北方城(きたがたじょう)
北方城の基本情報
通称・別名
- (北方陣屋)
所在地
- 岐阜県本巣郡北方町北方249
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 伊賀光就、戸田光賢(陣屋)
築城年
- 応仁年間(1467〜1468)、寛文9年(1669)(陣屋)
主な改修者
- -
主な城主
- 伊賀(安藤)氏、稲葉氏、戸田氏(陣屋)
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 県史跡(北方城跡)、町史跡(北方陣屋跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
軽海西城(岐阜県本巣市)[3.4km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[3.5km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[3.9km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[5.4km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[5.6km]
加納城(岐阜県岐阜市)[7.4km]
曽根城(岐阜県大垣市)[7.5km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[7.8km]
川手城(岐阜県岐阜市)[7.9km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[8.2km]
北方城の解説文
[引用元:Wikipedia「北方城」の項目]
北方城(きたがたじょう)は、岐阜県本巣郡北方町(美濃国席田郡)にあった戦国時代の日本の城(平城)。岐阜県指定史跡。現在の大井神社南東一帯に所在した。
概要
明応年間(1492年-1501年)に伊賀太郎衛門光就が築城したという。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名する。守就は当初土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。
1556年(弘治2年)、道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えた。
1567年(永禄10年)、守就は織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となる。しかし1580年(天正8年)、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなった。
1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、信長が家臣の明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となる。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続する。
城跡は1968 年(昭和43年)11月11日付で県指定史跡に指定されている[1]。
所在地
- 岐阜県本巣郡北方町北方249
交通機関
岐阜バス北方円鏡寺線、岐阜高専線、北方穂積線、大野北高線「岐阜農林高前」バス停下車、徒歩5分。または大野真正北方線「北方一本松」バス停下車、徒歩5分。
- JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)7番のりば。または名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりば
- 「大野バスセンター」「イオンタウン本巣(大縄場大橋経由)」行きで「北方一本松」バス停下車
- 「芝原6丁目」「岐阜高専」行きで「岐阜農林高前」バス停下車
- みずほターミナル(穂積駅南)
- 「モレラ岐阜」行きで「岐阜農林高前」バス停下車
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北方城の口コミ情報
2024年06月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
安東伊賀守守就戦死の地[北方城 寺社・史跡]
安東伊賀守守就戦死の地 県指定重要文化財
美濃三人衆筆頭の守就は、天正十年(1582)この地で戦死した。
