鏡島城(かがしまじょう)

鏡島城の基本情報

通称・別名

所在地

岐阜県岐阜市鏡島

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

石河光清

築城年

天文年間(1532〜1555)

主な改修者

主な城主

石河氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

北方城(岐阜県本巣郡)[3.5km]
加納城(岐阜県岐阜市)[4.1km]
川手城(岐阜県岐阜市)[4.6km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[5.0km]
黒野城(岐阜県岐阜市)[5.2km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[5.9km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[5.9km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[6.2km]
田代城(岐阜県羽島郡)[6.7km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[7.6km]

鏡島城の解説文



鏡島城(かがしまじょう)は、美濃国厚見郡鏡島村(岐阜県岐阜市鏡島)にあった戦国・安土桃山時代の日本の城(平城)。乙津寺の南門の前に位置した。

概要 

築城者及び城主には諸説あり、『美濃明細記』は斉藤帯刀左衛門が創築し、河渡城主の安藤守就(守龍)の城であり、織田信長に武田信玄との内通を疑われ追放されるまで治めたとする[1]

『新撰美濃志』や『美濃稲葉志』によると、1545年に水害にあった乙津寺を復興している石河光清(石河駿河守)が築城者であり、豊臣秀吉に仕えた石川光政までの4代が在城した[2]。光政は関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、改易される。 乙津寺の門前には、石河駿河守が領主であったとする塔頭が残されている。

脚注・出典 

鏡島城の口コミ情報

2025年07月26日 猫耳感謝感激雨霰萌え
小紅の渡し[鏡島城  その他]



江戸時代以前は、技術的または軍事的な理由から大きな川には橋が設けられることは少なく、川を渡るには舟が用いられました。明治時代前期には、現在の岐阜市内で10ヵ所以上の渡しが確認できます。小紅の渡しは、現存する市内ただひとつの渡しで、県道文殊茶屋新田線の一部として運航されており、今でも鏡島弘法(乙津寺)の縁日(毎月21日)には多くの参詣者が利用しています。
小紅の渡しの始まりは不明ですが、江戸時代前期の絵図に描かれており、加納藩主戸田氏の時代には本家(加納城)と分家(本巣郡文殊陣屋・北方陣屋)とを結ぶ街道の渡船場となりました。また、小紅の名の由来については、女性の船頭の名などの言い伝えがありますが、江戸時代には「御紅」「御弁」「於紅」などとも書かれています。
説明板より。

河渡橋の下流には、河渡の渡しがあり中山道の表街道、小紅の渡しは中山道の裏街道として利用されていたという。

写真②、河渡橋、長良川右岸から金華山方面。

2025年07月25日 猫耳感謝感激雨霰萌え
乙津寺[鏡島城  寺社・史跡]



日本三躰厄除弘法大師
瑞甲山 乙津寺(梅寺)
奈良時代、七三八年行基菩薩が乙津島に乙津島に着船されここを仏法縁由の地と定め、自ら十一面千手観音像を刻み草庵に安置されました。
八一三年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受け、当地で秘法を尽くし天に誓い地に伏し祈祷すること三十七日間行い、宝鏡を龍神に手向けますと忽ち滄海変して桑田と成りました。よってこの地を鏡島といゝ、寺を乙津寺と名付け七堂伽藍塔頭五ヶ寺鎮守等、多数が造営されました。大師は開山堂前に梅の杖を上下逆にして挿し、「仏法この地に栄えばこの杖に枝葉も栄ゆべし」と仰せられました。すると不思議にも杖に枝葉が生じ花をつけましたので、梅寺とも呼ばれています。八九三年宇多天皇により下賜された「霊梅場」の額を楼門に掲示していました。その時の「下乗」の石標が現在もあります。
古くは真言宗で鎌倉・室町のころは、京都御室御所(仁和寺)が、乙津寺住職を兼務され、老後は当寺に専任されました。関白太政大臣一条兼良公は「応仁の乱」を避けて幼年文学の友であった住職又妻子に会いに来て滞在され、妻子は当寺に残されました。よって兼良公の正室東御方の墓(宝篋印塔)があります。なお連歌師宗祇法師など著名人か参詣祈願しています。
天文の大洪水と重なる政情不安で寺門が衰微した時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建し、一五四五年京都妙心寺より弧岫禅師を招いて禅密兼学の道場としました。二世蘭叔禅師は「酒茶論」を著した高僧であります。
織田信長公、豊臣秀吉公、江戸時代には梅寺瀬踏開運地蔵尊霊験なりと徳川将軍家の信仰厚く、朱印状により寺の建物境内樹木が保護され寺領五十五石を頂いております。又雪舟を含む多くの書画古文書を保持していました。
一九四五年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔のすべてを失いましたが、国重要文化財と弘法大師像は奇跡的に難を免れました。
今は国や十万信徒諸氏のご協力で法灯が受け継がれております。

