御茶屋屋敷(おちゃややしき)

御茶屋屋敷の基本情報

通称・別名

お茶屋屋敷

所在地

岐阜県大垣市赤坂町3421-1

旧国名

美濃国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

徳川家康

築城年

慶長14年(1609)

主な改修者

主な城主

徳川氏

廃城年

寛永年間(1624〜1644)

遺構

土塁、横堀(空堀)、井戸跡

指定文化財

県史跡(お茶屋屋敷跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

長松城(岐阜県大垣市)[2.9km]
曽根城(岐阜県大垣市)[4.0km]
大垣城(岐阜県大垣市)[4.4km]
垂井城(岐阜県不破郡)[5.4km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[8.2km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[8.8km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[9.1km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[10.1km]
福束城(岐阜県安八郡)[10.5km]
北方城(岐阜県本巣郡)[11.5km]

御茶屋屋敷の解説文



お茶屋屋敷(おちゃややしき)は、江戸時代、慶長10年(1605年)ころ、徳川家康が上洛の往還に際して休泊のために岐阜県大垣市に設けた施設である。中山道赤坂宿の西に設置されている。岐阜県指定史跡。

『大垣藩地方雑記』によると、ほぼ方形の縄張りをもつ城郭形式で、総郭内と馬場跡があり、四隅に櫓を備え、正面に大手門があった。また、全体を土塁・空濠で囲んだ豪壮な構えであったという [1]

寛永5年(1628年)、旗本岡田善同が管理に当たったときには、破損が著しく、大半が取り壊されて廃絶化した。廃藩置県の時期、お茶屋屋敷跡の広大な内部を畑地としてきた。

1976年(昭和51年)に岐阜県指定史跡となり、城郭的要素を持つ貴重な遺跡として、空堀や土塁などが残されている。現在は、牡丹園として一般に開放されている。

岐阜県大垣市赤坂町3421-1で大垣市立赤坂中学校に隣接する。

沿革・概況 

  • 慶長5年(1600年) - 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は全国主要街道の整備にとりかかる。
  • 慶長14年(1609年) - 徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、徳川家開運の地であるお勝山の北方に、自らが上洛の往復をするにあたっての休泊施設お茶屋屋敷を設置する。設置は美濃国の諸大名に命じ、岐阜城の稲葉山(金華山)山麓に存在した、織田信長の住居、千畳敷御殿など61棟を移築させたという。廻りには土塁や空壕が設置され、宿泊施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。
  • 寛永年間(1624年~1644年) - 宿場の整備とともに必要なくなり、建物は取りこわされる。
  • 昭和24年(1949年) - 中学校建設に伴い遺構の西半分を校地としたため、現在東半分に、土塁・空濠の一部・井戸跡などが遺構として残っている。
  • 昭和51年(1976年) - お茶屋屋敷跡が岐阜県の史跡に指定される[2]

現在 

土地は明治4年廃藩置県のとき、不破郡赤坂村(現大垣市赤坂町)[3]の名主矢橋宗太郎[4] (長男 : 矢橋敬吉[5]) に払い下げられ、現在は個人所有である。

土塁や空壕の一部が現存する。

跡内には数多くのぼたんが植えられ、通称「赤坂ぼたん園」としてボタン開花時期公開されている。東海地方有数のボタン園であり、開花期は四月の下旬から五月初旬。

交通機関 

  • JR東海道本線(美濃赤坂線)美濃赤坂駅より徒歩で約12分。
  • JR東海道本線 大垣駅南口大垣駅前バスのりば1番のりば
    • 名阪近鉄バス「消防赤坂分署」行き「虚空蔵口」バス停下車、徒歩で約3分。

御茶屋屋敷の口コミ情報

2024年05月29日 前田利家猫耳メイド萌
谷氏屋敷[御茶屋屋敷  周辺城郭]



築城時期は不明。
天正・文禄の頃、赤坂に谷七郎左衛門源衛友の屋敷跡があったと『新撰美濃志』には記載されている。
天正六年(1578)、父と共に秀吉に仕えて、采地二百石を賜った。
天正七年(1579)、三木城攻めで父 衛好が討死したが、その場で父の仇を討ち取り、遺骸を奪い返すという武勲を立てた、信長は衛好の死を憐れみ、衛友へ(衛好)本領並びに新恩(領地)を与え、感状を授けた。
天正十年(1582)頃、秀吉より丹波国何鹿郡山鹿村に移封され、一万六千石を領した。
天正十六年(1588)、従五位下出羽守に叙任され、その後小田原攻め・文禄の役で軍功をあげ、関ヶ原の戦いは西軍に属していたが、田辺城攻めの際、城内の細川方と内応し、攻撃では空砲を撃ったとされ、戦後早くから東軍に内応していた事が認められ、所領安堵された。

屋敷跡は、正安寺東側一帯、金生山から岡山(お勝山)がある台地の東側のヘリの部分にあったとされる。
※写真は御茶屋屋敷東北角で、写真手前側(写真を忘れたと言う名の配慮)の住宅地一帯に谷氏屋敷があったとされています。

2024年05月28日 前田利家猫耳メイド萌
昼飯大塚古墳[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