守就は代々土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、美濃攻めを苦戦する織田信長に力を貸し、永禄十年(1567)稲葉山城を落としいれた。
その後も武勲をあげ、信長の信望も厚かったが、天正八年(1580)武田方に内通したとの嫌疑により、守就父子は関・谷口の汾陽寺に追放・蟄居。北方城は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄に預けられた。
天正十年(1582)六月二日、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、守就は北方城に戻ろうとし、これを阻む一鉄との間で戦が始まった。
これが北方合戦で、同年六月七・八日のことであった。戦が始まったのは瑞穂・本田あたりで、少数の安東方ここ北方・千代母ヶ渕まで押しやられ、力尽きた守就をはじめ一族全員壮絶な戦死を遂げた。
亡骸は一鉄配下の武将、村瀬太郎左衛門・村瀬大隅・加納悦右衛門が受け取り、湖叔(仏門にあった守就の弟)の引導で、網代奥 龍峰寺に、その日のうちに手厚く葬られた。
守就 八十四歳のことであった。
史跡手前側の石碑碑文より。
北方城主 安東伊賀守守就は天文・永禄の頃、西美濃三人衆の随一で、天正十年六月 北方合戦には齢八十餘、寡兵を指揮して健闘した稲葉の兵、町家に放火し火勢城□に迫るや、守就機を察し弟郷氏等と共に、此の地に至り尚も自ら下知、奮戦したが武運拙なく遂に村瀬大隅の弟 古田五郎兵衛の手にかかり一族郎□と共に戦歿した。
當所は其遺蹟であるから現存の□保存しませう。
昭和十六年三月 岐阜縣(石碑表面)
安東伊賀守守就の後裔伊賀男爵家は、祖先の遺蹟を保存し併せて北方合戦、安東 稲葉両家の戦没者の霊を弔はんと□るの志あり、守就の墓□網代村 龍峰寺 第十二世義道和尚供養の為、大乗妙□□門品を一□一字□拜して拜冩し之を當□に埋め碑を建つ。□に□□□□ 稲葉子爵家 南部信俊子爵家 岩村□□男爵家 岩村□□家 深尾□太郎男爵家 日置男爵家及大阪 安藤定次氏より供養料を供へらる。北方城阯並に當□を史蹟として保存するに當り□の諸氏の□力を得たり。
個人名は省略。
昭和十六年三月 北方町(石碑裏面)
石碑碑文より。□は苔等により不鮮明。
ジョイフル手前に史跡入口の案内看板があります。
2024年06月18日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大井神社[北方城 寺社・史跡]
金幣社 大井神社由緒記
祭神 素戔嗚命 別名 牛頭天王(天照大神の弟神)
櫛稲田姫命(素戔嗚命の妃)
大乙貴神 別名 大国主神(素戔嗚命のご子息)
一部省略
由来
永延二年(998年)池鏡山 円鏡寺中興の祖、良佑上人が本坊、総門など総ての堂塔を完成させ、その上十六坊の塔頭を配して、一大寺院を造り上げた。
大井神社は、その時北東の位置に牛頭天王の祠をもって鬼門鎮護としたと記されている。以来、明治初年まで正月三ヶ日は円鏡寺の院家が寺僧や住民を率いて、牛頭天王の祠に詣で天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈願した。
また院家は、大井神社ご神殿の鍵を預かり御例祭の時には、院家がご神殿の扉を開けなければ祭りが始まらなかったと言われている。
明治初年三月三日、神仏分離令により、円鏡寺と分離し神社として独立、祠官がこれを継承する。
往時は、相当多くの社領を有し境内すこぶる壮麗を極め、西濃一の麗社として知られ、明治六年郷社に例せられる。
昭和三十二年、岐阜県神社庁から金弊社の指定を受けて以来、例祭には献弊使が参向されている。
例祭は、神輿と巫女舞が主な祭事で神楽殿で熱田神宮より、伝授された巫女舞が奉納されると共に、各町内の十六台の神輿は宵闇せまる頃から、灯りを入れて町を練り歩き、順次大井神社に練り込む競演が始まるなど、伝統的な祭事となっている。
平成十四年四月に鳳輦が新調され、同年五月の例大祭から、ご巡幸行事が華々しく復活した。
神社由緒石碑より。
大井神社南側と西側に神社の入口があり、西側の鳥居の先に蕃塀(尾張地方の神社に多い)が、存在する。
2024年06月17日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
別格本山円鏡寺本坊[北方城 寺社・史跡]
高野山真言宗 別格本山円鏡寺
当山は弘仁二年(811)嵯峨天皇の勅願より、弘法大師が創建せられた真言宗古名刹である。