石碑碑文より。
(裏側の戦後の復興と文化財史跡は割愛)

乙津寺参詣者用の駐車場が周辺にあります。

②朝日縮緬碑。
岐阜縮緬は、丹後、長浜と並ぶ縮緬の産地。

2025年07月24日 猫耳感謝感激雨霰萌え
鏡島城



稲荷神社と鏡島城跡
創立の月日は明確ではありませんが、天文年間(1532〜1555)に当郡城主石河駿河守光清によって祀られたものと伝えられています。
承応二年(1653)に描かれた「加納領詳細絵図」には、稲荷神社とならんで「城跡」と示され、当時から神社南側一帯に鏡島城があったと認識されています。
稲荷とは五穀をつかさどる神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)をさし、稲荷神社の頂点は伏見稲荷大社です。又、狐について一説には「田の神の使女(つかわしめ)」と伝えられています。
・主祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
・ご利益:地域振興、商売繁盛、縁結び、合格祈願など

鏡島城城主「石河駿河守光清」
光清は鏡島城の城主で、以降、石河家数代の居城と伝えられています。天文九年(1540)長良川の洪水で乙津寺が荒廃しましたが、城主・光清が再建に乗り出し、天文十四年(1545)に見事に復興させました。

鏡島湊の差配人「馬渕与左衛門」
天正二十年(1592)、岐阜城主 織田秀信は鏡島の馬渕与左衛門に新しい町をつくるよう命じ鏡島湊はできました主に川下からの荷揚げ湊となり岐阜城下町へと運ばれたのです。鏡島を通る東西の街道が中山道として公街道になると、更に発展して町並が東へ伸びていきました。

過去の写真には、案内看板に文字が印刷されているが、耐候性に問題があったのか経年劣化の為なのか、文字が全て消え去っていました。

過去の写真から、頑張って文字起こししてみたが……。

2025年07月24日 猫耳感謝感激雨霰萌え
石碑・説明板[鏡島城  碑・説明板]



鏡島城址

(当史跡の由来)
当鏡島城址は遠く戦国時代、室町幕府の末期、斉藤帯刀左衛門が築城し、石川駿河守が長く居城せられしも、岐阜稲葉城落城の折、鏡島城も取り除きの不運となり、田や畑と変って、其の地名が、当時の形能から堀ノ内、長瀬、竹橋等とつけられた様であります。
亦鏡島城の守護神として、稲荷神社があり、現在、市場、古市場、三軒屋の氏神様として、其の名残りを止めて居ます。

昭和六十二年十月吉日    小木曽
説明板より。

低いブロック塀に囲まれていて、石碑の近くまでは行けなかった。

2023年04月02日 中務少輔RedKing
鏡島城



その昔、長良川の河口から50kmもあるのに、島だった地名のところが幾つもあります。輪中の城シリーズができると、治水史と合戦や戦国時代の水攻=土木工事の発達の過程が追えないでしょうか。川中島なんて全国あちらこちらにある地名で何がしか合戦や砦があったかと思います。渡船や橋梁、騎馬での浅水面渡河技術等解明して欲しいですね。

2023年01月04日 あだち東市正
鏡島城



住宅内で道幅が狭くて離れた所から来城、稲荷神社境内に案内板があります。

2022年11月04日 猫耳感謝感激雨霰萌え
前野渡船場跡(前野の渡し)[鏡島城  寺社・史跡]