昼飯大塚古墳のすがたと周辺の古墳
昼飯大塚古墳のすがた
昼飯大塚古墳が造られた当時のすがたは三段で、墳丘の斜面全体には石がすき間無く葺かれ(葺石)ていました。石は近くの大谷川などから運ばれてきました。また、平坦な部分(テラス)にはたくさんの埴輪が置かれていました。
現在の昼飯大塚古墳は大部分が緑に覆われて、二段に見えます。一段目と周濠のほとんどが地中に埋もれているためです。整備では墳丘が削られたところを新しく土で覆い、かつての姿を残している部分はそのまま残しています。後円部の復元ゾーンには古墳が造られた当時の姿をみることができます。
出土遺物
昼飯大塚古墳からは多くの遺物が出土しています。後円部頂上からは4,000以上の玉類が、木棺直葬部分からは刀などの鉄製品が40点余り出土しました。埴輪は円筒埴輪が最も多く、古墳が造られた当時には1,500本の埴輪が並べられていたと想定されます。円筒埴輪の他に朝顔形埴輪や形象埴輪(蓋形、家形、盾形、靫形、甲冑形)等の様々な形の埴輪も出土しています。
※昼飯大塚古墳の出土遺物は、大垣市歴史民俗資料館で展示公開しています。
周辺の古墳
昼飯大塚古墳のある、ここ青墓・赤坂地区は古墳時代全般にわたってたくさんの古墳が造られたところです。花岡山の頂上には古墳時代前期の前方後円墳が2基ありました。矢道長塚古墳は昼飯大塚古墳よりも先に築かれ、昭和の初めに多くの副葬品が出土しています。粉糠山古墳は前方後方墳としては全国で10番目の大きさをほこります。大塚1号墳は5世紀の方墳です。車塚古墳は大きな横穴式石室を持つ7世紀の古墳です。北側に広がる山麓や山腹には6世紀以後に造られた横穴式石室を埋葬施設に持つ、後期の古墳が300基以上造られました。

埋葬施設と墳頂儀礼
後円部の頂上には、直径20㍍の円形をなして埴輪列がめぐっていました。埴輪列の内側では、地表下約1.5㍍で三つの棺が確認されています。竪穴式石室(北棺)と粘土槨(南棺)が平行に並び、またそれらに直交する木棺直葬(西棺)がありました。
竪穴式石室(棺の長さ4.5㍍)は盗掘を受けていましたが(写真)、粘土槨(同6.4㍍以上)には壊された形跡はありません、西棺(同5.2㍍以上)に沿って刀剣類などの鉄製品が多数出土しており、棺外に置かれた副葬品と考えられます。
これらの埋葬施設は、竪穴式石室→粘土槨→木棺直葬の順でつくられましたが、同じ墓壙のなかにありますので、埋め戻されたのは同時と考えられます。
墓壙を埋め戻した後は、埴輪列の内側に、家形、盾形、蓋形、靫形、甲冑形埴輪を並べ、さらに小型の土器(高坏、壺)、笊形土器、食物を模倣した土製品、滑石製勾玉や管玉、臼玉を用いた儀礼をおこなったようです。
昼飯大塚古墳歴史公園内に設置された案内板と後円部墳頂に設置された案内板より。

兜塚について調べていたら、昼飯大塚古墳の東側に存在していた、『大塚2号墳』(以前口コミ済)が滅失したと書かれていて、航空写真で確認したら空地に建物が…。残念です。
昼飯大塚古墳と共に、2022年11月頃訪問。

2024年05月26日 前田利家猫耳メイド萌
兜塚・赤坂宿御使者場跡[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



兜塚
この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭瀬川の戦いに笠木町で戦死した東軍、中村隊の武将 野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。
以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。
大垣市教育委員会

兜塚  関ヶ原の戦い
この塚は兜塚と呼ばれ、関ヶ原の戦いに東軍として参戦した中村一栄の家老で、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母(助義)が鎧兜とともに葬られたと伝えられている。
東軍は、慶長五年(1600)八月二十三日に岐阜城を落とした後、中山道赤坂宿に集結。大垣城に集結する西軍と、杭瀬川を挟んで約4㎞の距離で睨み合っていた。関ヶ原の戦い本戦の前日である九月十四日、徳川家康が赤坂宿に到着し、岡山の本陣に入ると、西軍は予期せぬ家康の到着に動揺したという。
そこで西軍は、石田三成の家臣 島左近(清興)の献策を容れ、東軍と一戦を交えて士気を高めるべく、宇喜多秀家の家臣 明石掃部(全登)を後詰めに、左近らが兵約五百を率いて出陣した。左近は杭瀬川を渡ると放火や刈田をして東軍を挑発したため、頼母らが反撃した。頼母らの活躍はめざましく、岡山からその用兵を見ていた家康を喜ばせたという。
しかし、左近が退却するふりをして杭瀬川を越え、伏兵とともに反撃に転じたため戦況は一変し、頼母は兵三十余とともに討ち取られた。東軍は有馬豊氏が援護に向かったものの西軍に阻まれているうちに、家康が井伊直政、本多忠勝らに命じ兵を引かせたため、杭瀬川の戦いは西軍の勝利で終わった。
この日の夜、両軍は関ヶ原へと向かい、翌日の本戦を迎える。
新旧二ヶ所の説明板より。

昼飯大塚古墳の説明板の周辺の古墳・大和國古墳墓取調室・古墳マップ等には、兜塚は古墳としての記載がないので、関ヶ原の戦いの戦死者を埋葬した墳墓かなと思われます。
2022.11.30撮影

2024年05月10日 図書頭RedKing
御茶屋屋敷



宴のあとの光景になりました。ついこの前まで牡丹園として賑わいました。小説とは関係ありません。しかし、その昔に将軍様がお泊まりになった時には、合戦の折に倅の本隊を待たずに東山道・北国街道を固める多数の西軍に野戦で勝敗を決する覚悟を決めかね爪を噛んだ夢でも見たのでしょうか?
近くには大垣城と対峙した岡山の陣城跡(勝山)や家康寄進の梵鐘がある安楽寺、勿論、中山道の宿場で港もあった赤坂の街並みが往時を窺わせます。

2023年11月09日 前田利家猫耳メイド萌
稲葉石見守正休公屋敷(青野城)[御茶屋屋敷  周辺城郭]