弘法大師、当山御造営中に不動明王(大正三年 国宝指定)の尊像を彫まれ、数十年後補陀落上人化来せられ、本尊聖観音像(大正三年 国宝指定)を彫刻、安置せられる。人皇代六十六代 一条天皇の永延年中、中興の祖 良祐上人 真言の秘奥を究め、高名天聴に達し召されて参内し加持効験、毎々に顕れ叡感殊に厚く、位階進められ、京都嵯峨御所内 久遠城院の一族と七百石の寺領を拝領、本坊、楼門、灌頂堂、経蔵、木地堂、宝塔、廻廊など大伽藍を再建し、南谷北谷に各十六坊の塔頭を構える。宝前に池を穿ち、其の中に一嶋を築き弁財天女を祀る。此の時、池中より明鏡を得、一条天皇に献上し池鏡山の山号を賜り。(勅願今に在り)
爾来、織田信長、豊臣秀吉、徳川代々庇護を受け(将軍代々の寺領寄進の朱印状今に在り)明治二十年には、国より当寺護持の為、永代基本金として多額の御下賜金を賜り今日に至る。
現在は、美濃三弘法札所及、美濃四観音の霊場として毎月十八日、二十一日には多数の巡拝者あり。
説明板より一部抜粋。
お寺の南側に円鏡寺公園があり、無料駐車場もあるので周辺の史跡を巡るのには最適です。
2024年06月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
北方陣屋(代官屋敷・奉行屋敷)[北方城 周辺城郭]
北方陣屋跡 北方町指定文化財
北方戸田氏は、初代 光賢が寛文八年(1668年)分地をうけてから、七代 光遠が明治二年(1869年)に版籍奉還をするまで、この地に陣屋を置きました。
役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所のこと)などがあって、その周囲には奉行、代官など家臣の屋敷が置かれ、五千石の陣屋に相応しい堂々たるものであったといわれます。
北方町教育委員会
説明板の北方陣屋の略図(慶応年間)を見ると、陣屋の主要部(御役所)は、天王川の東側(現在は一般住宅敷地)にあったと思われます。
碑・説明板で、北方陣屋跡としてスポット登録されていましたが、常誓寺は陣屋略図にも描かれているので、北方陣屋の説明板が設置されている場所に、改めて周辺城郭としてスポット登録させて頂きました。
周辺には、見落としそうな細い標柱があります。
円鏡寺周辺に、観光客用の駐車場があります。
2024年06月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
塔寺(東寺)の古墳[北方城 寺社・史跡]
かつて地下(じげ)の東南に塔寺という寺院があったことから、塔寺の古墳と言われている。広さ12㍍四方、高さ2㍍の上円下方墳で、四、五世紀頃の築造と言われてきた。しかし、昭和五十六年に町教育委員会が発掘調査をした結果、墳丘と考えられていた盛土は、人工によるものではなく、氾濫による堆積土の盛りあがりであると分かった。
盛土の頂きには宝篋印塔があり、北方合戦の時に戦死者を葬った所とも云われている。このことより、ある時期に、古墓─塚─古墳と認識されていったものと考えられる。
出土遺物として素焼きの壺や小皿の一部、その破片多数、顕著な出土品は発見できなかった。(現在所在不明)
北方町教育委員会
北方町文化財保護協会
説明板より。
台状墓のような自然地形を削り出した墳丘もあるが、石室や粘土槨などの埋葬施設、副葬品や埴輪片などの遺物が、発見されていないなら古墳では無かったのかな?
2023年06月22日 テツロ
時の太鼓楼[北方城 寺社・史跡]
五千石でもョ北方様はァ時の太鼓に冠木門♪馬と人が心を合わせればこんなにいろいろなステップが踏める、こんなことができるんだと感じてもらうには十分なパフォーマンス、、
元禄10年(1697)、馬の名手、北方旗本五千石の初代:戸田蔵助光賢は、五代将軍:徳川綱吉の御前で馬術の妙技を披露し、時の太鼓や冠木門等をいただきました。その快挙に、殿様は勿論、北方の民たちも喜び、、唄に踊りにドラクラ(戸田蔵)祭となって、、、明治初めまで170年間華やいだと云われます。
時の太鼓は、本来、大名にしか許されていないもの、、、さらに徳川御三家以外は使用できないという「打ち上げ」の許可までも賜りました。
北方町では、文化財保護協会発足の昭和56年頃より「時の記念日」に、時の太鼓の打ち上げを再現しています。近隣の学校の子供達にも楽しみながら文化財について理解を深めてもらおうと、今年(2023)は学校の都合に合わせて 6月9日(金)に行われました。
昔から伝わる太鼓の打ち上げは独特、始めは小さく速く、終わりは高く打ち鳴らします。町内に響き渡る打ち上げ太鼓のビートに、町内13箇所に設けられた冠木門が一斉に開く、、一日の始まり、、、ドラクラ殿、これが将軍の聞く音色、見る景色ですヨ、、コココココ、、、(妄想)
太鼓は直径110cm、胴回り350cm、長さ115cm。また、太鼓楼内には幕府初代天文方"日本暦の祖"渋川春海より贈られた板額(町指定重要有形民俗文化財)が設置されており、当日は一般公開されてました。
