川手城(かわてじょう)

川手城の基本情報

通称・別名

革手城、河手府城

所在地

岐阜県岐阜市正法寺町33(地図は石碑の場所を示す)

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

土岐頼康

築城年

正平8年〔南朝〕/文和2年〔北朝〕(1353)

主な改修者

主な城主

土岐頼康

廃城年

享禄3年(1530)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

加納城(岐阜県岐阜市)[0.6km]
伏屋城(岐阜県羽島郡)[3.1km]
田代城(岐阜県羽島郡)[4.1km]
鏡島城(岐阜県岐阜市)[4.6km]
岐阜城(岐阜県岐阜市)[4.6km]
黒田城(愛知県一宮市)[5.9km]
更木陣屋(岐阜県各務原市)[6.0km]
鷺山城(岐阜県岐阜市)[6.1km]
大野城(愛知県一宮市)[7.2km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[7.5km]

川手城の解説文



川手城(かわてじょう)は、岐阜県岐阜市正法寺町にあった南北朝時代から戦国時代の日本の城。別名革手城。

歴史 

美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。手狭となった長森城に代わり、1353年(文和2年)、川手城を築城する。以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。

旧木曽川(現在の境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。

1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。

しかし1494年(明応2年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。後に再建されるが、1530年(享禄3年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となる。城下町である川手(現在の岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。

廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。

現状 

済美高校の校内に石碑があり、当時の土塁の一部も残っている。城跡はこの済美高校の敷地と考えられている。

川手城の口コミ情報

2024年07月29日 たくや
川手城



高校のグランドの一部に碑が建ってます。近くに駐車場ありませんので、車で訪問する方はご注意下さい!

2024年06月18日 内匠頭RedKing
川手城



現在は私立高校の間の児童公園に石柱と説明板があります。
対岸の加納城跡=二の丸の岐阜気象台と、気象台側から川手方面です。加納側が、旧国鉄官舎や旧国大附属に支所、公民館等々に対して、川手方面は広大な製材所と私学です。
丁度、真東の方向に徳山氏や野口氏の館が位置しています。

2023年01月24日 樹信濃守義輝
川手城



高校とそのグラウンドの間にあります。学校関係者専用の駐車場が目の前にありますが、駐車しないよう気をつけましょう。休日であれば写真を撮る短時間の路上駐車は迷惑にならなそうです。

2022年08月09日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
川手城



川手城の正確な位置は不明。
現在、川手城跡の石碑の建つ場所には、正法寺があり、川手城は、光樹町辺りにあったとする説があるらしいです。
正法寺跡の説明板に、川手城の北側に建立されたとの記述があるので、現在の石碑の位置だと正法寺よりも北側に位置する為、何故この場所に城址碑を建てたのか謎です。

2022年06月07日 【城郭道】たっきー
船田城[川手城  周辺城郭]



岐阜県岐阜市、船田城。築城年代は不明。斎藤妙椿の重臣・石丸利光の居城で船田合戦の舞台ともなった。200M四方の城館跡といわれ、周りより少し高くなっている。現在は住宅や田畑と化し、遺構はない。

付近の加納城や川手城から歩いていけるほど近くにあるお城です。遺構は何もないですが、少し土地が高くなっているのがわかるので、是非行ってみてください。

2022年05月17日 刑部卿スーさん
川手城



加納城から歩いて10分足らずで行けます。もとは革手城といっていたようです。土岐氏の住居だったようで、今は済美高校が建っていて、その一角に説明板が立っていました。

2022年05月06日 RED副将軍
川手城



美濃守護職の土岐氏の本拠地

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

第3代守護職 土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となり、長森城が手狭となったため1353年に川手城を築城し拠点を移転。
以降、第11代土岐頼芸までの本拠地となりました。
1494年、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により焼失するも再建。
1530年、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城。

見所
済美高校に僅かに土塁の一部が残ります。
石碑、説明文が設置され、神明神社が祀られるのみで遺構はほぼ残らず。

2022年03月12日 とんかつおやじND
正法寺跡[川手城  寺社・史跡]



正法寺(しょうぼうじ)は岐阜県岐阜市薬師町にあった薬師如来を本尊とする臨済宗の寺院で、山号は霊薬山と称した。川手城の敷地ないし隣接地にあったとされ、船田合戦を経て廃寺となった。現在その跡は正法寺跡として岐阜市により史跡に指定されている。なお、岐阜市黒田(正法寺)及び岐阜市大仏町(正法寺)、岐阜市向加野にある正法寺はここで述べる霊薬山正法寺とは縁起の異なる別の寺院である。

美濃国守護、土岐頼康が文和2年(1353年)に川手城を築城した際に無本覚心(法灯禅師、法灯派の祖)の法嗣、嫩桂正栄を招いてその隣接地に建立した。

2021年08月13日 左近衛少将桜姫
川手城



土岐氏の三代目が始まりの、荒田川沿いにある平城。土岐氏が東美濃の土岐市より発し、岐阜市の長森城、川手城へと移り、そして応仁の乱に逃げてきた都人より、京文化が花開いた。「西の山口(大内)、東の川手」と言われた川手城。

諸行無常。悲しいくらいに何もなし。三日三晩焼き尽くされた跡の土塁すら、のちに徳川家康が荒田の川向こうの加納城に使ってしまい、石碑が立っている所のみ。清美高校のど真ん中、敷地内にある道を行くと、あります。

2021年06月30日 首藤志摩守通宗
川手城

バスの終点になっている下川手バス停から西に歩いてすぐでした。
済美高校中心部(中心部を貫く道路の南側)が小さな児童公園になっていて、案内板・碑があります。城アイコンは正確に立っています。

2021年01月02日 【城郭道】たっきー
川手城



加納城跡から歩いて10分足らずで川手城跡に着きました。現在は石碑と説明板が整備されていますね。遺構は見渡す限りありませんでした。大河ドラマの関係で旗がたっています。

周辺には見ておきたいところがたくさんあったのでリア攻めマップで確認してみてください。

2020年09月21日 JC遠江守VD
船田城[川手城  周辺城郭]



船田城の場所は確定されていませんが、サンライズ社『岐阜の山城ベスト50を歩く』243ページにもとづき、推定地にスポットを置かせていただきました。
推定地は、若干高くなっているようです

2020年09月03日 しげしげ主税頭信繁
川手城

加納城から南の川を渡り少し歩いて行くと済美高校があります。真ん中に道がありグラウンド側に川手城碑があります。
遺構は判りませんでした

2020年08月30日 あ!ん?駿河守どうも
川手城

済美高校の真ん中に碑があり、市道が貫いていますが平日昼間車は通れません。

2018年01月05日 権中納言みきを
川手城

近くにある加納城から徒歩10分程度で到着します。
城めぐりアプリの説明には「済美高校の校内に石碑がある」とありますが、石碑がある小さな公園は道路沿いにあるので、許可等は必要なく見学できました。(高校が休みだったからかもしれませんが)

川手城の周辺スポット情報

 石碑・説明板(碑・説明板)

 船田城(周辺城郭)

 正法寺跡(寺社・史跡)

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