稲葉石見守正休公は、関ヶ原合戦に功績のあった正成の孫で、寛永十七年 美濃国青野村に生る。
明暦二年 父正吉の跡を継ぎ、徳川五代将軍 綱吉に仕え、従五位下石見守に叙され累進して若年寄となり、一万二千石を領有す。貞享元年(1684)時の、大老 堀田正俊はかねて専横の振舞多く奢侈遊楽に耽り且つ石見守の奥方を妬み彼を陥入れんとして、公儀にざん言するなどに堪えかねた正休公は、ついに意を決し仝年八月二十八日 江戸城内で正俊を「天下の為なり」と叫んで刺殺、已も亦大久保忠朝等によって斬殺さる。時に石見守 四十五才であった。
これにより、稲葉家は断絶したが、その屋敷跡は青野城と呼ばれ此の附近一帯に在り、大正初期迄は周囲に堀を巡らしたまゝ本丸の字名と共に静かに往時をしのばせていた。
今回、石見守が残したと謂はれる東浦溜池が廃され、大垣市営「青野霊園」が建設されるを記念し、石見守の遺徳を偲んで此の碑を建立す。

大垣市青野町自治会
石碑裏面の碑文より。

石碑の裏側には、供養塔かな?があります。
石碑周囲は、田畑となり屋敷跡の面影は無い。

2023年05月01日 野良犬しろチロ丸
御茶屋屋敷



しっかり整備されており、とても綺麗に維持されてました。

2023年05月01日 次郎坊
御茶屋屋敷



新緑が綺麗でした。徳川家康が泊まったそうです。

2023年04月13日 とんかつおやじND
円興寺城[御茶屋屋敷  周辺城郭]



岐阜県の報告書では 城館跡類似遺構となってます。何処までが寺院か城址かの区分けは出来ないのでこうなりますネ❗️詳細は不明

円興寺がかつては 七堂伽藍の金堂や伝教大師の御和讃にも謡われている多宝塔など、一山五坊三十六ヶ院、末寺百二十五ヶ寺、源頼朝公御寄付の寺領五千石を統治していたと伝わる寺院だったことから 山岳寺院の付属の城か? 又は 信長公に焼き討ちされた後に城として利用されたのか?今後の調査がまたれる。源朝長の墓、源義朝・源義平の供養塔などが残る。

美濃片山城と直線距離で約1kmの距離が何を意味するのか興味深い

2023年02月01日 釆女正佐吉。
昼飯大塚古墳[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



良い子のみんな!元気にしてた?

お姉さんはある日「東軍 赤坂陣地を歩く」に参加してきたよ。 赤坂って知ってる? 港区赤坂じゃないよ。大垣市赤坂町だよ。お姉さんのハンネをタップすると「御茶屋屋敷城主」って出てくるでしょ? その辺りだよ。そう、お姉さんは女城主なんだよ!

確かに、言われてみれば東軍は、慶長5年8月24日に赤坂に着陣して20日以上大垣城の西軍と睨みあっていたんだから、それ相当の場所であるはずだよね。 でも、お姉さんはお勝山には登った事あるけど、西軍メガネをかけてるから東軍の陣地なんて気にした事も無かったんだ。 だから今回歩いて驚いたよ!陣地に良さそうな場所がこんなにあるんだ!高低差バッチリだし、大垣は「水の都」って言われるくらい水源も豊富だし、何より図屏風に描かれたままの場所が目の前に現存するんだもん!興奮・気付き・学びが沢山ある町歩きだったよ!

全部の陣地を紹介すると20以上にもなるから、今日は福島正則推定陣地だけにするよ。古墳の基本情報は前回の口コミを参考にしてね。

え?全部の陣地を紹介してほしい? それは今後お姉さんが口コミネタ切れになった時にでも考えるよ。 でもネタはまだまだあるし、 口コミ書くのも楽じゃないんだよ…。お姉さんは、御首神社〜昼飯大塚古墳まで往復10㎞以上歩いてヘトヘトだったよ…。

そうそう、この日は昼飯大塚古墳で、偶然メ~テレ(名古屋テレビ)のロケが行われてたんだ!お姉さんがトイレから出てきたら、トイレ待ちしてたイケメンと目が合ってさ。なんだか恥ずかしくて思わず目を逸らしちゃったけど、シュっとしたイケメンだった!あの人はきっとタレントさんだよ!お姉さん気になって「昼飯大塚古墳 メ〜テレ」で検索してるんだけど、お姉さんが検索すると、ウドちゃんしかヒットしないんだよ!ウドちゃんじゃないんだよ!!ウドちゃんの旅してゴメンじゃないんだよ!!
誰かメ〜テレで昼飯大塚古墳の事見たよ!って人がいたら、教えて欲しいんだ。じゃないとお姉さん、イケメンの正体が気になって、もう夜しか寝られないんだ…。

2022年12月12日 とんかつおやじND
片山城[御茶屋屋敷  周辺城郭]



美濃最大の城域をもつと言われる。が謎の多い城でもある。
「一般地方道大垣池田線改良工事に伴う 緊急発掘調査報告書」でも戦国期前後の遺物は発掘されていないらしい…謎が多いと 妄想も膨らみ 興味が湧くのが オヤジのサガ😅

2022年12月04日 前田利家猫耳メイド萌
御茶屋屋敷



岐阜県指定史跡  お茶屋屋敷跡
お茶屋とは、江戸・京都の往還に整備された、将軍家専用の宿泊施設である。美濃赤坂のお茶屋屋敷は、慶長十年(1605)に完成し徳川家康・秀忠らが宿泊した。
本史跡は、残された記録類や他のお茶屋の事例より、約170㍍四方の方形区画で、御殿を中心に建物が配され、四隅には櫓も備えていたと推定される。
現在は、空堀や土塁などが良好に残り、城郭的要素をもつ貴重な遺跡として、昭和51年に県の史跡指定を受けている。
大垣市教育委員会
説明板より。

