御茶屋屋敷(おちゃややしき)

御茶屋屋敷の基本情報

通称・別名

お茶屋屋敷

所在地

岐阜県大垣市赤坂町3421-1

旧国名

美濃国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

徳川家康

築城年

慶長14年(1609)

主な改修者

主な城主

徳川氏

廃城年

寛永年間(1624〜1644)

遺構

土塁、横堀(空堀)、井戸跡

指定文化財

県史跡(お茶屋屋敷跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

長松城(岐阜県大垣市)[2.9km]
曽根城(岐阜県大垣市)[4.0km]
大垣城(岐阜県大垣市)[4.4km]
垂井城(岐阜県不破郡)[5.4km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[8.2km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[8.8km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[9.1km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[10.1km]
福束城(岐阜県安八郡)[10.5km]
北方城(岐阜県本巣郡)[11.5km]

御茶屋屋敷の解説文

お茶屋屋敷(おちゃや やしき)は、江戸時代に五街道に整備された将軍家の宿泊施設。または大名の宿泊・休憩施設。御茶屋御殿(おちゃや ごてん)、また単に御茶屋(おちゃや)ともいう。

ここでは最も大規模といわれる、岐阜県大垣市のお茶屋屋敷に関して記述する。このお茶屋屋敷は宿場の本陣の原型となったものという。

中山道赤坂宿の西に設置されている。

沿革・概況
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は全国主要街道の整備にとりかかる。
1609年(慶長14年)、徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、徳川家開運の地であるお勝山の北方に、自らが上洛の往復をするにあたっての休泊施設お茶屋屋敷を設置する。設置は美濃国の諸大名に命じ、岐阜城の稲葉山(金華山)山麓に存在した、織田信長の住居、千畳敷御殿など61棟を移築させたという。廻りには土塁や空壕が設置され、宿泊施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。
宿場の整備とともに必要なくなり、寛永年間(1624年〜1644年)に建物は取りこわされる。

現在
土地は廃藩置県のとき、不破郡赤坂村(現大垣市赤坂)名主に払い下げられ、現在は個人所有である。
土塁や空壕の一部が現存する。
跡内には数多くのぼたんが植えられ、通称「赤坂ぼたん園」としてボタン開花時期公開されている。東海地方有数のボタン園であり、開花期は四月の下旬から五月初旬。

交通
東海道本線(美濃赤坂支線)美濃赤坂駅より徒歩12分。
東海道本線大垣駅南口大垣駅前バスのりば1番のりば
 名阪近鉄バス「赤坂総合センター」行き「虚空蔵口」下車、徒歩3分。

御茶屋屋敷の口コミ情報

2021年06月11日 近江守佐吉。
昼飯大塚古墳[御茶屋屋敷  遺構・復元物]



昼メシではなく、ヒルイと読みます。
昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)

県道216号赤坂垂井線から行くのが分かりやすいです。
公園内にトイレあり。公園を通り越したらすぐ左に曲がると駐車場(〜4時半)。70〜80台程余裕!広すぎてどこに停めようか暫し悩む。

今から約1600年前(4世紀末古墳時代中期)に築かれた、岐阜県最大の前方後円墳。
東海地方でも最大級の墳丘規模をもち、畿内の大王墓に準ずる大首長墓で重要な古墳であるとして、平成12年に国史跡に指定。
墳丘長150m(周壕を含めると約180m)、後円部・前方部ともに三段築成を採用し、各段斜面には葺石を、各平坦面には埴輪列を備え、後円部墳頂に3つの異なる埋葬施設を持つ。

と、長々コピペしても一部の古墳にコーフン(ベタ)する人にしかウケないので、後は割愛。

さて、後円部を登ります。えっ‼︎ちょ待って奥にピラミッド⁉︎でも右にお勝山。オカシイ!ここはエジプト⁇慶長⁇古墳時代⁇訳が分からないわ!エジプトまで来てなんだか疲れちゃった。とりあえず前方部まで歩くわ。疲れた…。ちょっと横になりたい。今日もぼっちだし、誰もいないわ。仰向けでコロンしましょ。
た、太陽が眩しい!目を閉じるわ。コーフンした心を落ち着かせるため手は胸の辺りで組んで。

…ってコレ!被葬者じゃないのッ!!
 

