高桑城
高桑城([墨俣城 周辺城郭])
墨俣城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「高桑城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
高桑城の口コミ情報
2024年05月07日 前田利家猫耳メイド萌
高桑城趾
鎌倉時代初め(1190年代)から、永禄十年(1567年)まで、ここに高桑城がありました。
この城は土塁で築かれ、周囲は約400㍍、その北西には御館様と呼ばれる城主家 高桑氏の住居がありました。
城は、大永七年(1527年)八月留守居役の武山氏に渡り、永禄十年(1567年)織田信長の手によって落城しました。
今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。
岐阜市
説明板より。
高桑運動広場の駐車場から、高桑城跡とその関連史跡を巡りました。
2021年04月02日 【城郭道】たっきー
墨俣城から東にある城。堤防の上に説明板が建っています。説明板を見るとここは岐阜市なんですね。びっくりしました。
説明板後ろに土塁のようなものがありました。
近くの慈恩寺観音堂には高桑城の石材が使われているとか。高桑城の近くです。
2020年09月09日 とんかつおやじND
高桑城(たかくわじょう)は、岐阜県岐阜市柳津町高桑(旧羽島郡柳津町)にあった、鎌倉時代から戦国時代の日本の城である。
築城時期は諸説あるが、高桑城の城主である高桑氏が、承久3年(1221年)の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期(1190年代)と推測される。土塁で築かれ、周囲は400m(約8a)。
高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城の支城の役割を担っていた。
明応3年(1494年)、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により、落城。後に再建される。
大永7年(1527年)、斎藤道三に内通していた留守居の武山氏の手により、高桑城は占領され、高桑氏は越前国へ逃亡する。享禄3年(1530年)には道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、正式に武山氏の居城となる。
永禄10年(1567年)、織田信長の命を受けた織田信忠(信長の息子)が攻め、高桑城は落城し、廃城となる。
ウィキペディアより
遺構は土塁があるらしいですが確定できず冬出直します。ここにも土岐氏内紛の船田合戦がでてきました。ここから東にも承久の乱合戦碑がありますが藪に埋れています (^◇^;)