安東伊賀守守就戦死の地

安東伊賀守守就戦死の地([北方城  寺社・史跡])

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安東伊賀守守就戦死の地の口コミ情報

2024年06月20日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁


安東伊賀守守就戦死の地  県指定重要文化財
美濃三人衆筆頭の守就は、天正十年(1582)この地で戦死した。
守就は代々土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、美濃攻めを苦戦する織田信長に力を貸し、永禄十年(1567)稲葉山城を落としいれた。
その後も武勲をあげ、信長の信望も厚かったが、天正八年(1580)武田方に内通したとの嫌疑により、守就父子は関・谷口の汾陽寺に追放・蟄居。北方城は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄に預けられた。
天正十年(1582)六月二日、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、守就は北方城に戻ろうとし、これを阻む一鉄との間で戦が始まった。
これが北方合戦で、同年六月七・八日のことであった。戦が始まったのは瑞穂・本田あたりで、少数の安東方ここ北方・千代母ヶ渕まで押しやられ、力尽きた守就をはじめ一族全員壮絶な戦死を遂げた。
亡骸は一鉄配下の武将、村瀬太郎左衛門・村瀬大隅・加納悦右衛門が受け取り、湖叔(仏門にあった守就の弟)の引導で、網代奥 龍峰寺に、その日のうちに手厚く葬られた。
守就 八十四歳のことであった。
史跡手前側の石碑碑文より。

北方城主 安東伊賀守守就は天文・永禄の頃、西美濃三人衆の随一で、天正十年六月 北方合戦には齢八十餘、寡兵を指揮して健闘した稲葉の兵、町家に放火し火勢城□に迫るや、守就機を察し弟郷氏等と共に、此の地に至り尚も自ら下知、奮戦したが武運拙なく遂に村瀬大隅の弟 古田五郎兵衛の手にかかり一族郎□と共に戦歿した。
當所は其遺蹟であるから現存の□保存しませう。
昭和十六年三月 岐阜縣(石碑表面)

安東伊賀守守就の後裔伊賀男爵家は、祖先の遺蹟を保存し併せて北方合戦、安東 稲葉両家の戦没者の霊を弔はんと□るの志あり、守就の墓□網代村 龍峰寺 第十二世義道和尚供養の為、大乗妙□□門品を一□一字□拜して拜冩し之を當□に埋め碑を建つ。□に□□□□ 稲葉子爵家 南部信俊子爵家 岩村□□男爵家 岩村□□家 深尾□太郎男爵家 日置男爵家及大阪 安藤定次氏より供養料を供へらる。北方城阯並に當□を史蹟として保存するに當り□の諸氏の□力を得たり。
個人名は省略。
昭和十六年三月 北方町(石碑裏面)
石碑碑文より。□は苔等により不鮮明。

ジョイフル手前に史跡入口の案内看板があります。

2020年11月10日 とんかつおやじND


安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。西美濃三人衆の一人。姓は安東とも表記される。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北。6月8日に一族共に自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80とされる(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明
ウィキぺディアより

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