さて、この県下最大の前方後円墳の被葬者は一体誰なのか⁉︎
大垣市史によると、朝鮮半島南部と関わりの深い遺物の出土からも、ヤマト政権と密接に繋がり朝鮮と関わりを持った豪族であったと推測されるとの事。
埋葬施設は内部未調査なので、今後調査がされれば新たな発見があるやも⁉︎期待したいところです。

大垣市歴史民俗資料館では、出土した遺物を展示していますので、合わせてご覧下さい。
資料館の口コミは、また別の機会に。

御茶屋屋敷からも車で5分程の近距離です。

①後円部
②復元ゾーン
③復元模型縮尺1:70
④後円部から家康岡山本陣を望む
⑤前方部と垂井関ケ原方面
⑥数カ所にある20㎝角のプレート
専用タブレットで仮想表示や説明を体験(要予約)
⑦古墳を模った地元菓子「古代からの贈り物」胡桃入こし餡。(写真は削除されちゃった)


大垣って!大垣城だけじゃないんだステキ!!


2021年05月31日 近江守佐吉。
権現のぞきの地[御茶屋屋敷  碑・説明板]



ここは関ケ原合戦の際、岡山の東軍の陣を見張り家康の到着をうかがうために、西軍が設けた見張り台があった場所です。
西軍の大垣城と東軍の赤坂岡山(現在のお勝山)の中間辺り…少し岡山寄りにあります。
住所は大垣市河間町(がまちょう)。

行き方→「西沖公園」で検索して下さい。国道417号線から行くのがわかりやすいです。
近くには駐車できる場所がありませんので、西沖公園のフェンス沿いに駐車して下さい①。
何時間も見学する程ではありませんので、ここで大丈夫かと。権現のぞきの地までは数分で到着する距離です。

公園の南西角(カーブミラー有)を西へ曲がり、
堤防に向かって西へ100メートル程歩きます。
突き当たりの堤防手前に、コンクリート囲みの小川がありますので②、
川沿いを南へ数十メートル進むと「権現のぞきの地」に到着します③④⑤。

堤防(一説によると鎌倉時代正治年間11199〜1200年には存在した)の下に史跡碑があるので「堤防で向こうが見えにくいじゃん…」と悩みましたが、少し調べたところ、明治初期まではこの場所は丘であったようです。
「権現のぞき」とは、後世に家康を東照大権現と奉るようになってからのことと思われます。

関ケ原合戦の前日14日に家康が赤坂岡山に着陣すると、西軍諸隊には動揺が広がったとも言われます。
西軍の士気を鼓舞するため、島左近が自ら戦いの先頭に立つことを申し出て、杭瀬川の戦いとなります。

写真の古地図は、杭瀬川の戦いの布陣などを表したものです。成立年代は、戦いから約130年後の享保14年。現在「権現のぞきの地」と言われる栖楼場(せいろうば)も描かれています。(青の丸印で囲んだ場所)⑥。
この古地図は大垣城で購入できますので、ご興味おありの方はお買い求めください。

正直、わざわざここを目的として行く程の場所ではありませんが、コアな西軍ファンの方!「ここから西軍の兵が岡山の様子を伺っていたんだ。当時は見晴らしも良かっただろう。家康来るの早すぎーー!!って焦っただろうな…」などなど妄想してください。

写真でお分かりのとおり、堤防下とはいえ住宅地のすぐ側ですので、不審者に間違えられない様、お気をつけ下さいね。

画像①西沖公園フェンス
画像②この電柱を左に折れて下さい
画像③④⑤石碑
画像⑥古地図

2021年05月13日 とんかつおやじND
稲葉一族、池田恒利の墓[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



稲葉氏は通貞以来西美濃一帯に勢力をはった一族で、通貞は池田町小寺に小寺城を築き
、子の通則の代もこの城に住んだとされる。
大永五年・浅井朝倉連合軍美濃侵攻の際に、通則は土岐頼芸の指揮のもと一鉄を除く五人の息子と共に出陣、牧田でことごとく討ち死にした。
当地は、一鉄が牧田合戦で戦死した父兄六人及び先祖を供養する為に建立した養源院の跡地一画と伝えられる。


2021年01月13日 とんかつおやじND
本郷城[御茶屋屋敷  周辺城郭]



築城年は明らかではないが、一般には5代目美濃国守護土岐頼忠の築城とされる。
頼忠は応永4(1397)年に没しているので、築城はそれ以前の南北朝時代であろう。
頼忠の子頼益も、のちに萱津に移るまでは父についで本郷城にいた。
土岐氏の家臣、国枝大和守為助は土岐氏が本郷城を出た後に、ここを居城とした。為助は明応4(1495)年、船田合戦で兄弟5人と共に討死したが、国枝氏は代々この城を居城とした。