江戸 宝暦時代 前野村(現瑞穂市)が、加納藩の所有から幕府領になったころ、行政上の関係で開設されたと言われている。長良川にかかる橋の無い時代、前野村・只越村から対岸江崎・岐阜方面に向かう交通手段として利用された。明治初年の記録によると、「只越村・前野村・別府村・上穂積村・下穂積村の立合にて、船頭を各村より一人ずつ相立置候」とあり、五人の船頭により二隻の舟で、人馬を渡していた。
料金は、明治時代 人一人五厘・車壱輌一銭くらいでした。ただ、立合村の人々は無料で利用できた。
時代と共に、渡船料もあがっていったが、徒歩で岐阜方面へ向かう人が減少し、東海道線を利用する人が増え、村営では運営困難となり、昭和28年に県営に移管されることになった。その後も、利用者は減少して細々と運営されていたが、昭和40年 岐大バイパスが開通して穂積大橋が完成したのを境として、昭和41年遂に渡船は廃止となった。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

別府城跡から只越城跡へ歩いていた時、見つけた渡船場跡。説明板の先に高い堤防があり、川は見えない。

2022年10月27日 猫耳感謝感激雨霰萌え
只越城[鏡島城  周辺城郭]



天文・弘治・永禄(十六世紀中頃)のころ「西美濃十八将」中に「唯越城主 竹腰摂津守守久」の名がある。東只越のこの地には、「城屋敷」という古い地名が残っており、糸貫川が長良川と合流する、軍事上の要地にあることからも、城が築かれていたとみられる。竹腰氏の城であったかどうかは、今後の研究をまたねばならない。
なお、只越に地方の土豪 広瀬十郎兵衛正好がおり、その居城とも伝えられている。
瑞穂市教育委員会
説明板より。

長良川サイクリングロード、東海道本線鉄橋北側に説明板があるのみで、遺構などは残っていない。

2022年10月27日 猫耳感謝感激雨霰萌え
別府城[鏡島城  周辺城郭]



築城時期は不明。別府氏の居城とされる。
その他の来歴は不明。
城跡は、勝速神社周辺と思われる。

勝速神社
御創建は神武・或いは王朝初期と口碑に伝うも詳らかならず、人皇 第四十四代 元正天皇の霊亀二年(西暦716年)の野土餓池の伝説等、古き伝説もあり・往古は牛頭天王社と称したが、素盞鳴尊の御実子で天照大神の日嗣の宮となられた、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の御名を冒し奉りし伝う。
往古より、疫病除け・願望成就・必勝の神として尊信せらる。
説明板より一部抜粋。

別府観音 十一面観世音菩薩 県重要文化財
通称、別府観音と呼ばれている。この観音様は、平安時代の様式(藤原様式)の影響を受けた素朴な木像である。もと別府の唯願寺(明治六年廃寺)に安置されていたもので、桧木の一木造りである。豊然上人の作という。身丈、五尺八寸(171cm)別府観音伝記によると、谷汲山 華厳寺の観音像と同じものであり、源平合戦の時、源氏方の岡部六弥太忠澄が武功により、美濃の国内の領主になったが、この六弥太の母親が別府出身であったことから、その母親の二世安楽の為、この観音像を森(旧巣南町)の地より、この別府に堂塔を建立して安置したとある。
瑞穂市教育委員会
説明板より

勝速神社の東側に土塁の様な盛土が、気になるが、勝速神社・別府観音の説明板には、別府城については、特に書かれていない。
参拝者用駐車場あり。

2022年07月09日 テツロ
乙津寺[鏡島城  寺社・史跡]



関ケ原の前哨戦、合渡川の戦いで黒田長政、田中吉政、藤堂高虎は当寺を訪れ、浅瀬の情報とともに、住職の「勝軍地蔵尊像を拝むとよいでしょう」の言葉を受け、戦勝祈願をしたと伝わります。