紅葉を見に来られた方がちらほらいる中、地面中心の写真を撮る…。
御茶屋屋敷の文化遺産カードが、近くの金生山化石館で頂けるらしい。

2022年12月04日 前田利家猫耳メイド萌
中山道赤坂宿道標[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



赤坂宿
東 美江寺へ二里八町 
西 垂井へ一里十二町
近世、江戸時代 五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。
大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。
町の中心にある、この四ッ辻は、北へ向かう谷汲街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。
東西に連なる街筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁昌していた。
史跡 赤坂宿環境整委員会
大垣市赤坂商工会 大垣市
説明板より。

道標前の東西の街道、若干喰違っているのは、防御上の対策だろうか?
この四ッ辻には風格ある建物がある。

2022年12月02日 前田利家猫耳メイド萌
古井戸跡[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



お茶屋屋敷 古井戸の跡
大垣藩地方雑記および赤坂宿古記録によると、このお茶屋屋敷は、岐阜城から移築した六十一棟が、慶長十年(1605)から、寛永五年(1628)ごろまで存在し、将軍の旅舎に使用されていました。
この遺構は、多くの家来や供廻り行列人などの宿泊の際に、炊事などに使われた古井戸の跡です。
大垣市教育委員会
説明板より。

御茶屋屋敷の敷地内には、竜神塚古墳があります。
形状や規模などは不明らしい。井戸跡の東側辺りか?

2022年12月02日 前田利家猫耳メイド萌
中山道赤坂宿脇本陣[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。
当所は宝暦年間以後、飯沼家が、代々に亘り、脇本陣役を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の屋号を用いて、旅館を営み今日に至っている。
大垣市赤坂商工会観光部会
説明板より。

説明板の文字が、ちょっと見にくくなっている。

2022年12月02日 前田利家猫耳メイド萌
赤坂湊跡(赤坂港会館)・赤坂宿御使者場跡[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



赤坂湊跡に建つ、擬洋風建築の赤坂港会館は、明治八年(1875)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた、警察駐屯所でした。現在の建物は復元されたものです。また、赤坂湊跡は、かっては水運で賑わい500艘を超える船が往来したと言われていますが、美濃赤坂線の開通に伴い、合せて下流に水門が建設されたことにより、船の航行が困難となり廃絶しました。
現在は、親水公園として整備されています。

現在、赤坂港会館は屋根瓦の落下の危険があるため、臨時休館となっています。
建物の周りに黄色のテープが張られ、屋根にブルーシートが見えるのは、この為か……。

赤坂宿御使者場跡の石碑は、赤坂湊跡の対岸にあります。
御使者場は、大名等が、宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所で、赤坂宿には東西の出入り口にあったという。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
旧清水家住宅[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



市重要文化財
旧清水家住宅は、中山道赤坂宿のほぼ中央に位置する古い商家の建物です。享保15年(1730)もしくは、安永4年(1775)建造と伝えられる主屋は、軒高の低い切妻造り2階建ての建物です。坪庭北側には、明治13年(1880)建造の墨書が残る土蔵があります。
赤坂宿内に現存する最古級の町屋遺構であり、様式や技法の観点から文化財的な価値が高いものです。旧清水家住宅は、歴史的建造物として保存・公開すると共に、住民などによる町づくり活動の拠点施設としても利用されています。
10MUSEUM GUIDEより。

土日祝日のみ開館(年末年始除く)の為、外観のみの見物…。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
大垣市歴史民俗資料館[御茶屋屋敷  関連施設]



大垣市歴史民俗資料館・美濃国分寺史料館
歴史民俗資料館には、史跡美濃国分寺跡発掘関係資料、弥生時代の遺跡やこの付近に点在する古墳からの出土品・関係写真・模型等を展示しています。また、主に明治期から昭和初期の西濃地方の農耕文化を中心とした生産用具・日常生活に関係が深い民俗資料等を展示しています。

『美濃国分寺跡』・『昼飯大塚古墳』・『車塚古墳』で写真を撮ってから、こちらへ来て写真を見せると、文化遺産カードが頂けます。
大垣市内で24種類あり、市内8施設で無料配布されているらしい。
美濃国分寺跡の御朱印(史跡印)も300円で販売されています。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
金堂跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



金堂は本尊が安置された建物で、塔と並んで最も重要な施設である。東西36.5㍍・南北22.85㍍の磚積基壇が確認されている。基壇の南面と北面の中央には、磚積で階段が付く。基壇周囲には、幅1.1㍍の犬走りが、その外側には雨落溝が見つかっている。建物は東西七間(29.4㍍)・南北四間(16.2㍍)で四面に庇がつく大きな建物である。
説明板より。

美濃国分寺跡と分かる写真を撮って、大垣市歴史民俗資料館の受付で、写真を見せて文化遺産カードを下さいと言うと、美濃国分寺跡の文化遺産カードが貰えます。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
僧房跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



西側の僧房と、同規模の建物であったと推定されている。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
僧房跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



ここは、僧が起居した建物の跡である。天平十三年(741)の国分寺設置の詔勅では、僧20人を置くと定めている。
美濃国分寺では、回廊東側と西側との2棟が建てられていた。西側僧房跡の調査の結果、掘立柱建物で、梁間三間(柱間1.8㍍)桁行十間以上の南北棟建物で、二度建て替えられていることが判明している。前身寺院の建物をそのまま利用していた。
樹木の植栽は、柱位置を示している。
説明板より。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
塔跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



寺の象徴的存在である、七重の塔が建てられていた。一辺19.2㍍・高さ約1.5㍍の磚積基壇が確認されている。基壇中央には南北2.1㍍・東西1.9㍍という大きな心礎を持ち、四天柱・側柱とも柱間3.6㍍である。基壇の積土は、土を突き固めていく版築ていう方法でつくられている。基壇周辺には、雨葛石(雨落)がめぐらされていた。
塔を復元すると相輪を含めて58㍍の高さになると推定されている。
説明板より。