2023年05月05日 宇喜多弾正忠
北方城
入り組んだ住宅街の中にしっかりと在りました。
2022年11月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
古墳と柿の館(船来山154号墳石室)[北方城 関連施設]
国史跡 船来山古墳群
県重要文化財 船来山古墳群出土品
船来山古墳群は、濃尾平野の縁に位置し、山頂からは濃尾平野を一望できる素晴らしい眺望の山です。現在は、3世紀から7世紀末までの古墳290基が確認されています。平成31年2月告示を受け、船来山古墳群のうち約15.6ha(古墳111基)が国史跡となりました。
古墳の数の多さだけでなく、船来山古墳群からは他の古墳群て比べても、大変豪華な副葬品が出土しています。この出土品の一部(687点)が平成29年10月に、岐阜県指定重要文化財に指定されました。副葬品の内容は葬られた古代豪族の勢力を示しています。この「古墳と柿の館」では、船来山272号墳(赤彩古墳)出土品など、重要な出土品がすべて展示されています。
本巣市教育委員会
船来山154号墳石室復元
これは船来山の主尾根部(標高約85㍍)に位置した154号墳を移築復元したものです。この古墳が造られた年代は、6世紀中頃(約1450年前)と推測され、片袖式の横穴式石室です。
本巣市教育委員会
説明板より一部抜粋。
古墳と柿の館の入場料は、大人300円。
2階奥には、山口城などのパネルがありました。
復元石室は「古墳と柿の館」の前にあるので、無料で見学出来ます。
2022年10月13日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
本田城[北方城 周辺城郭]
本田(ほんでん)城の、築城時期は不明。
日根野弘就の居城とも、稲葉良通(一鉄)の家臣 稲葉長右衛門の居城とも言われる。
美濃三人衆の一人、安藤守就が天正十年(1582)の本能寺の変に乗じて、旧領回復を図り安藤氏の旧居城の北方城と、この本田城を襲撃したとされるが、稲葉良通に攻められて敗死した。
その後、豊臣家の家臣 寺西直次が一万石を領して城主となった。直次は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、伊勢方面軍として参戦した為に改易され、廃城となったと思われる。
城跡は、個人宅となっている為、内部は伺いしれないが、南側以外の三方向に水堀が残り、主郭部分とされる敷地内には、竹藪・雑木林に覆われているが、土塁も残っているとされている。
2022年10月09日 ビン太
北方城
リア攻めに関しては特に迷う事なく辿り着けると思います。ただ住宅地で道幅の狭い道路と昔の名残と思われる水路の存在が車を置いてゆっくり撮影とか地元の方の車とすれ違うと言ったことには難ありと思います。自分の場合もバイクを片隅に置いて写真を撮ったらすぐ移動しました。(看板は後ほど写真から読み取りました。)
2022年05月18日 とんかつおやじND
筵田の砦[北方城 周辺城郭]
むしろだの砦
戦国時代船来山付近一帯の地域は、美濃国守護の土岐氏やその家臣であった斎藤氏によって支 配されており、後には織田氏などが支配した。船来山には斎藤道三に追われた土岐次郎政頼が「莚田 の砦」を築いたとされ、土岐氏の根城とされている祐向山城の前線基地としての位置づけも指摘され ている。
近世初期には名古屋城が築城され、多数の大名が負担する大規模な工事となったが、石垣普請に船 来山からも石材が調達され、船来山は石切り場として開発された。
私見↓
郡府山山頂が筵田の砦とされてます。 舟木城が 筵田の砦と同じ場所かはハッキリしてないようです。
船来山山頂も砦跡らしき遺構がみられました。堀切らしき遺構が特に…
画像は郡府山と船来山とあります。
1〜4枚は船来山側
5〜6枚は郡府山側
山全体に、約300基程の古墳があるようです。
2022年05月03日 とんかつおやじND
北野神社[北方城 寺社・史跡]
名古屋城石垣の石切場
船来山古墳群は、濃尾平野に向けて東西に細長い独立丘陵 この山は砂岩質の岩盤かなっており 古くから良質の石材を産出してきました。 古墳時代にはこの石材を石室に活用して古墳が数多く作られました。その数約三百基。東海地区最大級。江戸時代には、名古屋城の石垣普請の、ための石切場となりました。刻紋の刻まれた石もありました。数多くあるらしいですが 私が見たのは二つ 画像
現在は 東海環状道建設の為 北野神社東側山腹はトンネル工事中となり 東からはかなりの大回りが必要 南と東は封鎖してあります。古墳群の山腹にトンネルを…そのかわり発掘調査は進んでるのかな?
