兜塚・赤坂宿御使者場跡
兜塚・赤坂宿御使者場跡([御茶屋屋敷 寺社・史跡])
御茶屋屋敷 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:寺社・史跡)、「兜塚・赤坂宿御使者場跡」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
兜塚・赤坂宿御使者場跡の口コミ情報
2024年05月26日 前田利家猫耳メイド萌
兜塚
この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭瀬川の戦いに笠木町で戦死した東軍、中村隊の武将 野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。
以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。
大垣市教育委員会
兜塚 関ヶ原の戦い
この塚は兜塚と呼ばれ、関ヶ原の戦いに東軍として参戦した中村一栄の家老で、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母(助義)が鎧兜とともに葬られたと伝えられている。
東軍は、慶長五年(1600)八月二十三日に岐阜城を落とした後、中山道赤坂宿に集結。大垣城に集結する西軍と、杭瀬川を挟んで約4㎞の距離で睨み合っていた。関ヶ原の戦い本戦の前日である九月十四日、徳川家康が赤坂宿に到着し、岡山の本陣に入ると、西軍は予期せぬ家康の到着に動揺したという。
そこで西軍は、石田三成の家臣 島左近(清興)の献策を容れ、東軍と一戦を交えて士気を高めるべく、宇喜多秀家の家臣 明石掃部(全登)を後詰めに、左近らが兵約五百を率いて出陣した。左近は杭瀬川を渡ると放火や刈田をして東軍を挑発したため、頼母らが反撃した。頼母らの活躍はめざましく、岡山からその用兵を見ていた家康を喜ばせたという。
しかし、左近が退却するふりをして杭瀬川を越え、伏兵とともに反撃に転じたため戦況は一変し、頼母は兵三十余とともに討ち取られた。東軍は有馬豊氏が援護に向かったものの西軍に阻まれているうちに、家康が井伊直政、本多忠勝らに命じ兵を引かせたため、杭瀬川の戦いは西軍の勝利で終わった。
この日の夜、両軍は関ヶ原へと向かい、翌日の本戦を迎える。
新旧二ヶ所の説明板より。
昼飯大塚古墳の説明板の周辺の古墳・大和國古墳墓取調室・古墳マップ等には、兜塚は古墳としての記載がないので、関ヶ原の戦いの戦死者を埋葬した墳墓かなと思われます。
2022.11.30撮影