乙津寺
乙津寺([鏡島城 寺社・史跡])
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乙津寺の口コミ情報
2022年07月09日 オーイ!テツロ
関ケ原の前哨戦、合渡川の戦いで黒田長政、田中吉政、藤堂高虎は当寺を訪れ、浅瀬の情報とともに、住職の「勝軍地蔵尊像を拝むとよいでしょう」の言葉を受け、戦勝祈願をしたと伝わります。
甲胄を纏い、軍馬に跨る武装姿の地蔵尊像は「瀬踏勝軍地蔵」と称され、武運長久の霊験ありとされてきました。が、昭和20年7月9日の岐阜空襲で焼失します。
境内では煤けた石仏や亀裂損傷の著しい石柱がみられ、焼夷弾による炎勢の凄まじさが伝わってきます。
全てを焼き尽くすなか、弘法大師像と国重文の三躰(木造十一面千手観音立像、木造毘沙門天立像、木造韋駄天立像)は当時駐屯していた高射砲隊や信徒達が火の粉を被りながらも河畔まで運び出し、守りぬきました。
残されたものに未来永劫の平和を託し、業火に殉した勝軍地蔵、、御仏の理に何を惜しむことがあろう、、、
2021年08月28日 オーイ!テツロ
弘法大師信仰が厚い寺だが、宗派は戦国時代の再興の折、臨済宗に転じた。
かつて土岐氏代々によって外護されてきた弘法大師空海の伽藍は、長良川の大洪水で7割が流失、斎藤道三の乱でさらに荒廃する、、武家の棟梁を尻目に成り上がる美濃の国衆・家臣衆、、天文14年(1545)鏡島城城主の石河駿河守光清は、京都妙心寺から孤岫宗峻禅師を招き「瑞甲山乙津寺」として再興する。
禅密兼学、、自ら悟りを開く坐禅修行の道場は武士層から絶大な支持を得ていく、、、