説明看板は 北野神社東側にあり 刻紋の刻んだ岩は裏山にあるます。
2021年07月26日 左近衛少将桜姫
北方城
竹中半兵衛の上司、安東イガイガの城。信長に取り上げてられ、本能寺炎上と呼応して取り返すも、頑固一徹さんにボコされた悲しい城。イガイガは稲葉山城奪ったり、息子が武田に通じた疑いとか考えると、東美濃勢寄りだったのかな?
住宅街のただ中。ギリギリというか寧ろ本丸内まで、住宅を建てました!という感じ。御百姓さんは逞しい。風情も名残もナシ。水路を廻らした城だったらしく、道が入り組んでる事から、本来水堀だったのかな?と思いを巡らして来ました。
2020年12月20日 くっしー治部大輔尚人
北方城
遺構はありませんが、説明看板が建っています。地籍図を用いて解説がされていますが、情報は少ないですね。
西に50メートルの所に常誓寺という寺があり、その前の用水路がこの城に由来するようです。
2020年11月11日 とんかつおやじND
北方陣屋跡[北方城 碑・説明板]
北方陣屋跡 北方町指定史跡
北方戸田氏は、初代光賢が一六六八年分知をうけてから、七代光遠が明治二年に版籍奉還をするまでこの地に陣屋をおきました。
役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所)などがあって、その周囲には、代官などの屋敷がおかれ、5000石の陣屋に相応しい堂々たるものであったと言われています。
2020年11月10日 とんかつおやじND
安東伊賀守守就戦死の地[北方城 寺社・史跡]
安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。西美濃三人衆の一人。姓は安東とも表記される。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北。6月8日に一族共に自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80とされる(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明
ウィキぺディアより
北方城の近くです
2016年03月08日 無限織部正武威鉄駆
北方城
北方城、安東守就戦死地に行って来ました。両方とも最近、案内が綺麗に整備された様で迷わずに行けましたが駐車スペースが無く少し離れた場所に停めました。
2015年09月18日 酒水安房守
北方城
ナビに岐阜県北方町北方代表地点と入力して案内通りに車を走らせます。ナビの地図を見ると目的地付近に三方が水路に囲まれた地点があります。そこへ行くと大井神社がありました。神社の鳥居の前に自然山常誓寺があります。その寺の向かいにある水路の橋に案内板があります。矢印の方向に進むと常誓寺の駐車場になっていて戸惑いましたが、駐車場と書かれた看板の奥に北方城の説明板があります。
「 安東守就戦死地」の石碑は偶然見つけました。場所の説明はできません。北方接骨院の向かいにある小路の突き当たりにあります。
北方城の周辺スポット情報
北方陣屋跡(碑・説明板)
北方城跡説明板(碑・説明板)
郡界石(夜泣石)(碑・説明板)
鏡島湊跡(碑・説明板)
筵田の砦(周辺城郭)
本田城(周辺城郭)
春近城(周辺城郭)
仏生寺城(周辺城郭)
北方陣屋(代官屋敷・奉行屋敷)(周辺城郭)
合度川古戦場跡(寺社・史跡)
安東伊賀守守就戦死の地(寺社・史跡)
北野神社(寺社・史跡)
赤彩古墳の館(名古屋城の刻紋石)(寺社・史跡)
時の太鼓楼(寺社・史跡)
御望遺跡(寺社・史跡)
別格本山円鏡寺本坊(寺社・史跡)
塔寺(東寺)の古墳(寺社・史跡)
大井神社(寺社・史跡)
円鏡寺楼門(木造金剛力士立像)(寺社・史跡)
古墳と柿の館(船来山154号墳石室)(関連施設)