美濃国分寺跡より北側にある、大垣市歴史民俗資料館には、国分寺復元模型が展示されている。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
回廊内建物跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



回廊内で確認された建物跡であるが、基壇や礎石などの遺構は確認されていない。確認できた雨落溝から東西25.4㍍・南北16.4㍍の基壇があったと推察される。この溝内からは、平安時代の瓦が出土しているため、仁和三年(887)の火災後に再建された、国分寺に伴う建物とも考えられる。この建物の用途は不明である。
説明板より。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
講堂跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



講堂は僧が仏教を学ぶために、日々修行した建物である。東西27㍍・南北18㍍の基壇が確認されている。基壇は石積と考えられる。建物規模は礎石の配置から、東西6間(21㍍)・南北4間(12.18㍍)である。四面庇がつき、北側には北面僧房へと続く軒廊基壇がとりつく。檜皮の出土から檜皮葺建物であった可能性を示す。
説明板より。

此処より北側は、開発されて耕作地となっている為に北面にあった、僧房の遺構は不明と思われる。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
経蔵跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



経蔵は、経典を収蔵するための建物で、大官大寺式伽藍配置では、金堂・講堂・中門・南門を中軸線として、鐘楼と相対して設けられた。規模は、鐘楼と同程度と考えられる。
説明板より。

2022年12月01日 前田利家猫耳メイド萌
鐘楼跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



鐘楼は、梵鐘(つり鐘)堂である。建物は、南北12.2㍍、東西8.6㍍の磚積基壇建物である。基壇の周囲には、幅30㌢㍍の雨落溝をめぐらし、その外側は東と西に幅2㍍、南と北に幅3㍍の石敷きとなっていた。国分寺遺跡の中で、鐘楼が検出された貴重な例である。
説明板より。

2022年11月30日 前田利家猫耳メイド萌
中門跡・回廊跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



中門跡
基壇は後世の影響を受けて残っていなかった。調査では基壇まわりの側溝の一部が検出されただけで、礎石は確認されていない。
推定される基壇の規模は、東西18.0㍍・南北12.0㍍。東西両側に回廊がとりつき、金堂へとめぐる。

回廊跡
回廊は、東西120㍍・南北93㍍・幅6㍍で、中門から磚積基壇建物(金堂跡)にとりついている。
雨落溝には、磚が使われていた。また、溝内から大量の桧皮が出土しており、桧皮葺であったと思われる。
回廊跡(南西部)からは『美濃国』刻印入り、須恵器(蓋)が出土している。
説明板より。

国指定史跡だけあって、綺麗に整備されている。
磚(せん)説明板では、土へんに專。

2022年11月30日 前田利家猫耳メイド萌
南門跡[御茶屋屋敷  碑・説明板]



美濃国分寺の正門である南門の基壇の大きさは、東西19.8㍍・南北12㍍で、東西の中央部から幅6.2㍍の築地塀が連なる。また建物跡からは、掘立柱の柱根が数本検出された。柱根は中門跡、金堂跡(せん積基壇建物跡)等、数ヵ所からも検出されており、国分寺建立以前にかなり大規模な寺院が存在したことがうかがわせる。
説明板より。

写真だと、起伏がちょっとわからないか…。

2022年11月30日 前田利家猫耳メイド萌
美濃国分寺[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



国指定史跡 美濃国分寺跡
国分僧寺と国分尼寺
天平13(741)年、聖武天皇は諸国に「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華滅罪之寺」(尼寺)建立の詔を下しました。僧寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置き、それぞれに水田10町(天平19年に僧寺90町・尼寺40町が加増される)、さらに僧寺には封戸(その戸の租税が収入となる制度)を50戸あてて、寺院運営の経済的基盤とさせました。

美濃国分寺
美濃国分寺は、美濃国府(不破郡垂井町府中)や不破関(同郡関ヶ原町松尾)に近い、ここ青野原の景勝地に建立されました。背後に青野山がひかえ、南は東山道に面して建てられた国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで地中に埋もれていましたが、昭和43(1968)年度から始まった発掘調査によって、伽藍の大部分が明らかとなりました。伽藍の範囲は東西230㍍、南北250㍍以上で、周囲には築地大垣をめぐらせていました。
発掘調査では、金堂、塔、講堂、鐘楼、西面僧房などの遺構を確認しています。伽藍配置は大官大寺(奈良県高市郡明日香村)のものと類似します。上総・甲斐・讃岐国分寺などにも同様の伽藍配置が採用されています。美濃国分寺の主要な堂塔は、おそらく八世紀中頃までには整備されていたと考えられます。なお、伽藍北東方の丘陵斜面には瓦を焼いた窯跡(未調査)が確認されています。
壮麗な伽藍も、仁和3(877)年の火災によって全焼し、一時席田郡(現本巣市の一部)の定額尼寺に、その機能が移されます。再び、この地に戻ったという歴史的な記録は認められませんが、発掘調査の成果から十世紀前半〜中頃には、この地に再建されたものと考えられます。南門の正面付近には、十世紀中頃のものとみられる参道と、儀式の際に幢幡(旗)を立てるための幢竿支柱遺構、庇付掘立柱建物跡、井戸跡が確認されています。しかし、十二世紀末頃までには、国分寺としての機能は失い、青野山山麓に所在する現美濃国分寺は元和元年(1615)に再興されたものです。美濃国分尼寺跡は、西南西約1kmの不破郡垂井町平尾に所在します。
大垣市教育委員会
説明板より一部抜粋。

広大な敷地で、綺麗に整備されていると思います。

2022年11月29日 前田利家猫耳メイド萌
大塚2号墳(大塚古墳群)[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



