪問。20201215。
2020年11月12日 【城郭道】美濃守タッキー
模擬天守[墨俣城 関連施設]
模擬天守一階で御城印が販売されています。一枚三百円でなかなか面白い感じになっているのでリア攻めの記念におすすめです。
2020年11月08日 VIFAM7尾張守
墨俣城
墨俣城、大垣城、新しい御朱印帳が販売されていましたです。(^^)墨俣城御朱印もなかなかいいですよ(^^)
2020年09月22日 ぱぱ〜ん尾張守
墨俣城
資料館として分かり易く天守が有ります。実在はしてないですが。駐車場は橋の入口前に4台程度と近くの他に河川敷公園の大きいのがあります。
2020年09月09日 とんかつおやじND
高桑城[墨俣城 周辺城郭]
高桑城(たかくわじょう)は、岐阜県岐阜市柳津町高桑(旧羽島郡柳津町)にあった、鎌倉時代から戦国時代の日本の城である。
築城時期は諸説あるが、高桑城の城主である高桑氏が、承久3年(1221年)の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期(1190年代)と推測される。土塁で築かれ、周囲は400m(約8a)。
高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城の支城の役割を担っていた。
明応3年(1494年)、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により、落城。後に再建される。
大永7年(1527年)、斎藤道三に内通していた留守居の武山氏の手により、高桑城は占領され、高桑氏は越前国へ逃亡する。享禄3年(1530年)には道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、正式に武山氏の居城となる。
永禄10年(1567年)、織田信長の命を受けた織田信忠(信長の息子)が攻め、高桑城は落城し、廃城となる。
ウィキペディアより
遺構は土塁があるらしいですが確定できず冬出直します。ここにも土岐氏内紛の船田合戦がでてきました。ここから東にも承久の乱合戦碑がありますが藪に埋れています (^◇^;)
2020年08月21日 とんかつおやじND
源平墨俣川古戦場[墨俣城 寺社・史跡]
墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。 ウィキペディアより
2020年05月16日 【城郭道】美濃守タッキー
桜祭りの時のみ有料[墨俣城 駐車場]
墨俣城模擬復元天守より少し距離があります。模擬天守の近くに駐車場がありますが、数台しかとまらないのでとめられない時は少し距離がありますが、そこにとめることをおすすめします。
2020年02月29日 青き巨星弾正少弼かみ
墨俣城
登城記念メダルを売っています。1種類で1枚400円です。墨俣一夜城と刻印されています。
2019年05月04日 しげぽん
墨俣城
一夜城址の碑と奥は皇太子様、皇太子妃様立ち寄りを記念した碑です。
駐車場は、川の反対側の道路脇にスペースがあります
2018年07月28日 中務卿一之介
墨俣城
岐阜城の最寄りバス停の、「岐阜公園前」バス停を経由するバスがあります。岐阜城とセットで巡る場合にお勧めです。
2017年05月08日 長良美濃守️️️️揖斐
墨俣城
四月初旬ソメイヨシノの開化に合わせ桜祭りが開催されます。県道163号線は普段も朝晩は交通量が多く桜祭りの時は渋滞します。駐車場はこの道から橋を西に渡って少し行った右手に有ります。祭りの時のみ有料になります。
2017年04月28日 テツ治部少輔颯亮
墨俣城
桜の時期は本当に綺麗です。墨俣城から堤防を南に向かって歩くと、どこまでも桜のアーケードが続きます。
2016年03月09日 美濃守ハム男
墨俣城
すこし歩くのですが、駐車場は広いです。
桜の時期も見ごたえあります
2015年11月04日 いち
墨俣城
祝日の次の日は休館という罠に嵌まったでござる。
2015年11月03日 kan美濃守
墨俣城
現在4階にて一夜城築城に関する武功夜話絵巻展示中です。
2015年05月24日 まー刑部卿
墨俣城
入場料金の割に資料が少なく入らない方が良いと思います。
2013年10月14日 大宰帥ロドリゲス
墨俣城
JR岐阜駅からバスで30分弱、運賃は490円でした。そこから10分程度歩きます。
2012年07月08日 ルーク三河守
墨俣城
大垣駅からバスで15分、墨俣で下車して徒歩5分で到着。
秀吉が出世するあしがかりになったとされる墨俣一夜城の築城までの流れが映像及び展示にて分かりやすく紹介されてました。
2012年01月19日 桑名伊賀守はまぐり〜
墨俣城
豊臣秀吉GETできました!
2010年07月23日 徳川内大臣源朝臣康武
墨俣城
[武将像]木下籐吉郎秀吉像
城跡公園内に座像が鎮座。
「木下〜像」となってますが、唐冠被った豊太閤像。