不破神社・鎌倉街道
不破神社・鎌倉街道([墨俣城 寺社・史跡])
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不破神社・鎌倉街道の口コミ情報
2024年05月04日 前田利家猫耳メイド萌
史跡・伝説ご案内 大海人皇子と不破明神
西暦671年天智天皇崩ず。先に吉野に難を逃がれていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。壬申の乱である。
中央集権国家成立期における最大の悲劇である。
大海人皇子は逃れて伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に入る。安八磨郡の湯沐令多臣品治に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥淨御原に即位された。
宇治拾遺物語に「大海人皇子墨俣の渡にて難を逃がれたまう」と記してある。その一節を示すと
この国の洲俣のわたしに舟もなく立っておられた。
女が大きな湯舟で布を入れて洗っておるのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡し船をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡舟場を通過することはできない。こうして話しておる内に今敵軍が攻めて来るでしょう。どうして逃がれられますか」という。「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうには「あなたは拝見するとただ人でなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。しばらくして兵共、五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人が渡って行ったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた、今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。すばらしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この少勢では追付いても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、ほんとうにそうだと思って大友の皇子の兵は引返した。
その後、大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいができないたろうか」と問われると、その女はしりまといて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと二、三千人の兵が出来た。それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅された。このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。
鎌倉街道
千数百年前から東海道の熱田の宮より、東山道美濃の国府を結ぶ官道があった。当時、墨俣の宿駅は現在の上宿・下宿の地にあたる。日本武尊が伊吹平定に通ったとも伝えられている。
仁明天皇承和二年官費にて、二そうの渡舟を四そうに増し布施屋(無料休泊所)二ヶ所・墨俣川両岸(上宿と小熊)に造立したと太政官符に記録されている。この道は鎌倉に幕府がおかれて、京都と鎌倉を結ぶ重要な街道として整備された。
源頼朝・藤原頼経・十六夜日記の阿佛尼・東関紀行の源光行等が通っている。
室町末期以後、中町・本町へ移り、美濃路となる。重要な歴史の道である。
説明板より。