大塚1号墳のすぐ東側にある、大塚2号墳は古墳と知らなければ、確実にスルーします。
航空写真だと木が生い茂っていますが、現状は木が伐採され、造成中の工事現場みたいで古墳と思わず、一度スルーしました…。

墳丘 直径約15.9㍍・高0.5㍍の円墳。

2022年11月29日 前田利家猫耳メイド萌
大塚1号墳(大塚古墳群)[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



大塚1号墳は、古墳時代中期の古墳で、大塚古墳群(総数5基・内3基は消滅)に属します。東方約30㍍の大塚2号墳(径15.9㍍)と合わせて、通称「二ツ塚古墳」と呼ばれています。平成元年度には、古墳墳頂で形象埴輪(盾)が採集されています。
平成19・20年度の大垣市教育委員会による発掘調査の結果、古墳の周りに濠(周濠)をもつ方墳であることがわかりました。墳丘の土は後世に削りとられたため、築造当時の姿を留めていません。本来の墳丘は公園の西と南へ広がり、一辺が20㍍以上の大きさであったと推定されます。発掘調査では、土師器壺や須恵器が周濠から出土しています。
西方約150㍍に位置する、昼飯大塚古墳(前方後円墳・全長150㍍・四世紀末)より後の、五世紀後半頃に造られた有力者の墓であると考えられます。
なお、付近一帯は古代の遺跡である東畑遺跡の範囲に含まれています。
大垣市教育委員会 文化振興課
説明板より。

昼飯大塚古墳周辺には、小さな古墳がいくつか現存しています。

2022年10月06日 RED副将軍
御茶屋屋敷



江戸⇄京都の往還に使われた徳川将軍家専用の宿泊施設✨

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

関ヶ原合戦にて天下統一を果たした徳川家康は全国主要街道の整備しました。
1609年、江戸から上洛途中の休泊施設として中山道赤坂宿に御殿を築きます。
徳川家康、徳川秀忠が宿泊しましたが、3代家光以降は上洛の必要性が無くなり使用しませんでした。

見所
屋敷跡を巡る土塁と空堀。一面に曼珠沙華が咲き誇り幻想的な空間。
土塁や空堀、四隅には櫓を構え、徳川家の休泊所といえ縄張りは方形城郭です。

2022年04月18日 がおこ尾張守
御茶屋屋敷



赤坂宿へ行って中山道を歩いている時に牡丹の花が綺麗なお庭があると教えていただき寄らせてもらいました。ちょうどお花が見頃だったので堪能できました。青い花の桜も満開で素敵な景色を見られました。

2022年01月23日 【城郭道】たっきー
昼飯大塚古墳[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



岐阜県大垣市郊外にある昼飯大塚古墳。これで[ひるいおおつかこふん]と呼ぶ。

美濃最大の前方後円墳で、約1600年前の謎の4世紀と言われる古墳時代中期に築かれた。

墳丘の長さ150メートルにもなる三段構造。後円部には竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という三つの埋葬形態が存在する。

2000年9月6日に国指定史跡。2014年3月18日に追加指定。合計14081.71平方メートルが指定されている。また、埴輪列、葺石などが復元整備されているところもある。


まぁこれくらいは皆さん小さい頃にお父さんお母さんに子守唄の代わりに聞かせてもらったと思うので知っていると思います。

非常に良いところです。東西南北でこれほど景色の色(複数の意味で)が変わるところはなかなかないです。夕方に行ったおかげか関ヶ原方面は夕陽によって綺麗になっていました。


変な文章になりましたが、是非行ってみてください。

2021年06月11日 釆女正佐吉。
昼飯大塚古墳[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



昼メシではなく、ヒルイと読みます。
昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)

県道216号赤坂垂井線から行くのが分かりやすいです。
公園内にトイレあり。公園を通り越したらすぐ左に曲がると駐車場(〜4時半)。70〜80台程余裕!広すぎてどこに停めようか暫し悩む。

今から約1600年前(4世紀末古墳時代中期)に築かれた、岐阜県最大の前方後円墳。
東海地方でも最大級の墳丘規模をもち、畿内の大王墓に準ずる大首長墓で重要な古墳であるとして、平成12年に国史跡に指定。
墳丘長150m(周壕を含めると約180m)、後円部・前方部ともに三段築成を採用し、各段斜面には葺石を、各平坦面には埴輪列を備え、後円部墳頂に3つの異なる埋葬施設を持つ。

と、長々コピペしても一部の古墳にコーフン(ベタ)する人にしかウケないので、後は割愛。

さて、後円部を登ります。えっ‼︎ちょ待って奥にピラミッド⁉︎でも右にお勝山。オカシイ!ここはエジプト⁇慶長⁇古墳時代⁇訳が分からないわ!エジプトまで来てなんだか疲れちゃった。とりあえず前方部まで歩くわ。疲れた…。ちょっと横になりたい。今日もぼっちだし、誰もいないわ。仰向けでコロンしましょ。
た、太陽が眩しい!目を閉じるわ。コーフンした心を落ち着かせるため手は胸の辺りで組んで。

…ってコレ!被葬者じゃないのッ!!
 