慶長5(1600)年、関ケ原の戦の時には国枝重元の弟修理亮政盛が城主であったが、西軍に属したため、東軍によって城も焼き払われてしまった。

本郷城は二重の堀と土塁を巡らせた輪郭式平城である。城域は不整形な台形を呈し、東西116m、西辺149m、東辺68m程度の広がりを有する。
地籍図にはよくその形態を遺すが、現在内内郭の櫓台を含む35m四方程が存在しているにすぎない。
遺存部分は町の史跡として保存されている。
池田町の史跡紹介より

稲葉良通(一鉄)の母は国枝正助の娘であることから、良通はこの城で生まれたと伝わっています。



2021年01月12日 とんかつおやじND
池田恒興・元助の墓[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



池田恒興の父恒利は、織田信秀に仕え、天文(1532年から1554年)頃に池田の萩原に住んでいたという。
子の恒興は天文5(1536)年に生まれ、母養徳院を通じて織田信長と異母弟であった。
信長の死後豊臣秀吉に仕え大垣城主となり、子の元助は岐阜城主となる。

天正12(1584)年、織田信雄は徳川家康と同盟を結び豊臣秀吉と戦うことになったが、恒興父子は秀吉につき出陣、長久手の戦で父子共に戦死した。
恒興の子輝政は父亡き後の大垣城を継ぎ、秀吉から家康と仕え関ケ原戦後に播磨国(兵庫県)姫路城主となる。
輝政の子達も備前、淡路、因幡鳥取などを領し、安定した勢力を維持して明治を迎える。

池田恒興・元助親子の墓は、その祖先教依が開祖と伝えられる龍徳寺の西に位置している。
この墓所には恒興・元助父子の墓の他、長久手の戦で共に戦死した家臣片桐興三郎、吉田甚内の墓、梶浦平七郎他23人を供養した忠烈塔などがある。
池田町HPより

2020年09月21日 とんかつおやじND
安楽寺[御茶屋屋敷  寺社・史跡]



聖徳太子や関ヶ原の戦いにゆかりの寺である。

壬申の乱では天武天皇の勝利を祈願し、報奨を与えられたと伝わる。時代が下って文知元年(1185年)に24世住持・義然が法然に帰依して浄土宗へ改宗している。

室町時代に土岐成頼が足利義視を奉じた際に当寺に逗留していた時期があり、岡山御所と呼ばれていた。慶長15年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が眺望の良い岡山に着陣した。関ケ原の戦いの後、岡山は勝利を記念して勝山と呼ばれるようになった。また、戦いで得た大谷吉継の陣鍾が当寺に収められている。

江戸時代は大垣藩に保護され、また大垣藩ゆかりの人物の墓が多数建立されている。また、末寺として松寿院が存在した。天保3年(1833年)、火災により堂宇が烏有に帰した。現在の伽藍はその後再建されたものである。 Wikipediaより抜粋

この岡山山頂にある徳川家康本陣へ行く予定でしたが お寺管理地のため立ち入り禁止でした

2019年06月06日 こん兵部大輔
御茶屋屋敷



堀の遺構もよく残っています。千竿の竹!心が洗われます。
歩いてすぐの中山道赤坂宿もあわせて訪れるといいですよ。

2018年04月05日 近江守佐吉。
御茶屋屋敷

地元の名家によって綺麗に手入れされています。
門の茅葺きも定期的に葺き替えされています。
牡丹園として有名ですので、牡丹の咲く時期になると名家の企業の社員さんらしき方々が駐車案内などされています。中山道から屋敷までは細い道ですが、駐車場は30〜40台程大丈夫!

と言いつつ、牡丹の開花時期以外は来られる方は大変少なくひっそりとし、竹のサワサワ〜という音色に癒されます。椿や紅葉など、季節に応じ美しい姿で楽しませてくれます。

無料で開放されていることに感謝です。

2017年06月24日 青コアラ美濃守
御茶屋屋敷

城跡の北に広い駐車場があります。城域の西半分は中学校建設で失われていますが、東半分がボタン園として開放されており、土塁や空堀などが明瞭に残っているのが見られます。

正直ここだけだと少々物足りないですが、周辺には関ヶ原関連史跡や中山道赤坂宿など、史跡が徒歩圏内に点在しています。最寄りの美濃赤坂駅はなかなか趣のある終着駅なので、電車で来て半日ぐらいかけて見て回るのも一興かと。
ただし列車の本数(特に昼間)は恐ろしく少ないので、要事前確認です。

2017年04月10日 橘若狭守次郎吉
御茶屋屋敷

竹林に囲まれて土塁や空堀、井戸跡、虎口が残っています。どれも良好な状態で残っているので、見応え有りです!石碑や説明板は茅葺き門の処にあります。茅葺き門も雰囲気があって良い感じです。

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