北方城跡説明板

北方城跡説明板([北方城  碑・説明板])

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北方城跡説明板の口コミ情報

2026年10月20日 猫耳尾張守メイド隊


岐阜県指定重要文化財
史跡 北方城跡
北方城は、伊賀太郎左衛門三就が築城し、居城とした。
光就の曾孫 安東伊賀守守就は斎藤氏の滅亡後、織田信長につかえ、元亀元年(1570)六月の姉川の合戦、翌年の長嶋一向一揆討伐に参戦して大功をたてた。
天正八年(1580)嫡子 河渡城主 尚就が甲斐 武田氏と内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現 関市)に蟄居した。信長は守就の故領を収めて稲葉一鉄に預けた。
天正十六年六月二日 織田信長が、京都 本能寺で明智光秀に害せられると守就は一族旧臣を集め北方城に拠ったが、稲葉一鉄・貞道父子に攻められて落城した。(これを北方合戦という。)
地籍図中の大井神社東側を北西の隅として、水路に囲まれた東西 約160㍍、南北 約340㍍の部分が北方城跡と推定される。
北方城は、いくつもの屋敷を含みながら堀で周囲を囲まれていたと考えられる。城跡の内部は、更にいくつもの水路によって区分されており、防御性を高める役割を果たしたと推定される。現在の史跡は、本丸の跡の一部であると考えられている。
*資料 岐阜県中世城館跡総合調査報告書(2002年)等

【北方城イメージ図についての一考】
北方城は、土居城であるとされ、天守閣はなかったと考えられます。
土塁等の遺構は残存せず、関係する資料も乏しく、どのような城であったか明らかではありません。
ここに示すイメージ図は、資料をもとにしたものですが、想像の域を脱することはできません。また、城の位置についても諸説が存在しています。
安東伊賀守守就が死守しようとした「北方城」の偉容について推測することはたいへん興味深いものです。ぜひ各々の考え方で想像を膨らませていただきたいものです。
説明板より。

説明板以外にも、城址碑、安東家と北方城石碑等のいくつかの石碑があります。

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