乙津寺

乙津寺([鏡島城  寺社・史跡])

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乙津寺の口コミ情報

2025年07月25日 猫耳感謝感激雨霰萌え


日本三躰厄除弘法大師
瑞甲山 乙津寺(梅寺)
奈良時代、七三八年行基菩薩が乙津島に乙津島に着船されここを仏法縁由の地と定め、自ら十一面千手観音像を刻み草庵に安置されました。
八一三年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受け、当地で秘法を尽くし天に誓い地に伏し祈祷すること三十七日間行い、宝鏡を龍神に手向けますと忽ち滄海変して桑田と成りました。よってこの地を鏡島といゝ、寺を乙津寺と名付け七堂伽藍塔頭五ヶ寺鎮守等、多数が造営されました。大師は開山堂前に梅の杖を上下逆にして挿し、「仏法この地に栄えばこの杖に枝葉も栄ゆべし」と仰せられました。すると不思議にも杖に枝葉が生じ花をつけましたので、梅寺とも呼ばれています。八九三年宇多天皇により下賜された「霊梅場」の額を楼門に掲示していました。その時の「下乗」の石標が現在もあります。
古くは真言宗で鎌倉・室町のころは、京都御室御所(仁和寺)が、乙津寺住職を兼務され、老後は当寺に専任されました。関白太政大臣一条兼良公は「応仁の乱」を避けて幼年文学の友であった住職又妻子に会いに来て滞在され、妻子は当寺に残されました。よって兼良公の正室東御方の墓(宝篋印塔)があります。なお連歌師宗祇法師など著名人か参詣祈願しています。
天文の大洪水と重なる政情不安で寺門が衰微した時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建し、一五四五年京都妙心寺より弧岫禅師を招いて禅密兼学の道場としました。二世蘭叔禅師は「酒茶論」を著した高僧であります。
織田信長公、豊臣秀吉公、江戸時代には梅寺瀬踏開運地蔵尊霊験なりと徳川将軍家の信仰厚く、朱印状により寺の建物境内樹木が保護され寺領五十五石を頂いております。又雪舟を含む多くの書画古文書を保持していました。
一九四五年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔のすべてを失いましたが、国重要文化財と弘法大師像は奇跡的に難を免れました。
今は国や十万信徒諸氏のご協力で法灯が受け継がれております。

石碑碑文より。
(裏側の戦後の復興と文化財史跡は割愛)

乙津寺参詣者用の駐車場が周辺にあります。

②朝日縮緬碑。
岐阜縮緬は、丹後、長浜と並ぶ縮緬の産地。

2022年07月09日 テツロ


関ケ原の前哨戦、合渡川の戦いで黒田長政、田中吉政、藤堂高虎は当寺を訪れ、浅瀬の情報とともに、住職の「勝軍地蔵尊像を拝むとよいでしょう」の言葉を受け、戦勝祈願をしたと伝わります。

甲胄を纏い、軍馬に跨る武装姿の地蔵尊像は「瀬踏勝軍地蔵」と称され、武運長久の霊験ありとされてきました。が、昭和20年7月9日の岐阜空襲で焼失します。

境内では煤けた石仏や亀裂損傷の著しい石柱がみられ、焼夷弾による炎勢の凄まじさが伝わってきます。
全てを焼き尽くすなか、弘法大師像と国重文の三躰(木造十一面千手観音立像、木造毘沙門天立像、木造韋駄天立像)は当時駐屯していた高射砲隊や信徒達が火の粉を被りながらも河畔まで運び出し、守りぬきました。

残されたものに未来永劫の平和を託し、業火に殉した勝軍地蔵、、御仏の理に何を惜しむことがあろう、、、

2021年08月28日 テツロ


弘法大師信仰が厚い寺だが、宗派は戦国時代の再興の折、臨済宗に転じた。

かつて土岐氏代々によって外護されてきた弘法大師空海の伽藍は、長良川の大洪水で7割が流失、斎藤道三の乱でさらに荒廃する、、武家の棟梁を尻目に成り上がる美濃の国衆・家臣衆、、天文14年(1545)鏡島城城主の石河駿河守光清は、京都妙心寺から孤岫宗峻禅師を招き「瑞甲山乙津寺」として再興する。
禅密兼学、、自ら悟りを開く坐禅修行の道場は武士層から絶大な支持を得ていく、、、

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