さて、この県下最大の前方後円墳の被葬者は一体誰なのか⁉︎
大垣市史によると、朝鮮半島南部と関わりの深い遺物の出土からも、ヤマト政権と密接に繋がり朝鮮と関わりを持った豪族であったと推測されるとの事。
埋葬施設は内部未調査なので、今後調査がされれば新たな発見があるやも⁉︎期待したいところです。

大垣市歴史民俗資料館では、出土した遺物を展示していますので、合わせてご覧下さい。
資料館の口コミは、また別の機会に。

御茶屋屋敷からも車で5分程の近距離です。

①後円部
②復元ゾーン
③復元模型縮尺1:70
④後円部から家康岡山本陣を望む
⑤前方部と垂井関ケ原方面
⑥数カ所にある20㎝角のプレート
専用タブレットで仮想表示や説明を体験(要予約)
⑦古墳を模った地元菓子「古代からの贈り物」胡桃入こし餡。(写真は削除されちゃった)


大垣って!大垣城だけじゃないんだステキ。

2021年05月31日 釆女正佐吉。
権現のぞきの地[御茶屋屋敷  碑・説明板]



ここは関ケ原合戦の際、岡山の東軍の陣を見張り家康の到着をうかがうために、西軍が設けた見張り台があった場所です。
西軍の大垣城と東軍の赤坂岡山(現在のお勝山)の中間辺り…少し岡山寄りにあります。
住所は大垣市河間町(がまちょう)。

行き方→「西沖公園」で検索して下さい。国道417号線から行くのがわかりやすいです。
近くには駐車できる場所がありませんので、西沖公園のフェンス沿いに駐車して下さい①。
何時間も見学する程ではありませんので、ここで大丈夫かと。権現のぞきの地までは数分で到着する距離です。

公園の南西角(カーブミラー有)を西へ曲がり、
堤防に向かって西へ100メートル程歩きます。
突き当たりの堤防手前に、コンクリート囲みの小川がありますので②、
川沿いを南へ数十メートル進むと「権現のぞきの地」に到着します③④⑤。

堤防(一説によると鎌倉時代正治年間11199〜1200年には存在した)の下に史跡碑があるので「堤防で向こうが見えにくいじゃん…」と悩みましたが、少し調べたところ、明治初期まではこの場所は丘であったようです。
「権現のぞき」とは、後世に家康を東照大権現と奉るようになってからのことと思われます。

関ケ原合戦の前日14日に家康が赤坂岡山に着陣すると、西軍諸隊には動揺が広がったとも言われます。
西軍の士気を鼓舞するため、島左近が自ら戦いの先頭に立つことを申し出て、杭瀬川の戦いとなります。

写真の古地図は、杭瀬川の戦いの布陣などを表したものです。成立年代は、戦いから約130年後の享保14年。現在「権現のぞきの地」と言われる栖楼場(せいろうば)も描かれています。(青の丸印で囲んだ場所)⑥。
この古地図は大垣城で購入できますので、ご興味おありの方はお買い求めください。

正直、わざわざここを目的として行く程の場所ではありませんが、コアな西軍ファンの方!「ここから西軍の兵が岡山の様子を伺っていたんだ。当時は見晴らしも良かっただろう。家康来るの早すぎーー!!って焦っただろうな…」などなど妄想してください。

写真でお分かりのとおり、堤防下とはいえ住宅地のすぐ側ですので、不審者に間違えられない様、お気をつけ下さいね。

画像①西沖公園フェンス
画像②この電柱を左に折れ用水路沿いを歩く。堤防登っちゃダメ絶対!
画像③④⑤石碑
画像⑥古地図

2021年05月13日 とんかつおやじND
稲葉一族、池田恒利の墓[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



稲葉氏は通貞以来西美濃一帯に勢力をはった一族で、通貞は池田町小寺に小寺城を築き
、子の通則の代もこの城に住んだとされる。
大永五年・浅井朝倉連合軍美濃侵攻の際に、通則は土岐頼芸の指揮のもと一鉄を除く五人の息子と共に出陣、牧田でことごとく討ち死にした。
当地は、一鉄が牧田合戦で戦死した父兄六人及び先祖を供養する為に建立した養源院の跡地一画と伝えられる。


2021年01月13日 とんかつおやじND
本郷城[御茶屋屋敷  周辺城郭]



築城年は明らかではないが、一般には5代目美濃国守護土岐頼忠の築城とされる。
頼忠は応永4(1397)年に没しているので、築城はそれ以前の南北朝時代であろう。
頼忠の子頼益も、のちに萱津に移るまでは父についで本郷城にいた。
土岐氏の家臣、国枝大和守為助は土岐氏が本郷城を出た後に、ここを居城とした。為助は明応4(1495)年、船田合戦で兄弟5人と共に討死したが、国枝氏は代々この城を居城とした。

慶長5(1600)年、関ケ原の戦の時には国枝重元の弟修理亮政盛が城主であったが、西軍に属したため、東軍によって城も焼き払われてしまった。

本郷城は二重の堀と土塁を巡らせた輪郭式平城である。城域は不整形な台形を呈し、東西116m、西辺149m、東辺68m程度の広がりを有する。
地籍図にはよくその形態を遺すが、現在内内郭の櫓台を含む35m四方程が存在しているにすぎない。
遺存部分は町の史跡として保存されている。
池田町の史跡紹介より

稲葉良通(一鉄)の母は国枝正助の娘であることから、良通はこの城で生まれたと伝わっています。



2021年01月12日 とんかつおやじND
池田恒興・元助の墓[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



池田恒興の父恒利は、織田信秀に仕え、天文(1532年から1554年)頃に池田の萩原に住んでいたという。
子の恒興は天文5(1536)年に生まれ、母養徳院を通じて織田信長と異母弟であった。
信長の死後豊臣秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となる。

天正12(1584)年、織田信雄は徳川家康と同盟を結び豊臣秀吉と戦うことになったが、恒興父子は秀吉につき出陣、長久手の戦で父子共に戦死した。
恒興の子輝政は父亡き後の大垣城を継ぎ、秀吉から家康と仕え関ケ原戦後に播磨国(兵庫県)姫路城主となる。
輝政の子達も備前、淡路、因幡鳥取などを領し、安定した勢力を維持して明治を迎える。

池田恒興・元助親子の墓は、その祖先教依が開祖と伝えられる龍徳寺の西に位置している。
この墓所には恒興・元助父子の墓の他、長久手の戦で共に戦死した家臣片桐興三郎、吉田甚内の墓、梶浦平七郎他23人を供養した忠烈塔などがある。
池田町HPより