甲胄を纏い、軍馬に跨る武装姿の地蔵尊像は「瀬踏勝軍地蔵」と称され、武運長久の霊験ありとされてきました。が、昭和20年7月9日の岐阜空襲で焼失します。

境内では煤けた石仏や亀裂損傷の著しい石柱がみられ、焼夷弾による炎勢の凄まじさが伝わってきます。
全てを焼き尽くすなか、弘法大師像と国重文の三躰(木造十一面千手観音立像、木造毘沙門天立像、木造韋駄天立像)は当時駐屯していた高射砲隊や信徒達が火の粉を被りながらも河畔まで運び出し、守りぬきました。

残されたものに未来永劫の平和を託し、業火に殉した勝軍地蔵、、御仏の理に何を惜しむことがあろう、、、

2021年09月07日 テツロ
立政寺[鏡島城  寺社・史跡]



1354年に智通光居上人が開山した浄土宗の寺、後々、、徳川家康公が関ヶ原の決戦前に立ち寄ったほどの名刹です。もてなしの柿が盆からコロげ落ちた刹那、住職は機転を利かせて「大柿(大垣城)が落ちましたな」と家康公を喜ばせた、、客殿の屋根瓦の葵御紋(写真)は伊達ではない?!

つまり大柿と大垣を掛けてですね(住職!説明いらないから~)、落ちろ大柿!!、忌まわしき記憶とともに(って逆シャアか)、、何でこんなもの地球に落とすんだ、、、私が住職なら首がコロげ落ちてるところデスDEATH、、、

なお、落語の祖:安楽庵策伝のゆかりの寺でもあるそうな、笑って許して~、、

2021年09月05日 イオ兵部大輔
立政寺[鏡島城  寺社・史跡]



明智光秀の仲介により織田信長と足利義昭が会見した寺で、義昭公御座所の石碑と説明板が建てられています。

参道の南側と境内の西側に参詣者用駐車場(無料)があります。

2021年08月28日 テツロ
乙津寺[鏡島城  寺社・史跡]



弘法大師信仰が厚い寺だが、宗派は戦国時代の再興の折、臨済宗に転じた。

かつて土岐氏代々によって外護されてきた弘法大師空海の伽藍は、長良川の大洪水で7割が流失、斎藤道三の乱でさらに荒廃する、、武家の棟梁を尻目に成り上がる美濃の国衆・家臣衆、、天文14年(1545)鏡島城城主の石河駿河守光清は、京都妙心寺から孤岫宗峻禅師を招き「瑞甲山乙津寺」として再興する。
禅密兼学、、自ら悟りを開く坐禅修行の道場は武士層から絶大な支持を得ていく、、、

2021年08月09日 テツロ
小紅の渡し[鏡島城  その他]



岐阜市内の長良川を横断する県道で唯一の渡し船、鏡島城~北方城のポタリングに最適、、水面レベルから見る岐阜城金華山もなかなか乙なものかと、、、この渡し付近は関ヶ原の前哨戦「合渡川の戦い」で東軍知将黒田長政が無謀な渡河をしたと伝わる、日和ってる奴いるー!?(妄想) 32才でも若気が至るって感じだったのかな?

2020年12月28日 とんかつおやじND
鏡島城



築城者及び城主には諸説あり、『美濃明細記』は斉藤帯刀左衛門が創築し、河渡城主の安藤守就(守龍)の城であり、織田信長に武田信玄との内通を疑われ追放されるまで治めたとする。

『新撰美濃志』や『美濃稲葉志』によると、1545年に水害にあった乙津寺を復興している石河光清(石河駿河守)が築城者であり、豊臣秀吉に仕えた石川光政までの4代が在城した。光政は関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、改易される。 乙津寺の門前には、石河駿河守が領主であったとする塔頭が残されている。

石河氏は承久の乱の後に平政子(北条政子)に任じられて以来の美濃国厚見郡市橋庄の地頭を務めた豪族・小領主。
ウィキペディアより

現在は長瀬公園向かいの稲荷神社になります

鏡島城の周辺スポット情報

 石碑・説明板(碑・説明板)

 只越城(周辺城郭)

 別府城(周辺城郭)

 乙津寺(寺社・史跡)

 立政寺(寺社・史跡)

 前野渡船場跡(前野の渡し)(寺社・史跡)

 乙津寺参詣者用駐車場(駐車場)

 小紅の渡し(その他)

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