源平墨俣川古戦場
源平墨俣川古戦場([墨俣城 寺社・史跡])
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源平墨俣川古戦場の口コミ情報
2024年05月07日 前田利家猫耳メイド萌
源平墨俣川の合戦
養和元年三月十日(1181年)長良川をはさんで、源平の大激戦が展開された。世にいう源平墨俣川の合戦である。
同年二月四日平清盛病死す。東国源氏は勢を得て、京へ攻上る。これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛、通盛、忠度、知度、盛綱、盛久等の武将、七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。
一方源氏の将、行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。
源頼朝は応援のため弟の源義円をつけ、西上させたが合流せず、二町を隔てて軍を整えた。
義円は行家に先陣されては兄 頼朝に合す顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義円は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力つき、平盛綱に討たれた。
源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟 討死し、行家の子 太郎光家兄弟は平忠度に捕えられた。討死・溺死する者、六百九十余人に及ぶ。
敗れた源氏は退き、矢矧川の東岸まで退き東国源氏の大兵来たると宣伝し勢を盛りかえして、遂に平家を亡すことになる。
源義円は頼朝の異腹の弟で、義朝の妾 常盤御前の子 義経と同腹の兄にあたる。幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、黒染の衣を着て鎌倉へ駈けつけたと思われる。
墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。二十五才である。里人義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。
これより150㍍西に義円の墓がある。
昭和五十六年三月十日 八百年祭が行われた。
(源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より)
説明板より。
義円公園として整備され、源義円供養塔・源平墨俣川古戦場石碑・義円地蔵・説明板がある。
2020年08月21日 とんかつおやじND
墨俣川の戦いは、治承5年(1181年)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。 ウィキペディアより