2020年09月21日 とんかつおやじND
安楽寺[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



聖徳太子や関ヶ原の戦いにゆかりの寺である。

壬申の乱では天武天皇の勝利を祈願し、報奨を与えられたと伝わる。時代が下って文知元年(1185年)に24世住持・義然が法然に帰依して浄土宗へ改宗している。

室町時代に土岐成頼が足利義視を奉じた際に当寺に逗留していた時期があり、岡山御所と呼ばれていた。慶長15年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が眺望の良い岡山に着陣した。関ケ原の戦いの後、岡山は勝利を記念して勝山と呼ばれるようになった。また、戦いで得た大谷吉継の陣鍾が当寺に収められている。

江戸時代は大垣藩に保護され、また大垣藩ゆかりの人物の墓が多数建立されている。また、末寺として松寿院が存在した。天保3年(1833年)、火災により堂宇が烏有に帰した。現在の伽藍はその後再建されたものである。 Wikipediaより抜粋

この岡山山頂にある徳川家康本陣へ行く予定でしたが お寺管理地のため立ち入り禁止でした

2019年06月06日 こん美濃守
御茶屋屋敷



堀の遺構もよく残っています。千竿の竹!心が洗われます。
歩いてすぐの中山道赤坂宿もあわせて訪れるといいですよ。

2018年04月05日 釆女正佐吉。
御茶屋屋敷

地元の名家によって綺麗に手入れされています。
門の茅葺きも定期的に葺き替えされています。
牡丹園として有名ですので、牡丹の咲く時期になると名家の企業の社員さんらしき方々が駐車案内などされています。中山道から屋敷までは細い道ですが、駐車場は30〜40台程大丈夫!

と言いつつ、牡丹の開花時期以外は来られる方は大変少なくひっそりとし、竹のサワサワ〜という音色に癒されます。椿や紅葉など、季節に応じ美しい姿で楽しませてくれます。

無料で開放されていることに感謝です。

2017年06月24日 青コアラ美濃守
御茶屋屋敷

城跡の北に広い駐車場があります。城域の西半分は中学校建設で失われていますが、東半分がボタン園として開放されており、土塁や空堀などが明瞭に残っているのが見られます。

正直ここだけだと少々物足りないですが、周辺には関ヶ原関連史跡や中山道赤坂宿など、史跡が徒歩圏内に点在しています。最寄りの美濃赤坂駅はなかなか趣のある終着駅なので、電車で来て半日ぐらいかけて見て回るのも一興かと。
ただし列車の本数(特に昼間)は恐ろしく少ないので、要事前確認です。

2017年04月10日 橘若狭守次郎吉
御茶屋屋敷

竹林に囲まれて土塁や空堀、井戸跡、虎口が残っています。どれも良好な状態で残っているので、見応え有りです!石碑や説明板は茅葺き門の処にあります。茅葺き門も雰囲気があって良い感じです。

御茶屋屋敷の周辺スポット情報

 昼飯大塚古墳(遺構・復元物)

 大垣城移築門(本丸乾門)(遺構・復元物)

 古井戸跡(遺構・復元物)

 権現のぞきの地(碑・説明板)

 南門跡(碑・説明板)

 中門跡・回廊跡(碑・説明板)

 鐘楼跡(碑・説明板)

 経蔵跡(碑・説明板)

 講堂跡(碑・説明板)

 回廊内建物跡(碑・説明板)

 塔跡(碑・説明板)

 僧房跡(碑・説明板)

 僧房跡(碑・説明板)

 金堂跡(碑・説明板)

 お茶屋屋敷跡碑(碑・説明板)

 本郷城(周辺城郭)

 片山城(周辺城郭)

 青野城(周辺城郭)

 六之井陣屋(周辺城郭)

 市橋城(周辺城郭)

 稲葉石見守正休公屋敷(青野城)(周辺城郭)

 円興寺城(周辺城郭)

 福田城(周辺城郭)

 池尻城(周辺城郭)

 谷氏屋敷(周辺城郭)

 安楽寺(寺社・史跡)

 池田恒興・元助の墓(寺社・史跡)

 稲葉一族、池田恒利の墓(寺社・史跡)

 中山道赤坂宿脇本陣(寺社・史跡)

 瓦塚(寺社・史跡)

 美濃国分寺(寺社・史跡)

 大塚1号墳(大塚古墳群)(寺社・史跡)

 大塚2号墳(大塚古墳群)(寺社・史跡)

 車塚古墳(寺社・史跡)

 旧清水家住宅(寺社・史跡)

 赤坂湊跡(赤坂港会館)・赤坂宿御使者場跡(寺社・史跡)

 照手姫水汲井戸(寺社・史跡)

 粉糠山古墳(寺社・史跡)

 中山道赤坂宿道標(寺社・史跡)

 御首神社(荒尾古墳群)(寺社・史跡)

 荒尾1号墳(寺社・史跡)

 東町田墳墓群(寺社・史跡)

 荒尾南遺跡(寺社・史跡)

 中山道赤坂宿本陣跡(寺社・史跡)

 美濃国分尼寺跡(寺社・史跡)

 東山田古墳(東山田古墳群)(寺社・史跡)

 遊塚古墳跡(寺社・史跡)

 社宮司古墳群(寺社・史跡)

 西中尾古墳群(寺社・史跡)

 八幡神社(八幡山古墳)(寺社・史跡)

 圓願寺跡(寺社・史跡)

 兜塚・赤坂宿御使者場跡(寺社・史跡)

 金生山神社・金生山古墳群(11基)(寺社・史跡)

 青墓のばけ椿(寺社・史跡)

 お茶屋屋敷駐車場(駐車場)

 昼飯大塚古墳歴史公園見学者用駐車場(駐車場)

 大垣市歴史民俗資料館(関連施設)

 金生山化石館(関連施設)

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