美濃国分寺
美濃国分寺([御茶屋屋敷 寺社・史跡])
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美濃国分寺の口コミ情報
2022年11月30日 前田利家猫耳メイド萌
国指定史跡 美濃国分寺跡
国分僧寺と国分尼寺
天平13(741)年、聖武天皇は諸国に「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華滅罪之寺」(尼寺)建立の詔を下しました。僧寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置き、それぞれに水田10町(天平19年に僧寺90町・尼寺40町が加増される)、さらに僧寺には封戸(その戸の租税が収入となる制度)を50戸あてて、寺院運営の経済的基盤とさせました。
美濃国分寺
美濃国分寺は、美濃国府(不破郡垂井町府中)や不破関(同郡関ヶ原町松尾)に近い、ここ青野原の景勝地に建立されました。背後に青野山がひかえ、南は東山道に面して建てられた国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで地中に埋もれていましたが、昭和43(1968)年度から始まった発掘調査によって、伽藍の大部分が明らかとなりました。伽藍の範囲は東西230㍍、南北250㍍以上で、周囲には築地大垣をめぐらせていました。
発掘調査では、金堂、塔、講堂、鐘楼、西面僧房などの遺構を確認しています。伽藍配置は大官大寺(奈良県高市郡明日香村)のものと類似します。上総・甲斐・讃岐国分寺などにも同様の伽藍配置が採用されています。美濃国分寺の主要な堂塔は、おそらく八世紀中頃までには整備されていたと考えられます。なお、伽藍北東方の丘陵斜面には瓦を焼いた窯跡(未調査)が確認されています。
壮麗な伽藍も、仁和3(877)年の火災によって全焼し、一時席田郡(現本巣市の一部)の定額尼寺に、その機能が移されます。再び、この地に戻ったという歴史的な記録は認められませんが、発掘調査の成果から十世紀前半〜中頃には、この地に再建されたものと考えられます。南門の正面付近には、十世紀中頃のものとみられる参道と、儀式の際に幢幡(旗)を立てるための幢竿支柱遺構、庇付掘立柱建物跡、井戸跡が確認されています。しかし、十二世紀末頃までには、国分寺としての機能は失い、青野山山麓に所在する現美濃国分寺は元和元年(1615)に再興されたものです。美濃国分尼寺跡は、西南西約1kmの不破郡垂井町平尾に所在します。
大垣市教育委員会
説明板より一部抜粋。
広大な敷地で、綺麗に整備されていると思います。